アイオライト 第二節
眠るにはまだ早い。夢を見るにはまだ早い。
月は出たばかりだというのに、もう睡魔が私を襲っている。
ああ、ダメだ。意識を保てない。
「いいんだよ、ラグナ。今日はゆっくりおやすみ」
頭の中に響き渡る声は、まるで子守歌のようで、私はその声に誘われるままに、眠りについた。
現と夢の狭間で、私はかつての記憶を思い出していた。
これは一体いつの景色だったか……。ああ、そうだ。これはあの時の、そう、忘れもしないあの事件。
……あれ?忘れもしないはずなのに、なぜ今に至るまで思い出せなかったのだろうか?
わからない。
いや、このまま懐古を続ければ、何か手掛かりが得られるかもしれない。
深く、深く、このまま沈んでいけば答えは見つかるかもしれない。
「ラ……ナ」
声が聞こえる。向こうから、記憶の底から。時間を超えて、過去の景色が私に語り掛ける。
「ラグナ?」
私を呼び覚まそうとする、愛おしき声。
「ほら、そろそろ起きたらどうだ?」
目を開くと、眼前には眼鏡をかけた男がいた。ハーラル、私の夫、私の愛する人。
「う……ん、ハーラル?今何時?」
不思議な感覚だ。私が話しているのに、私の意思通りに口が動かない。当然だ。これはただの記憶。私はそれを一人称の視点で振り返ってるにすぎず、過去に干渉できるわけがない。
「もう八時だよ、ラグナ。そろそろ仕事だろ?ご飯は作ってるから、早く着替えておいで」
「八時?うー、仕事嫌だ―」
半分はぎとられた毛布を、奪い返すようにしてまた体にかける。二度寝の姿勢だ。私は昔から朝は苦手で、なかなか起きることができないのが常だった。ハーラルはそんな私を見て、ため息をついた。
すると彼は、突然毛布に入り込んできて、私を抱き寄せ、顔を目と鼻の先にまで近づけてきた。今にも触れてしまいそうな距離で、私の頬が少し紅潮した。
「じゃあ、僕が起こしてあげようか?」
囁くように、声をかけてくるハーラル。発した際の吐息が、私の唇にかかる。
「う、あ、あの」
私は極度の人見知りであったが、ハーラルの前だけ、饒舌になれた。しかし今だけは、上手く言葉が出なかった。
直視に耐えられず、目を背けようとすると、ハーラルの手で無理やり顔が固定される。じっとその姿勢で見つめられること数十秒。すると彼がゆっくりと唇を近づけてきた。
しかしお互いの唇が触れ合うことはなく、寸前で止まり
「目は覚めたかい?」
と悪戯っぽく笑った。確かに私の意識はいつの間にか鮮明になっていた。
トーストにベーコンエッグが乗っているだけの簡素な食事。これは彼が手抜き料理を振るっているわけではなく、朝はご飯をあまり食べられない私への配慮である。私は彼に朝はご飯を作らなくていいと言ったのだが、彼は「朝から食べないと元気でないよ」と、こういった簡易な料理を振るってくれるようになった。
「じゃあ、行ってきます」
食事を済ませて、足早に出かけようとする。するとハーラルが
「あ、ちょっと待って」
と声をかけてきた。
「ん?どうしたの、私急いで……ん!?」
突如として唇に柔らかい感覚が襲う。それが接吻であると気付くのに数秒かかった。
「ぷは。いってらっしゃい」
「い、いってき…ます…」
突然のことで、体がカチコチになり、不自然な動きで家を後にした。
私の仕事は建築士。最近はあまり必要とされなくなった仕事の一つだ。とはいえ、私はそれなりに優秀な技能を持っていたためか、平均を超える給金は貰っている。ハーラルは現在主夫をしているため、二人分の生活費を稼いでいるのは私だ……、と言いたいところだが、実のところ私が生活を支える必要はないのだ。
夫のハーラルはメレトネテル。そのためアラドカルガから彼宛に、定期的に慰謝料と言う名の口止め料が届く。私が働いているのは、手に職を持っていない夫婦が、裕福な暮らしをしていては不可思議に見えるからで……
いや、多分それは違う。私が未だにこの仕事を続けているのは、これこそが私とハーラルの縁を結び付けたものであるからだろう。
三年前、私はハーラルの家の建築を依頼された。最初はこんな森の近くで家を建てるなんて、どんな変人かと思って、実際に会ってみたら、これが驚くことに、
一目惚れだった。
引っ込み思案の性格もあってか、男性経験も人並み以下だった私ではあったが、それでもハーラルには運命を感じざるを得なかった。それが私たちの出会いであり、一か月後には恋仲へと発展していた。しかし順調に関係が発展しかけていたある日に、突如アラドカルガを名乗る者たちが私に押し掛けてきた。彼らは私にこう詰め寄ってきた。
――ハーラルはメレトネテルと呼ばれる存在。特殊な力を持つ。それゆえに詳らかにされてはならぬ存在。君には選択肢がある。彼の異能を受け入れ、黙秘を続ける生涯の友人になること。この場合は君もハーラル同様にアラドカルガの監視対象となる。そしてもう一つが彼に関する記憶を消し去り、赤の他人へと戻ること―――
その提示された二つの選択肢は、あまりに理不尽で、どちらも私の理想とする生活には程遠かった。しかし、私の答えは迷う余地はなかった。
ハーラルの持っていた異能力、それは「共感」と呼ばれるものであった。共感といっても誰かの気持ちを理解したりする力ではない。相手に自身の感情を押しつけるというものだ。例えば彼が何かに憤りを覚えれば、その怒りは他人に伝播する。いやそれだけで済めば幸いな方で、この力の恐ろしいところは、その感情の方向性まで共有されるということにある。つまりハーラルが怒りを覚えた相手に、同じく近くにいた他人も憤怒を抱く。さらに質の悪いことに、ここで共有され感情は、その時、すでに共有者が抱いていたそれに乗算される。つまりハーラルが何かを強く憎悪した時、共有者が何らかの理由で怒りを覚えていれば、その怒りに共有された感情が上乗せされたうえで、怒りの矛先をハーラルのものと同定させてしまう。
しかしその反対に、ハーラルが特定の感情を抱いたときに、その感情を向ける対象が無ければ、感情が伝達することはなかった。
彼の最初の不幸な事件は子供の頃。彼の両親は非常に仲が良かったそうだが、ある日彼の父がリストラされ職を失ったという。勿論彼の母はそれを必死に支え、それに対し彼の父親も感謝していた。だが、ある日、父が近くにいた時に、ハーラルが母親に叱られたという。それに彼は僅かだが怒りを覚えた。本当にごく僅かな怒りの灯火。その怒りを共有したのは彼の父親。
そして、彼の父は、母を殺害した。
共有された怒りの炎はちっぽけなもの、しかし当時の父親には殺したいほど憎んでいた存在がいた。彼に取引の失敗の責任を押し付けた上司。その報復のために募っていたはずの憤怒は、ハーラルの力によって、母親へと向けられることになった。
その後、手ずから自身の愛する者を殺めた父親は、自分の犯したことに気付いたのち、母を殺すのに用いた包丁で、自らの命を絶った。
その事件をきっかけに、アラドカルガはハーラルがメレトネテルであることに気付いた。しかし彼を調査するのも一苦労だった。というのも、この時の彼は失意の底、深い悲しみに沈んでいたために、調査員のアラドカルガが近づくと、たちまち泣き崩れ、調査どころではなかったのだ。体の大部分を機械に入れ替えていたアラドカルガだが、彼らでさえもハーラルの能力を防ぐことはできなかった。
しかしその試行錯誤を繰り返していると、時に彼の能力が効きにくい人間がいることが判明した。そして何を隠そう、私もまた、ハーラルの力に影響を及ぼされない体質であった。アラドカルガが私とハーラルの交際を認めたのもそのためである。普通の生活がままならない彼を一人で生活させるくらいならば、彼に影響を与えられない人間を近くにおいて、共に暮らしを行わせた方が良いと考えたわけだ。
事実、私とハーラルの暮らしは驚くほど上手くいった。彼の能力が誰かを悩ませることはなく、そして私とハーラルは愛を育み続けた。私たちの生活は順風満帆だった。
あの日までは。
仕事が長引いてしまい、家路につくのはすっかり日も暮れ、辺りが暗闇に包まれた夜半のことであった。いつもであれば、そんな残業を、家で愚痴るだけであったが、しかし今回はそうはいかなかった。
私は帰路の道中、男たちに襲われた。
ああ、思い出すもおぞましい。
彼が私に求めたのは、命でも金でもなかった。
彼らは反デザインドを掲げる過激団体の構成員であった。私はデザインドであることは公にはしていなかったが、彼らは何らかの方法で私の素性を知ったらしい。
彼らは三人組だった。
ある男は私に、お前たちのせいで仕事を失ったと殴ってきた。
またある男は、お前たちのせいでこの国は悪くなったと唾を吐きかけた。
そして最後の男は、お前たちこそが諸悪の根源だと首を絞められた。
夜が明けるまで、何度も何度もありったけの悪意に晒され続けた後、私は川沿いの茂みに放心状態で取り残された。ただ立ち上がるための気力すら湧かず、ひたすら天を仰いでいた。そんな私を発見したのは、地元の警察官。彼は私に手を伸ばし、何があったのかを尋ねてきた。私がおぼつかないながらも説明を試みようとした時、その警察官もまた、私を襲ってきた男と同じ目をしていることに気付いた。
もはや抵抗する力すらなかった私は、再び憎悪を叩きつけられた。
私はその後、気を失ったようで、目が覚めた時には自宅のベッドだった。本当は怪我もひどかったので病院に連れて行く予定だったが、それではハーラルが私の傍にいれないということで、アラドカルガが特別に自宅での検診と治療を施したそうだ。
不幸がここで終わればまだよかった。いや、勿論この段階でも既に決して癒えぬ傷を私は負っていたわけだが、それさえもまだ序章に過ぎなかった。アラドカルガによれば、どうやら私を襲ってきた男は四人とも素性がわかったらしいのだが、しかしその犯人が私とハーラルに伝えられることはなかった。
アラドカルガはもしそれをハーラルに伝えれば、彼の怒りが伝達し、誰かがその犯人を殺してしまうかもしれないと考えたからだ。その危惧は正しい。しかし誤算があるとすれば……
後日、私を襲った男のうち、三人が死体となって発見された。
アラドカルガの誤算、それは、「ハーラルの感情の矛先」を、彼自身が知らなくとも、それを知っている者であれば、感情が伝達されるという事であった。
怒りに駆られたアラドカルガは、四人目を殺害しようとしていたところを拘留された。しかしそのアラドカルガの怒りは一向に収まる気配を見せず、暴れまわっていた。彼を止めるべく、アラドカルガたちは、ハーラルに彼の感情を上書きするように頼んできた。その方法として、アラドカルガはハーラルに電極を接続し、強制的に感情を変化させようというものだった。危険性はないという事なので、試してはみたのだが、しかし結局そのアラドカルガの暴走が止まることはなかった。
新たに分かった事実であったが、ハーラルの「共感」の影響下にある人間は、ハーラルの別の感情を受けることはなかった。つまりハーラルの「共感」という呪いから逃れるためには、その感情が消えるのを待つしかなかった。不幸中の幸いか、ハーラルは、再び自分のせいで人が死んだことに対して深く悲しみ、怒りはすでに消失していた。
この負の連鎖はまだ続きがある。近隣に住んでいた人たちがこんな噂をしていた。
「あそこの奥さんを襲った人たち、全員殺されたんですって」
「え、それって旦那さんが復讐したってこと?」
「彼ら、噂では二人ともデザインドらしいわよ。やーねぇ」
根も葉もない噂……というわけではないのが辛いところであったが、この程度なら耐えられた。しかしある日、私たちの家に赤いペンキで「人殺し」と書かれていた。以降、私たちの家には時折悪戯めいたことをする者たちが頻出した。最初に被害を被ったのは私だというのに、もう皆、義憤に駆られて私のことを加害者としか思っていないようだった。
アラドカルガが我々の保護をしようかと提案してきたが、それは私が断った。
今の夫に、誰かを近づけるのは危険に過ぎる。怒りと悲しみ、あらゆる負の感情に満ち満ちている。この状況の彼が、もし共感能力を使ったら、それこそ大惨事だ。
だがその対策は甘かった。私たちの家の近くは、人通りは皆無と言っても良いが、とはいえ近くを車が通ることは稀にあった。しかし、その稀に通りかかる者たちこそが問題だった。
後日、近隣の村で十数名の死者がでた。その死者のうち五名が私たちの家に頻繁にちょっかいをかけていたことが分かったが、残りの死者は彼らを殺そうと襲い掛かったものたちであった。この事件をきっかけに、私はハーラルとの逃避行を決断した。このままではハーラルは壊れかねない。
だがアラドカルガの追及を逃れられるとは思っていなかった。だからハーラルは死んだことにした。死を偽装したのだ。
そして今に至る。
私とハーラルは今も、幸せに暮らし続けている。
幸せに。
シアワセニ




