ロンズデーライト 最終節
一辺十メートルの正方形状の真っ白な空間には、真ん中にぽつりと立ちつくしている男を除いて、何も存在していなかった。
「来てくれたか、リューベック」
その男、名をエアラルフと言い、私の師匠であり、生前に私に名を譲ってくれた”先代のリューベック”の無二の友である。
「悪いけど、捜査の協力ならできませんよ。大総監に目をつけられてますから……」
「なんだ、リューベック。君はまだその喋り方してるのかね。胡散臭さが凄いからやめろと言ったのに。少なくとも私の前では以前のように話したまえ」
「じゃあ、お言葉に甘えて。さっき言った通り、私は協力できない。あの慎重が服着て歩いてるような爺さんたちが、裏切り者の弟子に捜査を手伝わせるわけがない」
エアラルフの言うとおりに、言葉遣いをかつてのそれに戻す。彼の方が遥かに職歴が長く、地位も高いが、彼はあまり畏まった話し方を好まない。
「ああ、君に協力を仰ぎはしないよ」
エアラルフは未だに私に背を向けたまま、未だぴくりとも動かない。
「じゃあ何で私を呼んだんだ?こうやって会話してるのも辛いはずだろ」
彼は現在、そのリソースの殆どを死んでいたはずの”先代リューベック”捜査に費やしている。言うだけなら簡単なように見えるが、彼は一国全てに監視の目を広げている。普通のアラドカルガなら、まず溢れ来る情報の奔流にオーバーヒートを起こすような作業である。
「ミカエラがアリア・ゴネイムに襲われたようだ。信号も途絶え、居所不明」
「何?」
アリア・ゴネイム。私の所にも彼女は訪れてきたので重々承知している。彼女は私に『リューベックの手掛かり』を尋ねてきた。勿論私は彼女に何も語らなかったが、同じく先代リューベックの弟子であるミカエラのもとにも訪れていたようだ。彼女にも断られたために、アリア・ゴネイムは恐らく強硬手段に及んだのだろう。
「じゃあ、ミカエラは、アリアに脅されて……、エアラルフ、なら貴方が私を呼んだのは」
ミカエラを探すのを協力するため、そう言いかけた時、彼はゆっくりとこちらに振り返った。
「残念ながら半分正解だ。しかし君が僕に協力するのではなく、僕が君に協力したいんだよ」
あれから私とミカエラは、先代のリューベック探しに奔走していた。具体的にはミカエラが思い当たる節に総当たりしていくというもの。しかし現状、何一つ手掛かりを得られていない。
「ねぇ、アンタ、本当にリューベックの弟子なわけ?」
次の目的地に歩きながら、私は彼女に悪態をついていた。正直これほどまでに収穫が無いとは想像だにしていなかった。
「うるさいわね。それとリューベックじゃなくて、先代リューベックね」
「一々、先代、ってつけるの面倒なのよ」
その一言を受け、ミカエラは突然立ち止まった。怒らせてしまっただろうか?無理もない。私にとっては憎き仇敵だが、彼女にとっては尊敬する師匠なのだ。
「クロエ」
「は?」
怒りの言葉を予期していただけに、突然ミカエラから飛び出した言葉の意味を理解できなかった。
「クロエ。先代リューベックの本名よ。それなら呼びやすいでしょ」
「本名って……いいの?そんな簡単に教えて」
ミカエラは再び歩みを進めながら、こう答えた。
「どうせ裏切者の名よ」
そう一言放ってからは、彼女は目的地までの道程で、言葉を発することも、立ち止まることもなかった。
しばらくして、彼女が先代リューベック、いやクロエの手掛かりが残っているであろう、最後の候補地に到着した。この国では南東に位置する小さな町、そこの道路沿いに建てられた二階建ての、ごくありきたりなモーテルであった。
「ここの一室がね、私とクロエ様、そして現リューベックの三人の秘密の合流地だったの。一年前、クロエ様が死んだと聞かされて以来は、全く使われなかったけどね」
モーテルの二階、その東端に位置する一室が、彼女の言っていた部屋だった。今では珍しい洋白製の鍵で扉を開錠し、中へと入る。
「やっぱり、誰か使ってたみたいね」
部屋の電気を点けると、部屋の大部分を占めるベッドは、わずかに乱れており、他にも確かに人がいた形跡が散見された。
その後、部屋に何か痕跡が見つからないかと物色を始める。ベッドの下、ユニットバスの中、テレビの後ろ、箪笥の中など、様々な個所を探し続ける。探索を初めて数十分経った時、私はおよそ八十センチ程度の高さの本棚の中の一冊、ハードカバーの本の間に挟まっていた一枚の紙を見つけた。
「これ、何かわかる?」
その紙切れをミカエラに手渡す。紙には何か数字が書いていたが、私にはその法則性が理解できなかった。
「暗号ね。生前クロエ様が考案したものよ。解き方を知っているのは他に私とリューベックだけ。ちょっと待ってね、解読してみる」
五分ほどしたのち、彼女は手に持っていたメモ用紙に何かを書き始めた。
「これ、どうやら座標ね。そう遠くないわ」
どうやらその紙は、経度と緯度が書いていたようで。距離としてもここから、それほど遠くない場所であった。
「どう思う?」
「十中八九、罠、もしくは敵の懐ね。いずれにしても危険なのは間違いないわね」
はっきりとは言葉に出さなかったが、ミカエラの目は私に「本当に行くか?」と問いかけていた。
勿論、答えは決まっている。
座標の場所は、先ほどの街から更に東、国境付近の自然あふれる森の中であった。やや開けた場所に出ると、山裾には木製の小屋があった。
「敵の本拠地、ってわけではなさそうね。アンタ、心当たりは?」
「残念だけどないわ。初めて来る場所よ」
私たち二人は、共にその小屋へと足を踏み入れた。小屋には蜘蛛の巣が張っていて、家具と思わしきものは全て埃で灰色に染まっていた。
銃を構えてしばらく小屋を観察する。あいかわらず人の気配はしなかったが、私はこの小屋に何か大きな違和感を覚えた。何かがあるような……。
いや、違う。
何もないんだ。
気づいたときには遅かった。背中に覚えのある強力な衝撃が走る。この衝撃を最後に受けたのは、ボーヴェ支部最上階での戦い。
忘れもしない、先代リューベックが私に幾度となく叩きこんだ電流の痛みであった。
電流によって体が硬直し、そのまま床に倒れ込む。
「く、そ……。お前も、リュー、ベックの……」
ミカエラは腹這いにうつ伏せている私の横を通り、小屋の中央に陣取った。
「仲間か?いいえ残念だけど違うわ」
私は辛うじて動かせる首をあげ、彼女を睨みつける。すると彼女は右手首に巻いていた腕時計型の端末を操作し始めた。
左利き。そういえば、あの夜、あの女も左手で銃を撃っていた。
彼女が右手の端末を操作し終えると、彼女の顔には、別の人間の顔が投影されていた。その顔はまさしく、ああ、忘れようもない。あの憎き女の顔だった。
「お前……お前が……!!皆を……。ガストンを殺したのか!!!」
「ええ、その通り。これが真相。先代リューベックは本当に死んでいるし、なんなら彼女を殺したのも私だもの」
顔の投影を切って、再び腕時計型の端末を操作し始めるミカエラ。
「彼らが私のことをクロエ様と誤認したのは、私が本当にクロエ様の信号を発していたから。個体識別信号装置をクロエ様の死体から抜き取って、それをイルルヤンカシュが改良して、私から発している識別信号をクロエ様のものに変化させるようにしたの」
次々と明らかになる事実。なるほど、私が彼女を利用していたのではなく、真相はその逆であった。
彼女はアラドカルガから追跡されぬよう、自身の機能は全て切ったと言っていた。彼女が誰にも気づかれぬよう外に出るには、そうするしかなかったとも。だがいくら皆が先代のリューベックを探知しているとはいえ、突然ミカエラの信号が途絶えれば不自然になる。
だから彼女は、私に襲われて気を失ったように偽装した。思い返せば、その行為は彼女がアラドカルガの監視下から逃れ、イルルヤンカシュとの再接触を手助けしたようなものだった。
してやられた。彼女の計画は完璧だった。だが完璧ゆえに、ミカエラがベラベラと真実を語っている様はどこか不思議だった。その行為には何の意味もないし、不合理だ。
「ああ、なんでこうして貴方を殺さずに、話し込んでいるかって?単純よ。少しばかり時間には早いのよ。ここはイルルヤンカシュの定期巡回地でね。通信なんかで追跡されたくない要件なんかがあれば、ここに集まるようになってるの。あと数十分もすれば巡回隊が来るんだけど……。貴方ったら、先々行っちゃうもんだから、思った以上にここに早く到着しちゃったの」
くるくると、部屋を回りながら、私に理由を語り続けるミカエラ。私の体の痺れは指を動かせる程度には回復したが、まだ上体をあげることさえできなかった。
「さて、そろそろ貴方を殺すわ。クロエ様の信号を発信すると同時に貴方を殺害。そうすればアラドカルガ本部は貴方を殺したのをクロエ様と勘違いし、そしてその後国境を越えて外国へ逃げたと推測するでしょうね。その後、このメモリをイルルヤンカシュに渡して、私は本部に戻る。そしてこう言うの。『アリア・ゴネイムに拉致され、先代リューベックの手掛かりを吐くよう拷問された。その後私が吐いた情報をもとに、彼女はリューベックを追いかけた。その間私はずっと監禁され、意識を失っていた』ってね。良いアリバイでしょ?」
先ほど私に叩きつけたであろうスタンロッドを再び取り出し、ミカエラはそのスイッチを押す。バチリバチリと音を立てるそれを、振りかざして、私に振り下ろした。
「じゃあな」
終わった。命を諦めかけたその時だった。
一発の銃声が鳴り響き、私の体にスタンロッドが押しつけられることはなかった。
「な、なぜだ。なぜおまえがここにいる!!」
彼女がスタンロッドを握っていた左腕は、手首から先が消し飛んでいた。ミカエラは正面の開けた扉の外を睨みつけている。
「チアキ!!クソッ……。なんでお前が……!」
私が駆け付けたのは、非常にギリギリのタイミングだった。今にもアリア・ゴネイムを殺さんとスタンロッドを掲げるミカエラが視界に映り、私は咄嗟に、ライフルを発砲した。銃弾は的確にミカエラの左手を捕らえた。銃弾に反応して彼女は反射的に腰の拳銃に右手を回したが、私の顔を見て固まってしまった。
「チアキ!!クソッ……。なんでお前が!!」
悪態をつき、こちらを睨みつけるミカエラ。その表情から伺える彼女の感情は、怒り六割、困惑四割といったところだろうか。
「君は泳がされていたんだ。本当はもう少し泳がして、君がイルルヤンカシュに接触するまで待とうと思ったんだが、残念ながら人命優先だ」
ミカエラは右手の銃を地面に置き、指示通りに両腕をあげる。
「クソ、エアラルフか……!やはりあの時……!!」
「いや、エアラルフも君が裏切っていると確信していなかったよ。君の裏切りを彼に伝えたのは私だ。勿論彼には色々と手伝ってもらったがね。例えば、『私たち三人しか知らない密会所に、アラドカルガの捜査が及ばないようにしてくれ』とかね。流石に安直だったんじゃないか?あのモーテルを使ったのは」
ミカエラの目が動揺で泳いでいる。いつ、どこで、なぜ裏切りがバレたのか。その自問自答を繰り返しているようであった。
「なぜ、なぜ裏切っているとわかった?」
「そりゃ勿論。一緒に育ってきたからさ。なんてな。お前の偽装はばっちりだったよ。だがな、お前の最初で最後の過ちは、クロエを殺した時に、彼女が今際の際に放った通信を見抜けなかったことだ」
私の言葉を聞くたびに、ミカエラの倉皇はますますひどくなっていった。追い打ちとばかりに、私は再び口を開く。
「クロエは、私にだけ通信を送っていたのさ。ミカエラの裏切りとその目的をね。さっきもそうだが、君はどうにも『冥途の土産』を残さないといられないタチらしい。悪い癖だな。それとも罪悪感に苛まれないための自己防衛か?」
今のミカエラの精神状態は今にも崩れ落ちそうだ。何もかもが筒抜けになっているようで、さぞ不安だろう。
「馬鹿な……。一年もの間、お前は私の裏切りを知っていながら、誰にも話さず黙っていたのか!? なぜ?」
「ボーヴェ支部、ブラントーム支部。その他五つの君が襲ったドゥアザルルの支部を管理していた支部長は皆、裏で非合法なデザインド売買をしていた者たちだった」
俯いていた顔をあげ、私の方を見るミカエラ。その表情には先ほどまでのような覇気はなく、瞳は僅かながらに潤っていた。
「ミカエラ、君の目的はアラドカルガを裏切ることでも、イルルヤンカシュを手助けする事でもない。不幸な目に遭うデザインドとメレトネテルを救うことだ」
「やめろ」
目の潤いは、やがて雫となり、今にも目じりから飛び出さんとしていた。
「『親無し』と呼ばれるデザインドを生み出し、私服を肥やす一部のドゥアザルル支部長。それを知りながら見て見ぬふりを続けるアラドカルガ。そしてメレトネテルを救うなどと、妄言を吐きながら、日夜彼らを人体実験にかけているイルルヤンカシュ。君はその全てに鉄槌を下すつもりだった。」
「やめろ」
瞳から飛び出した雫が彼女の頬を濡らす。
「君はイルルヤンカシュを協力するように装って、金に目を眩ませたドゥアザルルを粛清した。言うなればそれは君の計画の一歩目だった。だがそれがクロエにバレて」
「やめろ!!」
溢れていた涙が地面に滴る。しばらく静寂が続いたが、その沈黙を破ったのはミカエラだった。彼女は体を震わせていたが、不思議なことにそれは泣いているのではなく、笑っているようだった。
「ふふふ、そうか。まさかクロエ様の死に際に語ったことが私を追い詰めるなんてね。確かに、悪い癖ね。教えてくれてありがとう。お礼に私からも一言アドバイスよ、チアキ」
すると彼女は、右足をわずかに上げて、力いっぱい振り下ろした。その行為の意味を理解した時には、時すでに遅し。地面に落ちていた拳銃が宙を舞い、ミカエラが体を屈めてそれを拾う。私は突然の彼女の行動に反応し、ライフルを発砲するが、先ほどまでミカエラの体が存在した場所には、もう何もなく、むなしくその銃弾は小屋の壁を貫くだけであった。彼女は銃を拾ったのち、仰向けの状態で拳銃の引き金を引いた。放たれた二発の銃弾は見事に私の両肩に当たり、その衝撃で私はライフルを地面に落とした。
「油断。貴方はすぐに油断をする。それが貴方の悪い癖よ、チアキ」
いつの間にか立ち上がって、小屋の外に出てくるミカエラ。落ちたライフルを拾わんと試みたが、再び彼女が放った弾丸が、それを阻む。
「一つ教えなさい。私を泳がせると言ったけど、貴方の目的は何?イルルヤンカシュの拠点を突き止めること?」
前方二メートルほどの距離で立ち止まり、銃を構えたまま私に質問を投げかけてくる。
「簡単な話だよ。私も、お前と、同じなんだ」
「そう。そういうこと」
全てを悟ってか、彼女は今日一番の落ち着きを取り戻していた。そして私の忠告通り、彼女は冥途の土産を残そうとせずに、ただ、ゆっくりとトリガーを引いた。
しかし
「うがああアアアぁァあアぁあアア!!!」
獣の如き雄たけびが木霊し、ミカエラの放った銃弾は私の頭を紙一重で掠っただけであった。彼女は起き上がったアリア・ゴネイムに飛びかかられ、そのまま馬乗りの状態になっていた。アリアは拳を高く振り上げ、それをミカエラの顔面に叩きつける。人間の頭蓋骨なら一撃で脳漿ごと粉砕できようかという破壊力だったが、ミカエラの顔面は未だに原型を保っていた。その後も二発、三発目と連続で叩きこまれる。
四発目を振りかぶったところを、その腕を掴み、動きを制止する。
「邪魔するな……、こいつは、こいつは!!」
肩を撃ち抜かれて、人工筋肉が上手く機能しないことと、そして彼女の人外めいた腕力のために、私が絡みついているのにも構わず、今にもそのまま拳が飛び出さんとしていた。
「話を聞け。君の恋人が死んだのは彼女のせいじゃないんだ」
私の放った言葉に、彼女の腕の力が少し緩む、
「何、何を言ってる?」
「良いか、ミカエラが今まで自由にイルルヤンカシュとして活動できていたのは、ひとえに私が彼女のことについて報告しなかったからだ。私は彼女を放置することで、イルルヤンカシュの本拠地を追跡することと、そして世界中の不幸なデザインドを救わんとした。そうだとも。彼女を自己の利益のために最初に利用したのは他でもない、私だ」
言葉の意味を理解してか、彼女はゆっくりと立ち上がり、私を睨みつける。
そして、一瞬。反応を許さぬほどの速さで飛んできた拳が、私の頬に直撃した。
そのまま五メートルほど吹き飛び、地面に叩きつけられる。確かに恐ろしいほどの衝撃だったが、即死するほどではなかった。
「オマエ……オマエサエイナケレバ」
幽鬼の如く、ゆらゆらとこちらに歩いてくるアリア。
「ああ、そうだ。殺すべきはミカエラじゃない。私だ。私で終わらせろ」
再び拳が振るわれる。それは改めて私の頬を捉える。だが今度は吹き飛ぶことはなかった。拳に籠った力が少しずつ弱まっているのを感じた。
「ああ、クソ。なんでだ……。なんで殺せないんだ……!!」
三度目の殴打。しかしもう体が吹き飛ぶことはなく、頭が少しだけ動いた程度であった。
「死ね!死ね!死ねよ!!」
声に合わせて拳を振るうが、もはや致命傷には程遠い威力に成り下がっていた。抵抗せず、ただ黙って拳を受け続ける。
「何で、なんでなんだ。何が、何がおかしいんだ。こんな奴、この程度の奴、簡単に殺せるはずなのに!殺せるはずなのにぃ!!」
嘘は言っていない。いくらアラドカルガとはいえ、彼女の桁違いの筋力と、堅牢な骨格を合わせたその拳を受ければ、一撃でその機能を失う。それほどの性能だからこそ、優秀なアラドカルガであるミカエラが、彼女に襲われたという証言が現実味を帯びたのだ。
だが、今の彼女では、おそらく何度その腕を振るおうとも、私を殺すことはできまい。
「ガストン、ああ……ガストン。貴方の、言う通り……なの……?」
なぜだか知らないが、彼女の心は完全に折れていた。膝を折り、天を仰ぎ見るアリアの隣を横切って、もう一人彼女にぶちのめされていた女性の側に歩み寄る。
「お互いコテンパンだな、ミカエラ」
ミカエラの顔も部分的に損壊しており、頬の人工皮膚が破れている。恐らくその中の人工骨格も損傷しているだろう。
「これからどうするつもり?」
当たり前の疑問だろう。彼女はもう今までのように二重スパイとして働くことはままならない。
「ミカエラ、君はクロエを秘密裏に追い、そして彼女を捕まえた。しかし突然イルルヤンカシュの援軍が来て、彼らと応戦。その最中でクロエを殺してしまった」
彼女の疑問に対する答えとしては、あまりに卒爾で、文脈の繋がらないものだったためか、あるいはその真意を理解してか、彼女の顔には当惑の色が見えた。
「君はその後、手に入れたイルルヤンカシュの拠点と、その構成員に関する情報を大総監に提供。イルルヤンカシュの情報入手は、アラドカルガにとって最も称賛されるべき仕事。それを複数とあれば、恐らく君は、大総監に最も近い地位の人間、つまり事実上、アラドカルガの頂点に立つことができるだろう」
「貴方、自分が何を言っているのかわかっているの?」
私の言っていることは、つまり自己の目的のために、師匠を殺したものへの復讐心も忘れ、師匠の汚名返上の機会すら放棄するということ。
「勿論だ。君は既にドゥアザルルの汚職に手を染めた支部長を糾弾した。イルルヤンカシュへの攻撃も君の協力があれば間もなく完了する。あとは、アラドカルガの改革だけだ。それも君が私の言う通りにすれば叶う。我々は共犯だ。さあ、世界を変えてやろうじゃないか、ミカエラ」
彼女に手を差し伸べる。差し出された腕が意味するものは、ミカエラも重々承知しているだろう。
「……断ったら?」
「私が君を拷問して、イルルヤンカシュの拠点情報を吐かせたのち、殺す」
寸分のためらいもなく答える。彼女には私の決意の大きさを伝える必要があった。生中な応対では決して彼女は付いてこないと思ったからだ。
「なるほど。私も所詮貴方の手のひらで踊らされていただけにすぎないってわけね。全く」
ためらいながら、私の手を掴み、それを頼りにミカエラは再び立ち上がった。
「その後ミカエラはアラドカルガの頂点に君臨するようになり、私は彼女とその後恋仲になるが、結局長続きせず破局。っていうのが私とミカエラの物語さ」
エミー・ブラックの一件の後、私とモートレントは古めかしいパブで酒を呷っていた。彼がどうしてもとミカエラと私の馴れ初めを聞きたがるので正直に答えてやったのだが、どうもモートレントは私の話に喜ぶどころか、顔を真っ青にしていた。
「え、え。ちょっと待て。クロエは裏切ってない?ミカエラはイルルヤンカシュ?待て待て、理解が追いつかん」
頭を抱えて、あまりの情報量に唸っているモートレント。流石に一気に教えすぎたか。
「なあ、それってエアラルフは知ってるんだよな……?」
「勿論」
ぎしっと音を立てながら、座っている椅子の背もたれに体を預けるモートレント。
「怒ったか?」
彼にそう問いかけると、少しの沈黙ののち、机の上のスコッチを一気飲みして、割れんばかりにグラスを机に叩きつける。そして口から酒気を帯びた溜息を吐いてから、
「いや。クロエのことだ。そこまで織り込み済みだろ。まあミカエラが殺したってのは流石に驚きだが……。うん?ちょっと待て。なあ、お前の言ってたアリアって」
「おーー!揃ってんなぁ!アラドカルガどもぉ!」
モートレントの言葉を遮るように。後ろから吠えるような声が響く。
その声の主を確かめるように、恐る恐ると振り返るモートレント。
「ああ、そのまさかさ」
アリア・ゴネイム。かつてドゥアザルル直属の部隊、アペプケデッドのリーダーを務めていた彼女は、現在、対イルルヤンカシュの、アラドカルガ実働部隊を取り仕切っている。
「なんだぁ?昔話か?私も混ぜてくれよ」
「もう全部話し終わったところだよ、アリア」
私の右隣に座り、酒を頼むアリア。
「まさか、お前とリューベックにそんな因縁があったとはね」
「そうだろ。ま、今は仲良くってるよ、な!」
恐ろしいほどの力で私の肩に腕を回すアリア。確かにこう容赦のないところは、一年前のあの頃には想像できなかっただろう。
「で、アリア。お前は何しに来たんだ」
「おーそうだった、そうだった!いや、お前たちが関わってた事件のメレトネテル、エミー……だったか。あの子を是非うちに勧誘しようと思ってさ!」
一瞬、時間が止まった。アリアが突拍子もないことを言うのは有名だったが、今回ばかりはあまりに逸脱していた。
「待て。君は自分が何を言っているのかわかっているのか?」
人の肩に顎まで乗せてきた彼女を諭すように問いかける。
「ああ、勿論だとも。私は今、メレトネテルだけを集めた戦闘チームを作ろうと思ってる。候補は今のところエミーを除いて二人いてな。ああ、勿論、リューベック、お前たちにも付き合ってもらうからな」
もはやそれは脅迫だった。彼女は根っからの善人であるのは間違いないが、この一年、彼女の無茶を、私とミカエラは通してきた。どういうわけか、我々の懸念をよそに、彼女の作戦は必ず成功するから困りものである。
「モートレント、お前も既に秘密を共有した仲なんだから、手伝ってもらうぞ」
「え。マジかよ」
道連れは一人でも多い方が良い。まあもとより、彼に秘密を打ち明けたのはそのためでもあったが。
「だがエミー・ブラックはまだ待ってくれ。彼女は自身の罪を償いたいんだ。その期間だけはやってくれ。勿論その後は勧誘なりなんなりするといい」
「む、しょうがないな。うーんイルルヤンカシュの拠点を壊滅させた、なんていい戦力になると思ったんだがなぁ」
本当に残念そうにうんうんと唸りながら、スコッチを一気飲みする。ちなみにこれで四杯目だ。彼女が丈夫なのは何も体だけじゃなくて、内臓もそうらしい。
「で、その、メレトネテルを集めたチーム、何て名前なんだ」
モートレントがアリアに質問を投げかける。アリアはそれを聞くなり、待ってました、と言わんばかりに、頬の隅に笑みを浮かべている。
「ああ、神を喰らう龍を滅ぼすための部隊だからな。その名も龍殺しさ」
「前と同じかよ」
のちにアリアは、戦闘能力に秀でたメレトネテルを数名勧誘し、新生アペプケデッドを組織する。合計五名と少数ながらも、その実績は我々アラドカルガを上回りかねないほどのものに成長し、結果、大総監や高位階の爺さんたちにも匹敵するような発言権を得ることになるのだが、それはまたもう少し未来の話である。




