ウェルウィッチア 第一節
「俺は昔から恋ってのが好きでな」
「はい?」
卒爾な言葉への私の驚きを無視し、彼女は続ける。
「俺も燃えるような熱い恋をしてみたいんだ。だから決めた」
そう言いながら、勢いよく立ち上がる。
目を奪われた、その漆のように艶やかな黒い髪に。
心を奪われた、その扇のように広がる長い髪に。
しかしその美しい御髪に匹敵するほど麗らかな相貌は、多分に悪念が籠っていた。
「条件だ、条件がある」
紡ぐ唇は美しいが、紡がれた言葉は余りに凄惨。
「俺を惚れさせてみろ。アンタの体を俺が求めてしまうほどに。一糸まとわぬ姿を晒したくなるほどに。それが条件だ」
何と甘美な、そして残酷な誘惑だろうか。
ここ最近は仕事に追われるということもなく、夕暮れ前には帰路に就く。数週間前までミツバチのように飛び回っていたことが嘘のようである。しかしこうして自由な時間が増えても、その余暇を生産的に過ごせるわけでもなかった。趣味の一つでもあればよかったが、生憎今まで何かに熱中したことはない。何一つ新鮮なことのない、とりとめのない日々を送る。一日の大半を朦朧とした意識の中で過ごすのも、珍しくはなかった。
今日も折角の定休ではあるが、やはりやることもなく、ただベッドの上で寝転がっているだけ。寝ているのか、起きているのか、それすらも曖昧な状態で数時間以上過ごしていた。季節もすでに冬に差し掛かっていたが、その寒さから逃れるために羽織っていた毛布が余計にそのまどろみを後押ししていた。
延々と天井を見続け、時間すら気にしなくなりつつあった。しかしこうして一歩も動かずとも、人間は生きているだけで食事が必要となる。腹の虫が静寂の部屋に響く。恐らくは今正午を回った頃であろうかと、腹時計で予想していると、虫の声とは異なったものが耳に届く。ベルの音と共に、端末が鳴動している。体は起こさぬまま端末を起動、スクリーンを空間に投影する。上司からの電話だ。普段なら電話を取ることは滅多にないが、今回はようやく訪れた変化に浮かれ、喜々として応答のボタンに指を置く。
「あーもしもし?リューベック?」
繋がると同時に、女性の声が聞こえてくる。
「珍しいですね。まさか貴方から電話がかかってくるとは」
「悪い?ちょっと急用なの。あなたに手伝ってもらわないほどの」
「猫の手も借りたいと?」
「ええそうよ、あなたの手なんて本当は借りたくもないけど」
彼女はそれほど私のことを好いていない。いやむしろ嫌っているだろう。言葉の節々にある棘が自分に突き刺さるのを感じる。
「それで、その仕事というのは、Ms.ミカエラ?」
「ええ、定期検診をしてほしいのよ。貴方も知っているでしょう?ヤザカ・アカリよ」
「八坂アカリ、ですか?」
西洋人のミカエラにとって、日本人の名前を読み間違えるのはそう珍しいことではない。それを承知の上で、私はわざとらしくその名の正しい発音を口にした。
「あんたの、そういうところが嫌いなの」
「後学のために記憶しておきましょう」
「はぁ」
まるで彼女の表情まで伺えるかのような、深いため息。
「しかし意外です。いくら手薄だからと、彼女の検診を私のような末端に任せるとは。Ms.ミカエラ、貴方では駄目なのですか?」
「ええ当然。私を暇人か何かと勘違いしてない?私にはあらゆる仕事が今もデスクに山積みなの。休日だからと一日中ベッドで寝転がっているあなたとは違ってね」
「ほう、よくご存じで。まるで私と共に過ごしていたような物言いですね」
「いちいち話の腰を折らなければ気が済まないの?」
「申し訳ない、性分でして」
彼女の扱いには長じている。こうして彼女をからかうのは、数少ない私の趣味と言えるのかもしれない。
「全く。さて、Ms.アカリの検診だけど、あなたは初めての担当で、まだ勝手がわかってないでしょう?だから彼女の住所や情報、検査要項は後で送っておくわ。あとはよろしく。くれぐれも『アラド・カルガ』の名を汚さぬように」
電話を一方的に切られる。詳細をメールで送るくらいなら、最初から要件も添えてメールで良かったのではないか。しかし彼女はこんなご時世でも紙の資料を使うような、少し時代遅れな気質がある。今回の電話も彼女からすれば「一つの形式」なのだろう。
メーラーを起動し、すでに二桁を超えた未読メールには目もくれずに、最新の受信メールを開く。
顔写真が添付され、彼女の詳細や検診の注意事項が長々と記載されている。彼女に関するデータはある一点を除いて、全てが正常だ。まだ十代か、そんな印象を受ける幼い顔立ち。日本人らしい、綺麗な黒髪だ。肩までかかる長さで、それもすらりとした美しい直毛。あまり女性の審美眼に自信があるわけではないが、彼女は美しい見た目をしていると思う。
ただし、その一点。そのプロフィールに書かれた異常。他のデータを見ようとしても、勝手に目に入ってくるほどの異様。
年齢、一五三歳。
確か最長寿の人間の年齢は一五五歳であったか。あと二年もすれば記録に残ろうかという長寿であるというのに、見た目は未だ十代の女性と変わらない。
メレト・ネテルは個々で症例が異なるが、その第一号であるヤサカ女史が得たのが不老。厳密にいえば加齢が非常に遅く、おおよそ常人の八分の一。故に今も十代と変わらない姿を保っている。最初にして、最も特異とも呼ばれる彼女の体は、合法非合法問わず様々な組織に狙われており、我々の中でも彼女を検診できるのは、熟練したものに任されることが多く、普通であれば私のような若輩者に回ってくる仕事では無かった。
一通り彼女に関するデータ、診察の注意事項に目を通し、端末の電源を切る。ヤサカ氏には診察の旨は伝えているそうなので、必要な機材の準備をして自宅を後にした。時には国境を越え仕事を受けることもあるが、今回は私の母国、それも公共機関を使って容易に行ける距離だ。集合場所は都市部に昔から存在する私立の大学だ。
集合時間よりもやや早めの到着。すでに季節は秋を過ぎており、まだ四時前であるにも関わらず、日が傾き始めている。斜陽の強い光に目を眩ませながら、目印になりそうな場所を探す。
「さて、この辺りでいいか」
大学の正門を抜け、人工芝で作られたガーデンに隣接して作られたベンチに腰掛ける。西日に背をむけるような形で座り、ヤサカ氏に挨拶を含め、メールを送る。
おおよそ二十分後、ちょうど約束の時間を過ぎた頃であったが、まだ彼女は顔を見せない。それどころか、先ほどのメールの返信すらなかった。こうして待つ間、なぜか学生たちが私に視線を送っている。理由は判然とはしないが、あまり衆目の的になるのは心地いいものではない。
「やれやれ、人のことは言えないが、メールの返信くらいするものだろう」
自分のことを棚に上げた不平を呟く。誰かに届くことはない独り言のつもりであったが
「男が女を待つのは当然だと思うがね」
背後からの返事に虚をつかれる。声の主は紺色のコートに身を包んだ美しい黒髪の若い女性。彼女は右手に小さなアクリル製の手提げを持ち、左手には分厚い本を抱えていた。見た目はよくいる女学生、といったところか。慌てて振り向いたこともあり、夕日に思わず目を細めたため、彼女が八坂アカリであると気づくには時間を要した。先ほどの資料メールに添付されていた顔写真と記憶内で照らし合わせる。
「君がヤサカ君?」
「おいおい、年長者に対して『君』はないだろう?」
この返答で確信を得た私は、
「これは失礼を。わたくし、今回ヤサカ様の検診を担当する、リューベックと申します」
かしこまった挨拶と共に、名刺を差し出す。
「ふん、そんなに丁寧にしなくてもいいよ。十代の小娘に頭を下げる黒服の男なんて、それこそ目立っちまうだろ。あと名刺はいらないよ。どうせ偽名だろ、それ」
おや、知っていたか。仕方なく名刺をコートのポケットにしまい込む。
「あと講義中に連絡されても応答はできねえぞ。あんたも仕事っていうのは承知の上だが、こちとらにも要件はあるんだ」
先ほどの私の独り言への回答。ミカエラからのメールで、彼女がここの大学で学生として振舞っていることは知っていた。しかし講義中であろうと端末を触ろうとしないとは、なかなかに勤勉なようだ。
「これは失礼しました。しかしよく私がアラド・カルガだとお気づきに」
こちらの容姿は伝えておらず、本来は私から彼女へ声をかけるつもりだった。そのため、一度も顔を合わせたことのないはずなのに、彼女が私のことを言い当てたことが不思議だった。その疑問に対し、彼女は小さく嘆声を漏らす。
「皆色とりどりのファッションに勤しんでいる中で、そんな硬苦しい黒服に、大荷物なんて不釣り合いな格好していたら、嫌でも気づくだろう」
指をさして私の格好と銀のアタッシュケースを指摘する。自覚はなかったが、才気あふれる若者が集まる場には確かに不似合いな格好である。先ほどから感じていた若者たちの視線もそれゆえであったか。
「ええとそれでは、ヤサカ様……」
「ああハイハイ、硬い挨拶は抜きだ。とりあえずどこか茶でも飲めるところに入ろうじゃないか。ここは冷えるだろ」
再び姿勢を改めて、紋切り型の挨拶に切り出そうとしたところを制止される。すでに十一月、気温も下がる夕暮れに、外で立ち話は流石に堪えるだろう、と彼女に案内されるがまま、キャンパスの外にある喫茶店に連れ込まれる。本格的なコーヒー豆の香りが嗅覚をくすぐる。悪くない対談場所だ。
彼女は店主の案内も抜きで奥の席に座り、メニューを手に取る。
「ここはな、エスプレッソが美味いんだ。以前にイタリアに行ったときに本場のエスプレッソは飲んだが、ここはそれに劣らないね。お前も飲んでみると良い」
見た目にそぐわない嵩にかかった物言いは、他人が見れば違和感を覚えるだろう。しかし、ここに他の客は見当たらない。私とヤサカ氏、それと店主であろう壮年の男性のみだ。店を見渡していると、目の前に座るヤサカ氏がメニューを突き渡す。
「あんたも決めろ。店に入って注文しないのはマナー違反だ。コーヒー一杯でも頼みな」
「ええ、では私はアメリカンで……」
メニューを見ずに適当に頼む、が直後に不満そうなヤサカ氏の表情を見て
「いえ、やはりエスプレッソで」
と自分の意思を曲げる。途端にヤサカ氏の表情も先ほどとは打って変わって上機嫌だ。選ぶ権利はあってないようなものだったか。
(少し苦手だな。)
といつもの営業スマイルを保ちながら、内心では少し苦悶を表していた。
「年長者には素直に従うことだ。そうすれば万事うまくいく。なあ、そう思わんか?」
「ええ、それはもう」
会話の主導権を握るのは好きだが、握られるのはどうにも苦手だ。場の空気だけでなく、自分の手綱も掴まれている気がする。普段は、上手い言い訳や論法の一つでも思いつくが、彼女を前にするとどうにも思考が鈍る。
「あんたのこと、気に入ったぜ。腹に一物抱えている奴は好きだ。いかにも清潔そうな奴よりも遥かに、な」
「まさか、私の心からの注文ですよ」
「かか。そういうところよ。悪くない」
やはり苦手だ。彼女の前では調子が出ない。
店主が注文を取りに来て、私たちのオーダーを伝える。コーヒーができるまでの間、再び仕事の空気に身を締める。しかし一度会話が中断したため、どのように切り出そうかと迷ってしまう。
私がまごついていると、最初に口を開いたのはヤサカ氏だった。
「しかしだな」
先ほどまでの笑顔は失せて、再び不満そうな表情に戻る。
「君たちの組織には女性はいないのか?いつも男ばかり俺の診察に来るが」
「いや、女性職員も一応いますよ。それほど数は多くありませんが」
それなら、と口を開こうとするのを、今度は私が制止する。
「この仕事は機密情報を扱う。我々の情報はそれこそ国の要人の秘密に繋がります。仮に我々の情報や、貴方に関する資料が奪われでもすれば、それを非常に高値で買い取ろうとする輩もいましょう。敵も多く存在しますし、中には武力でねじ伏せようとするものもいます。たとえ女性職員であっても、戦いにおいては遅れを取りませんが、見た目は屈強な男性の方が、まだ降りかかる火の粉も少なくて済みますからね」
実際アラドカルガにおいて男性であろうと女性であろうと、個人の戦闘力はそれほど差異はない。古い価値観ならともかく、今や性による身体的差異など殆どあってないようなものだ。だがその一方で、人間はいまだ『見た目』に拘る。だからアラドカルガは実働隊ほど、屈強でマッチョな男性が任されることが多いのも事実だ。
「しかしだな……君たちはいつも俺のだな……写真を撮るだろ?」
「ええ、撮りますね」
ここで彼女の言っている撮影というのは、診断の際に撮影される全身写真のことだろう。
本来であれば専用の施設で、徹底的に検査をする必要があるほどに重要な人材であるが、動員数が増えれば、秘匿の難度は飛躍的に上昇する。彼女のデータを喉から手が出るほど欲している者など山ほどいる。故に我々は最小限の機材を用い、最小限の人材で検査する。
しかしメレトネテルの検査項目数は、おそらく宇宙人でもない限りは、この地球上で最も多い。皮膚の状態、骨繊維、内臓、血液、遺伝子。あらゆる事柄が研究機関の興味の対象である。多くの専門家を必要とする検査を一人で実行することは、ほぼ不可能に近い。故に私の仕事は、文字通り体の隅々に至るまで、専用機材で撮影すること。女性にとって、その恥ずかしさは耐えがたいものだろう。当然だ。これは丸裸にされているのと変わらない。しかし私は少し意外だった。彼女は見目こそ少女だが、先ほどの会話から男気のある性格のように感じたからだ。
「意外と乙女だな……」
それは声に出すつもりはなく、心の中の独り言のつもりだった。ああ、目前の女性から発せられる怒りをひしひしと感じる。
「それは女性に失礼ではありませんか、お客様」
突然、その会話に入り込んできた第三者に目をやる。先ほど私たちの注文を取りに来た壮年の男性であった。
「おーおー、もっと言ってやれぇ」
ヤサカ氏がその男性を炊きつける。彼は紳士的な背格好通りの口調と態度で話しを続ける。
「アカリさんは、昔から私どもの店にいらっしゃっているので、よく存じているのです。彼女は口調こそ凛々しくありますが、その心には女学生に勝るとも劣らぬ、乙女の純情を宿しておいでなのです」
どうやらここの店主は彼女を良く知っているようだ。しかし、今のやり取りで、心に引っかかるものを感じた。そう、この男性の放った言葉。例えば『昔から』という部分……
「『昔から』、この店に?」
そう、この言葉だ。彼女がメレト・ネテルであることは機密のはず。この情報社会であっても、一般市民では触れることのできないほどの秘匿性を持つほどの。
考えすぎかもしれない。しかし確認しなければならなかった。
「俺はこいつの爺さんの頃からの付き合いだぜ」
「なっ……!?」
彼女は私の困惑を楽しむように、くつくつと笑っている。
「では、貴方は……彼女のことを……?」
「今年で御年一五二歳……でしたか?」
「一五三だ。相変わらず物覚えが悪いな、三代目清水」
この男性は、彼女の秘密を知っている。今すぐにでも、本部に連絡すべき事態だ。しかしここで連絡をすれば間違いなく、目の前の、先ほどアカリに“三代目清水”と呼ばれた男性は捕縛される。最悪の場合は彼の祖父に至るまで、多くの親族が軟禁されかねない。事情を聴くべきだ。機関の人間の中には問答無用で報告するモノもいるが、私はその手を好まない。
「ああ、大丈夫だよ。こいつは」
先ほどまでの嘲笑とはうってかわって、今度は優しい母親のような微笑みを浮かべていた。
「だが、しかし……」
「安心しろ。俺が保証してんだ。これ以上疑うようなら、俺がアンタの前で素っ裸になるどころか、今すぐ家に帰ったっていいんだぜ。なんなら大衆の面前で『自分はメレト・ネテルだ』とでも叫んでやろうか?」
この程度の脅しにはのらない。かつて似たことをしようとした男性がいたが、実行前に職員によって、その計画は頓挫させられた。今回も同じだ。彼女がそんな行動を起こそうものなら、少し強引な手を使えばいい。彼女もそれくらいは知っているはず……いや、知っていてなお言っているのか。彼女のまっすぐな視線は、私の思考を見通しているようであった。
「わかりました。今は信じます。ですが後で詳しく話を聞かせてもらいますからね?」
「ああ構わんさ。さあまずはコーヒーに舌鼓を打とうじゃないか。絶品だぞ」
言われるがままカップに口を付ける。
ああ、確かにこれは美味しい。
「さて」
再び訪れた無言の時を破ったのも、やはりアカリだった。
「そうだな。あんたは聞き分けよさそうだ……」
独り言か、私に向けた言葉か。視線は飲み干したカップをむいていた。
「俺は昔から色恋沙汰が好きでな」
「はい?」
卒爾な言葉への私の驚きを無視し、彼女は続ける。
「俺も燃えるような熱い恋をしてみたいんだ。だから決めた」
邪悪な笑みを浮かばせながら、勢いよく立ち上がるヤサカ氏
「条件だ、条件がある」
突然の行動に驚き、目を見開く私を見下ろしながら続ける。
「俺を惚れさせてみろ。アンタの体を俺が求めてしまうほどに。一糸まとわぬ姿を晒したくなるほどに。それが条件だ」