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人造のアーダム  作者: 猫一世
プロテノール
19/47

プロテノール 最終節

 その晩、失意の中、僕は診療所のベッドの上で寝そべって、無心で天井を見続けた。

 まるで自身が死んだかのような、鮮烈な経験。それも二度。

 目をつぶるのは未だに恐ろしいが、何より僕は義憤にも似た、胸の裡に何かが煮えたぎっていた。それは、今もまた純粋な乙女たちを蹂躙せんとほくそ笑む、あの殺人鬼の鋭い笑みに対する怒りではない。いやそれも含まれているだろうが、何より許せないのは二度も死を経験していながら、二人を救うことができなかった僕の不甲斐なさであった。

 故に、僕は今再び目蓋を閉じ、悪夢の続きを望んだ。あの殺人鬼の凶行は必ず繰り返される。警察も必死に捜査しているが、未だ見つからない。恐らく彼奴は恐ろしいほどに冷静だ。これほど証拠を残していながら、消息の一つも残さない。

 奴は今頃、次の獲物を探して、舌なめずりでもしているのだろうか?

 自分を捕まえられない警察を嘲笑しているのだろうか?

 今にもあの男のそんな表情が思い浮かんでくるようだ。だがアイツは知らないのだ。

 目撃者がいること。それも目の前ではっきりと、脳裏にその顔を焼き付けた者がいることを。

 奴が狂えるモノスタトスだとするなら、僕はそれを誅するザラストロであろう。

 さあ覚悟しろ。貴様が相手にするのはか弱き女性でも、警察でもない。

 お前がこの街に昏き夜の暗幕を下ろそうとも、その全てを光で以って払い去ろう。


 暗闇が訪れ、再び悪魔たちの饗宴が如き死の足音が響き渡る。

 同時に視界が開ける。まるで明晰夢を見ているようだ。先日の光景よりも遥かに映像の映りが良い。僕の決意に呼応してか、それとも。

 とかく、再び僕の目の前には見知らぬ景色が広がる。僕がやるべき課題は二つ。まずはこの事件がいつ起きるのか、そしてどこで起きるのかだ。

 幸いにして、僕は被害者の視線をある程度操ることができるようで、周りを見渡すことはできた。ただし体は全く動かせない。いや、そもそも動かせる状況には無かった。

 視線を自身の体に向けると、そこには均整の取れた女性の美しい裸体が、縄で椅子に結び付けられていた。どちらかというと痩身の女性であるが、縄から肉がはみ出ていることから鑑みるに、かなりきつく縛られているようだった。

 ただ冷静に視線を巡らせる。整理された綺麗な部屋ではあったが、僕の診療室よりもやや小さな部屋であった。男の姿は見当たらないため、落ち着いて部屋を見渡していると、木製のラウンドテーブルの上のデジタル時計が見つかった。

 二メートルほど先にあるため、やや読み取りづらかったが、辛うじて時刻だけは確認できた。恐らく一六時二六分。

 あとは場所であるが、この位置からは窓のようなものは確認できず、位置の特定に繋がりそうな風景は見て取れない。部屋の間取りはここから確認できる限り、玄関までつながる廊下があって、この縛られた女性のいる部屋は、この家の最奥に位置するらしい。またここから視認できる唯一の部屋が、腰の高さほどの仕切り壁の向こうに見える、キッチンだけであった。恐らくではあるが、僕の真後ろに窓があるのだろう、首を精いっぱい後ろに回すと、視界の端にカーテンのようなものが映り込んだ。

 そうこうしているうちに、玄関扉が開き、見覚えのある男がゆらりと現れる。その時、一瞬、ほんの一瞬だけであったが、その男越しに見える風景に僕は見覚えがあった。

 あまりに断片的な光景ゆえか、それとも今この特異な状況ゆえか、その扉の先の景色と記憶を結びつけることができなかった。

 男はゆらりゆらりと、こちらに歩みを進め、女性の首を右手でつかんだ。呼吸が止まるほどきつい締め付けではないが、ただひたすらに苦しめるためだけの所業であった。

 喉から漏れ出るような吐息が出て、それを聞くや男はさらに悦に浸った。

「た、たすけて……」

 不思議な感覚だった。体の制御ができる時点で単なる未来視ではないのだろうと思っていたが、その上で僕が取り憑いた女性の意思が消えたわけではないらしい。だが彼女の感情と痛みはまるで自分のことのように伝わってくる。

「い~やぁ~、助けないよぉ?」

 絡みつくような独特な話し方は、僕には非常に腹立たしいだけであったが、この女性にはどうやら効果絶大なようで、波濤のような激しい恐怖に襲われる。

 恐れに震える女性と比較すると、極端なまでに冷静な僕は、彼女の視界を借りて男の容姿の確認に努めた。

 少しばかり筋肉質で、かつやや痩せ気味。髪の毛は手入れしてないのか、ぼさぼさの長髪であった。既に二度対面していたが、こうしてしっかり確かめてみると、男は驚くほど美青年であった。

「ごめんねぇ?けど僕はさぁ。こうでもしないと生きてる気がしないんだよ」

 耳元でまたねっとりと言葉を発した後、わざとらしく舌なめずりをしてみせる。その後まるで味見でもするかのように、体に舌を這わせる。首から鎖骨、乳房の間を通って、下腹部付近まで唾液の道が出来上がり、そこだけひやりとした感覚に襲われる。まるで体の中心に一本の線が通ったようだ。

「ねえ、お姉さん。一つ選ばせてあげるよ。もう楽になる?それとも僕に弄ばれる?」

 暗にそれは、死か屈辱かの二択を意味していた。どちらを選ぼうとも、それは前後が逆になるだけだと僕は知ってはいたが、どうやら女性は生にしがみつこうとしたようで

「死にたくありません……死にたくない……。お願いします、なんでも、なんでもしますからぁ」

 と命乞いをする。それに男は加虐心を刺激されたようで、まるで目の前に生肉を差し出された犬のようによだれをぼたぼたと、女性の大腿に零していた。

「いいよぉ、いいよぉ……。ああ、その顔最高だねぇ」

 太ももに落ちたそのよだれを、男はまるで調理の下準備をするかのように、丹念に塗りまわしている。女性の感情は、相変わらず恐怖に支配されていたが、どうやら死を免れることができたという安堵も少しばかり混じっていた。

「だから、もういいよ」

 だが、男の取った行動は、彼女の選択肢とは違うものであった。

 どこからか取り出したナイフを、一直線に女性の喉笛に突き立てる。ナイフは深々と首を貫き、女性は何が起きたかわからぬまま、命を手放した。

 そして、僕もまた視界が揺らぎ、夢から覚めることになった。



 

 意識が覚醒するとともに、先ほどまで把握できていなかった、あの扉の先の風景がどこであるかが判明した。確か診療所に通う男性の家が、あの近くにあったはずで、僕も一度訪れたことのある区域であった。今の時間は早朝の五時。どうやら夢と現実の時間進行はあまり一致していないようで、おそらく夢では一時間も経ってなかったはずだが、しっかりと六時間以上睡眠をとっていたようだ。

 その後、身なりを整え、僕の所有する最も強力であろう武器のスタンロッドを手に取って、診療所を後にした。時刻は未だ一二時。しかし僕にわかっているのは、あの女性が死ぬ時刻程度であり、いつ犯人があの家に侵入したかまでは推し量れない。

 車を走らせること二十分、目星をつけていた地域に到着し、そこからは徒歩で散策する。おおよそ三十分ほど練り歩き、外観から推測可能な範囲で、間取りの一致する建物を絞っていく。勿論あの犯行現場が、被害者女性の邸宅とは限らないが、あの男が殺人を起こすのは決まって被害者の住まいであった。最終的に、広い庭を備えた、水色ががった家が最も条件に合致するものであると判断し、以降、付近の身が隠せる場所で待機する。

 時間は刻々と過ぎる。一時間、二時間、息をするのさえ忘れてしまいそうな緊張感の中で、じっと身を潜める。しかし未だ犯人の姿も、この家主の姿も見当たらなかった。時刻は一六時を回る。僕が夢の中で見た光景は死ぬ直前の数分であり、その時既に彼女が捕らえられていたことを鑑みると、そろそろ犯人が家の中に潜入していてもおかしくはない。

 だが、いつまでたっても彼女の家の扉が開くことさえもなかった。一六時二六分、夢の通りであれば犯人は一度何故か外出し、その後戻ってくることになっている。予定ではあと数分で戻ってくる。

「まさかあれはただの夢だったのか……?」

 緊迫のせいか思わず口から零れた独り言。僕のそんな不安を反映させるように、空は暗雲に包まれ、たちどころにバケツをひっくり返したような大雨が降り出した。

 いや、おかしい。これはおかしい。

 なぜ、雨など降っている?

 あの日、扉の先に見えたのは見事なまでの夕焼けに染まった風景だ。一瞬であっても見紛うことはない。それもこれほどの豪雨であれば夢の中ではっきり聞こえただろうし、そもそもあの男は傘も持っていなかったのに、一滴も濡れていなかった。

 夢の内容が間違っていたのか?いやそれだけは違うと確信できる。

 あの夢は必ず起こる。理由はないが、その推論が誤りであるとどこからか反証する声がするのだ。まるでもう一人の僕が心の中にいるような、もしくは頭上から俯瞰されているような気持ちの悪さ。頭の中に響く雑音は、何を言っているかわからないほどノイズ混じりであったが、何を伝えたいのかは不思議なほどに伝わってきた。

 そしてその脳内の音が止むと同時に、夢の時に見た光景がフラッシュバックする。連続で映し出された光景は、犯人の顔、扉の先の景色、そしてテーブルの上の電子時計。

 それはまるで僕を答えに導くかのような、的確な映像の数々であった。

 事件が起きるのは今日じゃない、いや、明日や明後日ですらなかったのだ。

 時計に表示された日付は、驚くことに来週のことであった。

 

 すべきことを失い、ひとまず今日は帰路につくことにした。

 車を失意の中運転していると、再び雑音が鼓膜の内から響き渡る。鋭い頭痛の中で、再び視界が切り替わる。映し出された幻視には、今までのような誰かの視点を借りるものではなく、暗い闇の中であった。

 闇には地面も天井もなく、まるで水中に漂っているようだったが、息苦しさなどはなかった。そんな暗闇の中に、一条の光柱が深淵を切り裂くかの如く屹立していた。

 光の柱は、よく見ると幾重にも細い光の糸で紡がれており、時にはそれが解れて柱から飛び出していた。まるでそれは、聳え立つ大木が如くであった。

 光の大樹に近づき、誘われるように腕を中に突っ込む。ずぶりという飲み込まれるような感覚であったが、その一方で光の糸は全く質量を感じなかった。

 すると、光の糸が僕の腕に絡みつき、そのまま恐ろしいほどの力で中に引きずり込まれた。

 光の大樹は内部も同じように光の糸が無数に蔓延っていた。失明してしまいそうなほどの燦然たる輝きにも関わらず、視界はあまりにはっきりとその光の糸の一本一本を捉えていた。すると間もなくして、光の糸の中に一本だけ、明滅するものがあることに気付いた。今にも息絶えそうなその糸は、よく見ると膿のような塊が張り付いていた。膿は脈動して、光の糸の輝きを吸い取るように少しずつ肥大していた。

 この光の糸を救うには、この膿を取り除かなければならない気がした。だがどうやって切除するのか見当はつかない。迷った果てに、その毒々しく胎動する腫瘍を素手で剥ぎ取ることを決めた。恐る恐るその腫瘍に右手が触れた瞬間、稲妻が体を貫いた。これが膿から出ているものであることはわかるが、あまりの痛みと衝撃で、それから手を離すことができなかった。体はガクガクと痙攣をし、幾度も意識を手放しそうになる。破壊的なまでのエネルギーの奔流の中で、掠れていく思考をなんとか留めようとするが、それも限界に近かった。

「ああああああああ!!」

 自分に喝を入れるように、最後の力を振り絞って左手で光の糸を掴み、乱暴にそのまま右手で膿を引きちぎった。電流は止んだが、もはや意識を保てそうになかった。力を失った体は、まるで引力でも働いたかのように、光の大樹から引きずり出された。

 最後に視界に映ったのは、明滅する光の柱が再び息を吹き返さんとしていた姿であった。



「先生!!先生!!」

 目が覚めると、眼前には見慣れた少女の姿があった。

「シャ……シャオ?」

「先生?大丈夫ですか!?」

 手を握る幼い少女は、僕を気つけるように右手をがっしりと握っていた。紫電が焦がした右手は未だじんじんと痛んだが、そのシャオミイの温もりのおかげでいくらか楽になっていた。

「なにがあったんです?僕は……なぜ」

「先生、車で木に突っ込んでいたんですよ?覚えていませんか?」

「事故……?」

 つまりあの幻視の中で気を失ったもんだから、現実でも同じように気を失って、そのまま追突事故を起こしてしまったという事か。

「幸いに命に関わりのある重傷はしていなかったんですけど、先生あれから十日も意識を失いっぱなしで。お医者様も他に何か原因があるんじゃないかって……」

「十日……?十日!?」

 勢いよく体を跳ねあがらせ、シャオミイの肩を掴み

「今、今何日だね!?連続殺人犯は!?どうなったんだ!?」

 と彼女を揺らしながら問いただす。突然のことにシャオミイは目を見開かせていた。

「え!?えっと、どうしたんですか!?落ち着いてください先生!」

 彼女に諭されるまま、僕は彼女から手を離した。

「今日は七月二一日、先生が事故を起こしたのは十一日のことです。それと連続殺人犯ならきちんと捕まりましたよ?」

 どうしてそれを僕が気にするのかと、困惑しながら彼女は僕の問いに答えてくれた。

「捕まった……?それはいつ?」

「えっと、大体三日前くらいですよ?どうやら犯行に及ぼうとしたところを、見回りの警官が捕まえたみたいです」




 それから聞いた話によれば、この街で三人目の犠牲者はでることはなく、犯人は無事捕まったのだという。つまり今回は何故か未来が変わったのだ。

 わけがわからなかった。一体何が変わったのか、何が彼女を救ったのか。

 あの、光の大樹と紫色の膿が関係しているのだろうか?

 答えを得ることはなかったが、これが最初にして最後になることはなかった。

 その後も、僕は夢を幾度となく見て、そして同じくあの光の柱も見ることになった。

 経験的にわかったことは、あの光の柱は命ともいうべきものであり、消えかかっている光の糸は、僕が死を未来視する相手、そして腫瘍は『死』であった。

 何度もその経験を重ねることで、僕のその力は日々拡大と成長を続けていた。

 死の予測は一週間に留まることはなく、何か月も先のこともあった。

 最初はこの街しか見れなかったが、いつの間にか国外にさえ力が及び始めた。

 また人の死から救う方法は、腫瘍を引きちぎる以外にも、どうすれば救えるのかということも何となく脳裏に浮かぶようになった。ルーシェさんも発作を起こしてそのまま亡くなるという最期であったが、シャオミイに持たせた薬が彼女の命を助けることになる。またそうした直接的なやり方以外にも、例えば死ぬ予定の人間へ他愛のないメールを送ったり、僕が午後に飲むのをお茶からコーヒーに変えたりと、救う方法とは何ら関係の無さそうなことでも、運命を変えることができた。理屈はよくわからないが、僕のちょっとした行動の変化が、未来の結果に影響を及ぼすこともあるらしい。

 この救い方はやや救う手順が煩雑になりがちだが、腫瘍を強引に引きはがすのは僕にかなり負担のかかることで、慣れた今でも一日寝込むことも珍しくなかった。しかし地理や時間の関係でどうしようもないときは、この方法をとらざるを得なかったが。

 僕は腫瘍を直接取り除く方法を、光る大樹への施術ということで、『セフィロト・プラクティス』、そして後者の方法を『バタフライ・エフェクト』と呼称することにした。普段は『バタフライ・エフェクト』を用いて極力最低限の労力で人々を救い、それができない状況であれば、『セフィロト・プラクティス』を用いた。また一日に経験する死の数も、一度のみならず、複数回見るのが普通になり、時には一時間に一回のペースという高頻度なこともあった。

 普段は町医者をしながらこの街の人々のために働き、そして同時に世界中の人々の死を回避させていた。ある意味僕の理想である、一人でも多くの人を救うという夢は、歪な形で叶い始めていた。しかしある日見た夢が、そんな僕の日常を変えた。

 それはこの街の人々が僕を除いて全員惨殺される夢。どうやら僕のことを探し求める組織がいるらしい。その夢の中で、僕がメレトネテルと呼称される存在であること、アラドカルガの実態、そして僕を探し、街の人々を殺したのがイルルヤンカシュという組織であることを理解できた。これほど詳細な情報を得ることをできたのは、夢の中ではあまりに死ぬ人間が多いせいか、いつも以上に情報量も潤沢であり、また死者の中にはイルルヤンカシュやアラドカルガの一員と思われる人々も多数含まれていたためだ。

 死者は総勢にして二千人余り。イルルヤンカシュがそれほどの虐殺を決行するのはひとえに僕を見つけるためである。この街の人々を何人も拉致しては拷問、そして処理を繰り返して、途中彼らと敵対するアラドカルガが、イルルヤンカシュの基地に乗り込んできて戦いになる、というのが複数の夢を統合して得られたストーリーである。

 この未来は三七八日後に起きる。しかし死の量の多さのために、『セフィロト・プラクティス』ではどうすることもできず、この死を回避させるには『バタフライ・エフェクト』しか事実上使うことはできなかった。

 迷っている余地はなかった。だが『バタフライ・エフェクト』を行うための日時は今から三四三日後であり、僕はその間に色々と準備をすることにした。

 ある程度力を制御できるようになった僕は、自由に死を見ることが可能になり、また日時に関してもある程度僕の裁量次第であった。

 見るべき未来は今から一年後、つまりあの虐殺の先にある死の運命。一日に見ることのできる死の量はおおよそ十五。それから僕は毎日未来の死を予知しては、その『バタフライ・エフェクト』と一緒にノートに綴っていった。

 総数にして五千以上の死が記録されたこのノートには、僕の能力と人生に関する説明と、このノートを託す相手への言葉と、僕の預金通帳を添えておいた。

 このノートを受け取ったものには二つの道を用意した。

 一つは僕の財産を受け取り、自由に暮らすということ。もしノートの中に受け取った人や、その人の知人の死が載ってあるなら、それを使って死を回避するのもいいだろう。

 二つ目は僕と同じ生き方をするということ。『バタフライ・エフェクト』の内容は、全て僕が行う必要のないものであり、また比較的容易なものも多いが、それでもかなりの負担を強いるものだ。実行に移すには場合によっては世界を飛び回る必要さえでてくる。死は意図的に一日一回に限定したため、もしこのノートに書かれた全ての人を救おうと思うなら、十年以上の歳月を要することになる。僕の財産では、それ全てを叶えるのも難しいかもしれないが、心ばかりの感謝と報酬として受け取ってほしい。

 つまりこのノートは幸運をもたらす遺産でも、重荷を押しつける呪いでもある。どちらを選ぶかはこれを受け取った人の判断に委ねたいと思う。まあ恐らく後者が選ばれる可能性は皆無であろうが。いや、そもそもこんな荒唐無稽な話を信ずる者もいまい。

 約束の時はきた。僕はノートをある秘密の場所へと秘し、それの手掛かりとなる手紙を、地下の金庫へしまった。

 診療所のベッドの上で、僕はお茶を飲んでいた。それも今までの人生で最も丹念に味わいながら。

 さあ、最後の仕事に移ろう。

 これで何千人もの人が救われるのだ。何も後悔はない。僕と共に過ごした多くの人々、皆良い人ばかりだった。

 何より、僕の太陽であり、そして花であったあの少女。

 僕がシャオミイと呼ぶ可憐な姫君。

 彼女の未来を僕が守れたのだ。これほど嬉しいことはない。

 お茶を飲み終え、食器を律義に片づけてから、再びベッドの上に座り込んだ。

 そして、ゆっくりと、床に蒔いた油に火をつけた。

 燃え盛る炎の中で、僕はあのノートを受け取るのが、シャオミイなら良いのにと願ってしまった。彼女ならあのノートを悪用はしまいと。そんな呪いにも祝福にも似たことを祈ってしまった。




「とまあ、そのノートは行方知れず。男は燃え盛る家の中から死体で発見されました。おしまい」

 長話に枯れた口を潤すために、コーヒーをぐい飲みするミレット。やりきった表情の彼女とは対照的に、酒場の店主のリアムの顔はどこか複雑なものだった。

「あれ、面白くなかった?とっておきだったんだけどなー」

 とそんな彼の顔に気付いて、声をかけるミレット。

「いや、面白いには面白かったんだが……。なんていうか、ちょっと今までの話と毛色が違うっていうか……」

「作り話っぽかった?」

 口に出すのに憚られていた本音を、ミレットに見事に言い当てられたじろぐリアム。

「いやあ、そうなんだよ。よく出来過ぎてるというか、ちょっと俯瞰的すぎるというか」

「むぅ、じゃあこの話のお代はいらないよ。私も結構お腹いっぱいだし」

 腕時計を一度確認してから、立ち上がってコートを羽織るミレット。

「おや、いくのかい?今日は楽しませてもらったぜ。ああ、待ちな」

 何かを思い出したかのように、店を出ようとするミレットを呼び止めるリアム。彼はカウンターから出て、何かが入った紙袋を手渡した。

「これは?」

「ああ、そりゃさっき揚げてたポテトフライの残りだよ。冷めちまってるが、味は保証する。一緒に入れてるスイートチリソースに付ければ、体も温まるからな」

 紙袋の外からも匂ってくるものは、満腹な今でさえも食欲を刺激する。

 改めてリアムの方を向き直り、深々と礼をするミレット。そのまま手を振って彼女は店を後にした。

「げ、五時間も話してたのか。さっさと店じまいするつもりだったのに」

 そうぼやきながら、彼女の使っていた食器類を洗っていると、再び店の扉が開け放たれた。

「ん?あー、今日は店じまい……」

 顔を上げ、新たな来客の方に顔を向けるリアム。

 その瞬間、銃声が冬の静謐に鳴り響いた。




「ねえ、聞きました?あのパブの店主さんが襲われたって話」

 街角で、噂好きで有名な二人の主婦によって開かれていた井戸端会議の内容は、いつもの他愛のない世間話から、やや物騒な事件へと移行していった。

「え!?そうなの?」

「そ、あの店主さん、前々から結構危ない人たちと仲良かったじゃない?それであの人と関係のあるマフィアと敵対している組織から、一人になったところを襲撃されたんですって」

 周りをきょろきょろと見渡しながら、耳打ちするように、小声で囁く主婦A。

「で、あの人無事なの?」

「そ。それが奇跡的なことにね。どうやら銃弾が一発だけ掠めただけなんだって」

「え?でもそのマフィアの目的はその店主さんなんでしょ?」

 それに返すように右手を添えて同じくひそひそと話す主婦B。

「それが懇意にしていたマフィアの人が、襲撃の計画を聞いて、急いで駆けつけたんですって!」

「間に合ったんだ!!そう考えると、そういう友だちも悪くないのかな?あ、いや、そういう人と付き合ってるから襲われたのか?」

 本人がいないのをいいことに好き勝手に言い続ける主婦二人。

「けど、他人事とはいえ、あと五分でもその友人が遅かったらと思うと、ゾッとするわね」


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