プロテノール 第二節
その後、一時間以上にわたって二人で話し込んだ。
ミレットの目の前にはハンバーガーだけでなく、コーヒーや、サラダ、サーモンのソテーなど、計六種類の料理が並んでいた。これらは全て、彼女の体験談に対する報酬である。これだけ聞いてもなお、まだ彼女の体験談のストックは尽きないらしい。
「いやはや、どれも中々面白かったよ。特に『空飛ぶオヤジ』!!これは今度俺も使わせてもらうわ。いやー笑わせてもらったよ」
「そう?そんなに気に入ってくれたのなら光栄だわ」
もぐもぐとお手製のジャーマンポテトを頬張るミレット。このジャーマンポテトは酒飲み用に出すもので、やや塩分高めな味付けなのだが、彼女はたいそうこれを気に入ったようで、これはもう二皿目になる。どうやら結構な大食漢のようだ。
「そろそろ、最後にしようかな。私も結構お腹が膨れてきたし」
口ではそう言いつつも、手はずっと食べ物を口に運び続けている。しかし彼女は時折時計を確認しており、どうやら別れの時が近いのは確かなようだ。
「惜しいねぇ。他にもいろいろ話を聞きたかったが」
「それは仕方ないよ。私は一つ所に留まらないって決めてるもの。あ、でも話を聞きたいっていうなら、連絡先交換すればいいんじゃない?それなら私が今知ってる話以外にも、新しく仕入れたものもすぐ教えられるじゃない?」
彼女の提案を快く引き受け、連絡先を交換する。思えば俺の連絡先に素人さんが加わるのは随分久しぶりであった。何せ最近はあまり世間様に公言できないような仕事をしている奴とばかり関わっていた。
「さて、じゃあ最後の話ね」
もうすでに皿の上にあった食べ物を、ミレットは胃の中にしまいこんでいた。口周りを紙ナプキンで拭きながら、再び語り始める。俺ももうすでに調理を一通り終えていたので、先ほどまでのように調理しながら耳を傾けるのではなく、ぐいとカウンターに身を乗り出して、集中して聞く体勢を取る。
「最後は、『死を予言する男』の話」
今まで通りの奇抜で興味を惹くタイトルであるが、彼女の話し方には変化が見られた。これまでが異聞伝聞を飄々と語る漫談だとすれば、今の彼女はまるで証言台の上で朗々と言葉を紡ぐ被告人とでも形容できる様であった。
「リーせんせー!!お薬貰いに来ましたー!!」
よく通る澄んだ声が、僕の小さな診療室に木霊する。間違えようもない、二週間に一度、決まって早朝にやってきては、祖母の常備薬を買いに来る少女の声。朝の弱い僕からすれば、あまり有難い来客ではないが、今となっては彼女の来訪こそが自身の活力とさえなっていた。
「やぁシャオミイ。今日も元気だね」
「はい!いつも元気です!!」
この医者いらずな元気を迸らせる少女を僕はシャオミイと呼んでいる。僕は中国系ではあるが、彼女は決してそうではない。生粋の、という言葉は相応しくないとは重々承知してはいるが、間違いなく西欧人の出で立ちをした彼女に、似合わないあだ名を与えた理由は、他でもない彼女の要望であった。
数年前から僕によく懐いていた彼女は、いつしか僕に、中国語の名を付けてほしいと頼み込んできたことがあった。最初は抵抗こそしたが、熱意に押され結局つけるはめになった。とはいえご両親から貰った美しい名を、僕の勝手で変えてしまうのは忍びない。なのでシャオミイというのは、最低限、彼女の本来の名を尊重したものでもある。
「いつもの薬だね。ちょっと待ちたまえ」
診療室の回転椅子でクルクルと回るシャオミイ。単に薬を渡して終わるだけのはずなのだが、いつの間にか診療所内に潜り込んでいたようだ。
「全く、君は僕にお茶をださせないと気が済まないのかね?」
「でへへ、まあいいじゃないですかぁ」
悪態をつきながらも、すでに急須にお茶を淹れてしまっている自分が悲しい。批判しておきながら、僕も既に習慣化してしまっている。
「ねえねえ先生、今日のお菓子はなんですか~?」
「何故君は僕が必ずお茶請けを出すと決め込んでいるのかね?」
実のところ、彼女の来訪も、無断で診療室への侵入も、茶菓子の要求も全てお見通しだった。というより、それが数少ない僕の楽しみでさえあった。
「そう言いながら、ちゃんと用意してる先生が、私は大好きだよ」
世辞とわかっていても、思わず顔が紅潮してしまいそうな甘い声。
「全く大人を……」
からかうのはいい加減にしろ、そんなありきたりな取り繕いをしようとしたその時だった。脳裏にチラつく死神の姿と、悪魔の囁き。世界の裏側に入り込むような、深淵を覗き込むような感覚。もはや慣れたものではあるが、未だに圧倒される爆発的な映像の濁流。
「先生?大丈夫?」
私を幻想から引き戻したのはシャオミイの声。気付くと手に持っていた茶碗は、地に落ち無残な姿となり果てていた。
「ああ、まったく。こんな時に」
小さなちり取りと、箒を使って陶器の破片を回収する。シャオミイは心配そうに手伝おうとしてくれたが、怪我すると危ないからとベッドに座らせておいた。
「先生、どうしたの?なんだかすごい蒼い顔してたよ?」
足をぶらつかせながら、こちらを伺うシャオミイ。元気と笑顔が特徴ともいえる彼女に、こういう顔をさせるのは良い気がしなかった。
「シャオ、どうやら今日は気分が優れないようだ。すまないが今回は帰ってくれるかい?」
「う、うん。お大事にね、先生」
素直に診療室を後にするシャオミイ。だが、僕はあること気付き、急いで彼女に駆け寄った。
「シャオ!すまない!頼み事をしていいかな?」
「えっ、あの、いい、ですけど」
いきなり手を握って引き留めたせいか、彼女は少し困惑の表情を見せていた。
「実はだね、ルーシェさんのお宅に、届けてほしい薬があるんだ」
「ルーシェさん?彼女何か病気なんですか?」
思わず言い訳が思いつかず、口が止まる。しかしシャオミイは何かを察したように、こちらに少し微笑んでから、
「ええ、わかりました。先生も医者の不養生にならないように、気を付けてくださいね!」
と、まるで僕を元気づけるかのように、明るく振舞うシャオミイ。
またね、とニコリと微笑んでから、彼女は今度こそ診療所を後にした。
「ふう、これでルーシェさんは死なずにすむ」
ほっと一息をついて、ベッドに倒れ込む。
僕は、デザインドだ。いや、こう言った方が正確であろう。
僕は、メレトネテルだ。
中国系の母と、白人の父は子を身に宿すのではなく、デザインドを選んだ。
流行の、ひたすらに美男美女の子にはせず、二人の遺伝子から生まれるであろう子供の姿をもって生まれるように選択した。おかげさまで普通に生きている分には、誰も僕のことをデザインドであるとは気づくことはなかった。
僕はその後、努力の末、医療の道を選ぶことになった。自分で言うのも気恥ずかしいが、それなりに優秀だったこともあり、誰もが一度は聞いたことのあるだろう、大きな病院に勤務することができた。知人にも恵まれ、僕は何不自由ない充足した生活を送っていた。
だがある時、誰が流したかは知らないが、なぜか僕がデザインドであることが、病院内で知れ渡っていた。
すると、先日まで仲良くしていたはずの友人たちが、誰一人として僕に近づこうとしなかった。病院は良くも悪くも、実力社会だった。皆、僕の腕を見込んで近づいてきたわけだが、デザインドであるとわかった途端、僕の実力も才能も全て努力の結実などではなく、単に作られたものと考えるようになった。
実際のところ、デザインドには容姿や体格、運動神経を規定することはできても、性格や知能に関してはそれほど正確に設定することはできない。そんなもの医療に従事している彼等にも重々承知の上だろう。だがデザインドへの差別意識と、以前から抱かれていた劣等感が綯い交ぜとなり、彼らは合理的思考を奪われていた。
すぐさま僕の居場所は奪われた。もはや切磋琢磨することの心地よさや、共に協力しあう達成感などを得ることは叶わず、僕が仕事を辞めるのも時間の問題であった。
その後都市を離れて、この地で小さな診療所を開くことにしたのだ。以前と同じ、というわけにはいかないが、シャオミイなどとの出会いもあって、また新たな人生を得られた気がした。
だが、その平穏も束の間であった。ある日、夢を見た。
それは人が死ぬ夢。いや、自分が死ぬ夢と言う方が正確であろうか。
しかしやけにリアルな夢で、目の前には見知らぬ男がいて、その男が一直線に僕の腹を突き刺したのだ。自身の腹から生えたナイフを見て、目が覚めた。
だが夢の中には違和感があった。
一つは風景。男の背後に見えていた景色は、僕の記憶にはとんと見覚えのないモノであった。
そして二つ目は、夢の最期、自身に突き立てられたナイフを見た際に気付いたこと。僕の胸には、本来男にはあるはずのない豊満な双丘が胸の上に乗っていたのだ。
その時は夢の真意など気付くはずもなかった。やけにリアルな死の映像ではあったが、それも医師生活の中で生々しい死と向き合ってきたからだと、自身に納得のいく結論をだすだけであった。
しかし、その日、僕の住んでいた街で殺人事件が起きた。警察に任せるべき案件ではあると思っていたが、少しでも手伝えることはないかと、現場に足を踏み入れることを許可してくれた。
そしてその現場を見るなり、僕は目を疑った。
艶やかに輝く金の髪、見目麗しい目鼻立ち、痩せすぎでもなく、太っているでもないほどよく肉付きの良い肢体、思わず目を惹かれるゆたかな乳房。そんな美しい姿をした三十代前半の女性は、衣服を乱して、血の海の中横たわっていた。そして、その曝け出された腹部には、深々と鋭利なナイフが突き刺さっていた。
僕が夢で一体化した女性の状況とそっくりだった。いやそれだけではない。びりびりに破かれてはいるが、衣服の柄や、部屋の模様など、全て僕が見た景色と一致していた。
現場検証と、司法解剖の結果、彼女はナイフで一突きされたのち、失血で徐々に死へと向かう間、男に蹂躙しつくされていたことが判明した。
こんな遺体を見るのは別に初めてではない。だが夢の中で彼女の視点と思考を一時でも体感してしまったせいか、彼女が味わったであろう地獄を想像せずにはいられなかった。
その時は、僕の夢は単なる偶然であると思い込もうとしていた。こんなこともあるのだろうと、怯える自分に言い聞かせた。しかしどこかで、また夢を見てしまうのではないかと、それから一週間は寝ることさえ恐ろしかった。
その後、彼女を襲った犯人が、最近都市の方で噂になっていた凶悪犯であることが判明し、本格的に調査と監視体制が置かれることになった。
あれから夢を見ることはなく、じきに犯人も捕まるであろうという、ちょっとした安堵の中、いつも以上に安心して目をつぶることができた夜、再び僕は死の瞬間を目撃することになった。
死神と悪魔が同時に微笑みかけてくるような悪寒の後、まるで古びたビデオデッキで再生したかのような、ザッピング交じりに視界が徐々に切り替わる。
目の前には以前見た男の顔。耳には下品に笑う男の声と、すすり泣く女性の声が届く。
以前の夢の続きともとれるような幻視であったが、よく見ると僕が取り憑いている女性は、以前の被害者とは異なるようであった。何より腹部にあるはずのナイフが無かった。
男は僕、正確には僕が見ている本来の視界の持ち主であるが、その首を絞めながら、徹底的に汚しつくした。
覚めるなら、早く覚めてほしい夢であった。酸素不足の為か、時折視界が掠れそうになるが、完全に気を失うことは許されず、前回のように地獄は一瞬で終わることは無かった。
抵抗しようともがくが、男の筋力に、その女性の細腕が敵う訳もなかった。視界を共有しているうちに、まるで僕が彼女になったかのような錯覚さえ覚えそうになった。
長らく悪夢は続いたが、男は満足したのか、女性から一度離れた。蹂躙の中で振るわれ続けた暴力は、爪でつねるようなものもあれば、骨を砕くような重症も含まれており、女性は立つことさえままならなかった。
逃げようにも折れて動かぬ足、立ち上がろうにもそれを支えるための腕には力が入らなかった。最初は視界と聴覚を共有するだけであったが、徐々に痛覚や感情などもわかるようになった。
本当はわかりたくなかった。彼女が味わった暴虐から生じた痛みと悲しみは、当事者ではない僕の心にさえも、深く抉るような爪痕を残すことになった。
そしてその悪夢の終幕は不意に訪れた。よくは判断がつかなかったが、恐らくその男はハンマーのような鈍器を用いて、彼女の頭蓋を破壊したのだ。
そして夢の通りに、現実でも地獄が再演された。
街に再び悪魔が現れた。
警察から聞かされた事件の情報は、僕の夢のシナリオ通りであった。