カスアリウス 第四節
「死亡推定時刻はおよそ四、五時間前、午前十時ごろ、か」
私は決して検視官ではないが、検視の知識を用いる程度なら造作もない。
「十時って……私が出かけたすぐ後じゃない……」
ジョアン夫人は少し落ち着いたとはいえ、未だ恐怖と悲愴に身を震えさせている。無理もない。娘が殺人未遂と失踪、執事が他殺、それに加え息子が拉致被害とは。
この家にはいわゆる犯行声明のようなものはなかった。つまりアレンをさらった理由は未だ判然としないが、恐らく考えられる理由としては二つ。第一にアレンをメレトネテルと勘違いしているということ。イルルヤンカシュの狙いはメレトネテル、つまりアレンとエミーの立場を勘違いしていた場合、彼らは既に目的を達成したと思い込んでいることになる。それならば犯行声明は必要とならない。
第二の理由としては、彼らは既に犯行声明と要求を伝えているということ。つまり彼らはエミーとは接触済みで、彼女に対して弟のアレンを脅迫材料にしている可能性だ。私としてはこちらの可能性が強いと踏んでいる。いくら我々が徹底的に情報統制を布いているとはいえ、奴らイルルヤンカシュは我々ほどとは言わずとも、非常に優秀な組織だ。そのような初歩的な人間違いを犯すわけがない。
あれこれと思索にふけっていると、扉が開く音が聞こえ、そちらの方を振り返ると大男が立っていた。
「リュー、それにご婦人。執事の件は残念でした」
モートレントは静かな声色で、私を一瞥し、そしてその後ジョアンに一礼をする。
「モートレント、何か分かったことは?」
「ああ、いくつか。だけどここで話すのはよそう。それと、先に執事を静かに眠らせてやろう。会所には声をかけたんだろ?彼らに任せよう」
その後、アラドカルガの下位組織の者が、専門の病棟に執事の亡骸を収容し、屋敷の床などを清掃、調査を進めてくれた。
私とモートレントは屋敷とジョアンを後に、会所で話をしようかと思ったが、ジョアンは私にも関係のあることだからと、私たちの会話に参加することになった。
「それでエミーについてだが、居場所の手掛かりは掴めなかったが、ここ最近の彼女の動向については詳しくわかったことがある」
ジョアン、モートレントと私は、ブラック家の談話室にいた。また一連の事務の間に、彼女から話を聞いて駆けつけてきた父のダッドリーも参加する形になっていた。
「お二人は存じ上げていたかもしれませんが、彼女はここ数か月、マフィア相手に喧嘩を吹っかけていたみたいです」
「なんですって?」
ダッドリーとジョアンの様子を見ると初耳だったらしい。
「つまり、先日の一件が最初ではないのか?」
こくりと頷くモートレント。
「俺が聞きまわったのは、この地域で悪をしていた若い衆なんだが、リトルポンドとお近づきだった男たちの中には、この街で薬を売りさばいていたマフィアが多く含まれていたらしい。かなり活発に商売してたみたいだが、最近は『顔を隠した足の速い奴が、売りを邪魔しに来る』とかなんとかで、かなり捗らなかったらしい」
「それじゃあまるで……」
コミックのヒーローじゃないか、そう言いかけたところで私の脳内に突然通知音が鳴り響く。
「リュー、どうした?」
「エミーを見つけた。場所はスカンソープの辺り」
私の言葉に、両親の二人は驚きの中に喜びと不安を入り混じらせて、互いを見つめ合っている。モートレントはこちらを見つめ、情報の続きを無言で催促している。
「たまたま、ある携帯電話の会話の中に、『エミー・ブラック』という声が入っていた。電話の持ち主の会話と、街の雑踏でかなり聞き取りづらいので発声主まで特定は難しい。が、その後に『アラドカルガ』という単語もなんとか聞き取れるから、恐らく十中八九間違いなくエミーだろう」
「で、その会話の時刻は?」
「五八秒前、恐らく今からなら彼女がどこか遠くに行く前にたどり着ける」
腰を上げ、コートを手に取ると、モートレントが私の肩を掴んできた。
「待て、俺も行く。アラドカルガとエミーを結び付けているってことは……」
「ああ、イルルヤンカシュが絡んでいるのも間違いない。けどモートレントはこのままここに残って弟のアレンを探してほしい」
その言葉に一瞬戸惑いを見せるも、彼はすぐに表情を切り替え、私を掴んでいた大腕を離す。
「そっちは任せろ。お前もくれぐれも気を付けろよ」
「ああ」
両親の二人に一礼し、ブラック邸を後にする。その後会所に連絡をいれ、大型の二輪車を借りる。スカンソープは個々から二百キロほど離れてはいるが、全速力なら一時間もかからない距離だ。間違いなく法定速度を超過することになるが、そこら辺は私の機能を駆使すれば、何ら問題はないだろう。
実際に一時間足らずで目的地まで到着した。あとはここから再びエミーを探し出すことになるが……。
「駄目だ、また消息が絶たれた」
再び手掛かりが消え、彼女の居場所がつかめなくなる。考えてみれば一時間も同じ場所に留まっているわけがない。だが手掛かりが消えたということは、反対に言えば彼女が大きく行動していないということでもある。ということはそれほどまだ遠くまでは行っていないはず。とりあえずここは古典的な捜査方法を実践しよう。
現場百回というヤツだ。
この街を数十分徘徊したが、しかしエミーを見つけることはできなかった。とはいえ無為に終わったわけでもなく、手掛かりをいくつか見つけることはできた。教会の近くに住んでいた老夫婦の話と、そこから少し離れたところにあったレストランの店主の話だ。彼らの出会ったという少女は、間違いなくエミー・ブラックの特徴と一致していた。
そしてレストランの店主からは興味深い話が聞けた。
「ああ、そうそう。彼女は食事の後、数分後にもう一回戻ってきてね」
恰幅の良い店主から渡されたのは四つ折りされた紙。
「これは……?」
「さあてね、俺にもさっぱりだ。『私を探してる人間に渡してくれ』だとさ」
紙を開くと、そこに書かれていたのは意味不明な記号列。すぐさまどこかの言語ではないかと調べてみるが、ヒットしない。創作文字か?何らかの暗号文か?
「ありがとう。とりあえず少し探してみるよ」
店主に別れを告げ、その紙片とにらみ合いをする。しかしどうにも引っかからないので、助けとばかりに彼女のご両親に連絡をとる。インターネット上にも同様の文字が引っかからないところを見ると、恐らく家族内での何らかの暗号文である可能性が高いからだ。
通話に出たのは彼女の父親であるダッドリー。彼に早速先の文字列を見せてみると、すぐに返答が返ってきた。
『これは楔形文字だ。シュメール語だよ』
『シュメール語?しかし……』
勿論私の検索の中には現在使用されていない言語も含まれていたはずで、確かに楔形文字とも対照を行った筈であった。
『ああ、これは私が研究用に使っていた、独自の簡略文字だよ。楔形をいちいち転写するのは少し面倒だからね。エミーにも小さい頃、アルファベットと対応する26文字を教えたことがある』
『つまり、この文字を読めるのは』
『ああ、世界で私とエミ―の二人だけだ。どれ読んでみようか』
解読の結果、この文書に書いていたのは”normanby hall”という言葉。
検索にかけてみるとこの街の大きな公園の中央に位置する、ギリシア復興様式の建築物のことであった。
公園に入り、その建物に近づこうとした時、私は突然、強力な力に引っ張られ、人目につかない人工林の中に連れていかれた。抵抗することもできないほどの速さであり、私はそのままの速度で木に叩きつけられた。
「痛ッ!なんだよ、手荒だな」
「悪いね。アンタ、アラドカルガだね」
目の前に立っていたのはフードを深くかぶった若い女性。状況から目の前の人間がエミーであることはすぐに分かった。
「ああ、そうだ。悪いが手短に話を伝えたい」
「アレン、でしょ」
やはり彼女とイルルヤンカシュは既に接触していた様子であった。その後そのままエミーと現状の把握のために論を交わす。私から彼女に伝えたのは、イルルヤンカシュという組織のこと、アレンが誘拐されたかと、そして執事が亡くなったこと。彼女はアレンに関しては予想していたみたいだが、執事の死は予想外であったみたいで、かなり辛そうな表情を抱えていた。が、すぐさま切り替え、彼女が握っている情報をこちらに渡してくれた。
「明日の正午にサーソーか。十中八九罠だな」
「うん、私もそう思うよ。けど行かないと」
彼女が暗号文を用いてまで、ここに呼び出したのは、カメラや人目につかない場所でアラドカルガと接触したかったからだそうだ。その判断は正しい。彼らが私たちとエミーに接点があることに気付いた場合、何が起きるかわからない。
しかし情報統制に関しては、イルルヤンカシュが絡んでいると判明した時から、更に厳重にしているものの、奴らのことだから、この国にアラドカルガが二人いることは気付いているだろう。接触に関しても想定内かもしれない。
「なんであれ、まずはアレンの発見が先だ。そうすれば交渉材料を一方的に潰すことができる」
「じゃあ、そっちは任せたよ。私はサーソーに……」
「待て」
ぐいとエミーの肩を掴み、今にも駆け出しそうだった彼女を引き留める。
「君は明日、私と一緒にサーソーへ行く。そして今日はご両親に君の無事を見せてくるんだ」
「けど……」
彼女の瞳には苦艱が滲んでいた。それでいて先ほどまでの彼女の表情を曇天と形容するなら、今はそこに一筋の光明が差し込んだようなものへと変わっていた。
「良いんだ。これは君の為じゃない。ご両親の為だ」
人の機微などには疎いと思っていた私だったが、今かけるべき言葉だけは理解できた。
その後、私とエミーはブラック邸に車で帰還する。近辺にイルルヤンカシュや警察などがいないのをしっかり確認してから、家に入った。
ジョアンはエミーを見るなり、走り出して力いっぱい抱きしめる。一瞬戸惑ったエミーもまた、それに答えるよう、ジョアンの小さな背中を抱き返した。ダッドリーは二人を柔らかく抱きしめていた。
その日は私とモートレント、ブラック家の五人で明日の予定について話し合った。まずやるべきことはアレンが拘留されている場所を見つけること。これに関しては出来れば明日の正午までには達成しておきたい。そして仮に発見できなかった場合は、私とエミーが明日の朝、アラドカルガ専用機を飛ばして、サーソーへと向かい、モートレントにはアレンの捜索を継続してもらう。御両親は、エミーを敵の懐に飛び込ませるような真似は極力避けたいところだろうが、エミーのたっての願いもあり、しぶしぶ了承することになった。
作戦は明日。エミーには今晩は静養してもらい、アレンの操作は私とモートレントが二人がかりで行うことにした。勿論明日の作戦に関してはミカエラに相談はした。高位階の爺様方は、メレトネテルを安易に危険にさらしかねない状況と、アラドカルガを失いかねない事態には難色を示していたらしいが、イルルヤンカシュの征伐も我々の仕事の一つであり、特に今回は彼奴等の討伐が、間接的にエミーの保護にも繋がることから、案外すんなりと作戦は了承された。
あとは弟のアレンを見つける、それだけであったのだが。
「あ~……」
「……しんど」
もう春とはいえ、まだ冬の残滓が感じられようかという季節にも関わらず、我々の体からは陽炎を伴って湯気を立ち上らせていた。
一晩かけて調査を掛けたものの、未だ手掛かりは見つからず、そして既に東からは陽光が差し込もうとしていた。
「リュー、後は俺に任せろ……。お前はエミーを起こして、北に行く準備をしとけ」
「ああ、すまん……」
残りのことは任せ、私は今日の準備に取り掛かった。
「あ~、いい匂い。フレディさん、今日は朝から豪華で……」
二階から目をこすりながらダイニングに現れたエミー。しかし刺激された嗅覚とは異なって未だぼやけているその視界のせいか、彼女は料理を用意している私の姿に、かつての執事と重ね合わせていた。
「すまないね。君を元気づけようと張り切ったのだが、余計な世話になってしまったか」
きっと幸せないつもの日常を夢想していたのだろう。しかし彼女のそんな一瞬の幻想は、私という存在を認識によって泡と消えた。それは彼女の心拍数などから心情を推察するまでもなく、頬を濡らす一条の光がそれを明瞭に物語っていた。
「ううん、いいの。ありがとう。しっかり食べて、今日に備えないとね」
彼女は再び目をこすった。それは、纏わりつく睡魔を拭い去るためではなく、視界を滲ませていたモノを振り払うためであった。
食事を済ませた我々は、寝付けなかったという両親に挨拶を済ませ、空港へと向かう。空港ではすでにアラドカルガの下位組織の会員たちが待機しており、アラドカルガ専用機の搭乗口まで案内された。その過程の中で、偽装としてエミーには通常の旅客機への航空券も購入させておいた。彼らイルルヤンカシュの目を完璧に欺けるなどとは皆目思ってはいないが、少しの間だけ彼らを眩ませられれば良かった。
エミーと共にアラドカルガの旅客機に乗り込むと、数分後に離陸を開始する。そして航空機はこのまま真っすぐと北に飛ぶのではなく、一度南へと飛ばした。その後数分滑空してから、デコイの無人小型ドローンを飛ばし、まるで我々の飛行機が、そのまま真っすぐ南へ向かっているように偽装をした。肝心の我々の機体は、その後ステルスモードへ移行後、再び迂回して目的地に向かう。本来であれば八百キロ程度の道程であったが、一度迂回したことで千キロを超えるものになっていた。しかし浪費した時間は二時間程度であり、約束の時間にはお釣りがくるほどの余裕を持つことはできた。
その後、エミーと私は再び別行動をとる。とはいえ私はエミーの衣服に取り付けた機材によって、常に位置と身体状態を管理できるようにはしていた。現在十時、私はカメラなどに思わず自身の姿が映ったりせぬように、慎重を期しながら、この寒々とした街を見通せる場所を探す。そうしているとモートレントからの通信が届く。
「ようリュー。アレンの攫われたであろう場所を突き止めたぞ」
「本当か?場所は?」
モートレントは軽くため息をつき、その地名を告げた。
「ランズエンド。最悪だな。この国最西端かつ、ほぼ最南端。最北であるサーソーとは真逆だよ」
「そうか。わかった。モートレント、貴方はそのままランズエンドに向かい、アレンを救出してもらう。手順等は貴方に一任する。ちなみに今から移動するとすれば何時間ほどかかる?」
「二時間、ってとこだな。距離にして四百キロ。バイクを思いっきりすっ飛ばせば、救出も込みでそれくらいだろう」
正直彼のその言葉にはかなり驚かされた。平均にして二百キロ飛ばしたところで移動だけで二時間かかってしまうのに、彼はあろうことか救出するための時間まで含めてその答えを出した。決して驕りも慢心も含まれてはいないだろう。実際に彼は確信をもって、自身であればその救出に数分も要さないと踏んでいるのだ。
「わかった。それでよろしく頼む。もしアレンを救出出来たらこちらに連絡を」
通話を切った後、エミーにもこれを伝える。しかし特に作戦を変更はせず、そのまま彼女には囮捜査の要領で、彼らの言いなりになってもらうことにした。危険な賭けのようにも見えるが、メレトネテルを神聖視している彼らが、彼女を傷つけることはまずありえない。
時計の針が二本とも真上を指し示す。先ほどまでは沈黙を貫いていたはずのエミーの周辺には奇妙な変化が表れ始めていた。エミーのふらついていた街路付近に、二台の黒い大型車両が停車し、そこから数人の黒服の男たちが降りてきた。彼らは真っすぐとエミーの方へ向かい、
「エミー・ブラックだな」
と、短い確認を取ったのちに、彼女に車に乗るよう促した。エミーもそれに従い、その車両の荷台部分へと乗る。私はその二台の車両を追う。その行く先は海沿いの短く生えそろった芝生の上に建てられたかなり大きな建造物だった。小さな石碑を背に聳え立っているそれは、この街の穏やかな風景とは不釣り合いな鉄の塊であった。
私はその建物が見えるように、少し遠方の海岸の近くにある廃屋の中から様子をうかがう。どうやらエミーはその建物の中に入っていったらしい。あとはモートレントからの連絡を待つのみだ。
彼らに連れられ、私は立方体の建物の中に足を踏み入れる。その建物は外見と同じくらいに簡素な造りになっており、入り口からすぐそこにやや開けた空間が現れた。そこは二階と一階が吹き抜け構造になっており、ちょうど左右と背後には、二階部分にキャットウォークが作られていて、正面には仰々しい大きな階段が備えられていた。
「いやはや、貴方がエミー・ブラックですねぇ。お初にお目にかかりますが、なかなかどうして。思っていた以上にお美しいお姿をしておられる」
その階段の上には、更に奥へつながる通路が見えるが、そこから一人の男が現れた。
「アンタがここのボス?思った以上に貧相な顔ね。ほっといてもさっさとくたばりそう」
白衣に身を包んだ男は、恐らく三十代前半と、結構若そうではあるが、頬は痩せこけ、体も小さく、とてもではないが想像していたボスの姿とは似ても似つかない。
「言ってくれるね。噂通りの気丈さだ。だが一応言っておくよ、君の弟の命が惜しくば……」
「素直に従えってんでしょ?それでなにすればいいの?」
言葉を遮られたせいか、短く舌打ちをする白衣の男。
「上の連中は貴様らを神聖視しているが、私を彼らと同じとは思わぬことだ。私が興味あるのは貴様のその力だけだからな」
私を見下ろしながら、彼は軽く脅しをかけてくる。
だがこの一瞬のやり取りで私は確信をした。この男はリトルポンドには遠く及ばない。いや、今まで倒してきた男たちの誰よりも、こいつは小物だ。
「ちっ、見くびりやがって。人形風情が。あとそろそろ出てきたらどうだ、アラドカルガ。お前がいるのもお見通しだ」
男の呼びかけに答えるように、天井の窓が割れる音が聞こえ、それと同時にリューベックが落ちてきた。
「やはりバレてたか。こんなことなら小細工する必要はなかったかね」
「ふん、残念だがアラドカルガ、貴様も我々の術中にあるのだ。私の標的はこの女だけでなく、貴様も含まれているのだからな」
男が右手を上げると、武装した男たちがリューベックを囲った。
「おいおい、ずいぶん手荒な歓迎だな」
「揃いも揃って、強気を装うのが得意らしい。では諸君、その男を連行しなさい」
兵隊たちは彼を跪かせ、両手に手錠をかける。
「リューベック!!」
「おっと!動くんじゃないエミー。貴様が少しでも我々に危害をくわえようとすれば、君の弟は私の指示一つで命を落とすことになるぞ」
弟の命を天秤にかけられ、飛び出そうとした私の足が止まる。しかし私が焦りと怒りを覚えている中、その窮地にあるはずの男は顔に笑みを浮かべていた。
「さて、それはどうかね」
手錠は彼の能力を恐れて、比較的アナログな鍵で開錠するタイプの合金製のものであったが、彼はそれを手首を着脱するという荒業で外す。周囲の兵たちと白衣の男は、突然の彼の奇行に一瞬動きが固まる。その刹那を私は逃さなかった。
まずは私に銃を構えていた一人を一蹴。そのまま駆け出し、リューベックを囲う兵たちに向かう。彼らは私の動きに反応することはできず、一人、また一人と的確に一撃入れ、全員を仕留める。
その後キャットウォークの上から狙っていた兵がようやく事態を飲み込み、こちらに発砲する。しかし遅い。銃弾は確かに私よりも速い。だが私に狙いを定め、トリガーを引く。その動作の間に、銃という武器の利点を十分に生かせる距離を、一瞬でゼロに変えることができる私にしてみれば、その程度の攻撃を躱せぬ道理はなかった。
とはいえそれをいつまでも続けることはできない。下手な鉄砲もなんとやらだ。足に少しだけ力を入れ、飛び上がる。キャットウォークの上にいる兵目がけ、その勢いで蹴りを顎に直撃させる。すぐ隣にいた兵士がこちらに銃を向け直すよりも前に、鳩尾を狙って攻撃を加え、そのままその男の肉体を砲弾に変え、奥にいたもう一人に向けて放つ。それ以外の二辺にいた兵士たちがようやく私の居場所を察知し、銃口を向けようとする。再び疾走、引き金を引き切るよりも前に、男の右肩に回し蹴りを浴びせ、一階に突き落とす。その奥にいた兵は私に向けて発砲する。私は深く沈んで、銃弾を紙一重で躱しきり、スライディングの要領で彼の両足を完全に粉砕する。
残りの一辺、入り口から見て右側に位置するキャットウォーク、そこにいた残りの二人の兵の銃口は完全に私を捉えていた。吹き荒れる火花、押し寄せる弾幕。それを避けるために私は飛んだ。最初は壁に、そして次に天井、そのまま位置エネルギーと脚力を合算させ、二人の兵に向かい跳躍ぶ。私はその二人を攻撃するのではなく、ちょうど二人の間の床目がけ、思いっきり蹴りを放つ。鉄製のキャットウォークはその一撃に瓦解、当然その上にいた二人も共に落下し、そのまま重力のまま床に打ち付けられる。
戦闘時間は合計にしておおよそ15秒。その場に立っているのは私と、銃火の中ちゃっかり物陰に隠れていたリューベック、そして呆然とそれを見つめることしかできなかった白衣の男だけであった。
「エミー・ブラック!!貴様、こんな真似して弟が無事に帰れると……」
指示を出そうとしたのか、彼は耳に装着していた通信機器を起動しようとする。しかし怒りに染まりつつあった彼の顔は、みるみるうちに失意に沈んでいった。
「ああ、もうお前が指示を出す相手はいないだろうよ。アレンならうちの同僚が既に救出している」
時は少し遡る。この国最南端であり、最西端、地名が表すとおり、そんな最果ての地にある建造物。そこでは戦争もかくやという銃声と爆音が鳴り響いていた。
「撃て、撃ちまくれ!決してヤツにここを通らせるな!!」
指揮官と思われる男は、自身も発砲しながら、味方を鼓舞し続ける。その兵隊の数はおおよそ十二人、撃ち尽くされた弾数は既に千を超えていた。対して敵は一人。二メートルはあろうかという大男。彼の右手には巨漢の男でさえ両手で扱うであろう巨大な銃火器。
「お前らも学ばねえな。俺を殺したいんなら、戦闘機でも持ってくるんだな。それで対等だから、よっ!!」
銃弾の雨の中を悠々と歩く彼は、その巨大な銃を軽々と片手で構え、発砲する。鳴り響く轟音、もはやそれは人が手に持っていい代物ではなかった。着弾と共に爆音を鳴り響かせ、先ほどまでの騒音の主たちは一瞬にして物言わぬ骸に化す。その後も続く蹂躙と破壊。彼が突き進むのを誰一人として止めることさえできず、彼の行く道にいた兵士で生き残ったものもまた誰一人として存在しなかった。
殲滅と形容することさえできるモートレントの侵攻が始まってたった五分後、彼は施設の最奥に匿われていたアレンの救出に成功したのであった。