美しい人
彼女はとても美しかった。
彼女はとても冷たくて、触れてはいけないもののように感じた。
けれど私は、彼女以上に優しさを持つ人に出会ったことがない。
彼女はそんなことはない筈だと照れるけれど、私はそんな彼女もやはり美しいと思うのだった。
ある雨の日――
朝の天気予報では伝えられていなかった、予定外の雨が降った。
私は傘を持っていなかった。
彼女も傘を持っていなかった。
二人で教室の窓から空を眺め、どんよりとした灰色の雲を見た。
こんなに分厚い雲がかかっているのに、どうして天気予報士は推測が出来なかったのだろう?と拗ねた私の横で、彼女は微笑んでいた。
「雨は好きなんだ」
心地のいい低い声でそう言った。
彼女は私の好きなものを好きと言う。
例えば猫。懐いた相手にしか見せない表情はたまらない。
例えば苺。甘酸っぱいのに、真っ赤に染まるその体は可愛い。
例えば本。紙をめくるその先に広がる世界を想像する。
彼女は私の嫌いなものを好きと言う。
例えば雨。湿った空気が体にまとわりつく。
例えば虫。その場に存在するだけで他のことに集中出来なくなる。
例えば私。わがままばかりの甘ったれ。
「でも、これじゃあ帰れないね」
彼女は私を見て困った顔をする。
彼女一人であれば帰れる程度の雨だった。
いや、この際程度は関係ないのかもしれなかった。
私がここにいるから、彼女は家に帰れないのだ。
私はそうわかっていて、けれども頷いた。
彼女がまた外を見るから、私もつられて外を見た。
しとしとと音を鳴らして、雨は目の前を落ちていく。
「そうか」
彼女がキラキラした笑顔を浮かべて私を見た。
「教員室で傘を借りればいいんだ」
少し上擦った声で彼女は言った。
「そっか」
私が笑うと、彼女は頷いた。
「悪いが、これが最後の1本だ」
国語の教師がそう言った。
くすんだビニール傘を手渡され、彼女は丁寧にお礼を言った。
「ラッキーだね」
そう微笑む彼女を見て、口から出そうになった不満を飲み込んだ。
傘を開くと、骨が折れていた。
変形した傘は、通常よりも守備範囲が狭くなる。
その上、人差し指が入るくらいの穴があいているものだから私は子供みたいに不貞腐れた。
彼女はそれを気にすることもなく、私に雨が当たらないよう傘を傾けてくれる。
彼女の肩には、小さな楕円が描かれ始める。
彼女の優しさに安心して、じゃれる恋人のように腕を絡めた。
私がこうしたところで、彼女はいつものように冷たかった。
雨の行き先を気にするばかりで、私が腕を絡めたことなど気にも留めていない。
雨に嫉妬する。
彼女は楽しげに、昨日読んだ小説の話をした。
私はただひたすらに、うんうんと相槌を打った。
彼女が楽しそうに笑っているだけで幸せだと思った。
冷たい彼女は、笑っているだけで美しいと思った。
分かれ道、別れ道。
「途中で傘、買っていこっか?」
私は彼女に提案した。
答えは聞かなくても知っていた。
「いや、買わなくていいよ」
「でも、傘は1本しかないんだよ?」
答えは聞かなくても知っていた。
「私は傘、いらないから。これ、持っていくといいよ」
「でも、悪いよ」
答えは聞かなくても知っていた。
「大丈夫だよ。私は雨、好きだからさ」
「風邪引いたら困るもん」
最後……最後にもうひと押しと、私は上目で彼女を見た。
彼女は微笑んだ。
「平気だよ」
軽い口調がやけに映えた。
私の上辺だけの気遣い。
ここまで言っておけばいいだろうという、甘え。
その甘えた考えを、彼女は否定しない。
上辺の気遣いを否定することで、甘えた考えを肯定する。
絡ませていた腕をギュッと握った。
やったー!と声をあげて喜びたいのを堪える。
彼女の見透かしたような瞳を見つめ返して、私は言う。
「じゃあ、家まで一緒に帰ろ?」
彼女の瞳は薄い茶色。
きれいな茶色。
まばたきをして、彼女は下を見る。
「一緒に家まで行けば、どっちも濡れないでしょ?」
彼女の灰色のブレザーは、私のよりも濃くなっている。
でもそんなことは私には関係ない。
「行こ?」
強引に引っ張って、帰路へつく。
彼女は困った顔をする。
その裏側に、美しさを秘めて。
ブレザーはラックにかける。
彼女は猫みたいに欠伸をして、ベッドに寝転がった。
さらさらとした長い黒髪が枕に広がっている。
この髪に触れるたび、私の中の嫌なものが消えていく気がする。
それはもちろん、気のせいなのだけれど。
私は寝転がる彼女の横を、四つん這いになって行く。
伸ばした彼女の長い腕を、自分の頭部に持ってくる。
腕枕は決して寝心地のいいものではないけれど、彼女と距離を詰めるのには手っ取り早い。
私がこうして彼女を引き寄せても、彼女は何も反応しない。
何もなかったかのように過ごす。
これが日常であるかのように過ごす。
これが当たり前の日常で、気にも留めない。
彼女の冷たい心が、私の胸の内を苦しめる。
「ねえ」
彼女は私を見た。
その瞳があまりに優しいから、涙が零れそうになる。
「抱いて」
願えば応える。
彼女はそういう人だった。
私をそっと抱き寄せ、強く、優しく、抱きしめてくれる。
彼女のあたたかい胸の中に小さくなっておさまる私は、彼女にとって何ものでもない。
私は彼女にとっての何ものにもなれない。
触れられない。
彼女の本質には触れられない。
埋められない心の距離は、せめて体の距離で埋めたかった。
あたたかな彼女の体温に心を預け、私の意識はゆっくりと遠のいた。
横で彼女が身じろいだ。
それに目を覚まし、うっすらと瞼をあけた。
彼女はゆっくりと起き上がり、窓のほうへ行った。
カーテンの隙間を覗き見る彼女の横顔は、やっぱり美しかった。
私はそっと起きて、ベッドの淵に座った。
彼女はそれに気づいて、困ったような顔をした。
「起こしちゃったかな、ごめんね」
「へーき」
目をこすりながら彼女を見た。
「雨、止んだみたい」
彼女は私から視線を外し、外を見た。
「帰っちゃうの?」
彼女は唇を結んで、考えているようだった。
少しの沈黙が下りて、それから彼女は伏し目がちに答えた。
「ご飯、食べていってもいいかな?」
「うん!」
私は跳ねるように立ち上がった。
冷蔵庫を見ると見事にほとんど何も入っていなかった。
卵が1つと賞味期限切れの牛乳が、ジー、ジーと鳴る冷蔵庫の中に寂しく置き去りにされていた。
「どこかに食べに行こうか」
彼女がそう言って、私は近所にある牛丼屋さんを提案した。
ここで彼女と食事をするのは一体何回目だろう。
いつも彼女はものの5分で牛丼を平らげ、私が食べ終えるのを待っている。
私が丼に張り付いた最後の米粒を拾い上げて口に運ぶのを見てから、彼女は両手を重ねた。
「ごちそうさまでした」
どうして私が食べ終わってから言うのかいつも疑問に思うのに、その答えは依然知れないままだ。
お店を出ると、湿った風が吹いた。
私は、飛んで行ってしまいそうな彼女の袖を掴んだ。
「行っちゃうの?」
私より少し背の高い彼女が、私を優しく見る。
少し間を置いてから彼女は微笑を浮かべた。
「泊まらせてくれる?」
そう美しい声音で聞くから、私は大きく頷いて見せた。
腕を一方的に絡ませてから、私たちは家へ戻った。
その日は午後から雨が降り始めた。
私は傘を持っていなかった。
映画館を出ると、雨は私に当たりたいと言わんばかりの勢いで降っていた。
「どうしよっか」
私は問いかけた。
「傘、持ってきていないの?」
そう聞かれて頷いた。
「じゃあ、持ってきているから一緒に入ろうか」
私は提案を受け入れて、壊れていない綺麗な傘に2人で肩を並べた。
映画の話をした。
お互いに楽しかったところを話した。
不満だったところや感動したところを話した。
そしてそんな話をしている中、私の意識は別のところにあった。
お気に入りのワンピースではまだ少し肌寒さを感じる季節。
滴る雨が私の肌をつたっていた。
彼は、話に夢中になって気づかない。
私は心の中で不貞腐れた。
彼は私を好きだと言った。
彼は私を恋人にしたいと言った。
彼は私をデートに誘い、腕を組んで歩き、そして最後には抱きたいと言った。
彼は魅力的だった。
彼は優しかった。
彼は人気者だったし、私は幸せな筈だった。
彼は私の好きなものを好きと言った。
そして私の嫌いなものを嫌いと言った。
でも私のことは好きだと言う。
この矛盾の意味は、私には理解出来なかった。
分かれ道、別れ道。
「途中で傘、買っていこっか?」
彼が聞いた。
私は頷いた。
私は彼女の何ものにもなれなかった。
私は彼の恋人になった。
彼女は私の中に居続ける。
彼の入る隙間もなく、居続ける。