第3話:雨の国境、泥に沈む銀の月
視界が、濁っていく。
叩きつける雨粒が、私の体温を情け容赦なく奪い去っていく。
泥濘に突っ伏したまま、私は自分の指先すら動かせなくなっていた。
(……ああ、本当にもう、いいのね)
十数年。
「無能」と蔑まれながら、ただ一筋の愛を求めて、この国の結界に魔力を捧げ続けてきた。
指先が凍え、意識が朦朧としても、私が祈りを止めれば誰かが死ぬかもしれない。そう思えば、休むことなどできなかった。
けれど、その結果がこれだ。
私が守りたかった人たちは、私を泥の中に放り出し、豪華なサロンで祝杯を挙げている。
心の中にあった、細い糸のような「執着」が、ぷつりと音を立てて切れた。
その瞬間だった。
ザッ、ザッ、と。
雨音を切り裂くように、重厚な足音が近づいてくる。
それは、私を捨てた衛兵たちの軽薄な足取りとは、根源的に違う。
大地そのものが怯え、震えているような、圧倒的な存在感。
私は重い瞼を、僅かに押し上げた。
視界に飛び込んできたのは、漆黒の軍靴。
そして、闇夜よりも深い黒のロングコート。
見上げれば、そこには――この世のものとは思えないほど、恐ろしく、そして美しい男が立っていた。
濡れた漆黒の髪。
彫刻のように整った、冷徹な貌。
そして何より、闇の中で獣のように妖しく光る、深紅の瞳。
「……死神、様……?」
掠れた声で、私は問いかけた。
こんな森の奥に、人間がいるはずがない。
きっと、絶望した私を迎えに来た、死の化身なのだと思った。
男は無言のまま、私の前に跪いた。
最高級の仕立てであろう漆黒のコートが、泥に汚れるのも厭わずに。
大きな、熱い手が、私の頬に触れる。
その熱量に、心臓が跳ねた。
死神の手が、こんなに暖かいはずがない。
「死神か。……否定はせぬ。我が行く道には、常に死が転がっているからな」
低く、地響きのように心地よい声。
男は、私の泥に汚れた銀髪を愛おしそうに指で梳いた。
その指先が、私の灰色の瞳の縁をなぞる。
「だが、お前を連れ去るのは冥府ではない。私の帝国だ」
「……帝国……?」
「そうだ。ようやく見つけた。私の忌々しい『呪い』を飲み込み、静寂を与えてくれる、唯一の器を」
男の瞳に、狂気にも似た情熱が宿る。
彼は迷うことなく、私の細い腰に腕を回し、軽々と抱き上げた。
まるでお姫様抱っこのように。
破れたドレスから覗く私の足も、泥まみれの体も、彼はまるで至高の宝物を扱うかのように、慈しみを込めてその腕に閉じ込めた。
「お、お放しください……。私は、無能の、汚れ者です。貴方様のようなお方を、汚してしまいます……」
必死に拒絶の言葉を紡いだが、男は鼻で笑った。
彼は自分の肩にかけていた、重厚な毛皮の外套を脱ぎ、私の全身を包み込む。
そこには、彼自身の体温と、白檀の、そして微かな鉄の匂いが立ち込めていた。
「汚れ者だと? 笑わせるな。お前を泥に沈めたこの世界こそが、唾棄すべき汚れだ」
彼は私の耳元で、甘く、そして抗いがたい命令を下す。
「エルシア。今日この時より、お前は私のものだ。お前を泣かせた者、お前を蔑んだ者、そのすべてに、生を呪うほどの絶望を与えてやろう」
その言葉と共に、背後から数人の影が音もなく現れた。
黒い鎧を纏った、帝国の精鋭騎士たちだ。彼らは主君の姿を見て、一斉にその場に膝をつく。
「陛下、馬車の用意が整いました」
陛下。
その言葉に、私は息を呑んだ。
この大陸で、ただ一人。
「死神」の異名を持ち、隣り合う諸国をその武力のみで平伏させてきた、中央帝国の若き皇帝。
ギルバート・ヴォル・レオンハルト。
私が守っていたはずの王国が、最も恐れ、決して怒らせてはならないと震えていた、最強の捕食者。
「……行くぞ、私の月。お前の新しい玉座へ」
ギルバートは私を抱いたまま、迷いのない足取りで歩き出す。
私は彼の胸に顔を埋め、初めて、本当の涙を流した。
雨に流される必要のない、暖かな場所で。
――この時、私はまだ知らなかった。
この「死神」が、私を甘やかすためだけに、どれほど残酷に世界を塗り替えていくのかを。
本話もお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも続きが気になる、と感じていただけましたら、
ブックマーク や 評価 をお願いします。
応援が励みになります!
これからもどうぞよろしくお願いします!




