五親等の悪役
久しぶりの開催となった棋士編入試験五番勝負である。
東京信濃町の将棋会館にて、九月、十月と行われ、十一月・十二月の二戦は大阪高槻に会場を移して更に二戦、再び東京に戻って行われる一月の開催が迫っているにも関わらず、五戦目の試験官となる棋士は松が明けてもまだ決まらず、この年の将棋界は落ち着かない新年を迎えていた。
棋士編入試験の試験官は、新四段、つまりプロデビューを果たして間もない棋士が行うのが通例である。
新四段五人を相手に一局ずつを指し、勝ち越せば編入を認める、というのが試験の概要だ。
が、今回の棋士編入試験、九月から四人の新四段が試験官を務めた時点で、新四段が尽きてしまった。
というのも、最後に残っていた新四段が晩秋に青龍戦という棋戦に初挑戦で優勝し、早速五段に昇格してしまったからである。
「構いません。一回優勝したというだけで、自分はまだ四段に毛の生えたようなものですから」
新四段改め新五段となった棋士はそう言ったのだが、デビューしたてで棋戦優勝、そのまま五段昇格というのは、現在も棋界に君臨する絶対王者・羽村怜士と同等の快挙である。
棋士編入試験の注目度は高い。やがて羽村を脅かす存在となることを期待される新五段は、試験官を務めることに強い意欲を示していたが、いくらなんでも試験官としては、辞書の意味通りの「役不足」である。結局連盟側は代わりの棋士を立てることとなった。
しかし、その人選にまた、大いに難航した。
紛糾した議論の末に決まったのが、今回に限り「フリークラス」に所属する棋士を試験官として採用する、ということ。
棋士たちは日々、強さで区分けされたクラスの中でリーグ戦形式の順位戦を戦っており、最上位であるA級に所属する棋士は十名、ここで優勝した棋士が名人位挑戦権を得る。言うまでもなく名人位は、全棋士の目標である。
一方、「フリークラス」の棋士はこの厳しい戦いからは一歩引いたところにいる。プレッシャーから解放された立場で、特に高齢の棋士が激しい消耗を伴う順位戦から退いてフリークラスに入るケースが多い。アマチュアや女流からのプロ編入は、試験を経て合格した後、まずフリークラスに所属し、その後は棋戦優勝など一定の条件を満たした場合順位戦への参加が認められるようになる。言うなれば一線を退いたところにいる棋士たちから、試験官をくじで選出することとなったのだ。
「……本当によろしいのですか」
眼鏡の奥の冷たい目を物憂げに細めて、新四段改め新五段は問うた。言葉を向けた先から反応が返って来ないもので、
「私が出て、片を付ければいいだけの話です。今からでも、連盟にこの対局を止めるよう申し出ることだって出来るはずです」
焦れたように、言葉を継ぐ。
新五段、仲村銀星の言葉を受け止めて、
「……いやあ……」
とみじろぎした男。
僅かに耳の上に残るばかり、それも、ほとんどが白髪になってしまって、五十三歳という年齢よりもずいぶん「おじいちゃん」の雰囲気が出て来てしまった棋士。
今年の四月にフリークラス入りを宣言した小笠原茂六段トキノ杯電撃戦永世王者は、目をしょぼしょぼさせる。それは困っているようにも、笑っているようにも見える。
「それはね、ワタシは、だって、慣れてますからね」
「慣れ……?」
「ええ。だって、そうですよ、羽村先生のときもそうでしたから。もし銀星くんがね、ここで勝ってしまったら、銀星くんが悪役になってしまいますでしょう」
小笠原の用いた言葉に、仲村銀星はたじろぐ。
「悪役……、ですか」
一方で小笠原は、額に汗を滲ませている。確かに二人の相対した将棋会館の一室は、少々暖房が効き過ぎてはいたが、……銀星は小笠原の目がしょぼしょぼしているのは、目に汗が入ってしみるからだろうと気が付いた。
「ワタシは、ええ、悪役になるのは慣れてますから。ですから、ワタシが役目を果たすのが一番であろうと、こう思うんですね」
に、と笑った小笠原に、銀星はもう、言葉を繋げることは出来なかった。
「それに、くじ引きの結果ですから。ワタシは、ええ、くじ運が良くないんですよ。ウチにはポケットティッシュがいっぱいあります。『おっちゃんが引いてもどうせ当たらないんだからあたしに引かせて』って言われたもんで。そしたらね、あの子が引いたら、お食事券が当たっちゃったんですよ。ええ、蒲田の駅ビルに入ってるお店でね。あれは美味しかったなぁ……」
そんな男が、引いてしまったのである。最終局を行うにあたっての対局相手を選定するくじ引きの「大当たり」を。
小笠原が試験官を務めることについても賛否は分かれたが、結局のところ、くじをもう一回やり直すとか、新しい方法を考えるとか、議論が遠回りしているうちに時間は過ぎていき、まあ、もう、しょうがない、小笠原で行くしかない、と消極的賛成が多数となってこの通り、編入試験第五局の当日を迎えることとなってしまった。
小笠原茂はよっこらせと立ち上がって、
「実はですね、こんなものがあるんですよ。連盟のほうのくじが当たったので、どうせこっちは……、と思って、あの子に引いてもらったんですけども」
愛用のリュックサックから、何やら取り出すのは、紙製のカードホルダー。
「やっぱり、あの子はくじ運がいいんですね。ワタシだったらまたポケットティッシュを頂くことになっていたんでしょうけども、ええ、あの子は師匠運以外は本当にいい子です。強運のお裾分けとして、どうか受け取ってください」
二度遠慮したが、結局銀星の手の中に収まったそれ。ラッピングも何もせず、カードホルダーそのままで、ペラリと開けたところには高額なギフトカードが入っている。
「こ、これは先生とあいつが一緒に使うべきなのでは」
「いやいや……、ワタシは色々、身体の数値がアレですからね、いまダイエット中だもんで、ええ」
銀星は仕方なく、「ありがとうございます」と自身の懐にそれを収めながら、裏腹にこんなことを考えていた。
どちらかの祝勝会、あるいは残念会として俺が場を設けて、二人で招けばいい……。
今一度頭を下げて、深呼吸を一つ。銀星が控え室を出た。
一人残された小笠原は、
「お役目を果たせるよう、精一杯頑張りたいものですね」
と呟いて、深呼吸を一つ。
棋士編入試験の持ち時間は各三時間。
小笠原の得意とするフィールドではない。
しかし、最強棋士羽村怜士の年間全棋戦優勝を三度も阻んだ末、「トキノ杯永世王者」の称号を得て同棋戦から引退しフリークラス入りした男は、いつしかこう呼ばれるようになっている。
棋界最強の悪役。
将棋会館、特別対局室の襖を小笠原茂が開けたとき既に、上座に置かれた座布団以外は、全て埋まっていた。すなわち、立会人、副立会人、記録係を務める仲村銀星新五段。室内には清澄そのものの空気が満ちている。
盤を挟んで、窮屈な腹を持て余しながら、小笠原茂が座した向かい。
念願のプロ棋士への最後の関門に臨む、芦原李都女流四段。明るい色の前髪が僅かに隠す眉、閉じられた瞼、……長い睫毛が頬に陰を描き出している。今日もブラウスの胸元には、対局の際にいつも身につけている寄木のあしらわれたペンダント。
凛々しく、強く、全将棋ファンの期待を背負ってこの戦いに挑む、小笠原唯一にして、最愛の弟子。
そして、いとおしい家族。
李都の瞼が開いた。
いまだけは、倒すべき敵として向き合う二人の視線がぶつかり、火花が散る。
見る将、指す将、将棋よりはチェスが似合いそうな貴婦人、いつも接待将棋で勝っている老政治家も、そして地球侵略を未だ諦めていない将棋つよつよ星人も……。
将棋という言語を解する全ての者が注目する対局が、始まろうとしていた。




