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The reason why I'm here.

◆のと復興だより(二〇二四年五月十日 夕刊地域面より)


未来へ繋ぐ一歩 将棋で広がる笑顔の輪


 がれきの撤去は進む一方、避難所や仮設住宅で、子供たちの慣れない暮らしは続いている。こうした中、棋士・小笠原茂五段(四七)が将棋を通じて笑顔を届けている。

 小笠原五段は兵庫県生まれ。棋士を目指していた高校時代に阪神淡路大震災を経験、最愛の両親を失った。棋士となってからも二〇一四年には広島豪雨に被災。亡き師・中西八段から譲られたという家も形見の駒も濁流に飲まれた。

「私は将棋こそ凡才なんですが、天災とは縁があるようです。ですが、しぶとく生きています」

 将棋も粘りを身上としている。タイトルとは無縁だが、「人間の温もりやの支えがあってこそ、棋士になることが出来た。今度は自分が棋士として出来ることを」と災害が起きるたび、現地の将棋教室と連携し、即席教室や対局会を開いている。

 温かな人柄に惹かれるファンは多い。

「将棋は、どんな厳しい場面でも次の一手を考えるゲーム。知恵を絞って道を切り開いていく。人生にも通じるものがあると思います」

 輪島市村野地区、避難所となっている小学校の教室でそう語り掛ける小笠原の言葉に、子供たちは真剣な眼差しを向けて聞き入っていた。





 二人が「ジェイかま」に戻ってきたとき、もう陽はとっぷりと沈んでいた。

「……もう平気?」

 うん、と返すとき、せっかく通っていた李都の鼻は、またすっかりふさがってしまっていた。

 北陸新報の東京支局は、二人の中学生をあたたかく迎え入れてくれた。

 神田司町(つかさちょう)の雑居ビルの二階、こじんまりとしたオフィスの片隅に通されて、縮刷版を無料で見せてもらうという厚遇にあずかった二人だったが、李都は記事を読んでいる途中からしてもう、えんえん泣いてしまった。銀星はさぞかし居心地が悪かっただろうと思う。李都だって居心地は悪い。人前で泣くのなんて、しかもあんな子供みたいに泣くのなんて、ずいぶん久しぶりのことだったから。

 銀星の説明を受けて、二人の応対をしてくれた北陸新報東京支局の記者、おっちゃんと同じぐらいの年齢だが、だいぶ精悍(せいかん)な印象の矢野(やの)さんというおじさんは、もらい泣きに目を潤ませながら、「ちょっと待っててね」とスマートフォンでどこかに電話をし始めた。

「やあ、あの、こちらね、北陸新報の東京支局の、矢野と申しますけども。ええ、すいませんね。そちらに、二〇一四年の、広島の豪雨でね、棋士の、……いえ、棋士、馬に乗る人じゃなくて将棋の。ええ、小笠原茂五段って、ほらあの、つい先日トキノ杯で羽村八冠に、ええそうそう、その人が、そちらで家を流されてるんですけども……」

 どうやら矢野さんは、広島方面の新聞社に掛けてくれているようだ。

 電話を切ってほどなくして、オフィスのパソコンに届いたデータを、矢野さんが出力してくれた。

 また目が潤んで、字が滲んで、李都にはもう、とても読むことは出来なかった。矢野さんはわざわざ茶封筒に入れて李都に持たせてくれたが、おそらくこれから先、見ようとするたびに泣いてしまうだろう。

 一枚の写真が添えられた記事である。

 背景の山肌は抉られ、湿った土が露出していた。しかし山の形は李都が、かつてお母さんに写真で見せてもらったものと同じ。

 おうちはすっかりなくなっている。

 崖崩れに遭い、土砂とともに流されてしまったのだ。

 それでも、笑顔の男が写っている。

 いまより少し髪の多くて、痩せていたころのおっちゃんである。泥だらけのシャツで、嬉しそうに、大事そうに、小さな女の子を抱き上げて立っている、おっちゃんの姿だ。

「……あたしさ、ずっと不思議だったんだよね。なんであたしんちにはおっちゃんがいるんだろうって。……みんなのウチにはいないじゃん。銀星のとこもいないでしょ」

 イルミネーションの取り払われた東口の駅前は、クリスマスと正月という異父兄妹に挟まれた土曜日の「ジェイかま」は、師走という言葉の通り、忙しげに家路を急ぐ人たちが目立つ。

 李都の師も、今日帰って来る予定である。

「おっちゃんさ、家事、ぜんぜん出来ない人だから、おっちゃんの方がお願いしますってウチの居候やってるのかなって思ってた。一応、親戚だし、あと、親戚で東京住んでるのってウチだけっぽいから。……でも、違ったんだね」

 いまや、李都の中に疑問は一つも残っていなかった。

 小笠原茂は故・中西八段から譲られた広島県山間部の家が、豪雨で大きな被害を受けた。自身の言葉の通り、天災に縁があってしまう人生だと、茂はどれほど困惑したことだろう。

 李都の想像していた通り、当時、彼の家には、芦原家が居候していた。

 芦原李都から見ると茂は、はるばる離れた五親等の親戚であるが、中西八段の亡くなった奥さんというのが、李都のおばあちゃんの妹なのだ。自分一人には広すぎると、子供が生まれたばかりの芦原家の居候は、李都のおばあちゃんの導きもあってすんなりと決まった。

 その日、家にいたのは小笠原茂と李都、二人だけだったという。

 裏山から不気味に(うな)るような音が響いた。家が(きし)んだ、と思った次の瞬間、家が丸ごと土砂に飲み込まれてしまった。李都は屋敷の奥の部屋、茂は彼女が怖がらないようにと、テレビのあるその部屋で、夜通しアニメのビデオを流して過ごすつもりだったと言う。彼女が少しでも安らげるようにと、ミルクを温めてあげようと台所へ出たところで、裏山が崩れ、土砂が家に流れ込んできた。

 ……北陸新報の矢野さんが繋いでくれたのは、山陽地域で刊行されている山陽日日新聞。記事データを送信してくれた上で、「たまたま居ましたもんで」と当時小笠原茂に取材をしたという記者が、わざわざ電話を掛けてくれた。

 この電話に応対したのは銀星である。

「夢中だったとおっしゃっとりましたねぇ。もう、いつ崩れるかわからん中で。お嬢ちゃんは半ば埋かかっておったって。でも、お嬢ちゃんのちいちゃな指が、土砂の中から覗いてるのが見えて、小笠原さんは脇目も振らずに助け出したそうです。ちょうどその日、お嬢ちゃんのご両親は、お母さんがご体調を崩されてて、広島市内の方の病院におったそうでね。おうちが被害に遭われたと聞いたときは、もうお嬢ちゃんは到底助からんだろうと、覚悟を決めておったそうなんですが……」

 家はまもなく流された。師匠の形見の駒も、家財道具も、何もかもが、全て消えてしまった。

 しかし、土砂に飲まれかけた芦原李都は擦り傷を幾つかしただけで済んだ。

「小笠原さんに『怖くなかったですか』と訊いたんです。小笠原さんは正直に『怖かった。阪神大震災で瓦礫に埋まってしまったときと同じぐらい怖かった。足が(すく)んで、全身が石になってしまったみたいだった』っておっしゃっとりましたね」

 命の危機を、確かに茂は感じただろう。恐怖や衝撃に身構える気持ちは、一回目よりも二回目の方が強まるという。もう二度とあんな思いはしたくないと、身体が、心が、拒否反応を示すのだろう。

 それでも、小笠原は迫り来る刻限に追われながらも駆けた。李都を掘り起こし、抱き上げ、裸足のまま家から飛び出したところで、土砂崩れの第二波が堅牢な家を足元から(すく)い上げ、濁流へと押し流して行った……。

 その後、芦原家は避難所を経て、仮設住宅での暮らしに入る。一方で茂は東京の先輩棋士の家に身を寄せてしばらく暮らすが、芦原家の三人に向けて、「もしよかったら」と東京で一緒に暮らすことを申し出た……。

 電話の最後で、山陽日日新聞の記者はこう言った。

「小笠原さん、ねぇ、見ましたよこの間のトキノ杯、頑張りましたよねぇ。あのお嬢さんもきっと喜んでるでしょうねぇ」

 北陸新報の矢野さんは帰り際に「実は」と教えてくれた。

「今回の小笠原先生の優勝をお祝いして、インタビューをさせて頂けないかと打診をしたんですが」

 小笠原茂からは「ありがたいことですが」遠慮するという返事があったそうだ。

 その、ええ、だって、ワタシは今回、悪役になってしまいましたですから。被災地の支援は、羽村先生もなさっておられますから、どうかそこは、ねえ、そっとしておいていただいて。

 北陸新報の本社は金沢にある。小笠原は宮城での戦いを終えて、福島経由で能登を訪れている。インタビューを一つ受けるぐらい、ほんの道すがらで済ませられそうだが。

 羽村の快挙を阻んでしまったこと、李都が気にする以上に、本人ももちろん気にしていたらしい。

 しかしあの決勝戦、全身全霊を傾けて勝ちに行ったことに悔いはない。賞金でまた、被災地の復興支援ができる。

 彼の指す粘りの一手が、子供たちの未来への一歩となる。

「立派な方ですよ、本当に。改めて尊敬の念を強くしていたところに、小笠原先生にご縁のある方から電話が掛かってきたもんですから、びっくりしましたよ。人の縁っていうのは、不思議なものですなぁ……」

 矢野記者は、感慨深そうにそう言って二人を送り出した。

 うずくまるようにベンチに座った李都の隣、銀星も背中を丸めて座っている。

「……一個も覚えてなかった。広島のこと、豪雨のこと……」

 それなのに、という言葉を口にするより先に、

「小笠原先生が、そのほうがいいと思ってるんだろうね」

 銀星が言った。

「おまえのお母さんが、そのことおまえに話してないのは、先生がそう頼んだからじゃないかな。天災の被害なんて、遭わない方がいいに決まってる。怖い思いした記憶がおまえに残ってないなら、それでいい、そっちの方が嬉しいって、先生は思ってるんだろ」

 まだ、ものごころ付く前から、ずっと李都はおっちゃんに守られて来たのだ。

 この身体も、心も、大事に大事に。

「……こんなこと、おれが言っていいのかわからないけど……」

 躊躇いがちに、銀星は言葉を注ぎ足す。

「小笠原先生は、震災のときと豪雨のとき、二回、死ぬほど怖い思いをした。だから、トキノ杯で優勝できたんじゃないかな……」

 李都が納得に至るまで、少しの時間も要らなかった。

 将棋で命を奪われることはない。将棋は平和なゲームであるとりとに教えてくれたのは、ほかならぬおっちゃんだ。

 瓦礫に埋もれたとき、李都を助けに行ったとき、おっちゃんは一手ずつ指すという規律の埒外(らちがい)、恐ろしい自然の脅威に生身の人間として立ち向かわなければいけなかった。

 その恐ろしさに比べれば、羽村怜士何するものぞ。

 刻々と迫るタイムリミットの中で猛攻を潜り抜け、未来へと続く一手を選んで指した結果の勝利は、必然でさえあったのかも知れない。

「ごめんな」

 不意の言葉だった。唇を尖らせることなく、銀星は李都の横顔に視線を向けていた。

「おまえが凹んでたとしても、仕方がなかった。悪気があったわけじゃないのは、わかって欲しい。ただ、おまえが、おまえらしい将棋をこれからも指して行けば、きっともっと強くなれるはずだし、それは昨日、怜士さんも言ってたし……」

 あの子は、いい棋士になれます。銀星、今のうちにあの子にたくさん勝っておきなさい。ぼんやりしていると、いまに手に負えなくなりますよ。

「おれも、もっと強くなるし、おまえにも強くなって欲しい。一緒に強くなって、一緒にプロになって、ずっと……、おまえと将棋指していけたらって、そう思ってて、だから……」

 言葉を切って、彼は今日ずっと肩に掛けていたカバンから、シワの寄ったビニール袋を取り出した。

 トキノ杯の夜に、彼がずっとぶら下げていた袋だと気が付いた。ビニール袋の中から、小さな箱が出て来る。

「お土産……、先週末箱根行ってきたんだ。本当は火曜に渡そうと思ってたんだけど……」

 開けて、と言われて、不器用に開いた箱からは、小さな寄木のあしらわれたペンダントだった。

「え……、えっ、マジで……?」

 高そう、と最初に思ってしまった。これでは羽村先生やおっちゃんを笑えない。李都だってだいぶ、感性が棋士ということが言えそうだ。

「その……、おまえに、似合うかなって思って。別に、嫌だったら付けなくてもいいから。でもその、おまんじゅうとかそういうのよりはいいかなって……」

 ずれてもいないメガネを、銀星が直した。いつも冷たく白い目元が、紅く染まっている。

 銀が李都の懐に飛び込んで、裏返って成銀になった……、なんてことを、李都は思ってしまった。

 一緒に強くなって、一緒にプロになって、ずっと……。

「……え、えぇ……、あの……、えっ……マ……?」

 あの日、李都が機嫌を損ねていなければ、クリスマスのイルミネーションを前にこれを渡されていた可能性があったのだと気付いて、李都の頬までポインセチアのように赤くなる。

「あの……、これ、つまり、そういう……、こと……?」

 頷き掛けた銀星が、そこで唇を尖らせて、

「……おまえが、そう思いたいなら、そう思えばいいんじゃないの」

 なんて可愛くない言い方を選んだ。

 お互い、明確な言葉で確かめられるほどの度胸は備わっていない。

 盤上の駆け引きの方がどれほど容易(たやす)いだろう? ただ、年の瀬の夜にありながら銀星は指先が、李都はほっぺたが、やけに熱いことを教え合おうとしたばかり。家路を急ぐ人々は、幸いにして二人には気付かない。

 そして二人も、気付いていなかった。

 駅から出て来て、他の人たちと同じように家に向かうべく歩いていたところで、知った顔があることに気が付いて足を止めて見ているおっちゃんがいたことに。

「アッ……李都さっ、アッ……はっ、アッ……」

 宮城みやげと能登みやげを両手にぶら下げたおっちゃんは、無様なほどに慌てふためいて、高まっていた二人の気持ちの膝から力を失わせるような声を上げたのだった。

 結局、李都がおっちゃんに「おめでとう」をちゃんと言えたのは、頭に「あけまして」を付けられる日まで待たなければならなかった。

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