足跡
「遅いぞ」
寝坊をしたわけでもない李都が十時半すぎに駅前の図書館に着いたとき、白い息を指に吐き掛けながら待っていた銀星に、そう咎められた。確か、「ついで」と言っていたはずだが、熱心なことだ。
ちなみに先ほど、李都が「図書館行ってくる」と言ったら、お母さんは「まだ熱あるんじゃないの」と不安がった。この一人娘が自ら漫画と将棋以外の本に興味を示したことなんて、これまで一度もなかったので。それはともかく、銀星と二人、スクサツバンでもスツサクバンでもなく、縮刷版と格闘すること、約一時間……。
「ああ……、ダメだ……、ダメだ……」
李都が音を上げた。銀星も、眼鏡を外して指で瞼を圧している。
彼のアイディアは次のようなものだった。
「将棋にはニュースバリューがある。怜士さんがトキノ杯で負けたっていうのも、翌日の朝刊の一面の、隅の方だけど記事が載ってた。おまえも見たんじゃない? ……四コマしか読まない? ああそう……。と、とにかく、棋士っていうのは意外とたくさんの人に興味を持たれてる。だったら、棋士である小笠原先生が被災地でボランティア活動をしてたなら、記事になっていたとしてもおかしくないだろ。でもってそういうのは『月刊と金』とか『将棋ジャーナル』とかよりは、普通の新聞に載ってるもんじゃないのかなって」
それは、納得の行く話であったし、李都自身も「将棋雑誌よりは普通の新聞の方が、なんか、あるよな、ハクがな」なんてことを思っていたので、ふむふむと頷いた。
「じゃー、震災とか水害の後の新聞を探せばいいのか」
「でも、直後じゃない気がするんだ。最初のうちは、そういうの載せる余裕はないだろうからな。載るとしたら、少し落ち着いてきて、世間の関心が薄れてきたころだ。被災地ではまだまだたくさんの困りごとがある、ストレスも溜まる。……小笠原先生がしてるのは、そういうところへ出掛けて行って、被災した人たちに寄り添ってあげることだろ」
李都はわりと素直な女の子である。なるほどな、こいつ頭いいな、と感心して、銀星の言う通り、震災から一ヶ月後ごろからの新聞を、片っ端から開いて行った。まずは、もうすぐ発災から二年になる能登半島地震から一ヶ月後、二月の記事から漁り出す。
それは肩こり、腰痛、目の疲れ以上に、中学生の胸には痛みの伴う仕事なのだった。
紙面を追った李都の心に刻まれたのは、地震から一ヶ月後の、現地のなまなましい状況。
道路の寸断に伴い、ライフラインの復旧や支援の遅れが当初からの課題となっていた能登半島地震、このころようやく、輪島地域などへの支援物資の安定した供給が行われるようになったものの、仮設住宅の建設は需要に追いつかない状態。
月の半ばを過ぎても、輪島地域では八〇〇〇戸を超える世帯での断水が続き、給水に頼らざるを得ない状況。
苦境にある人々の、声なき声が、小さな活字から滲んで来るかのようだ。
そうした記事が、全国版の新聞では日を追うごとに小さくなっていくことも、李都にはショックだった。おそらく三月になると、もっと記事は減っていくのだろう。
苦しみが癒えるまでは、途方もない時間が掛かるに違いないのに。
もう李都が、きっと銀星も、そして、ほとんどの人が過去のこととして取り扱っていた地震の爪痕を、おっちゃんは自分の身体の痛みとして捉えて、能登に出向いて、プロ棋士として出来る復興支援に力を注いでいたのだ……。
二月の縮刷版を棚に戻して、ベンチに脱力していた李都の隣で、スマートフォンを弄っていた銀星が、
「……あっ……」
と声を上げた。
なに、と視線を向けた李都にスマートフォンを押し付けてくる。
どこかの新聞社が出しているニュース記事のようだ。
あっ、という声を、李都も同じく発してしまいそうになった。
タイトルは「未来へ繋ぐ一歩 将棋で広がる笑顔の輪」というもの。
冒頭に載った写真の上半分が見えている。大盤の横に立つ男の禿頭……、テカリ具合と、耳の上の毛の残り加減、そして眉の形からしても、おっちゃんに違いない。
が、おっちゃんがどんな表情を浮かべているかまでは、確かめることができない。有料記事なのである。
「これ、多分そうだよな。……ごめん、縮刷版見なくても、ウェブで調べたら出て来るものだったなんて思わなかったんだ」
銀星は悔しそうだった。
このウェブ記事を掲載しているのは、「北陸新報」とのこと。名前から類推するに、あちらが拠点の新聞社。こうしたニュースは、全国紙よりも地方紙の方がきめ細やかに取り扱うのだという知見を得たが、有料記事では手も足も出ない。中学生、またごく平均的な教育を子供に施す家庭の二人は、親の許可なく勝手にスマートフォンで買い物は出来ないのである。
これで満足するべきだろう。そして、おっちゃんに心を込めて、「おめでとう」と言おう。李都はもう、多くのことを学んだ後だと思うのである。自分の側に、こんなに立派な人がいたのだという学びを得た。
羽村怜士が言っていたことを、李都は思い出す。
私を上回る胆力。
瓦礫に埋もれた小笠原茂の命を繋げたのは、将棋を指すための指先だった。
その指先で、いま彼は、被災地のために将棋を指している。タイトルとは無縁の地味な棋士であるという自覚は、小笠原自身の中にもあったろう。
そんな彼に巡ってきた、得意な「電撃戦」の舞台、しかも相手は絶対無敵の羽村八冠。羽村にとっては最後の一勝負だったかも知れない。彼はひょっとしたら来年も、今年と同じ記録のかかった状態で「トキノ杯」の決勝を迎えるかも知れない。けれど、小笠原には千載一遇、この機を逸したら二度と訪れないかも知れない棋戦優勝のチャンス。
獲得した賞金を、おっちゃんは疑いなく、今後の被災地支援活動に費やすのだろう。
羽村先生に言われた通り、これから先、李都はおっちゃんの唯一の弟子として、もっともっと精進していかなければいけない。史上最強と謳われる八冠の攻めを向こうに回して命を繋ぎ、蜘蛛糸のようにか細い反撃の光を見逃さずに逆転勝ちを収めた男の、……まあ、わりといつも上がり気味な呼吸であるとか、いつでもしょぼしょぼしている目の見据える大局観であるとか、どう見てもみっともいいものではない逃げ方や粘り方などを……。
そんな決意を固める李都の手のひらから、スマートフォンがすり抜けた。
「何してるんだ。おまえ、この記事読みたくないのか」
気が付けば、銀星が立ち上がっていた。
「え……、だって、有料記事でしょ。お母さんにお願いするの?」
「うちの両親、今日は出掛けてる。帰って来るのは夜だ」
「じゃあ、どうすんの」
コートのポケットにスマートフォンを仕舞って、
「この『北陸新報』って新聞社、東京に支局がある」
と言った。李都も自分のスマートフォンを取り出して、マップに「ほくりくしんぽう」と入れてみる。なるほど、すぐに「東京支局」というのがヒットする。
「そこ行って、お金払えばこの記事だけでも読ませてくれるんじゃないか?」
そんなに上手くいくものなのだろうか、という懐疑と、……なんかあんまそういう知らんとこ行くの怖いな、という不安の両方が、表情に現れたようだ。将棋を指していると、相手の些細な動きに顕れる気持ちの変化に対して敏感になる。銀星はすっくと立ち上がり、李都を置いて、さっさと図書館を出ていく。
「え、えー、待ってよぉ……」
慌てて追って行くと、銀星はスマートフォンを耳に当てて、電話を掛け始めていた。
「あの、えっと、お忙しいところすみません。ぼくは、大田区立東蒲田中学校の一年生の、仲村といいます、えっと、仲村銀星といいます」
背筋をピッと伸ばして歩く姿と、口にしている言葉のあどけなさが矛盾している。
図書館を出た彼の足は「ジェイかま」に向かって進んでいるようだ。
「そちらの、ホームページで見た記事を、あの、ぼくは有料記事を買う、購入することができないんですけど、読ませていただきたいと思って、思いまして、それは、出来ますか。可能でしょうか」
つっかえつっかえ。大人っぽい言葉を頑張って使おうとしているのだということが、隣の李都にも手に取るように判った。
「いえ、あの、本当にただ読みたいと、思っていまして。あの、ぼくの友人に、えっと、そちらの記事で取り上げてもらっ、いただいた、棋士の、……あ、じゃなくって、馬に乗る人じゃなくて、将棋を指す、そうです、棋士の人の、家族がいて……」
図書館から「ジェイかま」までの約五分を全部使って、用件を済ませた銀星の頬は真っ赤になっていた。それでも彼はポケットにスマートフォンを仕舞うなり、くい、と人差し指で眼鏡を上げて、こう言った。
「すくさちゅばんを見せてくれるって」




