まだ知らない
嵐のような二時間ほどが終わってみて、李都はなんだかぼうっとしてしまった。幸いにして、風邪がぶり返してくることはないようだったが。
「あら。銀星くんが来たの?」
ソファで呆然としているうちに、母が帰ってきた。将棋盤と二人分の湯呑みが並んでいるから、そう誤解するのは自然だ。
「えー……いや……」
羽村先生が来て、将棋であたしをコテンパンにのしてくれたあと、なんか、知らなかったことを色々言って帰って行った……。
説明しようとしても、何だか現実味がない。李都は確かに憧れの人と将棋を指し、二人きりの時間を過ごしたのだが、思ったほどハッピーな気持ちではないのは、病み上がりだからだろうか?
まさか。
母はパート帰りにスーパーで買い物も済ませてきたらしい。「熱下がったなら、今夜は普通のごはんでいいかしらね」なんて独り言のように言いながら生ものを冷蔵庫に入れていく背中に、
「あのさ。おっちゃんってさ、いま、能登にいるの?」
と訊いてみた。
豚小間のパックをしまおうとした格好のまま、母が顔をこちらに向けた。
「……なんで?」
「その……、おっちゃんは、地震とか、そういうのあったところに、ボランティアで行ってるって」
母の視線は台所を泳いだすえに、シンクの縁へ掴まって、酸素を求める。
「そうよ。茂さんは、だって、そう、昔からそういうことをしてきたの。あんたも知ってるでしょう、茂さん自身が震災で……、お父さんとお母さんを亡くされたから。そういう土地の人たちを放って置けないの。あんたも見習わなきゃね」
最後は笑みを取り戻して、ぐっと力を込めて押すように。
「さ、じゃー、ごはんの支度しなきゃ。ほら、あんたはまだ治りきってないんでしょ、お部屋にいなさいな」
そのまま、居間から追い出されて部屋まで押し込まれてしまった。本当はもう一つ、訊きたいことがあったのだけれど、……まあ、基本的には素直な一人娘である。ベッドにごろんと横たわって、スマートフォンを覗いたら、メッセージが一件。
『先輩が、ごめん。』
ぼんやりした一文は、もちろん銀星からのものだ。李都が返信しようとした矢先に、もう一件。
『おまえんちどこだって、電話かかってきて、風邪ひいて寝てるって言ったんだけど、構わないから教えろって。強引で非常識だから、事前に言えたらよかったんだけど。ごめん。』
夢が壊れた、なんて怒るつもりもない。やっぱり嬉しかったな、という気持ちもある。将棋を、ちょびっとだけど褒めてもらえた。……ああいうタイプの人が、わざわざお世辞を言うとも思えないから、本気で受け止めていいのだろう。
でも、褒められポイントがおっちゃん譲りの粘りであったのは、やっぱりちょっと面白くないのだけれど。
「ごめんね。急に」
いきなり掛けたからだろう、銀星の息を呑む音が聴こえて来た。
「なに」
たぶん、銀星が送ってきたメッセージ一通あたりに一個の「ごめん」には、トキノ杯の夜に言えなかった分が含まれている。同じだけ、李都も紛れ込ませる。
「あのね、ごめん、おっちゃんがさ、なんか、……ボランティア? みたいなの、してるって、知ってた?」
銀星が数えていなかったとしても、これでおあいこ。
「ボランティア……?」
「地震のあったとことか、あと、台風なのかな、洪水? とか」
「知らない。……そうなの? っていうか、そういうのは、一応一緒に暮らしてるんだからおまえのほうが詳しいんじゃないの」
「知らなかった。でも、じゃー、あんたは羽村先生が熊本の人で、三段リーグのときに地震があって、そのせいで一期目で抜けられなかったって知ってる?」
「熊本? ……怜士さん熊本の人なの?」
「ほら」
「何が『ほら』なんだよ」
李都自身もわからない。ただ、小笠原にしろ羽村にしろ、自分がそうした活動をしていることを特に公言はしていないようだ。格好よくって、ちょっと悔しい。
「あたしはさ」
深呼吸を、一つ。
「あたしは、……おっちゃんのこと、何も知らなかったなって思って。プロの中ではだいぶ弱い方でさ、でも、今回たまたま、運がよくて羽村先生に勝っちゃった。でも、そのことで、おっちゃんはあんま得してない」
得? 銀星が訝しむ。
「だってさ、八冠に勝ったら普通は、もっとチヤホヤされるじゃん。でも」
今年の将棋界は「羽村快挙ならず」で暮れて行く。
小笠原のジャイアントキリングを讃える声は未だ見ることはできない。
羽村と小笠原のファンの数には天と地ほどの開きがある。話題の主語は常に羽村であるし、なんなら、小笠原を快挙を阻んだ「悪役」と憎たらしく思う向きもある。
言うまでもなく、李都もさっきまでその一人だった。
美しくて強くて人間的にも優れている(に違いない)羽村先生を負かすなんてと、思っていたのであるが、羽村怜士という人物の、等身大の姿を目の当たりにして、ちょっとぐらい宗旨替えをしてもいいのではないか、なんて気持ちになったのである。
「……じゃあ、小笠原先生にちゃんと『おめでとう』って言ってあげなよ」
「うー……ん、まあ、それはあんま言いたくないけど……。まだちょっと、足りないっていうか……」
「足りない?」
李都が尊敬していた、いや一応まだしている羽村が、おっちゃんを尊敬していると言ったので、李都の中における「おっちゃん株」はだいぶ上がっている。けれど、気恥ずかしさを克服して「おめでとう」と言えるかとなると。
「なんかこう、みんなにスゴイスゴイ言われてるの見たわけじゃないからさ。そういうの見れば、あたしも『へーすごいな』って思うんじゃないかなって気ィするんだけど」
「……それだいぶ程度低いと思うよ」
「ていっ……、そう、そうなのかな……、でもさぁ、やっぱり、なんかこう……」
おっちゃんという人は、李都から見ると、なんというかあんまり尊敬の念が湧いてこないのである。無論、プロの棋士であるという時点で「すげえ」とは思うのだけれど、家にいるときにはだらしない姿ばかり晒しているもので、やっぱり何かこう、ほんのりとしょうもないおっちゃんなんだよなぁ、という気持ちを拭うことが出来ない。
師弟という関係ではあるのだろう。それでも「おっちゃん」と呼び続けてしまうことには、李都なりの明確な理由があるのだ。
「あと、もう一個ね、……まだあと、なんかある気がする」
「……なんかって何」
「いやそれわかってたら言うんだけど。……お母さんにさ、さっき、おっちゃんボランティアしてきたの、全然知らなかった、みたいなこと言ったら、なんか慌てて誤魔化そうとしてたんだよね」
誤魔化す? 銀星に訊き返された。自分の言葉にしてみて、……そうだよな、やっぱりあれ、ちょっと誤魔化そうとしてた、と李都は思いを強くする。
「なんか、あたしには教えないでおこ、みたいなさ」
なんだよそれ……、と声に薄い困惑が滲んだ。
おっちゃんがボランティアに積極的な理由、高い熱量でそれに励んでいて、それこそ羽村八冠にも尊敬されているということはわかった。
わかったけれど、その理由がわからない。お母さんが言ったように、「自身が被災したから」なのだろうか? 被災した人がみんなおっちゃんぐらいの熱意で活動するボランティアになったら、世の中ってもうちょっといい感じになっていないか。
もちろん、李都は多くの人がそうしない理由についてはわかっている。みんな忙しくて、お金もなくて、余裕がないから。
小笠原茂は棋士という商売柄、当面のお金に困ることは考えにくい。
しかし、自由にボランティア活動が出来る理由として大きいのは、彼が芦原家の居候だからではないか。
「だったら……」
銀星の声が、止まった。ちょっと唇を尖らせている気配があったな、とは思った。けれど、その唇がひゅーんと元に戻るような間があって、
「なんでもない」
と言葉が継ぎ足される。
「なに」
「いや……、いい、なんでもない」
「なんだよ気持ち悪い、言ってよ」
「なんでもないってば……、だから、その……」
また、唇がにゅーんと尖っていく気がする。
「尊敬するための、材料が欲しいって言うんなら、なんか、そういうの、調べてみりゃいいだろって……」
「調べる? どうやって」
「……ネットとか。あと……、その、図書館には、新聞の、スクサツバンっていうのがあるらしい」
「なにそれ。スクシャツバン?」
「おれもよく知らない。ただ、……覚えてないか? 小学校のときに誰かが自由研究で、過去三十年の全国の天気調べましたって」
ああ、なんか、そんなやついた気がする。その男子は図書館に行って、そうだ、「新聞のスツサクバン」とかいうのを三十年分を調べたと言っていたっけ。東京の気温がどんどん上がっている、というのを数値的傾向にまとめた力作で、先生に褒められていた。
「昔の新聞に、小笠原先生がそういう活動して褒められてるの見付かるかもしれないだろ。それ見たらおまえだって、先生のこと見直して、素直に『おめでとう』って言えるかもしれない」
なんだか、ムキになっているみたいに聞こえる。李都がおっちゃんに何と言おうが、銀星に何かのメリットがあるようなものでもないだろうに。
けれど、李都自身、もう少しおっちゃんについて知りたい気持ちはある。
棋士としてのおっちゃんというよりは、人間としてのおっちゃん。
そもそもどうして、おっちゃんはウチにいるんだろう?
李都はさっきお母さんに、そう訊こうと思ったのだ。
お母さんはそれを察知して、急に話を逸らしたように感じられた。ああなった母親から、求めるものを引き出すのが至難の業であることは、経験上わかっている。
だとすれば、……自分で調べる、というのは確かに妥当なことではある。めんどくさいな……、という気持ちに押し負けなければ、の話だ。
「……おれ明日、図書館に行く用事がある」
ぶっつり、何だか必要以上に気の進まなさそうな声で銀星が言った。だから、きっとこう言って欲しいのだろうと、李都は察する。
「じゃー、手伝ってよ」
数秒、すぅー……、という音が聴こえて来た。
「……別に、ついでだからいいけど」
銀星の言葉は、しっかり溜めた息と共に膨らんで李都の耳をくすぐった。




