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友達

 言うまでもなく、李都に将棋を教えたのは小笠原のおっちゃんである。

 おっちゃんが「棋士」という仕事をしている人なのだということは、なんとなく聞かされていたが、おっちゃんが家にやってきた当時の李都は、駒の動かし方だって知らなかった。一人遊びのおもちゃに「さんすうセット」の中のおはじきを使っていた幼き日の李都は、「変な形の怖いおはじき」ぐらいの認識しか持っていなかった。

 いま思い返すと笑ってしまうが、将棋の駒が、昔は怖かったのである。

 だって、五角形でごつごつ(とが)っているし、何だか「銀将」とか「飛車」とかよくわからない感じがことさら怖い字体で書かれているし、そうっとひっくり返すと赤い字でまた何やら読めない字が書いてある。

 とりわけ、大量の赤い「と」は李都にとって夜中におトイレに行けなくなってしまうぐらいの恐怖の対象であった。

「将棋っていうのは、将棋っていうのはですね、あの、ゲームなんです。り、李都さんは、トランプやオセロはわかりますか。あれと同じ、平和で、優しいゲームなんです」

 李都が将棋の駒を恐れていることを知った(憎たらしいことにあのおっちゃんは、李都が夜の廊下の水たまりの上で泣いているときに一番に駆けつけたのだ)おっちゃんは、額の汗を拭き拭きそう教えてくれた。

「この、『と』というのはですね、最初は、とってもちっちゃくて、将棋では一番弱い、歩という駒なんですけども、それが、こう、相手の陣地まで攻め入ったときに、ひっくり返って、とっても強くて立派な『金』と肩を並べる、そういう存在になった駒なんですね。『と』というのは、えーと、なんでしょう、昔の人は筆で、サラサラサラって字を書くもんですから、字がだんだん崩れていきますね。歩は将棋の駒で一番たくさんありますもんですから、たくさんたくさん書かなきゃいけないってなったときに、『金』がだんだん、『今』って漢字になっていってですね、それがさらに崩れて、ひらがなの『と』になっちゃったと、そういう説があるんですね」

 六月の蒸し暑い夜だったことを、李都はよく覚えている。おっちゃんと一対一で話した、最初の記憶である。

 当時の李都の周りには、こんな大人は一人もいなかった。見た目はおっちゃんで、おっちゃという種類の人はみんな、穏やかで落ち着いているものだというイメージを持っていた。お父さんのお兄さんのおじさんも、お母さんの弟のおじさんも、みんなとても落ち着いている。

 けれども小笠原のおっちゃんは、まるでこどもみたいに早口で、声が高くて、(しゃべ)りながら何度も何度も(まだた)きをする。

「ですので、あの、李都さん、将棋の駒っていうのは、ぜんぜん怖いものでは、ありません。ワタシはですね、毎日、将棋の駒と一緒に暮らしていましてね。朝から晩まで、頭の中に将棋の駒がいるもんですから、みんな友達みたいなもんでして、あの、ワタシにはですね、人間の友達はあんまり多くいないんですけども、代わりに将棋の駒が、友達になってくれているんですね」

 将棋の駒は友達。

 李都が観察していると、おっちゃんは、時間さえあれば将棋盤の前に座っている。おっちゃんが使っているのは折り畳み式の将棋盤にベニヤ板に機械でプリントしただけの安い駒である。

 おっちゃんの太い指先に摘ままれた駒が盤に下ろされて、ぺし、みたいな薄い音を立てる。

 自分の置いた駒を見つめて、おっちゃんはぶつぶつと、分厚い唇を動かしながら何ごとか呟いて、首を捻り、何分もそのままでいる。

 変な人が家にいる。けれど、李都には不思議とおっちゃんが不快ではなかった。将棋の駒への恐怖心も、おっちゃんみたいに害のない、動きのおっとりした人の指先で簡単に摘ままれているのを見ているうちに、だんだんと薄れていった。何より、おっちゃんと同じぐらい、当時の李都には友達がいなくて、……だから、そう、李都も、将棋の駒と友達になりたいと思ったのだ。

 最初のうちは、はさみ将棋。

 それから、駒の動かし方を習って、初めて指した将棋は、接待将棋そのものであったけれど、おっちゃんに勝った。

 おっちゃんは血相を変えてお母さんのところへ行って、

「李都さんが、ワタシに勝ちました! 李都さんにはものすごい才能があります!」

 とばかでかい声で言ったのだ。

 李都の勝利を大袈裟(おおげさ)に祝福したくて言ったのだろう、……李都だってそれぐらいの冷静さは持っている。一方で、「もしかしたら」なんて気持ちを抱いたことも事実だ

 幼少期の、そうした成功体験と思い込みは少女自身に何よりもの力となる。なにせ、学校で友達を作れなかった少女にとって、人生で初めての成功体験であったのだから……。

 李都は広島に生まれた。二歳のころまでは、山間部で過ごしていた、らしい。らしいというのは、まだものごころのつく前のことで、「これがあんたの生まれた家」なんて、裏山をバックにした立派な日本家屋の写真を見せられても、ピンと来ない。李都の記憶が始まるのは、その写真の家とは全く似ても似つかない、狭くて小さな平屋のアパートで暮らしているとき。幼稚園には通っていなくて、いつも同じアパートの近所の子と遊んでいた。

 そんな幼児期を過ごした李都であったものだから、小学校に上がるタイミングで、東京のこの家に引っ越してきてからは苦労した。他の子が当たり前にちゃんと出来ることが一個も出来ないし、授業中におしっこを漏らしてしまったし、何かしゃべれば訛りが変だと嗤われるし、生まれつきの髪色は揶揄われる、……毎日学校へ行くのが嫌で嫌で仕方がなかった。

 そんな少女にできた最初の友達が、そんなタイミングで居候になった「おっちゃん」であり、将棋の駒である。

 そして、二番目の友達が、仲村(なかむら)銀星(ぎんせい)である。

 美濃湯の暖簾を潜って湯を浴び、ほこほこの身体の李都が二階に上がっていく。二十畳の大広間の奥半分ほどが「大田銭湯将棋クラブ」であり、畳の上にテーブルと座布団が並べられ、人々が将棋に興じている。

 銀星はいつもの通り一番奥のテーブルで盤を前に、腕組みをして、憂鬱そうな顔で思索に(ふけ)っていた。

 日曜日の夜は李都も銀星も家族の時間を優先させる、月曜日は美濃湯が定休日。そして先週の土曜日は、銀星が家族旅行でどこかへ行ったとかで、彼と将棋を指すのは四日ぶりということになる。

 常連のおじちゃんたちに会釈(えしゃく)をして、「トキノ杯」のことに触れられる前に足早に銀星の向かいの座布団に腰を下ろすなり、

「げっ」

 と声を上げてしまった。

 盤面はまさに、「トキノ杯」で羽村怜士が間違えた局面を再現しているのだった。

 閉じていた目を開けて、銀星は冷めた目で李都を認め、

「……強かったな、小笠原先生」

 と独り言のようにつぶやいて、駒を初期位置に並べ直す。

「……羽村先生が負けたのは、たまたまだよ。おっちゃんが強くて羽村先生が弱いってことにはなんないでしょ」

 李都は唇を尖らせて言ったが、銀星は耳を貸さない。

「おまえはあの将棋を、そう見たのか?」

 冷たい目を、短く李都に向けて、溜め息を吐いた。

「あの条件なら、怜士さんは十回やっても十回負けるだろうな」

 小学校時代からずっと同級生である。幼馴染、と言ってもいい。同時に、李都にとっては終生のライバルが銀星である。過去、何度となく区の子供将棋大会で準優勝に終わっているのは、いつも決勝で銀星に敗れてしまうからだ。

 彼はもう既に、プロ棋士を目指す猛者たちが集う「奨励会」に所属している。まだ声変わりしていなくて、背だって李都とそんなに変わらない。けれど、「プロ棋士になる」という夢を彼が口にしたときには、凄味と迫力を持って響くのだ。

 小学校三年生のときに、彼は野々垣善五郎に弟子入りを認められた。野々垣といえば将棋界の重鎮、そして棋聖、王位といったタイトルを獲得したこともある。

 そして何より、羽村怜士八冠の師匠でもある。

 つまり、羽村怜士と仲村銀星は、兄弟弟子という関係なのである。

 それが、李都は羨ましくって仕方がない。だってあの羽村怜士の弟子だよ? 羽村怜士と同じ空気が吸えるってことを想像するだけで、李都は嫉妬で頭がくらくらしてくる。あたしも羽村先生と吸いたい! 同じ空気!

「おまえの先手だ」

 銀星の手の中で踊った歩が盤に転がる。

「おねがいします」

「おねがいします」

 ピンクのネイルで飾った指先が、お決まりの「7六歩」を指して、対局が始まった。

 将棋が始まると、一切口は開かない。

 黙々と、駒の音、そして一手指すごとにチェスクロックを叩く音だけが響く。

 場所柄、リラックスした格好の人が多いのだが、何せ野々垣の最後の弟子である銀星と、一応区内では彼に次ぐ実力の持ち主である李都の対局が始まると、ぴりりとした緊張感が場に走る。

 まもなく、二人の盤の周囲には人(だか)りが出来上がる。無言の二人の指先で行き交う高度な電撃の音を聴き取ろうと耳をそばだてて。

 自分たちを取り囲む人の気配、声に出さないまでも漂う呼吸に混じる感情の起伏、……盤面に意識を傾けながらも、肌に届く。

 李都が今日に限って、初めて銀星と盤を挟んで向き合ったときのことを思い出したのは、憧れの羽村八冠が、一応は自分の師である小笠原茂に敗れたところを見てしまったからか……。

 なんだこいつ……。おい、なんかインチキしたんだろ、ズルしたんだろおまえ!

 激した口調で李都をなじった男子の名前はもう思い出せない。その男子が、悪意のこもった腕を伸ばしてきたとき、反射的にきゅっと身を縮めた。

 ばちん、という音が響く。

 しかし、李都の身体のどこにも痛みが走ることはなかった。音は、李都に乱暴をしようと伸ばされたその男子の手が、銀星の手のひらに弾かれて鳴った音だった。

 真っ赤に充血させた目いっぱいに涙を溜めて、見ているこちらが恐ろしくなるほど唇を噛み締めて、けれど、銀星は、

「おれが負けたんだ」

 暴力を振るおうとした男子を、周囲の人間たちを、睨み渡して言ったのだ。

「おれが負けたんだ。こいつのほうが強い。こいつのほうが、おれより、強い」

 そこまで言って、彼は声を上げて泣き始めた。

 これは小学校一年生の、二学期のことである。夏の始まりにおっちゃんから将棋を教わり、夏休みいっぱい勉強をして、文字通り、駒と友達になった直後という時期。

 学校にも、お守りに、とおっちゃんからもらった駒の形のキーホルダーをランドセルに付けて登校して、……それを、当時もうすでに銭湯将棋クラブで「神童」と持て(はや)されていた銀星に見(とが)められて、放課後、勝負を挑まれたのである。

 銀星との勝負は、おっちゃんとのそれとは違う、遥かに恐ろしく、緊張感の(みなぎ)るものであった。

 けれど、李都は怯まなかった。

 将棋盤の上でだけは、大勢の男子に応援される銀星とも、対等に向き合って、戦って、勝つことができた。

 ……今にして思うと、あのときの銀星は、ちょっと偉かったな、なんて思うのだ。

 よそから来た女子である李都に対して、素直に負けを認め、賞賛の言葉さえ発したのだ。

 小学一年生にとって、感情の奔流を押し留めて、それを真っ向から認めるのはとても勇気の要ることだったはずだ。いま中学生に上がり、ときどきは、クラブにやって来る小さな子に指導する立場にもなったから、李都にもわかる。幼くともそういうことが出来る、銀星は当時から将棋に対して真剣に向き合っていたのだろう。

 対して李都にとってあの一局は、人生の転機……、と言っても大袈裟ではない。強い男子である銀星を打ち破ったことで、李都は一目置かれる存在となって、以降、彼女の学校生活は一変したのである。

 あれから、たびたび勝負を挑まれた。李都のほうがはっきり強かったのは二学期のうちだけで、三学期に入ると勝ったり負けたりになった。二年生に上がってしばらくは、銀星が完全に上回ったが、夏休みを経て秋になるころには、また互角の戦いになり……。

 中学に上がってからは、だいぶ水を開けられてしまった。

 銀星は、まるで羽村怜士のような恐ろしい切れ味の手をどんどん繰り出してくる。李都はいつも防戦一方。大いに攻められて、あちこちを意地悪くちくちく突つかれて、それでも耐え忍び、堪え切って勝つことがたまにあるぐらい。

 局面は勝負所を迎えていた。銀星が、銀星らしく、躊躇(ためら)いなく飛車を犠牲に李都の守備陣をを崩しにきた。岡目から「おお……」「へぇー」と声が漏れた。

 踏み止まることが出来なければあっという間に崩されてしまう。

 一目、指すとすれば敵陣に踏み込んでいる馬を自陣に引いて守りを固めること。こちらの攻めは細くなるし、しばらくはいいように攻められることは避けられないが、形勢としてはまだ難解である。羽村・小笠原対局がそうであったように、粘りの中でカウンターを決めるチャンスが巡ってくるかもしれない。

 また、そうした将棋こそ李都の真骨頂である。

 けれど、李都は馬を引くことはしなかった。

 いや、出来なかった、……それとも。

 守りの陣形が崩れることを知りながら、金で飛車を取ったことで、生じた(ほころ)びを見逃してくれるほど、銀星は甘くない。そこから十五手ですっかり勝ち目がなくなり、戦意はかき消えた。

「……負けましたぁ……、はー……」

 駒台に手を置いて投了した李都に、表情を変えずに駒を並べ直していく。やはり、飛車を金で取ったシーンだ。

「金で取ったけど、馬引き付けて取るのは考えなかった?」

「馬引いちゃったらもう攻めがなくなっちゃうから」

「でも、こっちだって駒渡さないと攻めが繋がらないからな」

 取り囲む人々は、二人の静かな声でのやり取りに聞き耳を立てて、「ほう」なんて溜め息を吐いている。だが、銀星が言葉を止めて、じっと盤面を見つめるに至って、三々五々、それぞれの対局に戻って行った。

 銀星が小声で、

「受け将棋は、気持ちを切らしたら終わりだろう」

 と(とが)めた。

 李都は(あご)を引き、盤面に視線を当てたままでいる銀星を見る。男子にしては長い睫毛(まつげ)は微動だにしない。

「……小笠原先生は、最後まで気持ちを切らさなかった。怜士さんはあのしぶとさに屈したんだ。だから小笠原先生のほうが強かった」

 わかっている。

 銀星が強いことは確かだが、それでも同じ中学生、同じ人間である。いまでも十回やれば、二回か三回ぐらいは李都が勝つ。李都を超えようと銀星が鍛錬するのと同じほどの熱量で李都も勉強に励んできたのだから、気持ちの部分が勝敗に大きく影響する。

「受け将棋は」

「わかってるんだよぉもぉうるっさいなぁ……」

 自分勝手な大きな声を、美濃湯の二階に響かせてしまった。感情のコントロールができない人間に将棋は指せない。もっと言ってしまえば、将棋を指す資格がない。これでは小学一年生のほうがずっと立派だ。

 天井を見上げて、両手で顔を(ふさ)いで、「ごめんなさい」と言った。頬が耳が、()たれたように熱かった。

 冷酷無比な攻め将棋。

 羽村怜士の棋風は、一言でそう表現される。

 対して小笠原茂は、ねちっこく、暑苦しい受け将棋。

 師匠や兄弟子の棋風をそのまま受け継ぐわけではないにしても、一番そばにあって手本にする対象なのだから、影響を受けないことはあり得ない。

 銀星が羽村怜士によく似た鋭い攻めを繰り出すタイプの棋士であるように、李都は、小笠原茂のそれにそっくりの、泥臭くてねちっこくて、爽快さとは無縁。

「……ごめん。今日は、あたし無理だ、なんか、ダメだ……」

 今夜、こんなに気持ちの粘りを発揮できなかったのは、羽村先生が負けたから、……よりによって、小笠原のおっちゃんに負けたからに違いなかった。

 なんか、やだった。

 おっちゃんみたいな将棋を指すのは、やだった。

 大好きな羽村八冠を下した「受け将棋」に対する、薄らとした厭気(いやけ)のせいで、普段指さない手を選んでしまった。形勢はそこから、坂道を転げ落ちるように悪くなった。

「……そうだな。おれも、今日は調子が悪い」

 銀星が溜め息を吐いて、俯いた。勝っておいて「調子が悪い」もあったものではない、とまた李都は鼻白みそうになったが、銀星の手にいつもの鋭さがないように思われたのも事実。

「……あたしが馬引いてダメかもって思ったなら、飛車切らなきゃよかったじゃん」

 李都の言葉に、「そうだな」と小さな声で銀星が返す。大胆な踏み込みだが、冷静さに欠けるという指摘も出来よう。李都がその暴挙を咎められなかったことが敗着となったわけだが、正確に受けていたならば……。

 棋は対話なり、という言葉がある。

 おそらくこの言葉を嫌いな将棋指しはいないだろう。指し手の一つひとつには、()められた意図があり、それはメッセージである。それを双方に受け止め、共通のルールの枠の中でやりとりし合うのが将棋なのだ。

 してみると、今日の李都は普段の自分とは違う言葉遣いと態度で銀星と向き合っていた。その時点でもう、ちっとも平常心でなかったことは明らかであるし、銀星は銀星で、やけに焦っていたのである。その食い違いの中で、意地を張って負けたのが李都だった。

 二人の練習対局は二局、三局と続き、九時を回るころクラブの席主に「そろそろ帰んなさい」と促されて帰途に就くのが常であるが、今夜は将棋のように交互に溜め息を吐きながら駒と盤を片付けて、とぼとぼと「美濃湯」を出た。

「……帰らないのか」

 李都が、家とは逆向きに歩き始めたから、銀星の声が背中に投じられた。

「いいよぉ、付いて来ないでも」

 振り返らずに、李都は言った。

「おまえはよくても、おれがよくない」

 何かをシャカシャカ鳴らしながら、李都の視界の外で銀星が答えた。

 女子一人の帰り道は危ないからと、いつも銀星が家のすぐ近くまで送ってくれるのである。

 別に銀星はそうしたいとは思っていないだろう。他のどんなことをしているときよりも、将棋盤の前にいるときが一番楽しそうにしている。両家の保護者が将棋を禁じるという残酷な決断を下さない代わりに、せめて帰り道に危険のないように銀星が李都を家の前まで送るというルールを定めた。

 率直に言って銀星はボディガードとして頼もしい存在ではない。痩せっぽっちで色白の銀星と、女子の李都、どっちも同じぐらいに夜の独り歩きはリスキーで、二人が並んで歩くことで多少なりとも危うい目に遭う懸念を減らしているのだ。

「……いいのに。マジで、付いて来なくたって。ただ気分転換したいだけだし」

 二人の住む蒲田という街には、二つの駅がある。一つは「美濃湯」からもほど近い、京急蒲田駅。もう一つは、そこから十分ほど西に入ったところのJRと東急のターミナルである蒲田駅。

「そんなにむしゃくしゃするのか、おまえの師匠は勝ったんだぞ」

 栄えているのは二人が「ジェイかま」と呼ぶ蒲田駅のほうで、飲食店が軒を連ね、情緒ある居酒屋も多く存在する。

 つまり、飲兵衛の街だ。

「みっともない将棋でね」

「あれが小笠原先生の将棋だろう」

「たまたま、たまったま持ち時間の短いレギュレーションの将棋だったってだけだよ。羽村先生はトキノ杯出るの初めてだったし」

「でも、トキノ杯勝たなきゃ全棋戦完全優勝ってことにはならない」

 シャカシャカ、彼の言葉の合間に、耳障りな音が鳴る。

「おれは怜士さんより、小笠原先生のほうが優れてるところ、いっぱいあると思う。怜士さんは、おまえが思ってるほど立派な人じゃない」

「おっちゃんには、立派なところなんて一個もないよ」

「それはおまえが小笠原先生のことを公平に見ていないからだろ」

 李都が黙り込んだからだろう。銀星は李都の左斜め後ろを、同じく黙って付いて来る。さっきから、シャカシャカ、何が鳴ってるんだろう?

 周囲は賑やかさを増していた。

 この季節、もう少し時間が経つと、忘年会終わりや二次会前の酔っ払いが入り乱れて惨状を呈するのだが、午後八時、幸いにして人々はまだ、広場にあしらわれた青白いイルミネーションの下で、秩序を保った動きをしている。 

 明後日はクリスマスである。だからと言って、何が起きるわけでもない。本当だったら、羽村怜士の偉業を受けて、李都自身も大いに心を沸き立たせて冬休みに入り、新しい年を迎えるはずだったのに、よりにもよっておっちゃんが勝ってしまったから。

 李都は、ちらりとスマートフォンのネットニュースを見る。

「羽村敗れる 快挙達成ならず」という記事には局後のインタビューを受ける羽村怜士のすっきりとした表情と、「まだまだ精進しなければいけないということだと思います」という(いさぎよ)い敗戦の弁が語られていた。

 一方、小笠原茂について触れられているのは、

「小笠原五段は前年『トキノ杯』で準決勝敗退。八冠を相手の初勝利で、前年の雪辱を晴らすこととなった」

 という、ただそれだけ。

 そんな現実を改めて受け止めた目で、キラキラしたものを映しても、自分の中がキラキラ輝き出すということはまるでなかった。

 斜め後ろに立っている銀星が、くしゃみをした。風邪でもひかれたら、どんな文句を言われるかわかったものではない。(きら)めきから(きびす)を返すとき、彼が李都と同様の「お風呂セット」の他に、何か小さなものの入ったビニールの袋を左手に提げているのに気付いた。

「なにそれ」

 李都が訊いたら、

「別に」

 と彼は自分の身体の(かげ)に、それを隠した。なぜだかほっぺたを赤くして、それから急に怒ったように、

「早く帰るぞ。寒い」

 と、偉そうに言った。

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