彼女の悪役
芦原李都は悲鳴、
「うっがぁあああ!」
あるいは獣の咆哮に似た声を上げて、フローリングへ仰向けになった。ボーダーのソックスが宙を蹴った拍子にデニムのスカートが捲れそうになり、ずっと抱えていたクッションは跳ね上がって、
「あーもぉなんでぇ……ッギャ!」
悲嘆の声を上げた顔面に落ちて来る。
東京都大田区蒲田、二階建て一軒家のリビングでの光景である。
「もうすぐごはんなんだから、あんまりバタバタしないのよ。終わったんなら、ほら、お箸とかお茶碗とか並べて頂戴。おうちのことちゃんとしなきゃダメよ」
至極真ッ当な指摘を受けたからには、いつまでも沈んではいられない。顔からクッションを剥がして、なお「あー……もー……なんでぇ……」と呪詛を呟きながらも、鰤の照り焼きを仕上げている母の背中の棚を開けて茶碗と箸、お母さん、お父さん、あたし、それから、おっちゃんの分。
……を並べるとき、ちょっと動作が乱暴になった。
「ぐう……、なんで、なんで羽村先生あんな見落としをしたかなぁ……。時間? 時間がなかったから……?」
テーブルクロスが市松模様であるもので、つい先ほど見た局面が蘇ってしまうのは自然。「こっちだったら……、ねぇ、こっちだったらいいわけでしょ、なんで……」とぶつぶつ呟きながら、生まれつき栗色の髪先を人差し指に巻き付ける。
危うさがないわけではなかった。
羽村は小笠原を追い詰めていたが、攻めの中で駒を渡しすぎているきらいはあった。小笠原のあまりのしぶとさに、表情に顕すことこそしなかったものの、羽村の内心にも焦りがあったのだろうか。そんな中で窮鼠となった小笠原が不意に繰り出して来た攻めの手に、つい致命的な悪手で応じてしまったのだろうか……。
悪手というものは、一目、好手のように見えることがしばしばある。ゆえにこそ恐ろしいものであるということを、李都もよく知っている。
小笠原は「神の子」羽村怜士が悪手を指す可能性に一縷の望みを賭けて、あの悪足掻きを止めなかったのか。
そうだとすれば、持ち時間を使い切り、一手十秒に追われる中、小笠原茂はあの瞬間、羽村怜士を凌駕したとも言える。
「んーな……、バカな……」
しかし、羽村が小笠原に敗れたのは事実。「バカな」ことが起きてしまったのだ。羽村怜士は李都の尊崇の対象。もしも宇宙に、地球侵略を目論む将棋つよつよ星人がいるのならば、そうした恐ろしい存在から地球を守るべく戦ってくれるのが羽村怜士であると思っている。
そしていつか、あたしも、まあその、地球の命運を決するその将棋が団体戦だったとして、次鋒、いや中堅ぐらいに構えられるような棋士になりたい……、と思っているのが芦原李都、中学一年生、早生まれなので十二歳。
区内の子供将棋大会では何度も準優勝しているし、都内でも五本の指に入る棋力の持ち主であるというのが、客観的評価。
将棋界の将来を背負って立つ女を自称している。
自称するのは自由だし、人には等しく夢を見る権利があり、またその夢は、中学生ぐらいならめちゃめちゃでかくたっていい。
……んじゃない?
と、李都の皮肉屋の友人は冷めた目で言ったものだ。
「ほら、出来たわよ。いつまでも突っ立ってないで……。李都」
「っは」
お尻を突つかれて我に返る。李都の大好きなお母さんは、ドラッグストアのパートで家計を支えながら、李都が将棋に打ち込める環境を整えてくれている。おうちの手伝いもちゃんとしなければいけないし、試験でおかしな点を獲ってきたらお説教を食らう。将来どんな存在になろうと、現状は単なる女子中学生なのである。
「李都が羽村さんのこと大好きなのは知ってるし、気持ちはわかるけど、茂さんのことを恨んじゃダメよ? 優勝なんて初めてのことなんだから、祝ってあげなきゃ。私たちは家族みたいなものなんだから。ねぇ?」
香ばしい鰤の皮をぎゅうと噛み締めて、李都は頷いた。
母の目は、父ともう一人、空席で伏せられた茶碗に向けられている。釉薬が描き出す深みのある青が、素朴な砂色とマッチしていて、李都の目にも美しさが理解できる茶碗は、熊本の小代焼である。
いいでしょうこのお茶碗。この釉薬の加減がねぇ、ウフフ。あ、李都さんの分もありますからね、お茶碗に湯呑みに箸置きも。
熊本の知人が送ってくれたという陶器のセットに、おっちゃんが大いに嬉しそうに言っていた顔を思い出す。
おっちゃんは小学一年生の夏に芦原家の居候として転がり込んできてからずっと、この家の玄関脇の四畳半で暮らし、大体部屋に引き篭もっている。たまに李都が覗くと、だらしない格好でアニメを観たり漫画を読んだりしていることさえあるおっちゃんの名前は、小笠原茂。
ついさっき、李都の崇拝する羽村怜士の夢を砕いた、李都の遠い親戚である。
血のつながりはなく、家系図を右往左往した先、心細い糸で繋がっている人。どこの家にもああいうおっちゃんが居候しているものなのだろうと思い込んでいた李都が、どうもレアケースらしいぞと気付いたのは、五年生のとき。
なんでおっちゃんはウチにいるのとお母さんに訊いたら、「昔、私たちが広島にいたころにお世話になったのよ」というぼんやりとした答えしか返って来なかった。ともあれ李都は彼のことをずっと「おっちゃん」と呼び、彼は李都を「李都さん」と敬称付き、敬語で接する。
将棋以外は何をやらせてもからっきし。鈍重で、ダサくて、非の打ち所がないほどおっちゃん。でも、お母さんが言った通り、家族みたいなものなので、嫌いだとは思わない。
「それにね……、茂さんが勝って喜んでる人だっていっぱいいるんだから」
えー……? とはっきり疑う目を、李都はした。
推しの棋士は誰ですか、と渋谷の女子中高生百人に訊いても「小笠原茂」の名を挙げる者はいないだろう。新宿と池袋に範囲を広げてもいないはずだ。羽村怜士八冠を筆頭に、若くて実力があって顔もいい棋士の名に指を屈していって、よほどマニアックな将棋ファン、なおかつ好きな将棋スタイルが「粘り強い受けが主体の振り飛車」であったなら一人ぐらいはいるかもしれないが……。
「そんなの、いないよ……、いるわけないじゃん、おっちゃんのファンなんて……」
少なくとも、熱烈な羽村推しの女子中学生からはこの通り、特に今日、相当なヘイトを集めることとなったおっちゃんである。
しかし母は、小代焼の茶碗から娘に顔を向けて、
「ここにおるよ」
と、誇らしげに、少し訛って言った。
母は、そして父も、広島出身である。基本的にこの通り柔和な人だがカープが負けると機嫌が悪くなる。
「ごちそうさまでした。……お風呂行ってくる」
立ち上がって、原色ピンクのパーカーを羽織り、タオルと着替えの入ったいつものスポーツバッグを肩から掛ける。母は「湯冷めしないようにね」と言いながら、夜の街に出ていく娘を玄関まで見送ってくれる。この家にもちゃんと風呂はあるのだが、李都はほとんど毎夜、近所の銭湯まで足を運ぶ。
彼女の住む大田区には銭湯が多く、バリエーションに富んでいる。家から近い順に三軒目の「美濃湯」が、彼女の夜ごと外出の理由。
この銭湯の二階休憩所に「大田銭湯将棋クラブ」があるのだ。




