陥穽の一手
見る将、指す将、将棋よりはチェスが似合いそうな貴婦人、いつも接待将棋で勝っている老政治家も、駒の動かしかたしか知らないフリーターも。
この星の、将棋という言語を解する人々すべて……。
のみならず、星座の間を船で泳ぐ将棋つよつよ星人さえも、固唾を飲んで見守る駒の乱舞が紡ぐ、盤上の物語。
将棋界年末の大一番、「トキノ杯電撃戦」決勝の舞台は、宮城県郊外の温泉旅館「千望荘」桔梗の間。局面は既に終盤を迎えていた。
相対する二人の棋士、上座には、羽村怜士八冠。千望荘自慢の庭園にいま降り積もる雪にも似た冷たい白皙、瞳の光は氷柱のように鋭い二十六歳。
紛れもなく将棋界最強の男。
この年、主要棋戦全てに出場し、全てで優勝。年の瀬、初出場となったこの年末の大一番・トキノ杯電撃戦を前に、「年間全棋戦優勝」という非常識な快挙へ王手を掛けている。
対するは、小笠原茂五段。
その周囲だけ湿度が高まっているかのように汗の雫を浮かべた禿頭。しばしば盤に覆い被さるように前のめりになるのだが、そのせいで後頭部が画面に入り、中継のプロデューサーの顔を顰めさせている、四十八歳。
棋士生活も晩年に差し掛かっている男は、順位戦などではパッとせず、「万年五段」と揶揄されることも多いが、持ち時間の短い棋戦には滅法強い。この「トキノ杯」は持ち時間各五分、その後は一手十秒というレギュレーションで行われるが、前年も準決勝まで駒を進めていた。
とはいえ、両者の対戦成績は羽村の五勝〇敗。快挙の引き立て役に終わるだろう……、そう見られていた。
中盤以降、形勢は羽村の大優勢。中継映像に添えられたAIの形勢数値も、羽村優勢を示す赤に染め上げられ、小笠原の勢いを示す青は、先ほど記者の一人が入室する際に閉じた襖の隙間ほどしかない。
しかし、崖っぷちに追い込まれてなお、小笠原は粘る。
羽村の飛車が盤面を切り裂き龍となり、着実に包囲網を狭めていく中、小笠原は丸裸の玉に死線を潜り抜けさせる。命脈を繋ぐためなら飛車も角も平気で切り飛ばしたかと思えば、こけおどしのような攻めを仕掛ける。
ほんの一手、玉を逃す升目一つでも間違えれば、たちまち勝負は決するという局面が、果てることなく続いている。
しかし、小笠原玉は捕まらない。
鰻のようにぬるぬる、ぬるぬる、彼の玉が羽村の網をすり抜ける様子を、口さがない観戦者たちは「無様な悪足掻き」と評した。別室で大盤解説を担当している羽村の師・野々垣善五郎は、愛弟子の快挙達成を確信して「いやまあ、最後まで指そうという小笠原さんの態度には敬意を評しますよ」と労いの言葉さえ発する。
そんな中、総手数が百五十に届こうかというときだった。
「アッ……アッ……」
小笠原が分厚い唇を震わせて声を上げた。
彼の持ち時間は既になく、一手十秒の秒読み。
対して羽村はまだ一分半を余しているというタイミングで、奇跡のような勝ち筋が、か細いながらも光る蜘蛛糸となって、小笠原の前に舞い降りてきたのである。
その筋には大盤の横に立つ野々垣も、聞き手の女流棋士も、ほとんど全ての将棋ファンも、……そして羽村も、気付いていなかった。
ただ、将棋AIの示す天秤だけが、硬い音を立てて小笠原の側へと傾き、グラフを青へと染めた。
それはまるで、愚かしく泥臭く、いっそ醜く、人間の域を出ない者が、命乞いに哀れみたっぷりに踊った姿を見て、意地悪な将棋の神様が戯れの情けをかけたかのよう。
あるいは、悪魔に魅入られた天才が、ありえざるべき悪手をそれと気付かずに指してしまった魔の瞬間か。
……そこから三手進んだところで、それまでほとんど滞ることなく指してきた羽村の右手が数秒、宙を彷徨った。
細い双眸を瞠る。それがこの男が、今日の対局で見せた、初めての表情の変化だった。
圧倒的優位を築いていたはずなのに、その瞬間、自玉に詰みが生じていることに気付いたのである。
白く美しい手の甲が、駒台に降りた。
「ありません」
頭を垂れた神の子・羽村怜士の敗北宣言は、
「アッ……ひゅ、アッあっひゅっ……アッ……」
という小笠原の激しい呼吸音のせいで、ほとんどマイクに拾われなかった。
カメラが羽村の顔を捉えている。
彼は不思議そうに首を傾げて、盤面の中空に指を閃かせていた。
負ける、などとは思っていなかったに違いない。
野々垣は遅ればせながら弟子が唯一と言ってもいい頓死筋を見落としていたことに気付き、がっくりと頽れているところだ。全世界、全宇宙の将棋ファンの失望が溜め息となって、地球上の二酸化炭素排出量が俄かに増加し、将棋つよつよ星人の船に搭載された計器にははっきりとそのデータが記録されたという。
今しばらく首を傾げて、投了図を見詰めていた羽村はやがて、
「ああ、そうか……」
と呟いて、相貌にこどものように愛くるしい苦笑いを浮かべ、言った。
「悔しいなあ……」
顔色はいまだ、変わらない。
言葉とは裏腹に、淡々としているようにさえ見える。ただ、彼は静かに左手を口元へ運び、密やかに人差し指の背を噛んだ。それはテレビカメラのあるなしに関わらず、天才が「神童」と呼ばれていたころから変わらず見せる、悔恨の仕草であった。
白い頬の内側に流れる血が、投了の瞬間どれほど煮え滾ったか、推し量ることは誰にも出来ない。棋士なんてものは誰もが負けず嫌い、その王者が、どれほど勝負にこだわる者であるかは、言うまでもないことだろう。
勝者である小笠原は、あれほどテカテカ光っていた頭を湿ったタオルハンカチを乗せて、まだ呼吸を収めるには至らない。ハンカチには「輪島」「こども」と書かれているようであるが、あいにくカメラにはほとんど映らない。いずれにせよ小笠原は、まだしばらくは局後の検討を始められる様子ではないようだった。
かくして、羽村怜士の大記録達成の夢は潰え、この年の将棋界は暮れて行こうとしていた。




