あの日、あの時、あの通学路で
キーン コーン カーン コーン……
「起立ー 気をつけー 礼!」
「「「「ありがとうございました〜」」」」
教室に響き渡る、聞き慣れたチャイムとどこか気の抜けた礼の声。
蝉の声にすらかき消されそうな小ささの声は、きっと夏の暑さからくる気怠さのせいだろう。
何度過ぎ去ったかわからない6時間目を終えた僕たちは、そのまま終礼へと移った。
僕は広げていた数学の参考書を閉じ、シャーペンをノックして芯をしまう。
長年愛用している緑色のシャーペン……生物が好きな僕にピッタリのシャーペンだ。
そのシャーペンを筆箱になおそうとした所、僕の目に授業で使うはずだったプリントが飛び込んできた。
某有名国公立大学の入試数学……の階差数列か、こんな物を誰が好き好んで解くのであろうか?
黒板に羅列されている圧倒的なΣの量に、僕は気圧されそうになった。
それ以外の数学記号も、僕にとっては未解読の古代文字と大差ないように映るが。
きれいに折りたたんだ数学の授業プリントを、僕は同じような仲間たちが詰まった机に突っ込んだ。
はぁ、とため息を付き、僕は残っている机の上のものをありったけ通学鞄に詰め込んだ。
通学鞄の中は、男子らしくグチャグチャであった。
「皆さんから連絡はないですか〜! じゃあ解散っ!」
担任がそう元気に解散を告げると、クラスメイトは一斉に動き出した。
終礼連絡を聞くのを忘れていた……あとで誰かに教えてもらおう。
そう僕が思っていると、机に見慣れた顔の人間がやってきた。
「海野ぉ、帰ろ〜」
「そうだな。帰ろうか」
満タンのコーラのペットボトルを持ってやってきたのは、同じクラスの山本だ。
朗らかな笑顔を浮かべる彼は、クラスの人間からも随分と評判がいいようだ。
僕は荷物を手際よくまとめ、リュックを背負い手には通学鞄を持った。
「あ〜、A組とC組が終わるまで待とうか」
「そうだな。今日は早く終わってくれたら良いが……」
僕と山本は他クラスの終礼が終わるまで、隙間から漏れてくるクーラーの冷気を浴びながら他愛ない話をした。
◇
「あっつい……なぜ7月なのにこんなにも暑いのか……」
「それは7月、なんならもうすぐ8月だからだろう。当たり前じゃないか」
「それはそうだが……まさにアッツ島だ」
「教室はクーラーのせいでアッサム地方だけどね〜」
「「……??」」
A組とC組の終礼も終わり、僕は合流した2人をあわせて4人で帰宅の途に付いた。
A組からは合流したのは積木……眼鏡が似合う生粋の鉄オタだ。
C組からは月田、模試で某東の大学の判定がAであった化け物だ。
僕は暑さを紛らわせようとくだらないギャグを言ってみたが、反応は乏しかった。
唯一、僕と同じく世界史選択の月田のみが、上手に返しをしてくれた。
山本と積木は、何がなんだかと首を捻っていた。
「この時間にみんなで帰るのも久しぶりだね〜」
「そうだな。いつもはバラバラか、日が暮れていたからな」
山本はそう言いながら、手に持っていた新品のコーラを開栓した。
ペットボトルの中からゆっくりと泡が上がってき、彼は慌ててこぼれそうな分を飲んだ。
またやっている、とばかりの顔で僕達は彼を見つめた。
「本当に山本はコーラが好きだよね〜」
「間違いない。山本にとって、コーラとはガソリンのようなものでしょう?」
「そうだな。的確な表現だと僕は思うぞ、積木よ」
「でも、ガソリンにしては燃費が悪いよね〜。ほら、ガソリンは1リッター169円だってさ〜」
月田はそう言い、横にあるガソリンスタンドの看板を指差した。
ガソリンはリッター169円、コーラは350ml170円……何も考えずにコーラを買っていた山本は、初めて自分の飲んでいる飲み物がいかに高価であるかを知り、目を丸くしていた。
ただ、コーラもガソリンも、入学当初はもっと安かった気がするが……
ふと目線を前に戻すと、僕の通う高校系列の短大の学生が、こちらに向かってやってくるのが見えた。
歩道いっぱいに広がる短大生たちを避けながら、僕達は前へと進んでいく。
通学路の脇にある短大に植えられている桜は、歩道に体を乗り出して日影を僕達に提供してくれていた。
「こんなに暑ければ、あそこのアイス屋にでも寄りたいものだが……校則で認められていないんだよなぁ」
「系列校の短大生はアイス屋も、その隣のコーヒー屋も入れるのにな。おかしい話だ」
「生徒会はよくわからない委員会の編成よりも、寄り道してはいけないという校則を変えるべきじゃないかな〜」
月田は羨ましそうに、店内でアイスを食べている子供連れや短大生を眺めた。
そんな彼の横で、少し勝ち誇った顔で山本は一口、でもグビッとコーラを飲んだ。
ムッとした顔を月田は浮かべたが、相手にしても仕方がないのでスルーした。
「今何分?」
「16時08分。電車が出るのが16時26分だから、少し急がないとね」
「そうだな。少し走ろうか」
僕達は電車の時間に間に合わせるため、普段の歩きから少し小走りへと移行した。
しかし今日は土曜日、明日は休みなのだから、別に急いで指定の電車に乗る必要はない。
だが、その電車を逃すわけにはいかないのだ。
僕達は一気に坂を駆け下り、平たい高架の道を走った。
何の代わり映えもない、ただのフェンスが延々と続くだけの高架道。
しかしそこは時折車に水をかけられる、雨の日には注意しなければならない場所でもあった。
ふと前を見ると、雄大な古都の山々が姿を見せていた。
普段は暗いから見えない山であるが、夏の日差しを浴びて照り輝いている。
こんな風景もあったのだと、今更気付かされた。
「きれいだね〜」
「お、月田もそう思うか? 俺もちょうどそう思っていたんだ」
「気にしていなかったけど、案外美しいものは近くにあるんだな」
高架から下道に出るため、僕達は階段を早足で駆け下りた。
入学当初は駐車場であった場所は、今ではアパートに建て変わっていた。
アパートの前では、住民と思しき親子が楽しそうに縄跳びを飛んでいた。
「縄跳びか〜、確か小学校の夏休みの課題でやらされたよね〜」
月田は走る足を緩めることなく、どこか懐かしむようにそう言った。
小学生の夏休み……確かに縄跳びを宿題でやらされた思い出はあるな。
夏休み明けの体育の授業で、後ろ交差飛び第三位を勝ち取ったのはいい思い出である。
「……あと14分」
「じゃあ大丈夫だ。少しゆっくり歩こうか」
僕達は走る足を緩め、ふうと息を吐いた。
横には大きな川が流れており、その流れは時を刻むように一定の速度で流れていく。
よく見ると、鳥が獲物を探しているのか川をじっと見つめていた。
そんな川を渡るための橋に差し掛かった時、遠くに僕の母校の姿が見えた。
……随分と離れたものだ、アイス云々と言っていたのはつい最近のことのような気がするのに。
モヤがかかったように白む母校は、それでも確かにそこにある。
「……3年間思っていたことだが、なんでいちいちこの歩道橋を渡らないといけないんだろうか。あっちの横断歩道を使ったほうが楽じゃないか」
「仕方がないだろう山本。それが校則だ。それに担任も耳にタコができるほど『斜め横断はするな』って言っていただろう?」
「海野ぉ、でも系列校の短大生サマは許されているぞ? 僕達が許されない理屈はないだろう」
「そうはいっても校則は校則だ。最低限の校則を守れることは、社会で生きていくうえで必要なんじゃないかな?」
「積木……正論だからぐうの音も出ないな。お前が正しいよ」
山本は文句を言いながらも、なにげに今まで一度も横断歩道を斜め横断したことはない。
そんな彼に、この中の誰もが好感を抱いていることは明らかであった。
僕達からの温かい視線を感じ取った山本は、恥ずかしそうに歩道橋の階段を降りた。
「あっ、もうすぐで青になるな。走るぞ!」
「ローファーで走るの辛いんだよね〜。でも、電車を逃すほうが嫌だから仕方がないね〜」
「はぁ……あと8分。ちょっと怪しいかな?」
「駅までもうすぐのはずなのに、何故かここからが遠いんだよな。不思議なものだ」
僕達は小言を言いながら、走って横断歩道を渡った。
横断歩道を渡った先にある寿司屋は、今日も人が入っていなさそうだ。
気になるからみんなで卒業したら食べに行こうという話をしたが、覚えている人は果たしているのだろうか?
「残り5分」
「銀行前で残り5分かー、少し走ったほうが良いかもね」
「そうだな。走るか!」
山本が追い込みをかけるべく走り出し、僕達もそれに追走する。
銀行の横を通り過ぎ、ピザ屋の横を通り過ぎ、携帯屋の横を気にもとめずに通り過ぎていく。
流れる景色はあっという間に変わり、残ったのは高架下に溜まる、鼻付く猫の香りだけであった。
「あ〜、ようやく駅が見えてきたね〜」
「このロータリー、横切れれば楽なのになぁー。いちいち面倒くさい」
そう言いながら走る僕達は、駅の改札へと向かう階段を登っていく。
だが僕は途中で疲弊してしまい、少し階段を登る速度が遅れてしまった。
上を見ると、既に階段を駆け上がった3人がこちらを見ていた。
数段の差のはずであるのに、そこには大きな違いがあるように感じられた。
始めは一緒に走っていたと思っていたのに、気がつけば随分と差がついていた。
なんだか、まるで自分の学生生活のようで嫌な気がした。
「どうした、もうへばったのか? 3年やってきたんだからこのぐらい慣れっこだろう?」
「人間誰しも疲れている時はあるんだよ、山本」
「……それもそうだな。ほら、さっさと上がってこい!」
山本は僕の腕を掴み、思いっきり上へと引っ張り上げた。
その時の彼はなんだか頼もしく、でもやはり自分からは離れた存在のように思われた。
月田と積木も僕が上がってくるのを待った後、再び一緒に改札へ続く高架を歩きだした。
「まずい、電車が来ている!」
「あれには絶対に乗りたい、走るぞ!」
高架からホームへとやってきている電車が見えた僕達は、ラストスパートをかけた。
幾人もの人を追い抜かし、一直線に改札をくぐり抜ける。
そしてがむしゃらにホームへの階段を駆け下りた僕達は、なんとか電車に間に合った。
「危ねー、なんとか間に合ったな」
「途中で走っていなかったら間に合っていないところだったね〜。ナイス山本」
「それほどでもないさ」
3人はそう言い、開いた快速列車のドアへと向かった。
だが僕は途中で足を止め、彼らと同じく快速に乗ることはなかった。
足を止めた俺に気がついた3人はこちらを向き、手を振った。
「海野は普通電車だもんね〜。ダッシュする必要なかったじゃん」
「良いんだよ。みんなに合わせたほうが良いでしょう?」
「付き合わせて悪いな。じゃあまた明後日。バイバイ!」
「海野バイバーイ!」
「ああ、バイバイ」
快速列車の扉が閉まる中、僕はゆっくりと3人に手を振った。
完全に扉が閉まってしまったときには、僕は一人ぼっちになってしまう。
ああ、この時間がΣでn→∞に引き伸ばされればいいのに。
快速列車はゆっくりと動き出し、しかし素早い加速でホームを去っていく。
そんな僕がいない列車の中で、山本たちは何を語り、何を思っているのだろうか?
もう見えないほど遠ざかってしまった彼らを思いながら、僕は人のいない普通列車に乗り込んだ。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
よければ代表作である『異世界司令官』も読んでいただけると嬉しいです!