曇天の下で
1.
彼女は黒い上下の礼服に包まれ、静かに佇んでいた。
目の前には菊と百合の墓花が対に、その隙間を線香の煙が空気を複雑に潜りながら消えていく。彼女の表情はその煙のようにぼんやりと浮かんでは消えてを繰り返していた。
人は死んだのちに生まれた名とは別の名に変わる。彼女は生前と似つかない夫のその名前を目にしてもなお、実感がなかった。生前から幾十分も小さくなった白いかけらを骨壷に入れる時でさえその無機質さに驚いたほどであった。曇天の空は厚い雲により空全体を一回り小さくし、太陽の存在がなくなったかのように光がない。
2.
「今夜は遅くなるから。前に話した例の取引先との接待でな。このご時世に迷惑なものだよ。」
夫は愚痴っぽく玄関で彼女にそう言うと、手入れの行き届いた艶のある革靴に足を通した。
「じゃあ夕飯は要らないのね。」
「ああ。たまにはお前も外に食べに行けばいい。気晴らししてこいよ。」
「気が向いたら、ね。」
「そう言ってまたに家に籠るつもりだろ?いいけどさ。ま、行ってくるよ。」
「行ってらっしゃい。」
彼女からの弁当を受け取ると夫は家を後にした。彼女はドアの閉まる音とマンションの廊下を歩く夫の足音が聞こえなくなるまで玄関に留まったのち、部屋に戻る。
部屋の壁にはいくつもの写真が飾られていた。一番最近のものは10年目の結婚記念日にディナーに行った際の二人の写真である。浮かれた表情の夫とは対照的に妻の表情は困ったような笑みであった。
夫は事あるごとにサプライズを行いたがった。誕生日や結婚記念日だけではなく、付き合った記念日、両親の誕生日にさえ祝うほどだった。それを彼女は特段誰かに話すようなことはしなかったが、「いい旦那さん」という言葉で友人たちはそれを称賛した。サプライズはともあれ、内向的な彼女にとっては夫の働きによって専業主婦ができていることは有り難く思っていた。
彼女は部屋に戻った足で食事の後片付けや洗濯、掃除を止まる事なく進めていく。それらを流れるように終えると、明日夫が着るであろうスーツにブラシをかけた。
丁度ブラシがポケットに差し掛かった時、ブラシがポケットの中のものに引っかかるような感触があった。
3.
「もー。おそーい。まちくたびれた。」
女はあざとく怒りながらアパートの玄関を開け、男のスーツの袖を引っ張った。
「ごめんねー。電車が運転見合わせになっちゃってさ。LINEした後タクシーで急いできたんだけど。」
男は慌てて革靴を脱ぐと、女の部屋に慌ただしく踏み入った。
「きてくれないかとおもったー。」
もこもこしたルームウェアのハーフパンツから女の細長く艶かしい足が伸びている。男はそれを気づかれないように目をやりながら、持っていた紙袋から空色の箱を差し出した。
「そんなわけないよ。はーい、これ。」
「うそー。わたしがほしいっていってたネックレスじゃん。マジうれしい!!!」
「キミの記念すべき20歳の誕生日なんだから。ほら、後ろを向いて。着けてあげるから。」
男は空色の箱からネックレスを取り出すと女の首にそれをかけた。男がネックレスを着け終え女の肩をぽんと叩くと、女は鏡の方に走っていき自分の姿にうっとりと「ふふ。やっぱりわたしにチョーにあう。」と自賛した。そして「ありがと」女は男の頬に軽くキスをする。
「でもー、わたしー、まちくたびれてつかれちゃった。ベッドにいっていい?」
事を終えると男は女に腕枕をしたまま寝息を立てていた。2人分の洋服は床のそこかしこに散らばっている。どのくらい時間が立ったのかはわからない。女はぱっと目を覚ますと男が起きないようにそっとベッドからおり、先ほどのネックレスの空色の箱を手に取った。箱の中にはネックレスの入っていた保存袋が入っている。手のひらに収まるほど小さなその空色の巾着袋は薄暗い部屋内では青が深く見えた。女は男から受け取った上着に手をかけると左ポケットの中のハンカチでそれを隠すように包み、再び男のポケットに戻すのであった。
4.
「おはよう」
夫はギリギリなんとか起きているといった様相で彼女に声をかけた。
「おはよう。昨日は遅かったみたいね。途中まで待っていたんだけど。」
「向こうの部長の酒癖が悪くてさ。なかなか離してくれなくて参ったよ。」
「それは大変だったわね。」
彼女は振り向かずに朝食の用意を進めながらそれに返答する。
「あれ、スーツ?面倒になってソファーに脱いで寝てしまったんだけど。」
「朝あったから。しまっておいたわ。」
「ああ、ありがとう。」
夫はそう言うとどかっとソファーに腰掛けテレビをつける。
テレビでは芸能人のゴシップを時系列のパネルを用いて話している。
「この前話題になったドラマの女優、夫の不倫発覚で撮影ドタキャンだってさ。人の惚れた腫れた話なんて朝から聴きたいやつなんて居るもんかねえ。理解できないよ。」
「あなたが見ているじゃない。」
「たまたまこのチャンネルだったんだよ。そういやこの前面白い話を聞いたよ。生き物の雄雌の体格比と生殖活動は比例するんだってさ。つまりさ、人間は男の方が女より少し大きいから本来なら男1人に対して女2人ぐらいが丁度いいってことさ。」
包丁を持つ彼女の手が一瞬止まる。
「ま、人間世界には通用しない話だけどね。」
「朝から趣味のいい話ね。」
「いや、生物学の話だよ。くだらない他人の愛憎劇の話じゃない。」
彼女はテーブルに朝食を運び終えると「早く食べないと時間がなくなるわよ。」と言った。
「ま、俺には素敵な奥様がいて幸せなことだよ。意外にも強い女だしね。」
話し足りないのか目玉焼きの黄身をフォークで潰しながら夫は呟く。それを彼女は黙って聞いていた。
5.
その日もまた事を終えると男の寝息を気にしながら、女は男のポケットに手を入れた。自身の身に着けていた左のピアスを忍ばせる為である。ただその日はいつもと違った。ハンカチとはほかに細い金属の糸のような感触がしたからである。彼女はハンカチと一緒にそれを取り出し、指でつまみ上げた。20歳の誕生日に彼にもらったものと全く同じネックレスがあった。その時の女の驚き、怒り、嫉妬心。男に抱いていた熱情は全く同じ強度のまま反対のベクトルへ進む。女は男の方へ振り返った。男はいつもより深い寝息を立てている。
6.
彼女が病院につくと、薄暗い廊下の先の静かな部屋に通された。
「病院に着いた時にはすでに手の施しようのない状態でした。」
その場にいた警察官が医師の言葉に続く。
「目撃者の男女によると旦那さんは酩酊状態状態のまま赤信号の横断しようとしたとのことで。目撃者が制止しようとしたみたいですが間に合わなかったと。おそらく事故だとは思いますが、念のため・・・何か薬を服用されていたといったことはありますか?」
「いえ。なにも。」
彼女の表情は喜怒哀楽のどれでもなかった。ただ、自身のポケットの中のハンカチを強く握った。いや、正確には空色の異物を強く握った。それは彼女にとって自身の感情を露わにできる唯一の行為であった。彼女は淡々と説明と事務的な手続きをすすめた。
7.
葬儀は小さくとり行う予定であったが、どこから聞いたのか夫の同僚や友人が大勢が弔いにきた。その殆どは彼女にとっては全く知らない相手であったが、「まさか亡くなられるなんて」「先輩にはいつも助けていただいてて…有難うございました」「気を落とさないでください」という驚きや感謝、勇気づける言葉をかけた。その一つ一つに彼女は少ない言葉で感謝を述べた。
参列者が少なくなった夕頃、彼女が不意に葬儀会場の出口を見ると、遠くからの女がこちらを見ているのに気が付いた。男の愛人だった女。女は彼女の視線に気が付くとただ深々と頭を下げ、踵を返し帰っていった。彼女はその後姿をただ風景のように眺めた。
どのくらいの時間がたっただろうか。彼女は思い出したかのように墓前を後にした。
目撃者の男と女。なるほど。
曇天の空はいつのまにか今にも降り出しそうになっていた。
彼女は昔聞いたJAZZの一曲が浮かび、その空を見上げた。そしてほんの少しだけ口元を緩ませた。