◆二章 逃走(5)
事務所に戻っても社員の顔が見れなくなっていた。仕事は仕事として割り切る暗黙の了解が非常にありがたい。僕から声を掛ける必要もなく、相模課長は使われていない会議室の予約を済ませていた。
「来てくれるかな? 主任、時間借りて大丈夫だよね?」
大野主任は不思議そうに頷いた。スケジュール帳の確認も忘れていない。
「はい」
会議室のホワイトボードには相当な口論を思わせる殴り書きがあった。
「重役会議か」
と言いながら相模課長は文字を消してゆく。松本は僕と会う直前に連絡を入れていて、丁寧な対応をして来たと言う。
「ご迷惑かけて申し訳ありません」
「いやいや。普通の会社を相手にしているわけではないんだね?」
「ええ」
退職金の前借申請の取り消しをお願いする。どんな状況になっても屈してはいけない、少なくとも、今だけは絶対に。数か月後、新たな手口でし掛けてくる彼らが容易に想像できるからだ。事実をしゃべれないつらさはあった。報連相(ほうこく、れんらく、そうだん)新人であれば元気な態度で仕事に取り組む姿勢とともに大事なことなのだ。
「助けになれることはない?」
「ありがとうございます。ですが、お気持ちだけで充分です」
「私に相談できないのであれば、相談所を使えばいいよ。維持費として毎月の給料から天引きされているんだからさ」
「わかりました」
会社への恩返しは夢物語りにしても、少なくとも相模課長への恩返しは出来ないか。考えても浮かんでこなかった。
「来週一杯休ませてもらえませんか?」
相模課長は考え込んでいた。最後の我儘だと思ってくれれば許してくれるのだろうか。
「久保木君にとって助けになるのなら、許可しよう」
この上ない感謝の気持ちを表現した。
「前に言っていた監視カメラとモニタの話、アイデアがあったら聞かせてくれな」
「はい、喜んで」
「さあ、仕事仕事」
机を掴んで立ち上がった相模課長を制した。
「【オブサべーションベンチャー】の方から連絡があった場合、何があっても久保木に聞いてくださいと言ってください。お願します」
二週間前から今日の予定を入れておいた。明日香からの急な呼び出し場所は人気のない海岸だった。海辺のドライブで走った場所なのは薄らではあるが記憶に残っていた。僕からの約束を忘れていても、会えば軌道修正が出来る。明日香と合うまでは楽観的だった。
お約束の急に呼び出してごめんという言葉もない。薬指にあるはずの指輪がない。目を合わそうとしない。僕とデートする時には絶対になかった。知っている彼女がどこかへ行ってしまった感じがした。
「好きな人ができたの……」
ずっと遠くの地平線をみつめていているのは見た目の判断であり、本当は未来をみつめているようだった。
「例の、お客さん?」
明日香の横顔が縦に動いた。
「付き合っているのに悪いと思っていたんだけど」
「そうなんだ」
僕は肩を落とした。怒りをあらわにできなかった。僕も内緒で真奈美と食事をしている。彼女の性格を考えれば、お客さんからのしつこい誘いを断りきれなかったのは目に見えていた。
僕を安心させようと、彼の話をし始めた。自分を必要としてくれて、強く求めてくれた男である。ケーキ屋のおじさんも彼を認めていた。心の傷口に明日香の言葉が突き刺さっていく。根暗でストーカー男という都合良いイメージは脆くも崩れ去った。
「本当はね」
「うん」
明日香とは裏腹に、蚊が泣くような声しか出なかった。
「本心を言うとね。止めてほしかったの。こうなってしまう前に、彼のところまで来て、もう会わないでほしいって、言って、ほしかった」
頬に涙が伝っていた。海岸に打ち付ける波の勢いが強くなっていた。波しぶきが目線の高さを超えてゆく。僕の体はまったく動こうとしなかった。
「最後に我儘言って、ごめんなさい。自分勝手で、ごめんなさい」
不甲斐なさを後悔する時間はなかった。嗚咽を堪えながら別れを告げられた。
「今までありがとう」
全身の血の気が引いて行った。立ちつくしているだけの僕へ振りかえらなかった。
ここは、永遠に記憶に残る場所になった。