◆二章 逃走(4)
「打ち合わせなんてあったっけ?」
メーカーと会う時は必ず大野主任とセットだった。彼はスケジュール帳をいくら探しても見つからないようだった。
「無いと思いますよ」
「単独ね」
就職活動ですと言えば納得していた。
「ちゃんと調べてから就職したほうがいいぞ。とんでもない企業もあるからな」
無有給、サービス残業、ボーナス無、大野主任が前に居た会社がそうだった。僕が仕事の愚痴をこぼすと決まって、
「この会社は天国だよ」
と始まり、前に居た会社の話へと到達していった。
事務所から三百六十段の階段を下ると来客用の受付及び応接間のフロアがある。三〇四号室に金本が居た。若く見えるが、目の鋭さと、張り詰めたスーツから垣間見られる体格は貫禄があったりする。
「はじめまして」
笑顔を向けるだけだった。
「さすが【東電気】さんですね。うちのビルとは大違い」
金本は偽名であり、松本の声だった。
「お金を取りに来たんですか? 松本さん」
「人聞き悪いな。ゆっくり話をしましょう」
脅迫されても、ここは僕の在籍している会社である。手が出てくる心配はないだろう。僕は彼の向かいに座った。
「【オブサべーションベンチャー】とは繋がりがあったんですね」
「知っていたんでしょ。別に隠すこともないんだけどさ」
「知っていましたが、関連性がわかっていません」
アイスコーヒーが運ばれてきた。女性に向けての愛想を見ているだけで気分悪くなった。
「変な動きはしない方がいいよ」
松本は鋭い目で見てきた。盗聴器の設置が知られたのだろうか。背中にひんやりとした汗がつたう。
「言っていることがわかならいのですが」
「白々しいな。俺はあんたが料金を払わなかったことを言いたいわけじゃないんだ。わかる?」
「いえ」
「監視システムで遊ぶな」
「遊んでいません」
松本は拳に力を込めていた。アイスコーヒーを一気飲みすると、音を立てて机に置いた。
「あの装置は警察に協力するためだけの物じゃない」
「別の目的があると言いたいのでしょうか?」
頷いた。図々しくおかわりを要求してくる。僕の分を出しだした。しぶしぶ納得している。自分から架空請求に使うための物であると告白してくれることを期待した。
「裏社会にも展開していくんだよ。意味が分かるか?」
僕は口をあんぐりとさせ、怯えたふりをした。手に痙攣も加えてみた。大きく出たものだ。裏社会が架空請求でしたなんて言うのであれば僕は爆笑してもかまわないと思っていた。
「なんとなくは、わかります」
「組との繋がりもあるんだよ」
松本はそのタイミングで腕をまくった。太い腕、シャツが上腕二等筋部分までめくれ上がる。刺青が覆っていた。古風な模様である。
「綺麗、ですね」
笑わずにシャツを戻していた。
「相模課長という奴には話を聞いてもらったよ」
「まさか……」
「どうせ何もしてこないとでも思っていたんだろ。ありふれた対策マニュアルの見すぎなんだよ。俺達は仕事に誇りをもっている」
「課長にはどんな話をしたんですか?」
顔が引き攣っていた。瞬きが止まらなくなっている。
「おいおい、落付けって。リラックス、リラックス」
松本は楽しんでいた。そうかと思えば急に見下す体制となる。ここで理性を失えば相手の思う壺である。
「質問に答えてください」
彼は椅子に仰け反って、後頭部で両手を組んだ。
「エッチ画像サイトの料金未納なんですって言ったんだけど、お前の課長は何て言ったと思う?」
「わかりません」
「若いからね、見るだろうねだって。笑えるだろ?」
自分で言って笑っていた。僕は強張りがなくなり、やりとりに冷めてきた。
「でな、久保木君は払えないようだから、手伝ってあげてほしいと頼んだんだよ。退職金の前借ぐらいだったら出来るかもだってさ」
「……」
「親身になってくれて、羨ましくなったぞ。上司に恵まれてんな」
「上司には関わらないでもらえますか?」
「俺もそうしたいんだけどね~。久保木君、君の誠意次第だ」
僕だけの問題ではなくなっていた。放置しておけば寄生してくる。小学校時代のイジメ、くだらない記憶が蘇ってくる。僕の無言に耐えかねた松本は立ち上がった。
「しぶとそうだから忠告しておくけどさ、まだ優しい対応してんだからな」
「知りたくもありません」
「じゃあ、頼んだよ。俺だってこれの方たちに手を借りたくないんだからさ」
松本は人指し指で頬に斜め線をなぞった。来客は受付まで見送る規則であるが、破られてもらう。