◆一章 監視システム(11)
「何を考えているの?」
明日香は落ち着いた口調で言った。すべてぶちまけられればどれだけ楽になるのだろうかと思った。
「今後の事を考えていた」
「どうして?」
僕が言い終わる前に聞いてきた。髪の毛を手で託し挙げた状態で僕を見据えていた。
「三月で会社をクビになるんだ。その先はまだ決まっていないから」
「いつからそうなっていたの?」
僕は年月日、さらに時間帯まで詳細に覚えていたことを話した。次の就職先を見つけるまで言わないつもりだったが限界だった。バイ菌を食い止めていた粘膜が壊死してしまったかのようだった。どのような人から宣告され、全社員で五千人はリストラされるという言い訳を付け加えた。
「隠していたんだ……」
「明日香には心配をかけたくなかったんだよ」
「どうして……」
「話すべきじゃないと思ったからだよ」
「どうして……」
言い淀んでいた明日香は近くのベンチに座った。何を言っても明日香には届かない予感があった。僕はその場を動けずに、近付いてくる終着点を見つめていた。
僕が言っても駄目なのに、ストーカー男の話は聞くというのか、どうして、どうしてどうしてどうして……。僕の中でクロックラインにグリッジノイズが乗って、それをトリガとした信号が発振している。
「船酔いしたみたい」
背中から聞こえてきた。僕のネガティブ妄想がぴたりと止まり、振り返ると、明日香は前かがみになって顔色を失っていた。
「大丈夫? 家まで送っていくよ」
「大丈夫だから」
彼女の実家がある小田原までの距離は決して近くない。
入れ替わりで乗り込む乗客は結婚パーティーをするらしかった。暗い顔をした人は誰もない。後方からウエディングドレスを着た女性とタキシード姿の男性がゆっくりと歩いてくる。明日香は立ち止まらずに山下公園を進んでいた。
「帰るね」
泣きそうな顔だった。抱きとめる権利はなかった。幸せ集団を乗せた船が出港した。お腹の奥底まで響く汽笛が鳴る。
「家についたら連絡して」
僕が言うと曖昧に頷いて、駅を目指していった。明日香と僕の間に手を繋いだ恋人同士が横切っていく。二人の世界には僕の姿を見て憐れむ観察力はなかった。
明日香の後姿に手を振った。船の乗客が勘違いして手を振り返してくる。僕は二人が見えなくなるまで手を振り続けた。
暗闇の中、着信音で起こされた。どんなに気に入っているアーティストの曲でも、嫌いになってしまいそうなタイミングである。蛍光素材の時計は八時を過ぎたばかりを指していた。目を瞑ったまま携帯を繰り寄せた。
「はい、もしもし」
気だるい応答、友達からの誘いであれば断るつもりでいたが、相手はたじろいでいた。面倒くさすぎて気遣う意思はない。
「誰なの?」
「松本ですが」
「何か用?」
名前だけ名乗って反応を待っていた。どこかで聞いた名前、僕はようやく架空請求業者だと理解した。会社名も名乗らない松本に嫌悪感を抱いた。それにしても何でこの時間に電話なのか。定期的に電話がかかって来るにせよ、十八時以降の連絡はなかった。今度は僕がたじろく番だった。
「やっと出て頂けましたね」
「え、まあ」
「寝置きとは疲れているようですね」
獲物を捉えた狩猟民族は声に喜びがにじみ出ている。しまったと思っても遅く、携帯を握る力が強くなった。
「あなたね、私がしていた連絡をどれほど無視すれば気が済むんですか?」
「つもりはなかったのですが」
「つもりって、まあいいですよ」
「僕の家の近くに来ているとかないですよね?」
「行ってませんから。こちらとしては、料金を払ってもらえれば何にもしませんから」
「まだ身元調査はしていないんですか?」
松本は一呼吸置いた。付けっ放しだったパソコンの前に座って待った。電話口の向こうから揉めている声が聞こえてくる。
「明日中に振り込んでもらえれば大丈夫です」
「よかったです」
僕は溜め息をついた。留守電の内容からすれば、既に調査が進んでいて、部屋に地元回収員が来ても不思議ではない頃である。結局は口先だけで生きている男、否、会社の経営方針がそうさせていると思うと妙に落付いてきた。
「譲歩して頂き、ありがとうございます」
「本当に払う気あるんですよね?」
払う意思があるふりをして、サイトの運営元アドレスを聞き出した。セキュリティーソフトからの忠告を解除してサイトへ入る。以前覗いたものと同じであるのかは定かでなかった。
「ここにアクセスした形跡があるんですよね?」
「ですから、何度も言っているでしょう」
顔写真が省かれている女性の裸体を選んだ。
『入会ありがとうございます!』
笑い出しそうになった。どこをクリックしても同じメッセージが現れた。エッチ画像が見放題の歌い文句まで嘘である。
「すいません、間違ってまた会員になってしまったのですが、その場合は倍の料金がかかるんですかね?」
考え抜いた後で、
「いや、その場合は取り消すことは可能ですよ」
まあ、当然な回答である。僕はからかってみたくなってきた。
「じゃあ、以前登録した分も含めすべてを取り消してください」
「馬鹿にしているのか!」
声を荒げていた。化けの皮が剥がれた。料金延滞、連絡無視、重複入会、非常識人、変な馴染みのない四字熟語のような言葉での文句が捲し立てられる。僕は電話口を離して架空請求の対処法をネットで読んでいた。
「何か言ったらどうなんだ?」
対処法としては、どれも連絡があった場合、とりあえずは無視すること。連絡してしまった場合の対処法を見つける根気はなかった。
「申し訳ありません」
溜め息が聞こえてきた。深く、相手の元気を奪う威力のある溜め息だった。
「こっちも暇じゃないんだからさ、あまり面倒をかけないでくれよ」
「もし払わなかったらどうなるんですかね?」
松本の舌打ちが聞こえてきた。
「わかってんだろ」
「いいえ。わからないので聞いているんです」
「いたずらのつもりじゃねえんだろうな?」
「お金用意できるかわからないんで」
「しょうがねえから教えてやるよ」
間があり、紙が擦れた音が聞こえてきた。
「電子消費者契約法違反による、強制執行、給料差し押さえ、弁護士に相談をして俺達もそれなりの対処をするつもりだよ」
すかさずネットで検索、松本の言っている法律はない。恐らく知らないのだろう。アルバイトがマニュアル通りに動いているだけだとしてもあまりに杜撰である。架空の弁護士まで設定しているのであれば、話を聞いてみたかった。
「逮捕されるか、自宅回収で痛い目に合うか。払えば済むんだよ」
懲役はどれぐらいか、自宅回収で暴行に合うのか、具体的に知りたいが、疲労が襲ってきた。
「わかりました。明日には支払いますので」
一方的に電話を切った。布団に戻っても眠りは訪れなかった。