(3)アルノーの娘ヴィルマの場合2
ヴィルマちゃんの話ですが、ヒーローは遅れてやってきます。
「ねえ、ギャリーさーん……これなら絶対に酔えるってお酒ないですか?」
成人してからすっかり常連になっている行きつけのバーのカウンターに額をこすりつけるようにして呟く。
ウルリック様と付き合い始めて今日でちょうど2週間。
彼に会いたくて騎士団に入り、彼が団長を務める第二騎士団に配属されて半年経った先々週。
魔獣討伐中に魔獣の放った霧のせいで他の皆とはぐれてしまった私を、単身探しに来てくれたウルリック様の背後迫る大型魔獣が見えたとき……私は無意識に飛び出して彼を庇っていた。
間一髪で致命傷は受けずに済んだけど、『危ねえことするんじゃねぇ』とすごく怖い顔で叱り飛ばされた後、何故か私は唐突にウルリック様の逞しい腕に掻き抱かれて、呼吸が苦しくなる程の情熱的なキスをされていた。
訳が分からなかったけど、ビックリして嬉しくて涙が滝みたいに出てきちゃったし、お互い魔獣の血だらけだし、我ながら色気がないファーストキスだったなぁと思う。
討伐から戻って来てから、改めて互いに告白して付き合うことになった……一応。
上層部にも部下にもうまく根回ししてから周囲に知らせないと、同じ騎士団内で恋愛関係になった場合は仕事に支障を来たす可能性があるために、一般的には別の部署に異動になるそうだ。
そして、団長のウルリック様が異動になるはずもないので、この場合は私が他の団に移るということになる。
つまり私達は、同じ騎士団の仲間には秘密で付き合っているのだ。
ウルリック様は団長なだけあって毎日仕事に忙殺されているし、私は未だに職場と帰りに少しだけ寄るこのバーでの彼しか知らない。
とにかく今日の私は本当にダメなことばかりだ。
色々あったけど極め付けが珍しくウルリック様と喧嘩してしまったことが、私の気分を更に重くさせていた。
ただでさえ騎士としての桁違いの強さや、団長としての人望や、皆を率いる統率力高さといった、彼の凄さを間近で見る度に、女性としては強い方だというだけで厄介な血筋で平凡な見た目の自分が、本当に王妃殿下の弟君でもある彼の隣に並ぶにふさわしいのかと自問自答していたのに…。
「なになに?来て早々ため息ばっかりだと思ったら………ウルリックのヤツと喧嘩でもした?」
「へ?!ギャ、ギャリーさん?!」
「あれ?付き合ってるんでしょ、2人?」
「えええええ!?誰にも言ってないのにっ………あっ」
それは肯定したのと同じことだと気付いても後の祭り。
ぎょっとして言葉を失っていた私は、ニッコリ笑ったギャリーさんに熱いおしぼりを手渡された。
「この仕事してると結構こういうことには敏感になるんだよね!大丈夫~、騎士と一緒でこういう仕事も人の秘密は話さないのがマナーだし?俺も元はあいつと同じ騎士団員だったからその辺は心得てるよ」
「お、お願いします………ウルリック様に迷惑かけたくないんで」
「迷惑、ねえ?ま、いいけど…………で、何があったの?」
ニヤリと笑って問いかけるギャリーさんは、討伐の話を聞きたがる時と同じ口調だ。
彼はウルリック様と同期入隊した槍使いの騎士だったそうだが、魔獣討伐の際の怪我で片足が少し不自由になったことで退団し、このバーを開いたらしく、仲間達の活躍を聞くのが楽しみなのだそうだ。
その目線がとっても優しくて、私は少し戸惑ってしまった。
その間にギャリーさんはテキパキと手を動かしてグラスの中でカラカラと氷を鳴らした。
「うっ……ギャリーさん、こういう時は何も聞かないのがバーテンのマナーじゃないんですか?」
「アハハ、まあね?でも常連さんの相談に乗るのもバーテンの仕事だよ~?」
そう言って最初に出してくれたのは、最近お気に入りで飲んでるロングアイランドアイスティーだ。
そしてギャリーさんが作る気になった時にしか出してくれないミートパイ。
「ミートパイ……頼んでないけど」
「落ち込んだ時はまずお腹に美味しいものいれて!強いお酒はそれからってのがうちのルールだからね~?」
「………そうでした」
焼き立てらしいミートパイは落ち込んだ気分を胃袋から温めてくれた。
サクッ
サクッ
齧ってポロポロと崩れるパイ生地と一緒に、私の心を鱗みたいに覆ってた卑屈な鎧もはがれ落ちていく。
。
そもそも喧嘩をした、といっても喧嘩にもなっていない
私が勝手に拗ねて帰って来たのだ………バカみたいな捨て台詞まで残して。
「それに酔える酒って言ってもねぇ?ヴィルマちゃんが今飲んでるロンアイだって、かなり度数高いんだよ~」
「でも、これぐらいじゃ酔えません!他にはないんですか?」
仕事あがりで喉が渇いてた私は、出されたカクテルを三分の一ほど一気に飲んだ。
そんな私を少し困ったような笑顔を浮かべてギャリーさんが見ている。
そいうえばロングカクテルは、長い時間をかけて飲むロングタイムカクテルなんだと以前マスターが教えてくれたんだっけ。
「そうだね……でも強めのカクテル大抵飲んでるんじゃない?カミカゼやゾンビも好きだったよね?スコーピオンは?」
「この前飲みましたけどすごく飲みやすかったです……」
「ははっ、流石酒豪のヴィルマちゃんだ」
先日仕事帰りにウルリック様と2人で、このカウンターに並んで飲んだ日の事を思い出した。
あの時は楽しく2人で並んでこの席に座っていたのだ。
そんなことを思い返せば、ますます今日一人でこんなことを言っている自分が、余計にみじめに思えてくる。
「そのあたりは普通の女の子が飲むには、結構強い酒ばっかりなんだけどねぇ?」
「そう、なんですか?」
口当たりも良くて見た目も綺麗なスコーピオンは、本当に飲みやすかった。
言われてみればあの日もゆっくり飲むようにって言いながら、ギャリーさんが出してくれたんだ。
そもそも1人の時と違って、ウルリック様と2人でいれば自然と会話も弾む。
黙っていても気付けばお酒より隣に座る長年憧れの人だった恋人に気をとられて、お酒のペースも自然とゆっくりしたものになるのが常だった。
「そうだよ~?B&Bもこの前美味しそうに飲んでたし……もしかして、アルコール度数云々よりも強い酒飲んでるぞ!!って感じのがいい?」
「そう……かもしれません」
カウンターの中でカチャカチャとグラスを洗うギャリーさんの手元を、ぼんやり眺めながら呟いた。
顔をあげて少し考えたギャリーさんは、ニッコリ笑って手を拭くとショートグラスをカウンターにコトンと置いた。
「そっか、じゃあ……ジン・アンド・ビターズかスレッジハンマーなんてどう?」
「それって強いんですか?」
「え、相当強いよ!男でもあんまり頼まないぐらい強いカクテルだからね~」
肩をすくめて言うマスターギャリーさんがあまりに大げさで、私はようやく笑みを零した。
「ふふっ、じゃあそのスレッジハンマーってやつで」
「良かった~!これ以上強いのって言われちゃうとカクテルじゃなくって。これでだめなら竜の火酒を原酒で出すしかないもんね~」
ウインクしながらいつもよりも強そうなウォッカを手に取ったギャリーさんが、大きな手には些か小さすぎるシェイカーに綺麗な手つきでお酒を注いでいく。
ライムジュースを少しだけ注いでシェイクする音に紛れるように、私はポツリと呟いた。
「なんだかワガママ言ってすみません」
「いいって………ヴィルマちゃんの我儘ぐらい可愛いもんだし、ね?」
「………ありがと、ギャリーさん」
「どういたしまして。まあ、あんまりヴィルマちゃんに飲ませすぎると、君の兄さんにもウルリックにも怒られそうだけど」
「そうですか……?」
「うん、間違いなく」
氷がシェイカーに当たる心地いい音を聞きながら、カクテルが出来るまでの短い間、私は瞼を閉じていた。
「………今日、第二の手伝いの任務で変装して張り込みしてる最中に私、珍しくナンパされたんです」
出されたカクテルは言われた通り、まさに『強いお酒』って感じの味。
強めのお酒でも飲みすぎちゃいそうな今日の私にはピッタリのお酒だった。
一口飲んだ私は、ため息を零すように今日の出来事を話始めていた。
私はウルリック様が団長を勤める第一騎士団の紅一点だけど、時々女性の手が足りないときに王都警備をしている第二の手伝いに入ることがある。
「へぇ…まぁ、猛者で知られる第一所属の騎士ってことと大食いってこと知らなきゃヴィルマちゃん、普通に可愛い女の子だからね~」
「いやいや、そんな風に褒めても何も出ませんよ~?」
「ホントにそう思ってるよ~?なんだったら、ウルリックに飽きたら俺にしてみる?」
「またまたぁ!ふふっ、それで張り込みしてるから、まさか任務中の騎士だって言うわけにもいかないし、かといってその場を離れるわけにもいかなくて…」
「うんうん、それで?」
ギャリーさんはミニチョコをポンと口に放り込むと、時々軽口を叩きながらカウンター越しに私の話を聞いてくれる。
この好きなペースで話してって感じが、私みたいな客の気分を少し楽にしてくれているのかもしれない。
小さく笑うと、殆ど独り言みたいに私は言葉を続けた。
「あまり邪魔されても悪目立ちするから困っていたら、近くの店で張り込みしてた同期が気付いて追い払ってくれたんです………肩抱いて彼氏のフリして」
「まぁ、それが一番手っ取り早いだろうね~」
「それ、別件で近くを通りかかったウルリック様も見てたみたいで……」
その時の遣り取りを思い浮かべて、私はまたひとつため息を落とした。
早く一人前になって騎士としても女性としても、胸を張って隣に並べるように追いつきたい。
だけど、自分がまだまだだって思いしらされた気がしてしまって……。
「え?あいつがヤキモチやいて喧嘩したとかってこと?」
「逆です」
「逆?」
任務中のこと……そう割り切って考えればいい。
それだけのことが上手くできない自分が嫌で堪らなかった。
「助けてくれた同期にはいい機転だったって褒めてたんですけど、私にはもっと隙を見せないで張り込みする工夫をしないとなって」
「あー……ヤキモチ妬いて欲しかったんだ?」
ヤキモチ妬いて欲しかった?
そんなこと、全然思ってないわけじゃない。
でも……それだけじゃなくて。
仕事に真っ直ぐなウルリック様が好きだし、助けてくれた同期や第一騎士団のメンバーは大事な仕事仲間だ。
ウルリック様は私のことも彼らのことも信頼してる。
だからあんな場面で妬いたりしない。
仕事と私どっちが大事?
なんて比較するようなものじゃないものを、無理に同列に並べて聞く様な、馬鹿女にだけは私だってなりたくない。
あんな場面でウルリック様に妬いて欲しいっていうのは、それと同じことを言って欲しいと言っているようなものなのだと思っている。
「そ、それもあるんですけど………その同期に、言ってた内容が」
「内容?」
「俺も昔はカップルを装って張り込みしたことがあるなぁって……」
そんな言葉を聞いた途端、私の心の中が真っ黒に染まるのを感じた。
それは明らかに醜い嫉妬の色。
相手は誰だったんだろうとか、カップルを装うってどんな風に?とか、任務中だったにも関わらずそんなことが頭の中を埋め尽くしてしまいそうになった。
そしてウルリック様はちゃんと出来てる、仕事とプライベートの心の切り替えを出来ていない自分に嫌でも気付かされた。
「なるほどねぇ…………あいつは妬かなかったのに、ヴィルマちゃんはあいつの過去に妬いちゃったんだ?」
「自分があんまり子供で嫌になっちゃって…」
グラスに残ったカクテルを一気に煽る。
途端にきついアルコールが喉を焼きながら流れおちていく。
ダメだ。
酔いたいのに、今夜はこんなにきついカクテルでも酔えないみたい。
いつもウルリック様と来て飲む時なら、楽しい気分でほろ酔いぐらいにはなるのに。
どうして酔いたい日に限って酔えないんだろう。
飲み干したグラスを少し呆れたようにギャリーさんが手にとる。
おかわりを頼もうかと思ったけれど、何も言わずに私の前に次のグラスが置かれた。
少し深めのカクテルグラスにオレンジ色の華やかなカクテル。
グラスに添えられたオレンジが爽やかな香りを放っている。
「え、ギャリーさん………これは?」
「シンデレラってカクテル」
「ふふ、素敵な名前」
「ヴィルマちゃんにピッタリでしょ?」
「いやいやいや、全然似合いませんから!」
シンデレラって物語に出てくるお姫様の名前だもの。
彼女は虐げられていた立場から王子様に見初められてプリンセスになるけれど、私はそのお城から追い出された王子様の孫なのだから、似合うわけがない。
苦笑いをしてカクテルを口に運ぶと、ほとんどアルコールを感じない。
フルーティーな甘さがジワリと心に染みた。
「美味しい……」
「そりゃ良かった」
店内に静かに流れるのは録音魔道具から聞こえる少し寂しいピアノの音。
ギャリーさんは無理に聞き出すでもなく、ただそこにいてくれた。
変なの。
いつもは明るく笑って色んなお喋りをしてる人なのに…。
「さっき………」
「うん?」
ポツリ、ポツリ
まるで独り言みたいに、私は水滴が落ちるように少しずつ言葉を紡ぎ出す。
「今日の報告書出した後に事務作業しながら自己嫌悪に陥ってたら、今日は手が進まないみたいだから帰れって言われちゃって………」
「んー……それはさ?疲れてそうなヴィルマちゃんを休ませてあげようって、ウルリックなりの優しさでしょ」
自分もグラスを傾けながら、ギャリーさんは少し目を細めて笑った。
分かってるよねってその視線が語ってる。
「はい………ちゃんと分かってるんです………でも今日は、『役立たず』『半人前』って言われた気がして」
「で、一人でここに来たってわけか」
「………役に立たなさそうなのでさっさと退散します!!なんて捨て台詞吐いてきちゃいました」
「ありゃりゃ……」
「もう、情けなくて酔いでもしないと眠れなさそうで………」
そういって、店に来た時みたいに私はカウンターに額をあてて突っ伏した。
ただ、自分が子供っぽい嫉妬をしただけのことだ。
しかも昔のことに。
そして、自分勝手に卑屈になってしまっただけのことだ。
こんなことで本当にいつか、彼の隣に胸を張って立てるのかと情けなさに涙さえ滲む。
「んー……でもさ、ヴィルマちゃん?」
カランッ
ギャリーさんがカウンターに置いたグラスの氷が音をたてて回る。
声の近さに顔をあげれば、すぐ目の前に肘をついてニッコリと笑う緑の瞳のギャリーさんと目があった。
「はい?」
「男ってカッコつける生き物なんだよね~」
「………?」
私が首を傾げると、ギャリーさんは小さく笑う。
こんなに近い距離で彼の笑顔を見たことなんてなくて、私は視線をそらしてグラスに添えてあったオレンジを齧った。
カランカランッ
扉の開く音がして、ギャリーさんは業者でも来たのか声をかけずに扉の方へ軽く手をあげた。
そして何故かそのまま注文をとりに行くわけでもなく、ゆっくりとしたペースで私に語りかけた。
「案外男ってさ、大人になりきれてないのを余裕ぶって必死に隠してたりするもんなんだって~」
ギャリーさんはさっきまでより少しだけ大きめな声で、楽しげに私の顔を覗きこむようにして語りかける。
励ましてくれようとしているギャリーさんの気持ちは嬉しい。
でも……。
私は小さく首を左右に振るとカクテルをコクリと一口飲んだまま俯いた。
「でも、ウルリック様は私より全然大人で余裕もあって…」
「まぁ、確かにウルリックの奴は大人だけど……多分ヴィルマちゃんが思ってるより余裕はないと思うんだけどねぇ?」
後半の言葉は内緒話でもするように、そっと耳元で囁かれた。
あまりの声の近さに驚いて顔をあげた瞬間、楽しそうに笑いながら何故か両手を軽くあげたギャリーさんは一歩下がった。
「………そんなのウソですよ」
どうしても素直に頷けなくて、顔をあげて睨むようにギャリーさんを見上げて零すように呟いた。
そんなこといわれたって、素直にうなずけるぐらいならあんな馬鹿なこと言ったりしない。
こんな自分の態度も子供じみているのだと頭では分かっている。
だからこそ、そんな自分の幼さと大人なウルリック様が釣り合うとは思えない。
だっていつだってウルリック様は余裕がないようになんて見えないのだから。
はぁ――――
困ったように大きく息を吐いたギャリーさんはカウンターに置いていたグラスを手にとると、かるく顎をあげて私の後ろを指した。
「ウソかどうかは本人に聞いてみたら?…………お迎えが来たみたいだし」
まさか。
そんなはずない。
だってあんな馬鹿な捨て台詞残して、まだ仕事をしてたウルリック様を残して帰ってきてしまったのに。
おそるおそる、ゆっくりと振り返った視線の先には珍しく不機嫌さを纏ったウルリック様の姿。
「え………ウルリック、さま?」
「ったく…………あんな捨て台詞吐いて帰りやがって、おまけにブローチにも反応しやねえっ!!」
「ブローチ?…………あっ!」
慌てて荷物の中をゴソゴソと漁って騎士団支給の通信用ブローチを取り出すと、呼び出しがあったを示す赤色に変化している。
ブローチの中央に触れてみればウルリック様からの指名呼び出しが5回記録されている。
あの時、投げ込むように入れた鞄の中で入れてあった着替えの中に紛れ込んでいたからか、振動にも音にも当然ながら光にも気付かなかった。
ただでさえ酔えていなかった私は、頭から一気に血の気が引くのを感じた。
マズイ………いくらなんでもこれはマズイ。
「騎士ならブローチの通信には何があっても出ろっ!!!」
今まで一度だって私に本気で怒ったことのなかったウルリック様が怒ってる。
声を押えた低い叱責だけど、それだけに本当に怒っているってことが伝わってくる。
魔獣と戦う時はもっと鮮烈な迫力を纏うことはあるけれど、平時にこんなに怖いウルリック様に正面から見られたことなんてなかった。
でも、これは怒られて当然だ。
もしもこの間に魔獣被害や盗賊被害が起きていたら……。
「あ、あのっ………申し訳ありませんっ!!」
私は椅子から飛び降りると、膝に頭がつきそうな勢いで頭を下げた。
落ち込んでいたことなんて言い訳にならない。
1人の騎士として一人前になりたいとか言う前に、騎士としての基本をしっかりしておかなければならないのに、これでは話にならない。
きっと呆れられて、部下としても恋人としても嫌われて見捨てられてしまうかもしれない。
自分が情けなくて、ジワリと涙が滲んだ。
頭を下げたまま、両手の拳をギュッと握って次の言葉を待っていた私。
だけど次の瞬間。
「ったく…………この馬鹿が」
気がつけば私は、両肩を抱き起こされるようにしてそのままきつく抱きしめられていた。
さっき私が彼に淹れたコーヒーといつもの彼の男らしい匂い、そして少しだけ汗の匂い……一瞬何が起きたのか分からなかった。
「あんな顔して帰りやがって………何があったのかと思うだろうが」
「す、すみません」
押しつけられた胸からは普段より少し速い鼓動が聞こえる。
落ち着いてみたら呼吸も少し荒い。
もしかして………探してくれたんだろうか。
あんなことを言って逃げ出すように飛び出して来た私を…。
「…………あんまり心配させるんじゃねえ」
少し苦しそうな声でため息のように告げられた。
その言葉が、耳に甘く流れ込みジワリと心に染みる。
それはどんなに強いカクテルでも酔えなかった私の頬を熱くさせた。
「…はい」
ウルリック様の鼓動の速さにつられるように、私の鼓動はトクトクとリズムを速めていく。
目の前のシャツをギュッと掴んで見上げると、さっきまでの厳しい表情とは違うウルリック様の金色瞳と目があった。
ああ、この目はあの時と同じ目だ。
初めてキスを交わした、あの時と同じ目。
そう気づいた瞬間、それまで全く効果をみせてなかったアルコールが一気に全身をまわった気がした。
途端にふわりと心地よい酔いが身体を支配する。
そんな私の耳にも届く愉しげな声。
「ウルリック~?この子、今夜は酔いたいって言うからきっつーーーいヤツ飲ませといたから~」
「はぁ!?一人の時にあんまり飲ませるなっつーの!帰りが危ねえだろうが」
呑気なギャリー様の声に、苛つきを隠さないままのウルリック様が答えた。
その間も私を抱きしめた逞しい腕は緩むことなくしっかりと背中に回されたままで、当然私の体温もウナギ昇りにあがっている。
私、きっと今………真っ赤になってる。
急に恥ずかしくなって私は彼の胸元に顔を埋めるように俯いた。
ギャリーさんはウルリック様に怒られても気にしていないらしい。
ケラケラと明るく笑いながらとんでもない返事をしてのけた。
「あー大丈夫、大丈夫~!お迎えが来なきゃ俺がお持ち帰りして面倒みるつもりだったし?」
「……へ?えええええええええ?!」
「は?!ふざけんな!全然大丈夫じゃねえっ!!!ヴィルマは俺のだ!!んなこた認めねえ!ブッコロスぞ!」
ギュムっと更に強く抱き寄せるように押しつけられた胸元に、ジワジワと愛おしさがこみあげる。
ウルリック様って、こんなことする人だったんだろうか?
これじゃまるでヤキモチ妬いてるみたいだ………私みたいに。
いつも大人に見えた背中じゃなくて、今はその胸元が実際の距離以上にひどく身近に感じた。
目の前にいる彼の姿は明らかに『団長』じゃなくて『恋人』だったから。
しかも酔ってもいないのに独占欲まで丸出しなのだ。
緩む頬を抑えることもできなくて、目の前の胸板に小さく頬擦りをした時。
「ま、どうせお前が来ないと酔えないからさ、ヴィルマちゃんは」
「……え?」
クスッと笑うギャリーさんの声が背後から聞こえた。
意味を問い返したくても、今は振り向くこともウルリック様に強く抱き寄せられているせいで出来ない。
「………ったく、ギャリーには敵わねえな」
ため息まじりのウルリック様の声は、ひどく優しい色を纏っていた。
ウルリック様がいないと酔えない?
思い返してみれば元々酒に酔わない私が、ほろ酔いになれるのは半年ぐらい前からのことで、それはいつもウルリック様と一緒にいるときだった。
それってどういうことなんだろう。
「それだけウルリックがいるだけで安心してるんだね~?あ、それともアルコールじゃなくてウルリックのフェロモンに酔ってるのかな?お前、フェロモン強そうだもんなぁ」
「ふぇえええ?!も、もう…………ギャリー様ってば」
「はー……ったく、どっちにしても俺がいねえところであんまり深酒するんじゃねえ」
困ったような笑みを浮かべて私の髪をクシャリと撫でる。
その仕草と表情から、ちゃんと私を愛おしいって気持ちが伝わってくる。
そう、なのかもしれない。
だってウルリック様といるだけでこんなにも安心して、こんなにも心地よく酔いがまわっているのだから。
「ギャリー、お勘定頼む………こいつは連れ帰る」
「ウルリック様?!そんな、いいですよっ!私自分で……」
「男が払うって言う時は、遠慮するなっつーの!お前は笑顔で礼のひとつでも言えばいい」
ポンポンと頭を軽く叩いて支払いを済ませてしまうウルリック様の背中は、やっぱり大人の男の人だった。
「あ、あのっ!………ありがとう、ございます」
「じゃあ、帰るぞ」
背中に当たり前のように腕を回されて入り口のドアくぐろうとした時。
カウンターの中からギャリーさんが呼びかけてきた。
「ウルリック、お前思ってることもっと言ってあげた方が良さそうだよ~?」
「ああ、らしいな………サンキュ」
ウルリック様は振り返らずに手だけを軽くあげると、私を促すように扉を開いた。
扉をくぐる時、一瞬振り返るとギャリーさんは嬉しそうな小さく手をヒラヒラさせて笑顔で私たちを見送っていた。
カランカランッ
扉の向こうでドアベルの鳴る音がしてゆっくり扉が閉まった。
肩に腕を回したままのウルリック様は、そのままどこかへ向かって歩き出す。
私も少し急ぎ足で歩きながらもう一度謝罪の言葉を口にした。
「あ、あのっ…………今日は、本当にすみませんでした」
「呼び出しのことなら今度から気をつけてくれりゃいい」
「それもですけど……」
謝らなきゃいけないことが沢山あり過ぎて何と言っていいか分からなくなった。
俯いて歩みが遅くなった私に気付いたウルリック様が足を止めた。
そして頭上から少し呆れたのかため息が降ってくる。
やっぱり呆れられちゃったよね…
我慢しようと思うのに、ジワリと目に涙が滲んでくる。
隣に立つ恋人は、12歳という年齢以上に騎士としても人間としてもずっとずっと大人だ。
きっと私は無意識に焦りを感じていたのだ……この2週間。
もっと大人にならなきゃダメだと唇をギュッと結んだ時。
「ヴィルマ」
「………はい」
「お前が何を悩んでるのか俺には話せねえのか?ギャリーには話せるのに……」
降って来た声は思っていたのとは全然違う、寂しそうな声。
「………え?……んっ」
驚いて見上げると、そのまま引き寄せられて問い返そうとした言葉ごと唇で封じられてしまった。
そのままキスは一気に深められて、私は目の前のウルリック様にしがみ付くようにして受け止めることしかできない。
瞼を閉じる間もなく必死に応えていた私の視界にぼんやりと、騎士団の建物が映った。
こんな職場の見える場所でキスするなんて、いつものウルリック様からは想像もできなかった。
一頻り貪る様なキスに翻弄されるだけされて、ようやく解放された私は崩れ落ちるようにその場に座り込んでしまう。
「ウ、ウルリック様っ!こんなとこで何をっ」
「これはさっきギャリーと顔を近づけてた分のお仕置きだ」
「おしお……き?」
数度瞬きをして、ようやくそのその意味を理解する。
やっぱり、あの時ギャリーさんにヤキモチを妬いてくれたと思ったのは間違いではなかったらしい。
「とりあえず続きは俺の家に戻ってからだな」
地面に座ったままの私を見降ろしてニヤリと笑うウルリック様の頭には、普段は隠している銀青色の三角の耳が出ている。
緩やかに尾を左右に揺らしながら、金色の瞳で月を背負って立つ姿はまるで彼のもう一つの姿である美しい狼のようで、思わず見惚れてしまった。
与えられたキスの余韻で少しぼんやりとしていた私は、しばらくしてようやく働き出したらしい頭で彼に問い返した。
「え、ウルリック様の家に行くんですか?っていうか………続きってなんですか!?」
「ん?お仕置きの続きに決まってるだろうが」
言いながら大きな掌を差し出されて、おずおずと掌を重ねると勢いよく引き起こされた。
その力強ささえ照れくさくて、私は俯いて服についた汚れをパンパンと叩く。
「お、お仕置きって……」
「張り込みの時の分と帰り際の捨て台詞の分のお仕置きがまだ残ってるだろ?まぁ、言い訳も聞いてやるから安心しろ」
「えええええ?!いや、安心しろって言われても!」
まるで別人かと思うような台詞。
昼間のウルリック様からは想像もできなくて、思わず目の前の人は本当にウルリック様なのかと目を何度もまたたかせた。
そんな私の疑問を知ってか知らずか、ウルリック様は大きな掌で優しく髪をクシャリと撫でて、そのままゆっくりと私の髪を指に絡めた。
鼓動がトクトクと忙しいリズムを刻む。
指に絡んだ髪に唇を寄せたままウルリック様が視線だけ私に向けた。
「なんだ、やっぱりおっさんの相手は嫌なのか?引き返すなら今しかねえぞ」
そんな風に好きな人に聞かれて、嫌だって言える人がいるのだろうか。
普段は天然な上司の顔でいるくせに、急にこんな風に男の顔を見せるなんて、本当にズルイ。
私ばっかり焦って、私ばっかり翻弄されてる気がする。
だけど私にだけそんな顔を見せてくれているのだとしたら……すこしは自惚れてもいいのだろうか。
顔から火が出そうになりながら、なんとか言葉を押しだした。
「い、嫌じゃ…………ない、です」
その途端、ふわりと微笑んだウルリック様に、もう一度きつく抱きしめられた。
さっきと同じ彼の男らしい匂いが私を包み込む。
「だったら大人しく俺の家に持ち帰られとけ」
「……はい」
「一生逃がしてやれねえから覚悟しとけ」
「そんなの…望むところです」
そっと背中に腕を伸ばしてキュッと彼の上着を握った。
これが付き合い始めて最初にウルリック様の家へ行った夜の出来事。
愛しい恋人には、他の誰も知らない野獣みたいな男の顔と、ヤキモチ妬きな顔もあるんだって初めて知った。
子供っぽい不安も焦りも全部さらけ出した私を、ウルリック様は全部笑顔で受け止めてくれた。
もっとも、かなり甘くて、騎士をやってる私でもかなり激しいと感じるお仕置き付きだったけど。
狼獣人の血が濃い彼は一度番に決めたら、どうあがいても『私』にしか『反応』しないんだって、少し困った顔で笑ってみせた彼がこれまで以上に愛おしく思えた。
シンデレラってカクテルがノンアルコールだって知ったのはそれからしばらくしてのこと。
これだからギャリーさんは侮れないのだ。
酔いたい日には酔える相手と飲むのが一番。
そうでないならあの店のカウンターがベストだと改めて思ったのだった。
書いててバーに行きたくなりました。
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