1話
いつもの時間より遅く起きれることは夏休み期間中の特権だと思うけど、結局のところ窓際にベッドがあるので熟睡なんてできる環境じゃない。まして行くかどうかあいまいだった映画の話も、あいつの鶴の一声で招集がかかってしまって、LINEの通知の音で飛び起きた今日は最悪以外の言葉が出ない。
「10時集合か。…………って10時!? 10時って、あと20分しかないじゃん!」
立ち上がるのと同時に寝汗でぬれたシャツをベッドに適当に投げ捨て、持ちうるすべての身体能力をフル活用して高速で着替える。そうでもないとまたあいつに怒られるのが目に見えている。あいつ。隣に住んでて、なんだったらすぐ視線を移せばベッドの窓からだって顔が見えてしまう距離にいるのに、学校では別のクラスのあいつ。
そういや最近、あいつ匂いが変わったな……。なんてスマホを眺めていただけなのに、その先の窓の外のさらに向こうの部屋であいつと目が合う。
《バンッ》
しかめっ面された上に、思いっきり窓を閉められ、挙句の果てにカーテンまで閉められた。こっちはスマホを見てただけなのに。ったく。階下に降りて、冷蔵庫を漁り、昨日の残りを発見してとりあえずあったから食べましたという空気をだす。そうでもないと、ただでさえ惰眠を繰り返したこれまでの日常をまた母さんに責め立てられるに違いない。
「おそようございます。あんた、こんなんで学校始まったら遅刻するよ? 小学生じゃないんだからもう少しちゃんとしたらどうなの?」
「父さんが釣りでいないからってそんな恰好でテレビ見ながらアイス食べて息子に言うセリフではないでしょ」
一気にまくしたてたのは、隣に住んでいるあいつがそろそろ家から出てくるタイミングに差し掛かっているからで、別に自分の暮らしぶりに罪悪感を感じているからじゃない。母さんはその話になると毎回バツの悪そうな顔をして、別の話題を振ってくる。
「高校生なんだから、もう少し色恋沙汰とかないの? 今日なんてこんなに天気がいいわけだしさ」
その声を背中で聞き流して食器を片付ける僕は、一つ致命的なミスを犯していた。
「あ、今日あんた出かけるの? 女の子? もしかして……」
いつもの癖で出かけるときは尻のポケットに財布を忍ばせる。しかも、最近買ったばかりの服に着替えてきてしまった。気づいていないことを切に願うばかりだが、どうやらそれも手遅れのようで
「成瀬さん家の──彩夏ちゃん? だったら私としても鼻が高いけど、そういう関係になるんだったらちゃんと紹介しなさいよ」
俺はその言葉に一切の返事をくれてやる気はないので、立ち止まってしまった足を再び動かし、出かける準備を始めた。
夏は熱中症で救急車に搬送される人が多いけど、だったら出かけないで家の中で小説でも読んでいればいいのに。そうすれば救われる作家さんだっているはずで、そうすれば熱中症だってずいぶん減ると思うんだけど。家の前でそんなことを考えて、その考えはセミの鳴き声にかき消される。
暑いけど待っている。一応。10時なんて宣言は一時撤回された。あいつの少し遅れるという発言で俺の方も一時は家の中に引き篭ろうとしたけど、また母さんからの冷やかしが始まると思うと面倒な気持ちが勝って、炎天下の地獄のような外の木陰でこうして待つことにした。積み上がっていく積乱雲を眺めていると、セミの鳴き声がとても近くに感じて、思わず真上を見上げる。新緑の葉が日の光に透けて、その先の空の色と相まってステンドグラスの様だ。新緑の葉と真っ青な空を見ていると、否が応でも夏が来たのだと実感してしまう。
「……なんでまだいんのよ? どういう了見かしらないけど二人で行ったらまた勘違いされるでしょ?」
あいつは炎天下の中、まぶしいほどの白い肌を自慢げに見せつけるみたいに堂々とこちらにやってきて、さも迷惑そうに注意してきた。せっかく待ってやったのにそんなことを言われるゆえんはない。
けど、待っていたなんて言うつもりは毛頭ないからその言葉を甘んじて受ける。
「うるせぇな。ちょっと忘れものしただけたっつの」
「その割には結構汗かいてるみたいだけど」
と、いいながらあいつはふいに笑う。見透かされているとこちらも気づいてはいる。けど、そんなこと言えない。
「ま、とりあえず行ってやるか。なんか昔思い出して懐かしいし。あ、でも集合場所に近づいてきたら別行動ね。また騒がれると厄介だから」
「昔って小学生の時の通学路か……。どんだけ昔話だよ」
「文句でもあるの? ……幼馴染の女の子をけなげに待っていた哀れな非モテ男子を不憫に思ったから仕方なく一緒に行ってあげるって言葉のほうが的確だったりして」
だからそうやって笑うなって……。そうやって笑われると、こちらとしても言葉に困る。
「なんてね。ほら、さっさと歩く。早くしないとみんなにおいてかれるよ?」
背中を強引に押されて、涼やかだった日陰から焼けるような日差しの下にさらされる。一応形だけは別行動という事で先にあいつが、そして若干の間をおいて俺がその後ろをついていくことになった。ただ、隣家にすんでいるのでどうしても来る方向は同じになってしまう。どうしてもそれだけは避けられないのをみんなも理解していると思っていた。
「なんだ、一緒じゃなかったのか」
俺がついてから開口一番に言われた言葉だ。一緒じゃなかったのか。一緒に来るものだと思われていたという意味の言葉。その言葉に過剰に反応してしまったのはどうやら俺だけのようで、集合場所のファミレスでドリンクバーを飲みながら談笑している。成瀬のクラスの連中は、そのあとこの言葉の真意を誰一人として口にすることはなかった。冷たいアイスコーヒーで体から失われた水分を補い、失う度に火照っていった体をその冷たさで癒して、ほっとしたのもつかの間。俺はここ最近で一番の危機的状況に陥ることになる。
事の発端は、俺たちが約束の映画館についてからの事だ。さっきのアイスコーヒーが祟ったのか、急に腹に痛みが走った。あいつと俺を待っていたみんなは、俺の腹の事情など気にするそぶりなど見せない。雰囲気がもう待つつもりはないと言っていた。
「ごめん、先行ってて」
まるで敗走する落ち武者みたいな情けない恰好でトイレに直行するしかなかった。
「ちょっと、早く持ってって。言い出しっぺが遅刻した分ジュースくらいおごれって」
チケット売り場に戻ってみると、そこには自販機でジュースを選んでいるあいつが立っているだけで、ほかの連中は誰一人としていなかった。
『はめられた』
頭の中をこの5文字のひらがなが埋め尽くした。悪寒にも似た寒気で足元から震え、うまく舌が回らない。
「も、もしかしてっ。お、俺らだ、けっ?」
「……そうだけど?」
たとえ暗闇といえど、あいつの隣。匂いや気配であいつ存在を嫌でも感知してしまう。意地の悪いことに真っ暗ではない。少し視線を寄せるだけで、あいつのシルエットが薄っすら見えてしまうから余計に緊張してしまう。
緊張しているという事を自覚すると余計に緊張してしまうので、話なんてもう頭に入ってくることはない。流行っているという理由だけであいつが選んだ恋愛映画。俺にはスクリーンの話なんかより、あいつの隣のほうがよっぽどはらはらした。
とんでもないハプニングがあった映画の日から、早くも数十日がたった。長い夏休みもいつの間にか終わってしまい、授業が再開すると同時に今度は文化祭の話が頻繁に上がるようになった。俺のクラスはたこ焼きを売ろうということになった。
案自体はたくさん出たが、多数決を取ったら驚くほどきれいに決まった。俺のクラスは凝り性な奴が多いから、早く決まって準備時間が増えたのは良かったのかもしれない。対して俺は、夏休み中は基本的に惰眠をむさぼっていたせいで、朝起きるのがものすごくつらい。そんでもって、当然だが文化祭の準備がものすごく大変だ。ここ最近は頭がちゃんと働かないから、準備作業はこまごました疲れにくいものに徹しているんだけど。
「内田!! ちょっとこれ買ってきてくれないか?」
「……はいよ」
クラスの中心になっているやつの一人に、メモ書きと小さな財布と畳まれたエコバッグを渡される。
「よろしくね」
と俺の肩をたたいたそいつは、すぐに向こうのグループの方に戻ってしまった。
リストを見ると、マジックペンやらカラーセロハンやらスズランテープ(?)やら、結構な量があった。窓の外を見れば、遠くに見える積乱雲すら歪む炎天。この下を歩かなきゃならないのかと憂鬱な気分で、俺は教室を出た。
────ふと、なんとなく立ち止まって振り返り、隣の教室の中をのぞく。クラスメイトはいくつかのグループに分かれて、メニュー表だったりのれんだったり、各々楽しそうに作業している。その中の一組に、成瀬もいた。机四つを覆うほどのでかい看板担当だ。あいつは今にも鼻歌を歌い出しそうな様子で、大きなペンを片手に看板を描いている。しばらく立ち止まっていると、さっき俺に買い物を頼んできた奴が怪訝そうにこっちを見てきたから、俺は早足で教室の前から離れた。
ホームセンターやら百均やら文具店やらは、高校から歩いて十分かそこらのところに全部ある。本来は文化祭の準備時間も授業時間扱いだから外に出るのはアウトなわけだが、これだけ近いならと買い出しを黙認されているのだ。俺以外にも複数人の生徒の姿が見える。無理やり押し付けられたっぽいやつ、度を越した生真面目君っぽいやつ……校舎外なのを良いことにひたすらイチャついてるカップルもいた。俺はバカップルどもに脳内で中指を突き立てながら、後に続いて文具店に入る。
ぎらついた太陽が容赦なく照り付ける屋外と違って、冷房の効いた店内は冷蔵庫かと言う程涼しかった。
「えーっと……お、あったあった」
親切に天井から下がっている看板に従って通路を進むと、棚いっぱいにものすごい量のマジックペンが並んでいる。種類も色も豊富で、巨大な壁のようにそびえる棚は妙な威圧感があった。
メーカーとか色とかは指定されていたから、さほど時間をかけずにお目当てのモノが見つかった。セロハンやらなにやらほかの品も一通りカゴに放り込んでいく。見つからなかった、2・3個を除いて全部取ったころには、大きなカゴの8割以上もの量になっていた。
「お買い上げありがとうございましたぁ~」
若干やる気のない店員からレシートを受け取って、買ったものを詰めたバッグを肩にかけて外に出る。
冷えた店内からいきなり炎天下に出たおかげで、網の上で焼かれているような気分になった。残りの品を買うために百均に向かう。今度はちゃんとお目当てのものがあって、もう店を回らずに済むと安堵のため息をついた。肩にかけているバッグに追加で押し込み、店を出る。学校の方に一歩踏み出したところで、いきなり後ろから声をかけられた。
「お前も買い出しか?」
「ん、慧人か……そうだよ」
「そんなにいっぱい買うものあるんか、お疲れ」
「ありがと」
慧人─天城 慧人─も俺と同じく買い出しが終わったとこらしく、俺たちは二人で学校まで歩く。その途中で、いきなりあいつの話を振られた。
「そういえば、どうなんだ。成瀬とはうまくいきそうなのか?」
「はあっ? な、なんだよいきなり」
予想していなかった質問だったから、動揺が声に出てしまう。慧人はしたり顔になって迫ってきて、どうなんだどうなんだとしつこく聞いてきた。
「なんもないよ、なんもないから」
「本当かぁ~? 嘘じゃないだろうな」
「嘘じゃねーって」
「……ふうん」
さすがに飽きてきたのか、向こうも口を閉じた。でも、こっちを面白がるような視線はずっと向けられて、ものすごく居心地が悪い。
「そうやってうじうじしてっと、そのうちイケメンな先輩とかに取られるかもよ~?」
「ぶっ!?」
「ははっ、うろたえすぎだろ」
「お、おまえなぁ……」
俺があいつに仕返しをする間もなく、
「おっさき~」
と走って行ってしまった。ガスバーナーで炙り殺さんばかりの日差しとアイツのいじりで、俺のなけなしの体力はすっかりそこを尽きてしまった。やたら重いバッグを持って階段を上り、教室の前まで這う這うの体でたどり着く。俺に注文してきたやつはドアのところで待っていて、俺を見つけるとこっちに歩いてきた。
「お疲れ様、ありがとう」
「これで合ってるか?」
「ええと……うん、大丈夫」
あいつはバッグを軽々と肩にかけると、手に持っていたスポーツドリンクを差し出してきた。
「さっき先生が差し入れに持って来たやつだよ」
「おお、ありがとう」
受け取るや否や、キャップを乱暴に外してラッパ飲みする。
《ゴクリゴクリ》
喉を鳴らして飲むスポドリが、疲れ切った五臓六府に心地よく染み渡っていくのを感じた。
500ミリを流し込み、大きく息を吐く。教室に入って作業を再開する前に少し休もうと、近くの壁に寄りかかったところで、隣の教室からあいつの笑い声が聞こえてきた。別のクラスメイトから貰った2本目を開けて飲み始めたところだったので
「グハッ……ゲホッゲホッ……」
思わずむせてしまう。口元を腕で拭いながらチラリと覗くと、あいつがクラスの男子と談笑している。両者ともすごく晴れやかな笑顔で、ちょっと甘い空気が漂っている気すらした。
いや。別に、クラスメイトなんだから話をするのは当然のことだ。仲も良い方がいいに決まっている。だから、あれはとやかくいう状況でもないのだけど。だけど、なんだかものすごくむかむかする。それと合わせて、心が引き裂かれるような感覚もした。
あいつのあんな笑顔は、ここ最近見たことがない。なんだったら、俺の前で笑顔になったのなんてここ数年で何回あったっけ? 本当に、数える程度のような気がする。普段からよく会うから、ちゃんと考えていなかった。やっぱりあいつは俺と一緒にいるのは苦痛なんだろうか。自分の態度が良くないのはわかってはいるけど、幼馴染だからと甘えていた。好きだというのが恥ずかしいっていうのもあるけど、というかそっちの方が大きいけど。文句を言う権利なんてないのに、あいつが俺以外の男子と楽しそうに話をしているのを見ていると、息が詰まりそうだった。
「……どうしたの?」
「なんでもない」
クラスメイトの問いかけに仏頂面で答えて、クラスに戻った。それ以降の作業は全く集中できなかった。空も赤く染まってきて、そろそろ終わりだと片づけを始める。結局、俺は戻ってきてからほとんど作業を進められず、しまいにはクラスメイトに心配される始末だ。知られたくないから
「大丈夫」
の一点張りで逃げたけど、聞かれるたびに重いものがのしかかってきてどうしようもなかった。
鉛のように重い荷物を背負い、帰り際に隣の教室を覗く。向こうはとっくにみんな片付けも終え、ほとんどの生徒がいなくなっていた。
……………………あいつに会いたい。会ったところでなにをするかなんて全く考えてないけど、とにかくあいつと顔を合わせたかった。
「ねえ」
「ん、何?」
窓枠に寄りかかって談笑していた男子二人組の一人に声をかける。俺はなるべく平静を装って、あいつの所在を聞いた。
「もう帰ったよ」
「……そうか、ありがとう」
俺は軽く手を振って、昇降口に向かう。靴を履きながら、スマホであいつに
『会える時間ある?』
ってメッセージを送ってみたけど、帰ってきたのは「今は忙しいからちょっと無理かも」の無慈悲な一言。俺は泥沼に引きずり込まれた気分で外に出る。空にはどんどん黒が染み出して、街頭に止まっていたカラスが飛び立つと、
《カアカア》
と孤独に鳴き出した。その輪郭は、妙に歪んで見えた。結局ずっと文化祭の準備で忙しく、俺があいつにまともに会える機会はなかった。たまに廊下なんかで目が合う程度のことはあっても、一瞬ですぐに逸らされた。
本気で嫌われているんじゃないかとすら思えてくる。俺にはつっけんどんな態度ばかり取るあいつ。あの日クラスの男子と笑い合っていたあいつの顔を、ふとしたときに思い出すと嫌な気分になって仕方がない。おまけに慧人が言っていたように、あいつを他の男に取られる夢を最近は何度も見ていた。そういう夢を見て起きる朝の気分もすこぶる悪い。最近、あいつのことを考える時間がどんどん増えている。女々しい男みたいで嫌だったけど、こんなにあいつのことが気になるのも、俺があいつを好きだからだろう。隣の家に住む幼馴染のあいつ。小さい頃は普通に仲良くやれていたはずなのに、いつしか距離ができていた。成長するにつれて幼馴染と疎遠になることなんて、よくあることだとは思うが。あいつとこのままの関係で、満足できるわけじゃない。でも余計なことをして、さらに距離が空いてしまうことも怖い。けれど何もせずにぐだぐだしている間にあいつが他の男のものになったら、後悔してもしきれない。……男らしく、ここらで本気出すとするか。文化祭で告白とかよくあるシチュエーションだし、イベントで告る方が成功率高いとかなんとか聞くし。文化祭の日なら他にも告るやついるだろうから、俺だけがフラれるわけでもないだろうし。
告白しようと思いついてから、はっきりと決断するまでに三日。あいつに送るメッセージの文面を考えるのに丸一日。送信ボタンを押すのに三時間──と馬鹿みたいに時間をかけて、俺はあいつに
『文化祭、一緒に回らないか?』
とメッセージを送った。しばらく既読はつかなくて、あいつからの返信が来たのは文化祭の前日の夜。
『12時半から13時半までなら空いてるけど』
とのことだった。たかが1時間、されど1時間。俺にとってはものすごく貴重な1時間だ。この一時間の間に、俺はあいつに長年の想いを告白する。俺は
『じゃあ、12時半お前のクラスの前で』
と返信して、ひたすらに明日の告白方法を考えることで夜を明かした。
いよいよ文化祭当日。自分のクラスのたこ焼き屋の仕事を気もそぞろな状態で終えた俺は、約束した時間の十分前からあいつを廊下で待っていた。腕時計を何度も繰り返し見てしまい、そわそわとして気持ち悪い。
「……内田君」
ぽつりと小さな声で、あいつが俺の名を呼ぶのが聞こえた。仕方なく来てやったと言わんばかりの表情はこいつらしい。これが今日告白する相手なのだと考えると、脈アリとはとても言い難いのが悲しいところだ。
「お、おう。成瀬、遅かったじゃん」
「約束には間に合ってるけど?」
「あ、ああ! そうだな。ごめん」
ひどく緊張して待っていた俺にとっては長い時間だったが、腕時計を見ると十二時半の二分前を指していた。時間に間に合ったのに言いがかりをつけられることになった成瀬が、不機嫌そうな顔になる。これはまずい。
「あんま時間ねえし、早く回ろうぜ。どこ行きたい?」
「別にどこでも良い、けど」
「じゃ、俺のクラスのたこ焼き屋は?」
「たこ焼きは嫌」
「あ、そっか。ごめん」
どこでも良いんじゃなかったのかよ。とは思うものの、わざわざ小言を言うような真似はしない。こいつの機嫌がさらに悪くなったら、告白の成功率が下がってしまう。なんとなく気まずい空気のなか、購買部が売っているありきたりなパンを買って昼飯にした。互いにほぼ無言で食い終えて、また校舎内を歩きはじめる。
告白って感じの雰囲気にまったくならない。文化祭で告白に成功! なんて、ただの二次元の伝説だったのだろうか。適当に迷路なんかにも入ってみたが、まったく盛り上がらなかった。
「ねえ、内田君」
「うん、なに? 成瀬」
廊下でやや後ろを歩いていた成瀬に声を掛けられ、俺は後ろを振り返る。成瀬は今にも泣きそうな顔で、控えめに笑った。
「……ごめんね」
まだ告白してもいないのに、その言葉を聞いた瞬間にフラれた気分になった。俺が驚いて突っ立っている間に、成瀬はどこかへと走り去っていく。俺たちの関係は、本当に終わったかもしれない。あいつのことがわからない。やはり嫌われているのか。でも本気で嫌いなら、もっと完璧に無視するはずじゃないか。昔からの付き合いがあるから、情で少しは会話してくれるだけなのか。あいつの心を、理解できない。
午後の時間は考え事をしている間にどんどん過ぎていき、もうすぐ文化祭が終わるところだ。告白すると決めたはずなのに、実行できなくて情けない。淀んだ気持ちで後片付けをしていると、慧人が突然後ろから
「わっ」
と言って肩を叩いてきた。いったいなんなんだ。
「内田。んな辛気臭い顔すんなって」
「うっせ。お前には関係ねえ」
「成瀬、第四講義室にいるけど」
「……はぁ?」
天城はにやりと笑って、自分のスマホの画面を俺に見せつけてきた。口から出かけた
「ふざけんな」
の言葉を、俺は必死で飲み込む。
「お前、本当勝手に何やってんだよ」
「お前こそ、なにここで諦めようとしてんだよ。だっせぇ」
「わかってるよ。行けばいいんだろ、行けば!」
半ば慧人に八つ当たりするように怒鳴って、俺は第四講義室へと走り出した。アイツのスマホに表示されていたのは、アイツが成瀬に送ったメッセージ。その文面は、
『内田から伝言。片付け終わったら第四講義室。話したいことあるって』
だった。
本当にお節介な男だ。余計なことをしてくれた。こんなことをされたら、逃げられないじゃないか。夕暮れ時の教室って、なんかロマンチックじゃね? なんてことを考える。何時間もかけて考えた告白の言葉を復習する。ああ、でも、あいつを目の前にしたら、どうせすべて吹っ飛んでしまうかもしれない。あいつはどんな顔で待っているんだろう。肩で息をして、第四講義室のドアを勢いよく開ける。その音に気づいたらしい成瀬が、こちらを振り返った。
「……成瀬」
「話って、何?」
教室の明かりは点いていない。後ろからさす夕日のせいで、朱く染まった影のせいで、成瀬の顔がよく見えない。細かいことは、もうどうでもいい。どんな言い訳を並べたって、フラれるときはフラれるんだ。だったら、真っ直ぐにぶつかって砕けた方がいい。長かった初恋とこいつとの関係に、今日で決着をつけよう。
「成瀬」
「うん、だから何って聞いてるじゃん」
「……好きだ」
「はっ?」
驚いたように上擦ったその声が愛おしい。終わりにするなら、どうかはっきりと終わらせてくれ。俺はもう一度、愛の告白を口にする。
「成瀬。俺は、成瀬のことが好きだ。幼馴染とか、友だちとしてじゃなく。……恋愛的な意味で、お前のことが好きだ」
呆れたのか、俺なんかにそういう目で見られていたのがショックだったのか、成瀬はしばらく黙ったままだった。縁切りの言葉を、こいつに口にさせるのは酷かもしれない。俺は自分の胸の痛みに気づかないふりをしながら、言葉を続けた。
「お前が俺のこと嫌なら、もういいよ。今まで無理させてごめん。別に幼馴染だからって、ずっと仲良しでいないといけないわけじゃないから。でも、俺はお前のこと好きだった。ただそれだけ、言いたかった」
そう言い切った後、重い沈黙の時が流れた。こいつと俺との間にこんなにも重苦しい空気が流れたことは、今までにあっただろうか。成瀬は何も言わない。ならば、俺から終わらせよう。
「成瀬、今までありがとう。……じゃあな」
最後に、俺はうまく笑えただろうか。平気な顔をして、この恋を終わらせることができただろうか。好きなやつに、泣きそうな顔なんて見られたくない。教室から出ようとドアノブに手を掛けると、後ろから
「内田君!!」
と俺を呼ぶ声が聞こえた。なんだ、と聞き返すよりも先に、柔らかな感触が背に伝わる。次いで、女の子らしい良い匂いと心臓の音、そして成瀬の体温を感じた。俺の心臓もにわかにうるさくなる。
「ごめん、内田君」
「……お前、好きでもない男にハグなんてするなって。馬鹿じゃねえの」
「うん。私、馬鹿だ。馬鹿でいいよ。ごめん」
「────お前。もしかして、泣いてる?」
鼻をすするような音と、いつもより震えた声。もしやと思って俺が振り返ると、やっぱり成瀬は泣いていた。
「なんだ、どうした? どっか痛い?」
「そんなわけ、ないじゃん。馬鹿」
「なら、なんで泣いてんだよ」
「内田、が! 絶交する、みたいなこと、言うから……!」
成瀬は潤んだ瞳で俺を睨みつけた後、今度は正面から俺に抱きついてきた。なんだか様子がおかしい。
「あのー……成瀬? 本当に頭大丈夫?」
「……すき」
「はい?」
俺が聞き返すと、成瀬はがばっと顔を上げた。その頬は真っ赤に染まっていて、あまりにもいじらしい表情に心臓がドクンと大きく跳ねる。
「私だって、内田のこと好きなんだよ! この馬鹿ぁ!」
「……はぁ?」
思わず間の抜けた声が出る。
いやいやまさか、そんなはずはないだろう。絶対に聞き間違いだ。だって、あの成瀬が俺のことを好きだなんて、絶対にあり得ない。俺が現実を受け止めきれずにいる間に、成瀬は堰を切ったように語りだした。小さい頃から、俺のことが好きだったこと。俺らのことを周りにからかわれるのを俺が嫌がっていそうなことに気づいてから、距離を置こうと思ったこと。中学生になったあたりから、今までの距離感を恥ずかしく思うようになったこと。好きなのに冷たい反応をしてしまう自分が嫌だったこと。でも好きなことが俺にバレるのも怖くて、言い出すことはできなかったこと。夕陽の朱い影が隠していたのは、真っ赤な顔と涙で赤くなった目だったのか。
──つまり、成瀬の話をまとめると。
「じゃ、お前と俺は小さい頃から両想いで、お前はツンデレだった。でオッケー?」
「間違ってはないけど、なんかツンデレって言われるのは癪なんですけど」
話している間に泣き止んだ成瀬は、子どもっぽく頬を膨れさせる。その表情が可愛くて、俺は思わず笑った。
「成瀬!! いや、彩夏!!」
「なによ?」
「改めて言うけど。……俺と、恋人になってくれますか?」
成瀬はこくりと頷いて、ものすごく嬉しそうに笑った。こいつのこんな笑顔を──俺に向けられる満面の笑みを見るのは、随分と久しぶりだ。
あたりはもうかなり暗くなっていて、俺らはそのままの流れで二人で一緒に帰った。途中までは手を繋いでいたが、親にバレるのはなんか嫌だからと、家の近くでそっと離れた。
「またね、功君」
「ああ、また。彩夏」
互いに手を振って、それぞれの家へと入っていく。自分の部屋の窓から相手の部屋の窓が見えてしまうような距離感は、嬉しくもあり気恥ずかしくもあった。付き合いはじめたことを慧人たちに報告したら、
『やっとか』
とため息をつかれつつ、めちゃくちゃに祝福された。文字通り滅茶苦茶に。と言うよりも手荒に? お祝いのビールかけの如く、炭酸をかけられた。キャップごと飛ばして来たり、鼻に炭酸が入って痛かったりしたがそれはおいておこう。
俺らの交際開始の知らせは、瞬く間に全校生徒に広まった。付き合いはじめてから、2週間くらい経った後の日曜日。今日は彩夏を俺の家に呼ぶことになっている。隣の玄関先まで俺は彼女を迎えに行き、手を繋いで自分の家の玄関までを歩いた。
「功、手汗やばいじゃん。緊張してるの?」
「まあ、な」
彼女がクスクスと楽しそうに笑う。その声を聞くことが心地良い。彩夏は俺の彼女になってから、ツンが9割以上のツンデレから、デレが7割くらいのツンデレに進化していた。
甘えられると嬉しいし、ものすごく可愛い。深呼吸をしてから、俺は玄関の扉を開ける。自分の家に入るのにこんなに緊張したのは、これが初めてだ。今日、母さんに彼女を紹介する。彩夏と恋人になったのだと報告する。恥ずかしいし、母さんにからかわれるのだと思うとやや憂鬱だったが、いずれ成瀬家に結婚の挨拶に行くときの予行練習だと思えばまあ良いだろう。
「ね。功。ちょっと止まって」
俺はおとなしく従って、リビングと玄関の間の廊下で立ち止まる。
「なに? 彩夏」
「大好き」
彼女はそう言って、いきなり俺の頬にキスをした。
途端に顔が熱くなる。彼女はしたり顔でリビングのドアを開けて、俺の手を引っ張っていった。こんなふうに俺をリードする彼女を見ると、なんだか幼い頃を思い出す。長い年月のなかで、俺にも彼女にも、変わったものも変わらないものもある。彼女の満面の笑みを見て、変わらないな、と思った。俺は小さい頃も、今も。あの輝くような笑顔と、彩夏自身のことが大好きだ。