Bar ロックハート 「初めてのバー」
とある街の小さな路地。
同じような石造りの家屋が立ち並ぶ狭い路地。L字型に曲がった、その先にある風雨にさらされながらも重厚さを失わない無骨な木製の扉。
扉の横には注意していなければ見逃すほど小さな木のプレート。そこにはこう書かれていた。
「バー ロックハート」
■■■
私は今、生まれて初めて“バー”というスタイルの酒場に足を踏み入れようとしている。
と言っても、つい数日前まで、バーという酒場について、その存在すら知らなかった。
同郷の先輩、ロバート・ラドフォード氏にこの店を教えてもらったのだ。
しかし、私は彼ほど酒に詳しいわけでもなく、拘りがあるわけでもない。
偶然、故郷から遠く離れたこの街で彼と再会し、良い店があるからと教えてもらったに過ぎないのだ。
それでも私がこの“バー”という場所に行ってみたいと思った理由はロバート氏の熱い言葉に心が動かされたからだ。
ロバート氏はここ“バー ロックハート”について、こう語った。
「酒が好きなら一度はいくべき店だな。あの場所は普通の生活では絶対に感じることができない雰囲気を味わうことができる。ある種の異空間といってもいいだろう……」
美食家一族の出である彼の言葉を信じないわけではないが、すんなりとは受け入れられなかった。
「普通の酒場と同じじゃないんですか? 酒を飲ませる場所に違いはないのでしょう?」と疑問をぶつけてみた。
「言葉では言い表せないな。一度行ってみたら分かるよ」と本を出版しようと思っている人物とは思えないような言葉で返されてしまった。
そして本日、そのバーに行くことにしたのだが、彼の言葉を思い出すと、どうしても敷居が高いと感じてしまう。
『バーってところは人生を考えるにはちょうどいい場所だと思う。あの場所で静かにグラスを傾けているうちに、自分が何をしたいのか少しだけ分かった気がするよ。常連たちと他愛のない話をするだけでも勉強になるしね』
まだ若造と呼ばれる世代である私が行く店は、食事と共にビールやエール、ワインを出してくれる賑やかなところで、人生を語るようなことはない。
気の置けない友人と馬鹿騒ぎすることはあっても、静かにグラスを傾けたことなど今まで一度もなかった。
そもそも“グラス”などという洒落た食器など置いておらず、木製の丈夫なジョッキか、銅でできた武骨なゴブレットだけの店にしか行ったことがなかったのだ。
ただ、自分の将来について悩んでおり、今回の旅行もこれから自分が何をすべきか探す旅と言ってよく、ゆっくりと人生を考えるという言葉に興味を持った。
前置きが長くなったが、私は“バー ロックハート”と書かれた扉の前で十秒ほど立ち止まっていた。
私のような者が“バー”という特別な場所に来てもいいのか、場違いではないのかという思いが消えなかったからだ。
しかし、ここまで来て踵を返すこともないと思い直す。もし、場違いなら一杯だけ飲んで帰ればいいと腹を括った。
バーの分厚い扉をゆっくりと押し開ける。
“カランカラン”というドアベルの音が薄暗い店の中に軽快に響いていく。
外は日も落ち、薄暗くなっているが、店の中も同じように薄暗かった。それだけはなく、まだ夏の暑さが残る外とは異なり、ひんやりとした空気が頬を撫でていく。
柔らかいオレンジ色の照明に目が慣れたところで店の奥に向かう。
「いらっしゃいませ」という上品な若い男の声が私を出迎えてくれた。
中にはカウンター席が七席。まだ誰も来ておらず、どの席も空いている。
奥から三番目の席の前に立ち、
「この席でもいいだろうか」と尋ねると、
「どうぞ」とマスターは言って、笑顔で頷いた。
普段はこのように確認することなく、空いている席に勝手に座っている。
しかし、今回はロバート氏にバーの作法のようなものを聞いていたため、このように一声かけたのだ。このバーには常連客が多く、大体決まった席があるらしい。
ロバート氏は一番奥の席、親方と呼ばれるドワーフの鍛冶師がその隣、他にも一番手前の席に座る常連もいるらしい。また、真ん中の席の方がマスターと話がしやすく、空いているなら、その辺りの席の方がいいだろうと教えてもらっていた。
私が座ったところで、「いらっしゃいませ」ともう一度言いながら、冷たく冷やされたおしぼりを手渡してくれた。
私がそれを受け取ると「何になさいますか?」と女性客に受けそうな優しい笑顔で注文を聞いてくる。
最初の一杯をどうするか。それがまず問題だった。
この店にはメニューらしきものはない。
何があるか聞いてもいいのだが、マスターの後ろにあるボトルの数は尋常ではなく、私自身酒に詳しいわけでもないから、こんな銘柄があると言われても困るだけだろう。
ロバート氏に聞いた話では、大体の予算と好みを伝えて出してもらうことも可能らしいのだが、初見の客の場合、店側が困ることになるのである程度決めておいた方がいいということだった。
このロバート氏の助言を受け、予め注文するものを決めてあった。
私は「ハイボールを」と言い、一杯目の注文を無事終えた。
そう思っていたのだが、「ウイスキーにご指定は?」と聞かれ、戸惑う。しかし、すぐにロバート氏の教えを思い出し、詰まることなく言葉を続ける。
「マスターのお任せで」
マスターは「少々お待ち下さい」と言って準備を始めた。
ここまで緊張する必要はない。
ロバート氏にも「バーはリラックスする場所だ。気負わなくてもいい」と言われていたが、この店に来る人たちの噂を知り、どうしても緊張してしまうのだ。
私が聞いた噂では、この街の鍛冶師ギルドの支部長や有名な蒸留所の責任者、更には高名な傭兵や豪商と呼ばれるほどの商人も通っているらしい。
帆船が描かれたラベルのボトルが私の前に置かれる。
「スコッチのカティソークですが、これでよろしいでしょうか?」と言われるが、良いのか悪いのかも分からないので、「それで」と言って頷くことしかできない。
マスターは小さく頷くと、縦長のグラスを取り出し、そこに直方体の透明な氷を静かに入れる。コトンという音が店に響くが、大きな音ではない。
ボトルを開け、金属製の細長いカップにスコッチを注いだ後、手早く、しかし静かに氷の上に酒を垂らしていく。
グラスの四分の一ほどまで酒が入ったところで、細長いスプーンでクルクルと数回回した後、透明な液体の入ったボトルを取り出し、静かに注いでいく。
シュワシュワという音が聞こえてくるが、ビールのような泡立ちではなく、細かい泡がグラスの中を上がっていくだけだ。その泡の出る液体――ソーダを注ぎ終えると、先ほどのスプーンで氷を二、三度上下させる。
最後に柑橘の皮を持った手を振った。
その仕草が何かのまじないのように見えたが、ほのかに柑橘の爽やかな香りが飛んできたので、香りを付けたのだと分かった。
円形の木の薄い板――コースターを私の前に置き、「お待たせしました」と言って、マスターはグラスを静かに置く。
手元のグラスは円筒型のシンプルなものに見えたが、底の方は四角くなっており、高い透明度が映える美しいカットが入っている。
その表面は水滴が現れるほど冷えていた。
「ありがとう」と答え、グラスを口に運ぶ。
想像より重いグラスに僅かに驚くが、それを表情には出さず、ゆっくりと口を付ける。
すぐに独特の煙いような匂いが鼻をくすぐった。そして、口に含むとビールとは違った爽やかさが広がっていく。
「美味い……」
私は思わずそう口にしていた。
正直なところ、スコッチがあまり好みではなかった。もちろん、ロバート氏が飲むような高級酒を飲んだことがあるわけではないが、ドワーフの鍛冶師が愛飲する三年物のスコッチを少しだけ飲んだことがあり、自分には合わないと思ったのだ。
私の声が聞こえたのか、マスターは何かを作っている手を止め、
「ありがとうございます」と礼を言った。
私が二口目を飲もうという時、マスターが「これをどうぞ」と言って小さな皿を出してきた。
そこにはナッツが載せられていた。
普通なら頼んでいないというところだが、これもロバート氏から聞いていたので、「ありがとう」と言って受け取る。
この店ではサービスとして簡単なつまみを出してくれるのだ。
もっともサービスと言っても無料ではなく、“席料”として大銅貨一枚分、つまり五十エーレ(日本円で五百円)が予め料金に入っているそうだ。
ローストしたピーナッツとクルミをつまみ、ハイボールを飲む。
一口目とは違った味の変化に驚きを隠せない。
ナッツの香ばしさと硬い食感が口に残っていたが、ハイボールがそれをきれいに流してくれる。流すだけでなく、その香りとうまく調和し、もう一口飲みたくなる気分にさせてくれた。
三口目を飲んだところで、再びマスターがつまみを出してきた。
「ハムとキュウリのサンドイッチです。ハイボールにはよく合うと思いますよ」
微笑みの浮かぶ表情で一口サイズのサンドイッチを二切れ出してくれた。
しっとりとした食パンの間にベージュ色のハムと薄いグリーンのキュウリが挟まっている。
口に入れると柔らかいパンとサクッとした食感の薄切りのキュウリ、ハムの塩味と旨味を感じる。
そこでハイボールを口に含む。
更にほのかに酸味の利いた刺激のある香りが口に広がる。
「マスタード?」と思わず口にしていた。
「ええ、バターを薄く塗った後にマスタードとマヨネーズで味を整えています」
私はシーウェル侯爵領の出身で、美食家一族と名高いラドフォード子爵家とも縁がある。しかし、これほど美味いサンドイッチを食べたのは初めてだ。
そのことを正直に言うと、マスターは笑顔で小さく首を横に振る。
「大したものは使っていませんよ。こういった雰囲気だから美味しく感じるだけでしょう」
その言葉に違うと言いたかったが、そう言えるだけの知識も経験もないため、曖昧に頷くことしかできなかった。
ハイボールとサンドイッチはすぐになくなった。
この時、私は店に入る前の気後れした感じが完全に消え、バーという場所を楽しめるようになっていた。
「次はどうなさいますか?」
マスターの問いに即座に答えた。
「お勧めのスコッチを」
「予算はどうなさいますか?」
「シングル一杯で銀貨一枚までで」
銀貨一枚は十クローナ(日本円で一万円)だ。僅か三十ミリリットルの酒に出すには高いが、スコッチ自体が結構な値段なので仕方がない。
と言っても、ハイボールを飲むまではそこまで出す気はなかった。ロバート氏からもこう言われていたためだ。
『スコッチやブランデーは際限がないからね。初めてのバーなら飲みやすいカクテルを飲むことを勧めるよ』
カクテルという飲み方も気になったが、ハイボールを飲んで気が変わったのだ。
「では、ハイボールに使ったカティソークでどうでしょうか? 甘さと香り、パンチのバランスがいいスコッチですし、ハイボールとは趣も違いますから楽しめます。カウム王国が補助を出している関係でシングル一杯二クローナと比較的リーズナブルですので」
マスターには私が初めてスコッチを頼んだことが分かったようだ。そのため、予算ギリギリではないものを勧めてくれたのだろう。
私もそこで頭が冷えた。美味い酒でテンションが上がっていたようだ。
「では、それで」
「かしこまりました。飲み方はどうなさいますか?」
「ストレートで」と頼む。
これもロバート氏のアドバイス通りだ。
『飲み方は水割り、トゥワイスアップ、ハーフロック、オンザロック、ストレートなどいろいろあるが、初めてならストレートで酒本来の酒精を感じた方がいい。きつすぎると思ったら、正直に言えば、水や氷で割ってくれるから』
私の言葉を聞いて、マスターは小さく頷き、
「少々お待ちください」と言いながら、ワイングラスの小型のものに薄い金色の酒を注いでいく。
滑るように出されたグラスに口を付ける。
「ほう……」と思わず声が出た。
ハイボールではスモーキーさと独特の辛さしか感じなかったが、舌を焼くアルコールの中に穀物の甘さが潜んでおり、それが思いのほか美味かった。
ゆっくりと味わっていると、ドアベルの音が響く。
新たな客が入ってきたようだ。
「いらっしゃいませ」とマスターが言った後、客が「久しぶりだね。いつものを頼む」と言いながらドアに近い席に座る。
どうやら常連客のようだ。
まじまじと見るわけにはいかないが、四十代後半くらいの人族の男性で、パッと見た感じでは貴族か役人といった雰囲気があった。
マスターはおしぼりを渡すと、すぐにハイボールを作り始める。
「お待たせしました。ジョニーブラックのハイボールです」
四角いボトルがカウンターに置かれる。
私が飲んでいる“カティソーク”も個性的なラベルだが、この酒のラベルも個性的だ。
大股で歩く紳士の姿が描かれているのだ。
私に作ったのと同じ華麗な手つきでハイボールを仕上げる。
ハイボールを受け取った紳士は満足そうに頷くと、すぐに口を付ける。
「実に美味い。こういう暑い日にはジョニーのハイボールが一番だ」
「ありがとうございます」とマスターが答えている。
その後、私もその紳士も何もしゃべらず、静かに飲む。
確かにこのゆったりとした時間にいろいろと考えていた。今抱えている悩み、特に将来に対する漠然とした不安などを。
ゆっくり飲んだつもりだが、三十ミリリットルのスコッチは二十分も掛からずに飲み切ってしまった。
三杯も飲むつもりがなかったので、次のことは考えていなかった。ロバート氏に言われた通り、カクテルという選択肢も面白そうだが、思いの外スコッチが美味かったので、別のものを頼むのもありかなと考えていた。
「どうしようかな」と思わず口にしていた。
「いかがなさいますか?」
ごく小さな声の呟きのつもりだったが、静かな店内ではマスターの耳に届いてしまったようだ。
「次もスコッチでお願いします。予算はさっきと同じで」
「承りました」とマスターは言い、後ろに並べてあるボトルを眺める。そして、一本のボトルを取り出した。
「スコッチ発祥の地、ロックハート領ラスモア村のものでいかがでしょうか? ご予算の範囲でお出しできるものがございますが」
ラスモア村のことはほとんど知らないが、せっかくなので発祥の地のものを飲もうと思い、了承する。
「比較的スタンダードなシングルモルトにしてみました。ラスモア蒸留所のラスモア八年です。どうぞ」
そう言って、グラスを滑らすように出してきた。
色はカティソークより濃く、琥珀を溶かしたようなクリアなブラウンだ。
グラスを持ち上げ、口を付ける。
舌先にピリッとする強いアルコールを感じるが、すぐにほんのり甘い香りが広がる。カティソークとは異なり、煙いような独特の香りはほとんど感じなかった。
「美味い……これ、飲みやすくて美味しいですね」
「ありがとうございます。初代蒸留責任者スコット・ウィッシュキー氏が最初に作った八年物を再現したスコッチです。当時はスモーキーな香りの元となる泥炭がなかったので、麦芽の甘みとオーク樽が由来の花のような香りが特徴となっています」
甘みは分かったが、花のような香りは全く分からなかった。そのため、もう一度グラスに口を付け、香りを確認する。
「花の香りですか……私には分かりませんね」
「気にされる必要はありませんよ。美味しいと思うか、好みではないと思うか、それだけで充分ですから」
マスターがそう言うと、常連の紳士が話に加わってきた。
「ほとんどの人が自分に合うか、合わないかしか考えていませんから。難しく考えなくてもよいのでは」
私に気を使ってくれたのだと思った。
「ありがとうございます。ですが、今まで数多くのスコッチを飲まれているのではありませんか?」
私の言葉に紳士はにこりと笑う。
「確かに飲んでいる方だと思いますが、私はマスターのように分かって飲んでいるわけではありませんよ。特徴がはっきりしたものなら、スモーキーだとか、コクがあるとかと思う程度です」
それからその紳士と話をした。
名前はゴードンさんと言い、スコッチやワインなどを扱う商会を経営しているらしく、酒についてとても詳しかった。
「では、ここでの出会いを記念して、一杯奢らせてください」とゴードンさんが言ってきた。
少し酔っていたこともあり、あまり何も考えずに「ありがとうございます」と頭を下げた。
「マスター、ZLの30年物はまだあったかな? 前はブラック・ザックの三十年があったと記憶しているのだが」
「ええ、まだございます。ハーフでお出しすればよいでしょうか?」
三十年物と聞き、驚く。
「そんな高い物はいただけません」と慌てて断った。
値段は分からないが、三年物でも安くないから、その十倍も熟成させたものならとんでもない値段であることは間違いない。
「私も若い頃に奢っていただいたことがあります。そのお返しだと思っていただければ。もし、それでも気になるのでしたら、将来あなたが若い方に奢ってあげてください」
そう言われると断りにくい。
「ありがとうございます。では、いただきます」
私がそう言うと、マスターはカウンターの後ろの棚ではなく、奥の別室に入っていく。
すぐに戻り、一本のボトルをカウンターに置いた。
「ブラック・ザック三十年です。ZLの中でも味のバランスと香りの豊かさで非常に人気があるスコッチです」
説明しながら、金属製のカップに注ぎ、そこからグラスに移し替える。
色はさっき飲んだラスモア八年より更に濃く、磨き込んだマホガニーを思い起こさせる。
「色が濃いですね」と思わず呟く。
「ええ、甘口の酒精強化ワインの樽で長期間熟成させたものによくある色ですね」
そう言いながらグラスを私の前に滑らせる。
グラスを手に取り、ゴードンさんに向かって、「いただきます」と小さく頭を下げてから、ゆっくりと口に運んだ。
次の瞬間、私は何も考えられなくなった。
この世のものとは思えぬ美味さに魅了されてしまったからだ。
第一印象は南国チェスロックで食べたことがあるフレッシュなトロピカルフルーツの香りと甘み。その後に焼いたクルミのような香ばしさ。更に麦芽本来の甘みの後に舌を焼くアルコール。最後に僅かにスモーキーな香りとレモンのような爽やかな酸味を感じた。
「こんなお酒があるんですね……」と呆然自失という感じで呟いていた。
「そうですね。これが麦と水だけでできているなんて思えないですよね」とゴードンさんが言ってきた。
そこでお礼を言っていないことに気づき、慌てる。
「あ、ありがとうございました! これほど美味しいとは思っていなくて、呆然としてしまいました」
「気にしなくていいですよ。私も初めて飲んだ時に同じように言葉を失ってしまいましたから。そうだったよね、マスター?」
「はい。これを初めて飲まれるお客様のほとんどが同じような感じです。もちろん、私も初めて飲んだ時には一分ほど固まってしまいました」
そう言ってマスターは小さく笑った。
ゴードンさんが私に聞いてきた。
「ところで、どんな感じでしたか?」
「とても感動しましたが、私のような超初心者にはもったいない酒だと思いました。もう少し勉強してから飲みたいと」
「味や香りはどうですか?」
どう答えていいのか困るが、せっかく飲ませていただいたので、そこでさっき感じたことを頑張って説明してみた。
「素人なのでどう言っていいのか分かりませんが、最初はチェスロックのトロピカルフルーツのような香りと甘みを感じました。その後に……」
何度かグラスに口を付け、確認しながら説明した。
「素晴らしいですね。それだけ感じられるというのは。これからも美味しいスコッチを見つけて飲まれてはいかがですか」
「はい。正直なところ、一時間前まではスコッチが美味いとは思っていなかったんです。ですが、これほど美味しいものがあると知り、もの凄く興味が湧きました」
正直な思いだ。
カティソークやラスモア八年も十分に美味かったが、ブラック・ザック三十年は世の中にこれほど美味い酒があるのかと衝撃を受けたほどだ。
それからゴードンさんやマスターにスコッチについていろいろ話を聞いた。
二人とも酒のプロということで知識量は凄かった。
そして、最後に気になっていたことを聞いた。
「ZLというのは何の略なんでしょうか?」
「ザカライアス・ロックハート卿のイニシャルですね」とマスターが教えてくれる。
しかし疑問は解消されなかった。明らかに使い方が違ったためだ。
「ですが、ZLの中でもという感じで使われていたと思うんですが、どういう意味があるのですか?」
私の問いにマスターはゴードンさんの方を向き、「どう説明したらいいでしょうか」と聞いた。
「そうだね……」とゴードンさんは悩むが、私の方を見てゆっくりと説明を始めた。
「ZLというのは隠語のようなものなんですよ。本当は別の言葉あるんですが、その言葉を発すると大変なことになるので……そのボトルのラベルの上の方に書いてある文字を見てください」
そう言われてラベルを見る。
ラベルの中央にはマントを羽織り、剣を背負った冒険者らしい人物の後姿が描かれている。名前にあるように真っ黒だ。
その上を見ると、“ザックコレクション”と小さく書いてあった。
「ザックコレクショ……」と言いかけたところで、二人が同時に「「それ以上は読まないで!」」と今までの落ち着いた雰囲気をかなぐり捨てて叫ぶ。
次の瞬間、ドアが開かれる音が聞こえた。
そこにはずんぐりとした人影が複数あった。そこに立っていたのはドワーフたちだった。
「今日は三人ばかり連れてきたが、大丈夫か」と言った後、
「そう言えば、ザックコレクションと聞こえたようじゃが」と言い、「なるほど、そいつを飲んでおったのか」とギラギラした目で私の前にあるボトルを見ている。
「何とか間に合ったようですね。四人で済みました」とマスターがいい、安堵の表情を浮かべていた。
「すみませんが、席を移動していただけますか」と言われたので、ゴードンさんがいる入り口側に移動する。
そのドワーフは奥から二番目の席に座った。そこでロバート氏が言っていた“親方”という常連客であると気づいた。
「先ほどの言葉を口にすると、ドワーフが突然現れるんです。それも大量に」とゴードンさんが真剣な表情で言ってきた。
「さっきのザック……」と言いかけて、慌てて言い換える。
「先ほどの言葉でドワーフがですか? 偶然なのではありませんか?」
初心者である私を担いでいるのではと思い聞いてみた。
「いいえ、これは純然たる事実です。以前聞いた話では、不用意にその言葉を言ったため、数百人のドワーフに囲まれた商隊があったそうです。ですので、ZLという隠語を使うんです」
あまりに真剣な表情に頷くことしかできなかった。
その後、ロバート氏も店に現れた。
「どうだい、ジャック。楽しいところだろ」と聞かれ、大きく頷く。
それから親方たちを含め、楽しい時間を過ごした。
そして、完全に払拭されたわけではないが、何となく将来の不安のようなものが消えていた。
■■■
ジャック・マイケルソンはその後、スコッチの評論家として名を馳せた。
スコッチの評論家は他にも存在するが、彼はザックコレクションに対する思い入れが特に強かった。
彼の代表的な著書、“トリア・ウィスキー・コンパニオン”には“ザックコレクション”に関する章があり、そこにはザックコレクションに対する熱い思いが綴られていた。
『“ザックコレクション”を初めて飲んだ時の感動を、私は死ぬまで忘れないだろう。その衝撃的な感動は私の人生を変えた……私が今の仕事を始めたのは、ある酒場で一人の紳士にザックコレクションを飲ませてもらったからだ。もし、その出会いがなければ、この本が世に出ることはなかっただろう……』
そして、巻末にはこのような記載があった。
『……バーには人生を変える何かがある。私のように人生そのものを変えることもあれば、その日の気分が少し変わる程度のこともあるだろう。しかし、バーのカウンターに座らなければ、その変化は訪れない。この本を手に取っている方なら私の言いたいことは分かってくれると思う。だから、あなたが私にとっての紳士のように、次の世代にそれを伝えてほしい。もちろん、自分が楽しむためにバーに行くことこそが一番だが』
マイケルソンが出会った紳士については諸説あるが、アウレラの豪商ゴードン・マクファイル氏ではないかという説がある。
しかし、マイケルソンは誰であったのか、公式の場で語ることはなかった。
その理由を問われ、こう答えている。
『ただの酒を愛する人というだけでは駄目なのだろうか。私にとって彼は尊敬する先輩であり、同じ酒を愛する仲間でしかないのだが……』
完
いかがだったでしょうか。
本作の主役、スコッチ評論家ジャック・マイケルソンは第三章第五十三話「贈呈」に出てきた人物です。
実を言いますと、私自身、これに近い体験をしております。
二十五年以上前、初めて入った神戸のシャンパンバーで、常連の方からラフィット・ロートシルトの1934年をごちそうになりました。当時でも60年前の特級ということで非常に高価なワインだったと思います。
当時、私が飲んでいたワインは安いイタリアワインで、正直ワインが感動するほど美味い酒だと思っていませんでした。
しかし、そのラフィットは表現できないほど香り豊かで、グランクリュのワインはこれほど素晴らしいのかと目からうろこが落ちた思いでした。
それからワインに嵌り、更にスコッチ、コニャック、カルヴァドスといった蒸留酒にも嵌っていきました。
それがなければ、神戸に住むこともなく、ドリーム・ライフを書くことはなかったでしょう。
つまり、私の人生もバーで変わったのです。
こんなことが起きることは滅多にないと思いますが、バーにはそういったことも起きるのだと思っていただければと、この話を書きました。
話は変わりますが、ドリーム・ライフの書籍版は第四巻で完結となります。
いろいろあり、第三巻から長い期間空いてしまいましたが、その分だけパワーアップしております。
特に特別読み切りの“ドワーフライフ~夢の異世界酒生活~”は三本も収録されております。また、さじわ先生のコミックも一部収録されておりますので、お手に取っていただければと思います。
それではまた、どこかで。
ジーク・スコッチ!