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06.魔人公爵ユリウスの告白


魔人。それはこの王国において、忌むべき存在。


千年の歴史の中で発展していった魔法は、より緻密に、より多層的に進歩した。複雑化した魔法理論を読み解いたとしても、それを実現するための魔力がなければ意味がない。魔導士に要求される魔力量は、魔法学の発展に比例して、増大していく。


高い魔力を持つ魔導士を輩出すること。いつしかそれが、王家や名門貴族にとっての至上命題になるのは必然だった。


魔力が高ければ高いほど優秀。まるで花の品種改良をするかのように、王侯貴族はより高い魔力を持つ子供を求めて、婚姻を繰り返した。魔力絶対主義。それが蔓延る時代においては、魔力さえ高い者ならばたとえ庶民であろうと王族との結婚が叶うほどのものだった。


そんな魔力絶対主義の時代は、一人の王子の死によって、終焉を迎える。


表向きには、魔法実験中の悲惨な事故と公表され、歴史にもそう残されている。他の王子達を圧倒する魔力をもって生まれた彼は、母が庶民であり、第四王子という立場であってなお、王位継承権一位と指名されるほどに将来が有望視されていた。しかし、人よりも並外れて膨大な魔力は、彼を、人ではないものへ変えてしまう。


それは何の前触れもない、ある日のこと。人間の肉体の許容量を超えた魔力は制御などできず、暴走が始まった。最初は爆発。王子の肉体はもちろん、その周囲の人も建物も一瞬で蒸発した。あとに残されたのは、陽炎のようにゆらゆらと揺らめく、人の形をした、人ではない何か。最初は精霊かと思われた。すぐに違うと知れた。それは獣のように咆哮をあげ、周囲の人も物も何もかもを破壊しつくした。純粋な魔力の塊。それが人の形をしていようと、それに自我があるわけもなく、自身がすべて燃え尽きるまで苦しみもがくかのように暴れ回り、やがて、王子だったものは消滅した。


魔と化した者、忌むべきものとして、王子は“最初の魔人”と呼ばれている。


アルノルト公爵である父は、そんな歴史の裏に隠された真実を、淡々と僕に語って聞かせた。それは、幼い僕が小さな魔力暴走を起こし、部屋一つを丸焼けにして使用人にも怪我をさせてしまった時のこと。幼い僕には全てが理解できたわけではない。しかし、いつの日か僕は、魔人という名の化け物になる。その確信だけが鮮烈に心に焼きついてしまった。




その日から僕を待っていたのは、アルノルト公爵家に課せられた呪いのような人生だった。




母が亡くなったのは、僕が六歳のときだった。


今となってはその顔さえ朧気だが、幼心に美しい人だったとは思う。先王の末娘だった母は、王族の中でも一際魔力が高く、それゆえアルノルト公爵家に降嫁することになった。アルノルト公爵家以外には、嫁げなかったと言ってもいい。高い魔力という諸刃の剣がある以上、他国への輿入れ、国内貴族への降嫁、そのどちらも難しくなる。それならばと、唯一選ばれるのはアルノルト公爵家だ。王の剣、王の盾、その役目を負う一族ならば魔力は高いほうがいい。それが僕達の寿命を縮める行為であっても、王命とあれば我が一族が逆らうことはない。


そんな典型的な政略結婚ではあったが、両親の仲は悪くなかったようだ。母は穏やかに笑う人だったし、父も母に対しては優しかったように思う。弟を産んで間もなくのこと、元々線が細く、儚げな人だった母は亡くなった。産後の体力が戻らず…と、主治医や父からはそう聞かされた。しかし、僕は知っている。母の寝室、ベッドサイドの引き出しの中には、秘密の小瓶があったことを。


その小瓶の中身が、ただの薬だったのか、それとも毒薬だったのか、今となっては分からない。


僕が魔力暴走を起こしたあの日。「あなたは私の子なのね」と、母は落胆するように言いながら僕の頭を撫でた。母の顔はぼんやりとしか思い出せないというのに、その手のぬくもりだけが今でもはっきりと記憶に残っている。


僕たちはいつ、自分が人間でなくなってしまうか分からない。母も、いつか訪れる最期の日を思っては、悩んでいたのだろうか。自分がそうなるのが先か、それとも夫か…息子か……そんな恐怖に怯える日は、あったのだろうか。母が何を考え、何を愛し、何を恐れていたのか。それも、今となっては分からないことだ。




僕が少年と呼ばれる年頃になった頃。


社交界デビューをすると、いつも話題になるのは僕の珍しい黒髪のことだった。


この国に現れる稀人がみな黒髪であったことから、世間一般では、希少な黒の髪色は尊い色として扱われることもある。けれど、僕が持つならそれは、忌むべきものでしかない。


魔力の濃度は、人の髪や瞳の色に現れる。体内の魔力濃度が高いほど、色は濃く、暗くなる。黒髪が暗示するものは、魔人と化す末路だ。しかし、これを知っているのは、この国でも上位の限られた人々だけ。


「見ろ、あの黒髪」「アルノルト公爵家か」「きっと長くは生きられないな」


事情を知っている王族や名門貴族からは憐れまれ、腫物のように扱われた。


「見て、黒髪の貴公子様よ!」「アルノルト公爵家のユリウス様ね」「素敵。ぜひ一度踊っていただきたいわ」


事情を知らないその他の貴族や庶民からは、ただ無邪気にもてはやされる。


社交界のどこにだって居場所はなかった。誰とだって仲良くなろうとは思わなかった。僕がどこにいるか、僕が誰といるか、そんなことには何の意味もない。僕に求められているのは、アルノルト公爵家を継ぐこと。王の剣を全うすること。次代の王の剣となる、次代のアルノルト公爵を残すこと。


六歳離れた弟は可愛かった。僕にも、オスカーにも、母代わりのマリィベルにも、よく懐いた。


僕と同じ黒髪の弟は、きっと王の盾となるだろう。その方がいい。王の盾ならば、王の剣よりもずっと、人間らしい人生が送れるだろう。人並みに成長して、人並みに結婚して、人並みに老いる。僕は祈った。弟にはそんな、ささやかな幸せが許されますように。




父が自殺したのは、僕の二十歳の誕生日だった。


こうなるだろうことは分かっていた。予測はついていた。事実として父は、僕にアルノルト公爵家を継がせるため、アルノルト公爵家のすべてを僕に伝え残した。それを終えれば父は満足して、やっと解放されると安堵したような顔をして、自身の心臓にナイフを突き立てた。


父の亡骸を前にして僕が抱いた感情は、同情と、労わりと、……羨望だった。


母の死、父の死をもって、僕は悟る。僕たちが楽になれるのは、人間として死ねる、その瞬間だけ。その事実は、想像以上に僕を打ちのめした。


父はもう限界だったのだろう。初老というには年若い父は、それでも、アルノルト公爵家の中では長く生きた方だ。いつか訪れる最期の日に怯え、毎朝目覚めては絶望に打ちひしがれ、毎晩明日の平穏を祈るように眠る。いつ、自分の魔力が氾濫してしまうか分からない。いつ、自分が魔人になってしまうか分からない。短命で知られる公爵家の人々の中には、父のように自死を選んだ者も少なくないのだろう。こんな日々を生きるのは、つらいものだ。


長年堪えてきた父のように、僕も、いつか自分の子どもがアルノルト公爵家を継ぐ日まで、絶望に心を削られながら生きるしかないのだろう。アルノルト公爵家を継ぐということは、その悲嘆も、苦痛も、恐怖も、怯えも、全てを背負っていくということ。


あるいは、僕の代でアルノルト公爵家を終わらせてしまってもいい。そんな安楽な選択肢がふと浮かぶ。しかしそれを選べないくらいには、僕は父の生き様に報いたいと思っていたし、僕の代わりに弟が犠牲になるのも嫌だった。何よりこの国が、それを許さないだろうことも分かっていた。


父は死の間際、一冊の本を僕に手渡していた。これは、僕たちアルノルト公爵家に残された最後の手段であり、僕にとっての唯一の希望だと、そう言った。


そこに記されていたのは、冒涜的な魔法だった。アルノルト公爵家の魔力の“器”を作るべく、異世界から人を召喚し、その身体を造り変える。その方法が確立されていた。確信的に書かれていることから、すでに何度か、使用されたであろうことは想像できる。稀人を重用し、保護の対象としている王国法に抵触するどころか、それ以前の問題のもの。だが、この召喚魔法の完成に王家が関わっていることは確かだろう。これからも王の剣が必要になることはもちろん、政治的パワーバランス安定のため、母のように高い魔力を持つ者の無難な受け入れ先として、アルノルト公爵家は存在しなくてはならない。


召喚魔法は、確かに僕にとっての唯一の希望だろう。けれど、それを手にしていながら僕は、すぐにはそれを選べなかった。もっとよく考える必要がある。手段はこれしかないのか?誰かを犠牲にする覚悟はできるのか?その犠牲の上に立つ価値が、僕にはあるのか?そうまでして生きる意味が……僕にあるのか。


そんな迷いを断ち切るきっかけは、戦争だった。


今思えば戦争、というほどの大きなものではなかったように思う。好戦的な隣国の領土侵犯、小競り合い程度から始まったもの。けれど、国境を挟んで布陣された両国の兵士を見た僕には、十分に大きな戦場だと思えた。


長年領土争いを繰り返してきた隣国とのいざこざに、王は苛立ちを隠さなかった。王都を出立する日、王は命じられた。「圧倒的な力をもって、我が国の剣を見せつけよ」と。アルノルト公爵家を継ぎ、王の剣として駆り出された僕の役目は一つ。その王命を遂行すること。


王の望み通りに隣国を圧倒するには、火炎の魔法がいいだろう。見た目も派手で、威力も十分で、被害の広がりも早い。味方への飛び火に注意しながら、敵の前線を薙ぎ払うように炎を走らせる。その時の僕は、力加減が分からなかった。こんなにも大規模に魔法を使うのは初めてだった。


隣国の戦線は、たった半刻で崩壊した。虐殺だと、誰かが言った。こんなものは戦闘ですらないと。


もはや爆炎というべき炎が国境線を一閃する。隣国の自慢であっただろう魔法障壁は無力に散り、業火は多数の兵士を焼き払った。直撃した者の体は炭と化し、人の形が残っているだけましな方だ。炎が一気に酸素を燃やし尽くしていくせいで、火炎を逃れた者であっても酸欠で倒れ、後方の兵士は黒煙に巻かれて逃げ惑う。


追撃は必要なかった。僕が呆然とする中、味方の兵士が進撃し、義務を果たしていく。それ以上僕が何かをする必要もなく、隣国の軍は壊滅した。


魔人公爵―――それは畏怖をもって呼ばれるようになった、僕への蔑称。


その後のことはよく覚えていない。戦死者が何名だとか、勲章がどうだとか、王はさぞ満足されたようだとか、隣国はすぐに和平と不可侵条約にサインしただとか。そんなことは、すべてが終わり、冷静になってから確認したことでしかない。


僕は動揺していた。あんなにも大規模に魔法を使ったことで、僕の身体は驚くほど軽い。ずっと腹の中にあった重石がなくなったような、そんな爽快さすらあった。体内魔力の濃度が下がって、黒髪は栗色に、黒い瞳はヘーゼルに色が変わる。普通の人ならば、そんな濃度差ができるほどの魔力量がそもそもないが、さすがはアルノルト公爵家ということか。一時的とはいえ色の変化が起きたことで、僕は魔力の減少をより実感していた。


そして、純粋な歓喜と同時に、絶望に襲われたのはすぐのこと。


戦争だとか、虐殺だとか、それほどのことをしなければ、僕の中で生み出され続ける魔力は消費しようがない。けれどそれは誰かを殺すということだ。誰かの、それこそたくさんの誰かの人生を、蹂躙することを意味する。


どうあがいても僕は、誰かの犠牲の上にしか生きられない。


それが敵国の千人の兵士を殺すか、たった一人の誰かを犠牲にするか、その二択しかなくて。


この世界の理の残酷さに、涙する資格すらない僕は、あんなにも躊躇っていた召喚魔法の実行を選んだ。父が、僕にとっての唯一の希望だと言った、その言葉にすがるように。


数年をかけて準備した召喚魔法には、膨大な魔力を消費した。それでも僕には、余力が残る程度ではあった。


魔法陣の中に倒れ込んでいた女性は、僕と同じくらいの年頃に見える。僕よりもずっと小柄な身体、日焼けをしていない肌、土仕事など知らない白い手、さらりと流れる黒髪。きっと彼女もニホンという国の人なのだろう。抱き上げた身体はぐったりとして熱を持ち、呼吸は乱れ、僅かに開いた唇からは苦しげな声がもれる。無理矢理に彼女の身体を造り変える、残酷な魔法のせいだ。


ひどい熱病にうなされるように苦しみながら、彼女は一ヵ月も眠り続けた。たまに半覚醒しては、何かを求めるように口を開き、声を出すこともできず、また眠る。彼女は高熱のせいでひどい汗をかいていた。目にかかる前髪をそっと払って、額の汗を拭うと、彼女の表情が少しやわらぐ。


毎日彼女の様子を見て、毎日彼女の苦しみを見せつけられて、毎日彼女の近くで過ごすうちに、いつしか僕は、彼女の目覚めを待ちわびていた。この人は、どんな声で話すのだろう。この人はどんな風に笑うのだろう。この人は何が好きなのだろう。期待が膨らむ一方で、罪悪感もまた、日に日に重さを増していく。僕は彼女に、何と謝罪をすればいいのか。僕はまだ、彼女の名前すら知らないのに。


やがて、彼女の体調も落ち着いたようで、苦しむ様子もなく穏やかに眠れるようになってきた。魔力の“器”としての完成が近いのだろう。明日か、明後日か、まだ先か。焦れる気持ちをごまかすように、彼女の黒髪に、そっと触れてみる。すると、不思議な感覚がして、……自分の体から魔力が抜けていくのがわかった。


肩の荷を降ろしたような、胸のつかえが取れたような、手枷足枷が外されたような、そんな安らぎを、僕は生まれて初めて知った。鏡を見れば、黒髪黒眼だった僕が、銀髪紫眼になるほどには魔力が減少していた。


父は、彼女のことを、僕にとっての唯一の希望だと言った。けれどそんな言葉では足りない。これは希望すら霞むほどの、救いだ。彼女の存在は、僕にとって救済以外のなにものでもない。



「彼女を、妻に迎える」



オスカーとマリィベルにそう告げると、二人は狼狽する。彼女が目覚めてからでも遅くない、もっとゆっくりお考えを、けれどそんな言葉では僕の意思は変えられない。


召喚魔法とは、召喚者の望むものを召喚する魔法。


僕が望んだのは……愛を知る人だ。僕をひとりの人間として、愛してくれる誰か。そんな、おとぎ話のような、叶いもしないような願い事、だけど誰だって一度は夢見るような祈りを、僕はしていた。そして現れたのが、他の誰でもない、彼女なのだから。



「頼むよ。これが僕の、最初で最後の我が儘だ」



今までずっと、何も望まず生きてきた。ただ誰かの期待に応え、望みを叶えるために、行動してきた。でもこれだけは譲れない。これだけが僕の望みだ。初めて僕が心から望んだものが、彼女なんだ。


その気持ちを素直に告げると、僕が生まれる前からアルノルト公爵家に仕え、今となっては家族に等しい彼らは、それ以上何も言わずに協力してくれた。


そして、彼女の目覚めを待たず、僕は召喚魔法の使用を報告するために、王への謁見を願い出た。銀髪紫眼の僕の姿を見て、王はすぐに気がついたようだ。血縁でいえば僕は現王の甥にあたるが、それ以上に今代の“王の剣”として、僕は王に気に入られていた。


アルノルト公爵家の存続のために召喚魔法は必要なことだった。しかし、稀人の反感を買わないために、その事実は隠蔽すべきもの。王は僕の行動に理解を示し、『新たな稀人が発見され、アルノルト公爵家で保護されているが、病のためそのまま公爵家で療養している』というシナリオを公表してくれた。そして、彼女と僕の結婚も、すでに書類上は成立した。


僕は自分でも驚くほど冷静に行動していた。


彼女を手に入れるためなら、どんなに卑怯な手段でも、どんな残酷な方法でも、どれほど悪虐な行為でも、僕は迷わないだろう。僕は彼女が欲しい。それが彼女を傷つける結果になるとしても、僕の手で傷ついた彼女ならきっと、その傷ですら愛おしい。


数日が経って、彼女が目覚めたと知らせを受けた。息を切らせて駆けつけると、まだ定まらない視線で、彼女は天井を見上げている。


「やっと目が覚めましたね。自分の名前はわかりますか?」


「…………え、り…」


「エリ…そうか………君は、エリィ」


まだぼんやりとした様子の彼女は、うわ言のように名前を答える。耳馴染みのない名前は、異世界らしい響きのものだった。嗄れた声が痛々しくて、少し水を飲むと、彼女はまた眠ってしまう。


その日からはまるで、世界が一変したようだった。


一ヵ月も眠り続けていたエリィ。その身体はすっかり弱っていたが、毎日少しずつ、彼女は元気を取り戻していく。最初は戸惑い、困った様子の多かった彼女も、徐々に生活に慣れてきたのか、よく笑うようになった。


『僕とエリィは結婚していたが、熱病で一週間寝込んだことで、彼女は記憶喪失になった』


こんな嘘に付き合って、屋敷の者たちはよくやってくれたと思う。皆、毎日の彼女の様子を事細かに報告してくれた。彼女は甘いものが好きだとか、そんな小さなことまでだ。



「君がもう一度、僕に恋をしてくれることを願って、共に過ごすことを許してほしい」



嘘を混ぜながらも本心だった言葉、愛の告白。


頬を染めた彼女が頷いてくれたときは、舞い上がるほどに嬉しかった。僕は自分でも驚くほど簡単に、嘘と愛とを半々に、あるいは交互にして喋る。それでも、これで彼女が手に入ると思えば、僕の心は痛まない。


彼女がそこにいる。手を伸ばせば届く距離だ。彼女が笑う。心に火が灯るように世界が明るくなる。彼女が僕の名前を呼ぶ。くすぐったい幸福感に満たされる。


もっと近くに、ずっとそばに、僕だけの君でいて欲しい。


少しの幸福を与えられると、よりを多くを求めてしまう。自分がこんなにも強欲だったとは知らなかった。かつての自分の黒髪は忌まわしいものだったが、彼女の黒髪ならばそれは美しく、触れてみたいとさえ思ってしまう。僕は彼女を前にする度、生まれて初めて知る羞恥心に躊躇っては、我慢することもできない情熱に突き動かされる。


「君に触れられる理由なら、何だって欲しいんです」「僕以外と踊るなんて許しません」


僕はどんどん彼女に惹かれていく。彼女を手放したくない思いは強くなる一方だ。


彼女が召喚されたあの日。召喚魔法の発動と同時に彼女の身体に施された、魔力の“器”になる魔法。それを残酷だと思っていたのは、いつまでだったか。


彼女は、僕の与える魔力がなければ生きていけない。僕は彼女に救われ続けると同時に、彼女を生かし続けている。この世に命以上に尊いものがないとすれば、僕たちの命を繋ぐこの鎖は、何よりも重い戒めだろう。こんな歪んだ事実に、仄暗い喜びと満足感を覚えてしまうほど、僕は彼女に依存していた。


いつ魔力が氾濫するか分からないと怯え、いつか魔人になる最期の日に恐怖する…そんなことがない毎日。魔力が蓄積しない体が軽い、解放感と安心感に満たされる日々。


恋も愛も独占欲も、強欲や羞恥や依存だって、彼女がいなければ知らなかった感情だ。彼女といると未来が開けていく。毎日の生活が彩りに満ちる。このまま時を過ごせば、彼女と寄り添いながらゆるやかに老い、充分に生きて死ぬことだってできるだろう。人間として生きて、人間として死ねる、そんな人生。僕が想像もつかなかったもの、自分に許されると思ってもいなかったものが今、ここにある。


エリィ。


全部、君がいなければ、手に入れられなかったものだ。











青く霞む山並みは今、鮮やかな夕焼けに染まり始めている。それを鏡のように映した湖面は穏やかで、静かに寄せては返す波音が耳に心地よい。湖畔には見渡す限りの花畑が広がっていて、その中に立つのは、銀髪の青年。一枚の絵画のように、私の目の前に広がる景色は完成されていた。ただひとつだけ、その美しさにそぐわないのは、彼の表情。


迷子になった子供のように泣きそうな顔をして、神に赦しを乞う罪人のような悲愴感をたたえて、彼は告白する。 


「エリィ、どこにも行かないで。僕とずっと一緒にいてください」


「………ユリウス」


「エリィ、君が…君だけが……、僕をひとりの人間にしてくれる」


すべてを知る前の私だったら、乙女ゲームの登場人物が言いそうなセリフだと、内心微笑んでしまっただろう。けれど、この言葉は、この言葉どおりの意味しかない。私がいなければ、私を利用しなければ、彼は人ではない何かになってしまうのだから。


「エリィ、僕は……、君の人生を壊すことでしか、君を手に入れられなかった。だけど僕は後悔できない。たとえ全てをやり直せるとしても、僕は同じ選択をするでしょう。君と過ごす時間が幸福だと知ってしまった。それをもう手放せないと思ってしまった」


彼の示す愛は、まるで暴力だ。私のこれまでの人生を壊して、私のこれからの人生を縛りつけて、何も後悔せず何もかもを手に入れたいと、そう願う彼は傲慢だ。狡猾だ。悪辣だ。罵倒の言葉ならいくらでも出てくる。


結婚生活なんて存在してなかった。出会いも恋も、私たちの間には何もなかった。そこにあったのは嘘だ。虚構だ。絵空事だ。私がこの世界にいる理由でさえ、隠されていた。


私は彼を許せるか分からない。なのに自分がどうしたいかも決められない。怒りも、悲しみも、恋も、期待も、絶望も、切望も、なにもかもが、私の心をぐちゃぐちゃにしたままだ。



「エリィ、」



ああ、まるで自分のすべてだと言うかのように、彼は私の名前を口にする。偽りだらけで始まった、たった数か月の異世界生活。けれどその中で、あなたが見せてくれた感情だけは、それだけは、本物だったというの?―――ねぇ、教えてよ。そう言いたいのに、私の唇は震えるばかりで何も言えない。


たった数歩の、近くて遠い、ふたりの距離。


心の距離を詰めるように、したたかに、一歩一歩、私を追い詰めるように、少しずつ、どこにも逃げられないと宣告するように、彼は私を迎えに来る。


「僕は、君と生きる人生以外、考えられない。君がそばにいて、君が笑って、君が僕の名前を呼ぶ、そんな人生が欲しいんです」


そんな、恋をする人のような顔で、私を見ないで。私が恋したあなたのままで、愛の告白をするようにまっすぐに、そんな言葉をいわないで。あなたを信じてしまいそうになるの。あなたのすべてを、許してしまいそうになる。




「どうか、僕と生きると言ってください、エリィ」




おねがい。そんなに優しく、抱きしめないで。

私もあなたと生きたいと、そう答えてしまいそうになるの。



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