05.王の盾マルクスの告発
「初めまして。ぼくはマルクス・アルノルト。貴女の夫、ユリウス・アルノルトの弟です」
彼が現れたのは、まさに青天の霹靂だった。
楽しみにしていた旅行の当日。ユリウス様は急な仕事が入ってしまったらしく、残念ながら別行動、仕事を終わらせてから現地で合流することになった。
マリィベルがあれもこれもと悩んでドレスやら何やらを詰め込んだトランクを、オスカーがてきぱきと馬車に運びこむ指示を出している。想定よりも大荷物になっていたらしい。オスカーは小言をいうが、マリィベルはどこ吹く風、女性の身支度に文句をつけるなと開き直るくらいだった。
私はといえば、旅支度については戦力外、すべて二人にお任せだ。せめてもと邪魔にならないように気をつけつつ、馬を撫でながら全力待機。
そうして準備が終わるのを待っていると、一台の馬車が公爵家の門をくぐるのが見えた。私に馬車の見分けなんてつかないけれど、その馬車を見たオスカーは血相を変え、マリィベルは青ざめる。
「どうしたの二人とも?どんなお客様なの?」
「い、いえ、奥様はお気になさらず。さあ早く馬車の中へ!」
「え?え?」
戸惑う私を無理やり馬車に押し込めてしまうと、その閉じた扉の向こうでオスカーが来客の応対を始めた。何やら穏やかでない声量で話しているようだが、どうにもはっきりとは聞こえない。ふいに、ガチャリと馬車の扉が開く。
そこにいたのは、美青年。
面差しはユリウス様とよく似ているが、どちらかというと中性的なユリウス様と違って、彼にはまだ幼さが残りつつも男性的な鋭利さがある。アッシュグレーの髪が鈍く光り、刃を思わせるような人。
「初めまして。ぼくはマルクス・アルノルト。貴女の夫、ユリウス・アルノルトの弟です」
どうも似てると思ったら実の弟なのか。美形だ。顔がいい。神よ、こんな美青年を二人もお創りになるなんて、私は何度あなたに感謝すればいいのか。
「マルクス様、どうかそのようなことは…!」
「オスカー、ぼくは義姉上と話がある。別荘に行くのだろう? 君たちはぼくの馬車に乗って、後からついてくればいい」
「マルクス様…!」
「オスカー、これは命令だ。兄上の子がいない今、アルノルト公爵家を継ぐ権利は、ぼくにもあるんだ」
「承知、いたしました…」
オスカーの悲鳴じみた訴えを冷たくあしらうこの人は、何故こんなにも怒っているのだろう。初対面のこの人は私に話があるというけれど……、え、もしかしてこれ修羅場?昼ドラですか?アルノルト公爵家を継ぐ権利とか言ってたし、お家騒動で血みどろは勘弁してほしい。
ぴしゃりと扉が閉められて、ガタゴトと馬車は走り出す。どうやら色んな事の選択肢は私にはないらしい。美形の圧に押されて、なるがままだ。そういえばさっき自己紹介されたような気もするし、私も名乗った方がいいのかな。
「あの、初めまして。芳野永理です」
「エリさん、突然のことで驚かせてしまいましたね、申し訳ありません。失礼ながら、異世界の名前の発音には慣れなくて……義姉上と呼ばせていただきますね」
「あ、はい。大丈夫です」
「ぼくのことは、どうぞマルクスとお呼ください」
先程までオスカーに見せていた気迫は見る影もなく、彼は紳士的な態度で小さく一礼する。私の返事にどこかほっとしたように微笑む彼は、二十歳そこそこだろうか。年相応の表情をすれば可愛げのある弟君だ。
「おそらく義姉上は、弟であるぼくの存在を、知らされてもいなかったでしょう?」
「ええ、弟さんがいるなんて少しも」
「ぼくは、名前こそまだアルノルトを名乗っていますが、今はもうアルノルト家を出ています。万が一、兄上の身に不幸でも起きない限り、もうぼくはアルノルト家に戻らない。ぼく自身もそう思っていました。兄上が貴女と結婚した、そう聞くまでは」
「それは……私とユリウス様の結婚が悪いことだ、ということでしょうか?」
「いいえ、少なくとも世間一般では問題ありません。我が国は、稀人の方がもたらした叡智によって、大いに発展を遂げた過去があります。稀人の方々は国賓ともいえるくらいです。公爵家にとどまらず、王族との婚礼ですら祝福されるほどには」
「それなら、他に何か問題があると…?」
「ええ、そうです。義姉上、貴女はアルノルト公爵家に騙されている。兄上は、貴女を利用しているにすぎない」
「えっと、一体、何を言って…?」
混乱する。彼は何を言っているのだろう。私は、騙されている?利用されている?一体なに?何が起きているの?私を騙すって?なんで?どうして?ユリウス様が?
「急にこんなことを言われても、分かりませんよね。義姉上、ゆっくり、落ち着いて、この世界について思い出せる一番最初のことから全部、ぼくに教えてくれませんか?」
最初のこと。それはきっと、あの苦しい記憶だろう。一週間も寝込んでいたという、あの時の。
「最初は……私、すごく苦しくて。全身が熱くて、頭が痛くて、体が動かなくて、息ができなくて……目が覚めたら、熱病にかかって一週間も寝込んでたって言われました」
「それで」
「私は、この世界に迷い込んでしまった異世界人で、ユリウス様と結婚していたって言われたけど、私、全然思い出せなくて、みんなは高熱のせいで記憶をなくしてしまったんだろうって。だから、公爵家でお世話になりながら、一緒にいてほしいってユリウス様に頼まれて、みんなからも歓迎されて」
「それで」
「マリィベルにもオスカーにも他のみんなにも良くしてもらって、奥様って呼ばれてみんな大事にしてくれて」
「それで」
「ユリウス様も優しくて、いつも幸せそうに笑って、いつも大事そうに、壊れてしまわないように、私に触れるの。私は、覚えてないけど、私が記憶をなくす前は、恋をして、想い合ってたのかなって、でも全然覚えてなくて、思い出せなくて、私……」
自然と、涙がこみあげてくる。
この世界に来てから、私が何かの、誰かの役に立てたことなんてない。いっつもみんなのお世話になってばかりだ。きっと私じゃ、染井さんのように何かをできたりもしない。
すべて、私が記憶をなくしてしまったのが悪いんだ。私が何も思い出せないから、私は、私を大事にしてくれる人達に、報いることができない。何一つだって恩返しできない。彼が私を大切にするのと同じくらい、私は彼を大切にできていない。ああ、だめだ、今まで必死に押し殺してきた不安が、焦燥が、罪悪感が、加速する。
「義姉上」
泣きじゃくる私に、マルクスはそっとハンカチを差し出した。ユリウス様によく似た顔で、困ったように、気遣わし気に、私の様子をうかがう。その姿を見て、思い出してしまうのはあの人のことだ。美しい彼が、まるで愛の告白をするかのように跪いた、いつかの光景を思い出す。
『君がもう一度、僕に恋をしてくれることを願って、共に過ごすことを許してほしい』
どうして、こんなときに、どうして今になって、自覚してしまったのだろう。
私はとっくに、ユリウス様に恋をしていた。
記憶喪失を理由にして、私はずっと、その事実に気がつかないふりをしていた。本物のアルノルト公爵夫人は、記憶を失ってしまう前の私。彼と恋をして、結婚をした、記憶を失ってしまう前の私。それは今の私じゃない。今の私は、偽物だ。こんな私が彼の隣にいていいのか、彼に好きだと言える資格があるのか、そんなことすら分からない。
けれど、一度好きだと自覚してしまえば、あとの感情は雪崩れのようだ。
あんな風に笑いかけられて、大事なもののように扱われて、抱きしめられて。言葉でも視線でも仕草でも、全てをもって君が好きだと、君といるのが幸せだと表現されて。私も彼を好きになる、そんな、とても自然なことだった。
もしも記憶を取り戻せたら、私は本物のアルノルト公爵夫人になれるのだろうか。自信に満ちて、何を恐れることもなく、彼の前に立って、彼を見つめて、あなたが好きだと、伝えることだってできるかもしれない。そんな夢を見るくらい、私は彼を、想いはじめていたのに……
私は騙されている?彼に利用されている?
それならこの感情は、私の恋は、どこにいけばいいのだろう。
「義姉上、申し訳ないのですが、あまり時間もない。話を続けても大丈夫ですか」
「はい……なんとか…」
「どうか、落ち着いて聞いてください、義姉上」
そう言って私を宥めるマルクスは、悲痛そうな顔をしながらも、厳格な裁きを下すように迷いなく、告発をする。
「いいですか、貴女は偶然この世界に迷い込んだ稀人ではない。貴女は、アルノルト公爵家の作り出した召喚魔法によって、この世界に召喚されたのです」
「召喚……?」
「はい。偶然でもなく神の悪戯でもなく、人為的な魔法です。我が国は千年を誇る魔法大国。その魔法技術の究極が一つ、召喚者の望むものを異世界から召喚する魔法です」
異世界召喚。よくある話だ。小説やアニメや漫画、二次元の世界ならばよくある話。冒険活劇や大恋愛、何かが始まる、ありふれたきっかけ。
「熱病で一週間寝込んでた、というのは嘘です。召喚魔法によって呼び出された貴女の肉体を、公爵家の“器”として完成させるため、時間をかけて魔法で無理矢理に肉体を造り変えていたのです。それはとても苦痛を伴うと聞いています。義姉上が覚えていたのは、その時の記憶でしょう」
彼の説明は、頭ではなんとか、理解できる。しかし感情は追いつきそうもない。高熱を出して寝込んでいたのが嘘? 無理矢理、肉体を造り変える? 死の恐怖を覚えるほどの苦痛をもたらしたあれが、故意的なものだというなら、そんなものはもはや拷問だ。
「そして義姉上、貴女は、記憶喪失ではありません」
「…………え?」
思わず耳を疑った。
「兄上との結婚生活など初めから存在していないのです。召喚魔法は秘術、その実在自体、秘匿しなくてはなりません。けれど、貴女がこの世界に迷い込んだときの記憶がないのは不自然です。記憶喪失ならば都合が良いと考えたのでしょう。その上、すでに結婚しているなんて既成事実を捏造してしまえば、貴女は籠の鳥も同然」
「私、記憶喪失じゃないの……? 」
「すべて、貴女をアルノルト公爵家から逃がさないための、嘘です」
体が震える。じわり、じわり、白い紙が真っ黒に染まっていくかのように、言葉にできない恐怖に似た感情に、心が塗り潰されていく。すべての前提が、世界の基盤が、今ここにいる私の足元が、音を立てて崩れていくような、そんな錯覚にさえ襲われる。私が信じていた人は?私が慕っていた人は?私が頼っていた人は?みんな、私を騙していたのだろうか。みんな優しく、親し気に、嘘をついていたのだろうか。
記憶を無理に思い出そうとしなくてもいい。目覚めたばかりの私にそう言ったのは、ユリウス様だ。それは私を気遣った言葉ではなく、自分の嘘を隠そうとして言った…卑劣な言葉なのか。
「そんなの、ひどい……あんまりです」
思うことは数多くあっても、私の口から出たのは貧相な感想だった。怒りも悲しみも何もかも、私の胸に渦巻く感情はまだ、形にならない。
「ええ、あんまりです。人道にもとる行為です。だからぼくは、こうして貴女に真実を告げている。貴女には真実を知る権利がある。そしてぼくは、この話もしなくてはならない。何故、アルノルト公爵家は、兄上は、そんなことをしなければならなかったのか? 」
聞きたくない。やめてください。そんな言葉は口に出せない。私はきっと、それを知らなくてはならない。それを理解した上で、私はどうするか、選ばなくてはならない。
「我が国は千年を誇る魔法大国だとは…先ほども言いましたね。その歴史の中で生まれた最高傑作の魔法兵器こそ、我がアルノルト公爵家なのです」
そういって、マルクス・アルノルトは何かを忌むように、悔いるように、眉根を寄せた。
「魔力は親から子へ遺伝する。我が国の王族や高位貴族達は、強い魔力を持つ者同士での婚姻を繰り返し、どんどん魔力は濃くなり、やがてそれは人間の身に余るほどになりました。最初は、ひとりの王子だったそうです。彼の中で魔力は溜まり続け、コップから水が溢れてしまうように、ある日、魔力が氾濫したのです。圧倒的な力の暴走のせいで、王子の肉体は跡形もなく、残されたのは人の形をした人でないもの、魔力そのもの。それは周囲のすべてを破壊しつくして燃やし尽くして、最期には跡形もなく消えたそうです」
人の形をした人でないもの? それは人間が、人間でなくなるということ…?
「その事件以降、過度に魔力を高めすぎないようにすることが、王族や高位貴族の間での、暗黙の了解になりました。それによって事態は解決を見たかと思われましたが……アルノルト公爵家だけは、もう手遅れだったのです。どんなに魔力の薄い者の血を入れようが、ぼくたちの血も魔力も決して薄まらない。けれど、国にとっては喜ばしいことでした。それほどの魔力です。ひとたび兵器として力を振るえば、アルノルト公爵は英雄、“王の剣”だと呼ばれるのですから」
目の前で静かに微笑む青年。その笑みは自虐的であってなお、綺麗なものだった。この人が、ユリウス様が、兵器だというの?誰かを、何かを、壊すことを強いられているの?私の前では、ただ優しく、穏やかなユリウス様が、人を殺すような人だというの?
「兵器だなんて…、とてもそうは見えません」
やっと絞り出した言葉は、なんの慰めにもならないもの。
「義姉上は、……お優しい方ですね。ぼくたちアルノルト公爵家は、膨大な魔力を持つがゆえに、いつ魔力が氾濫するか分からない、そんな恐怖と戦ってきました。けれど、ぼくも兄上も、今の魔力はとても安定しています。ぼくは、この国の魔法障壁を維持するために、生涯魔力を捧げ続ける契約をした人柱……“王の盾”になったから。そして兄上は、貴女を手に入れたからです」
「私……?どうしてですか」
「ぼくは先ほど義姉上を、公爵家の“器”と表現しました。それはまさしく、魔力を注ぐための“器”という意味です。本来、魔力同士が反発してしまうため、人は他者の魔力など受け入れられません。しかし、魔力を持たない稀人であり、その上“器”となった貴女ならば、兄上の魔力を受け入れることができる」
コップの水が溢れそうになったから、他のコップに水を移す、そうすれば水は溢れない。簡単な話だ。けれどきっと、この話はそれだけじゃない。
「私が、ユリウス様の魔力をもらえるとして……そうするとどうなるんですか? 私は魔法を使えないのに」
自らを人柱と称したマルクスは、どこか同情的な顔をして、こう告げた。
「貴女に注がれた魔力は、貴女の生命維持のために消費されます。貴女の身体の魔力が溢れることはないでしょう。貴女はそうなるように造り変えられた。しかしそれは、兄上から与えられる魔力がなければ、貴女は生きられないということを意味します。貴女がアルノルト公爵家にいること、それは、兄上を救い続けると同時に、貴女が生き続けるための手段なのです」
マルクスが国のための人柱ならば、私はユリウス様のための人柱だ。そう言外に突きつけられた事実は、あまりにも残酷だった。異世界から召喚した人間の身体を好き勝手に造り変えて、その上どこにも逃げられないように、その命を鎖につなぐ。選択肢などあってないようなものだ。そこにあるのは従属か、死か、それだけだ。
そこまで思い至って、
あの人のことを考えて、共に過ごした日々を思い出して、私はまた泣きそうになる。
私の命を握っておきながら、彼は私を、奴隷でもなく使用人でもなく妾でもなく、妻として迎えた。ただひとりの伴侶という立場を、彼は私に与えた。それはどうして?
彼はいつも優しくて、いつも幸せそうに笑って、いつも大事そうに、壊れてしまわないように、私に触れる。それすらも、嘘だったの?
彼は何を考えて、こんなことをしたのだろう。何を思って、何を求めて、何を願って、彼は私を、この世界に呼んだのだろう。分からない。彼の心なんて分からない。私は彼を、何も知らない。まだ何も知らないんだ。
心の中はぐちゃぐちゃだ。恋も、愛も、怒りも、悲しみも、憎しみも、諦めも、嫌悪も、期待も、切望も、絶望も、すべてが混じりあって、すべてがあるのに何にもなれない。言葉にならない。彼のしたことを思えば、その仕打ちに恐怖すら覚えるというのに、それなのに。
私は今、どうしようもなく彼に会いたい。
長い長い沈黙のあと、懺悔室のような静けさの中で、マルクスは独白をする。
「ぼくは兄上が……ずっと、死にたがっているのだと思っていました」
彼が語るユリウス様は、またしても私の知らない顔の、彼だ。
「もしそうならそれでもいい。そんな形でアルノルト公爵家を終わらせてしまってもいい。ぼくは兄上を止めるつもりはありませんでした。でも兄上は、貴女を召喚した。貴女という救済を求めた。ぼくは勘違いしていた。兄上はずっと、誰かと生きたいと願っていたんです。それなのに、母上も父上も、そしてぼくも、兄上をひとり残してしまった。アルノルト公爵家という、呪われた運命の中に」
「ぼくは運命に抗いたい。アルノルト公爵家に生まれた者は、兵器として生きるか、人柱として生きるかしか選べないのです。ぼくはそうやって国に利用されるだけの、都合のいい存在でいたくない。ぼくか兄上の未来の子どもたちに、こんな重い枷をつけたくない」
「義姉上にこんな話をしたのは、ただの、ぼくの独善です。ぼくがこんな話をせずとも、いつか貴女は真実を知ったかもしれない。それとも何も知らないままで、兄上と添い遂げたかもしれない。けれど、それを選ぶべきは義姉上だ。ぼくたちアルノルト公爵家のように、ただ利用されて、都合がいいだけの存在を、ぼくたちが作り出してはいけない」
後悔と決意。マルクスは、自分の善を遂げようとしている、真っ直ぐな人だ。理想があり、使命があり、情熱がある。抜き身の刀身のように、真っ直ぐ過ぎて、綺麗すぎて、いつか折れてしまうんじゃないかと、心配になるくらいに。
「ぼくに出来るせめてのもの償いは、貴女に選択肢を提示することくらいです。貴女が望むならぼくは、それが兄上に逆らうことだとしても、その願いを叶えます。兄上の手の届かない場所に貴女を匿い、貴女が生きられるだけの魔力も差し上げます。時間がかかるとしても、貴女の身体を元に戻す方法も、元の世界に帰る方法も、ぼくが探しましょう」
彼の示した選択肢は、私を救うためのもの。私の意思を尊重し、都合のいい道具ではなく、私を人として扱うと誓うものだ。私が望みさえすれば、選択肢もなく彼らの運命に巻き込まれてしまった私を、解放すると彼は言う。
そうまでして自分を貫いてきた彼は、ここで初めて迷うように、そっと視線を伏せて、あの真っ直ぐさを曇らせて、こう続けた。
「でもぼくは、こんなことを言いながら、身勝手にも……心のどこかでは願ってしまっているんです。貴女がすべてを知ってなお、兄上を選んでくれるんじゃないかと」
ガタン、と大きな音を立てたかと思うと、間もなく馬車が急停止する。慌てて手すりに掴まらなければ怪我をしていたかもしれない。馬車の様子に何かを悟ったマルクスは、私の無事を確認すると、ドアに目を向ける。ガチャリと乱暴にも思える勢いでドアが開き、そこに姿を見せたのはユリウス様だった。
「マルクス!お前は何をしている!!」
「兄上、お早いお着きですね。ぼくはただ、義姉上にすべてをお話しただけです」
「すべてだと?」
「ええ、すべてです。ご安心ください、ぼくは義姉上に指一本たりとも触れてはいません」
怒り。それほどまでにユリウス様に似合わない感情はないと思っていた。静かに、表情を削ぎ落とした彼から、空気さえ震えそうな怒りの気配が流れ、周囲に満ちていくのがわかる。これは魔力を帯びているのだろうか。私が未知の感覚に戸惑っていたのも一瞬、すぐにその気配は霧散した。
「エリィ、」
すぐ近くに彼がいる。あたたかい両手で、彼は、いたわるように私の頬に触れた。ああ、この感覚なら知っている。いつも彼に触れられると、驚きや羞恥以上に、不思議と安らぐような、満ち足りたような感覚がする。幸福だなんて甘美なものではなく、きっとこれが、魔力を注がれるということ。
「泣いていたのですか、エリィ。……いえ、すべては、僕のせいですね」
「……ユリウス、さま」
「エリィ、こっちに。」
ユリウス様の差し出す手をとるべきかどうか、私の逡巡も束の間、彼は私の手をとって、馬車の外へと連れ出してしまう。初夏の陽射しに一瞬、目が眩む。花の香りが、涼やかな風にのって私達を包み込む。彼が私を導く先は、一緒に歩こうと約束をした、湖畔の美しい花畑だ。
彼の手を振り払うこともできず、かといって何かを言うこともできず、私は彼の、きらきらと光るような銀色の髪を見つめることしかできなかった。聞きたいことならたくさんある。けれど、その答えを知るのが怖くて、彼の心を知るのが恐ろしくて、私の想いは声にならない。
ねえ、ユリウス様、
私とあなたの間に、何か一つでも本物のものがありましたか?