04.染井涼の異世界解説
「どうも、初めまして。俺は染井涼、日本人だ」
「初めまして。今日はお越しいただきありがとうございます。芳野永理です」
君と同じ世界の人に会ってみたいですか?そうユリウス様に聞かれたのは、数日前のこと。
ユリウス様の同僚、王城で働く人の中に日本人がいるらしい。私以外にも世界を跨いだ迷子がいたことには驚いたけれど、私は二つ返事で会ってみたいと答えた。
染井涼と名乗った彼は、今では有能な文官として重宝されているらしい。異世界だというのに就活大勝利じゃないですか? 素直にすごい。数か月にも及ぶ地方視察から帰ってきたばかりという彼は、ユリウス様と親しい友人だそうだ。その繋がりもあって、こうして今日、染井さんは私のために時間を作ってくれたのだ。
「あいにくと、堅苦しいのは苦手でね。公爵夫人様相手に申し訳ないが、こんな喋り方でやらせてもらっていいか」
「もちろん。お願いしたのはこちらですから。私自身、公爵夫人らしさなんてない、ド庶民の日本人ですし」
私が庶民だと口にすると、ちょうど染井さんに紅茶を注いでいるオスカーの視線が、ちらりとこちらを向いた気がする。気にしない気にしない。今日は淑女教育がお休みなので、私の心はとても晴れやかだ。公爵家の庭で行われる小さなお茶会を、心おきなく楽しめる。
「じゃあ同郷のよしみ、日本人同士ってことで、芳野さんと呼ばせてもらっても?アルノルト公爵夫人は長すぎるし、俺もその方がやりやすい」
「はい、芳野で大丈夫ですよ。この世界のこと、色々教えていただけると助かります」
右も左もわからない異世界だけど、こうやって同じ日本人と出会えて、話ができるというのは幸運だ。すごく心強い。
「よしそうだな……まず、こっちの世界での俺たちについて説明しておこう。俺たちはそのまんま異世界人と呼ばれることもあるが、一般的には稀人だなんて呼ばれてるな。珍しくはあるが意外なことに結構いる。俺がこっちに来たのはもう三年も前だが、この国には今、俺と君以外に五人の日本人がいる」
「五人も!意外といるんですね。こっちに来てしまうのは…日本人ばかりなんですか?」
「この国で確認されているのは日本人だけ、というのは確かだな。例えば二つの世界が重なっていると仮定すると、ここは日本のあたり、あっちはアメリカあたりだとか、地域性ってのもあるのかもしれない」
「なるほど。染井さんは、最初にこっちに来た時のこと、覚えてますか?その、私……、その時の記憶というか、こっちの世界に来てからの記憶がないみたいで…」
「ああ、高熱出して一週間も寝込んでたんだってな。そのあたりはユリウスから聞いてるよ。記憶がないのは不安だろうな。参考になるかは分からないが、俺のケースを話しておこう」
「ありがとうございます」
「ある日の仕事帰り、それはひどい豪雨に遭った。土砂降りどころじゃない雨の中、それでもさっさと帰りたかった俺は、傘をさして歩いていた。視界が悪いな、そう思っていたら、不意に雨上がりの土の匂いがした。なんだ? と思って傘を傾けたら、いつの間にか雨が止んでいて、俺は知らない場所に立っていた。それまでは東京のコンクリートの上だったのに、気がつくと舗装もされていない道の上だ。あたりを見回せば、芝生、丘、木々、イギリスの古い田舎町のような家まであるじゃないか。そんな状況、白昼夢を見ているか、異世界に来ちまったか…くらいしかない」
「パニックになりませんでしたか?突然そうなったら」
「そりゃあ混乱も動揺もしたさ。でも、ネットじゃ流行ってただろ? 異世界もの」
「飲み込みが早い。さては染井さん、オタクですか? 」
「そういう芳野さんも、異世界ってのを意外とすんなり受け入れたって聞いている。オタクだろ」
「公爵夫人は、世を忍ぶ仮の姿です」
「言うほど公爵夫人になりきれてないがな」
二人してひとしきり笑ったら、あんなにも当たり前だった日本での生活が懐かしいと思えた。こんなふうに友人とくだらない会話ばかりしてたっけ。
染井さんは不思議な人だ。
初対面なのに、相手を身構えさせない親しみやすさと、距離感が近くなりすぎない独特の雰囲気が共存している。偶然道で会ったときにお喋りする近所のお兄さんだとか、隣の部署だけど話しやすくて頼れる先輩だとか、そんな絶妙な立ち位置を感じさせる。
「しかしな、君が芳野だとは驚いた」
染井さんは、手元の羊皮紙に羽ペンで漢字を書いていく。染井涼、の隣に、私も自分の名前を漢字で書く。お互いに名刺があればきっとそれで済んだだろう。羊皮紙と漢字、不釣り合いな物が揃って、ここが日本ではないのだと突きつけられているようだ。
「言わんとしていることは分かります。名前を並べると、まるっきり桜ですもんね」
「こんな会話ができるのも日本人ならでは、だな」
いつか見たソメイヨシノの花吹雪が、脳裏に蘇る。
これまでも毎年見てきて、この先も毎年見るのだろうと思っていたものが、今もう遥か彼方。あの花を、これまで誰と見てきたか、来年は誰と見る約束をしていたか、思い出すのはやめておこう。じわり、胸の奥に滲んだ郷愁には、気がつかないふりをする。
「染井さんは、帰りたいと思わなかったんですか?」
元の世界に帰れるかは、あえて聞かない。もう三年も、この人がこの世界にいて、他にも帰っていない人たちがいる。それを聞いただけで察しはつく。これは、願望の話だ。
「俺は、帰りたいとは思わなかったな」
「なぜですか?」
「元の生活に不満があったわけじゃない。ただ、こっちの世界で生きてみるのも面白そうだと思ったんだ。現代日本の知識でチートするってのも、よくある話だろ?この世界だとそれができる」
「え、そうなんですか」
「まあもちろん、個人のスペックにもよる。こっちの世界に魔法があるのは知ってるだろ?」
「……なんとなく? 」
コンセントのないランプだとか、捻ればすぐにお湯がでる蛇口とか、お風呂上りに髪を乾かすドライヤーっぽいものだとか、動力不明の家電のような物を見つけるたびに、異世界だし魔法かな? ぐらいには思っていた。
「芳野さんがこの世界について何も教えられてないのはよく分かった。まあ、彼らにしてみれば、説明するまでもない常識的なことだからな」
お願いですから、そんなに呆れた顔をしないでほしい。
「面倒な説明を省くと、よくあるファンタジー世界と理解しておけばいい。攻撃魔法や回復魔法はあるが、魔法が便利すぎるんだよな。それに頼り切って、他の技術や医療、社会構造そのものが未発達だ」
「よくあるやつですねー。あれ、もしかして私達も魔法が使えるんですか!?」
「残念ながら、答えはノーだ」
「そんなぁ…」
「俺達とこっちの世界の人達は、ほとんど同じ人間のようだが一点だけ違うところがある。自己の体内で魔力を生産できるかどうか。こっちの人達は、多寡はあれど誰もが魔力を作り出し、行使できる。全身を駆け巡る血のように、魔力が体内を循環しているらしくてな。むしろ魔力は最低限ないと生命維持に関わるものらしい」
「魔力を使いすぎると死んじゃうってやつですか?」
「そうそう。で、残念ながら魔法が使えない俺たちは、勇者のようにチートな戦闘力なんてものは発揮できないが、知識を使ったチートはできるわけだ」
「ふむふむ」
「よくあるファンタジー世界に、現代日本の知識を持った人間が現れたらどうなるか?産業革命どころじゃない、文明のアップグレードが始まる。わかりやすい革新だと、魔法石を利用した生活用魔導具の一般普及だな」
「もう少し…わかりやすくお願いします……」
「そうだな……まず、魔法石という、魔力を込められる鉱石が存在する。これは充電池だ。魔法石にはいろんな魔力をチャージすることができる。ポピュラーなのは火だな。コンロにつければ料理ができ、蛇口につければお湯が出る。ランプにつければ照明になり、風の魔法石と一緒にセットすれば温風が出るドライヤーの出来上がりだ」
「すっごく分かりやすいです!そしてめちゃくちゃ便利!」
「そう、便利だ。魔法が使えない俺たちですら使用できる、万人向けの道具。しかし便利という以上に、これは経済を活性化させる起爆剤になる。生活用魔導具が生産・流通していくことで、新たな市場が開かれ、雇用が生まれ、人々の生活は豊かになり、莫大な富をもたらす。そんなアイデアを発案したのが、俺たちよりもずっと前にこの世界に来た日本人なんだ。そして、国家主導のもとでそのアイデアを実現し、爆発的な発展を遂げたのがこの国だ」
「映画化しそうなくらいの大成功ですね」
「映画化どころじゃない、歴史書に載るくらいだ。この一件で、この世界の人々は異世界人の重要性を思い知った。だから稀人と呼んで、敬意を持って接してくれる人が多い。今では稀人すべてが、存在を発見され次第保護され、国の管理下に置かれる……そういう法律すらあるくらいだ」
「国の管理下ってそれ…急にディストピアになってません…? 」
「そう心配しなくてもいい。これはむしろ、国籍も家族もない俺たち稀人を守るために、先人の稀人たちが作った法律なんだ。行動に制限はないし、俺たちの自由意思は尊重される。就職や婚姻も完全に自由…どころか、国のバックアップがついているくらいだ」
「確かに……稀人の私と、この国の公爵様とが結婚できるなんて、国がそもそも稀人を認めてないとできないことですもんね」
「ああ。現代日本の知識でチートが可能…とはいえ、みんながみんな出来るわけじゃない。何かしらの専門知識があるならともかく、そうでない人もいるだろうし、そもそもこっちの世界に来るのが大人だけとも限らない。もし小さな子供だったら? 俺たちを守れるのは俺たちだけだ、そう思ってこの法律を作ったんだろう。国も協力的だったそうだよ。“有益な稀人”と同郷の者が無下に扱われて、稀人すべてからの反感を買うなんて最悪の事態を防げるからな」
「なるほど。もちろん染井さん自身の能力もあるんでしょうけど、そういう経緯があって染井さんは王城で働けているんですね。まさに“有益な稀人”として」
「そういうことだ。俺はワーカホリックみたいなもんでな。現代日本の知識を活用して、あれこれこの国に働きかけて、国が良くなる、豊かになっていく、その一助になれるのは楽しいもんだ。目に見える成果もあるし、俺たち稀人のさらなる地位向上にも繋がる。芳野さんはこういう仕事に興味はあるか?人材はいつだって大募集なんだ」
「えっ?私に仕事、ですか」
「ソメイ様、生憎と奥様はご多忙でございまして。アルノルト公爵夫人としてのお勤めがございますの」
すっかり染井さんの話に聞き入っていたが、突然のスカウトの話になると、後ろに控えていたマリィベルがすかさずと言った様子で断りを入れてしまう。そのついでに、数を減らしていたテーブルの上のクッキーを補充する。マリィベル、出来る侍女…!
「さすがアルノルト公爵家か、ガードが堅い。別に俺も本気で言ってないさ。ただ、芳野さん。君がやってみたいと思うならいつだって歓迎だ。それだけは覚えておいてくれ」
「もう、ソメイ様!旦那様に報告させていただきますわよ。奥様をたぶらかさないでくださいまし」
「たぶらかすとは正確じゃない表現だ。第一、ユリウスなら俺がこう言うってことも、予測がついてるさ」
一通り話をし終わったのか、満足した様子で染井さんはクッキーに手をつける。お互いに話しながら食べてはいたのだが、染井さんは甘いものが好きなようだ。そういえば、オスカーが用意した紅茶に角砂糖を3つは入れていた。好きどころじゃない、きっと大の甘党だ。
「いつも通りおいしいな。マリィベル、いつもの分を貰えるか」
「はいはい。お持ち帰りになる分も別に用意しておりますわ」
「助かるよ。糖分は働きづめの脳によく染みる」
まるで、どこかの店の常連客のようなやりとりをする染井さん。ユリウス様とは友人らしく、きっと何度もアルノルト公爵家へ遊びにくることがあったのだろう。マリィベルはすっかり慣れたといった様子で染井さんをもてなしている。
あれ…?それなら何故、今日の染井さんは「初めまして」と言ったのだろう。
そんなにユリウス様と親しい友人、しかも私と同じ日本人だったら、結婚する前にユリウス様が紹介しているはずだ。きっと結婚式にだって呼んだだろう。私が記憶をなくしてしまっても、染井さんは覚えているはず。
もし、私と染井さんが本当に「初めまして」だとしたら?
何か、私と染井さんを会わせたくない理由でも、あったのかな。
「芳野さん」
「はい、なんですか」
私、変な顔でもしてたかな。染井さんはどこか気を遣いながらも、これは言う、と決めていたような真剣さを帯びた声で、ゆっくりと話しだす。
「ユリウスは…、あいつと俺は、友人だ。今の君はユリウスのことを知らなくて、不安に思うこともあるだろう。あいつは、悪い奴じゃないんだ。あいつは何というか、危なっかしいところがあってな、俺に限らずあいつの周りの人間はみんな、あいつが何かをするたびに気を揉んでるんだ」
あの、いつも穏やかで優しそうなユリウス様が、危なっかしい?
「俺が言うようなことでもないが、もし君が…ユリウスと一緒にいてくれるというなら……、それを良しとしてくれるなら…、俺は……応援したいと思ってる」
先程までハキハキと話していた染井さんが、少し言い淀むような、言葉を慎重に選ぶような言い方をする。その言葉の奥に真意がありそうで、でもそんなものは想像もつかなくて、私は困った顔をする事しかできなかった。
「決めるのは君だ。いつだって君の自由意志だ。何を選び、何を捨てるか、十分に考え抜くには十分な情報が必要なもんだが……どうやら、今日の勉強会は終わりのようだな」
気がつけば、昼下がりの陽射しを注いでいた太陽はすっかり傾いていて、この屋敷の主が帰ってくる時間になっていた。帰宅したユリウス様は外套も脱がず、どこか急いだ様子で庭に姿を見せる。それを見た私が手を振ると、彼はほっとしたような表情をした。
「ユリウス様、おかえりなさい」
「エリィ、今日は有意義な時間を過ごせましたか?」
「はい。染井さんにこの世界のこと、いっぱい教えて貰えて楽しかったです」
「それは良かった。ソメイ、今日は時間を作ってくれてありがとう」
「俺は構わないさ。お前の奥さんにも挨拶したいと思ってたところだ、ちょうどいい機会だったよ」
「染井さん、ありがとうございました。またお時間があれば、お話してもらえると嬉しいです」
「どういたしまして。俺も久しぶりに日本人トークができて楽しかったよ。じゃ、さっそく帰って仕事でもしよう」
「え!?これからですか?」
「ソメイ、夕食くらいいかがですか?」
「それは嬉しいお誘いだが……ワーカホリックの俺には、マリィベルの菓子で十分にご馳走だよ。第一、若い二人の時間を邪魔しちゃ悪いだろう?」
茶化すような言葉を残し、さくっと帰っていく染井さんに私は驚くが、周囲はすっかり慣れたものらしい。マリィベルはお菓子の詰まったバスケットをお土産に渡して、オスカーは帰りの馬車をもう手配したようだ。
それにしても染井さん。話し方から行動まで、すべてが仕事のできる人って感じだったな。忙しい仕事の合間に時間を作ってくれたのだろう。感謝してもし足りないくらいだ。今度会うときにはとっておきの甘いものでも用意しておこう。
「そうだ、エリィ。急な話になりますが、来週別荘に行きませんか?まとまった休みが取れたんです」
その日の夕食時。秘密基地の存在を打ち明ける子どものように、楽しそうな様子のユリウス様が旅行を提案してくれた。
「わあ、行ってみたいです!どんなところなんですか?」
「ここから少し北に行った、湖のほとりです。この時期は雪解け水で湖面が澄んで、色とりどりの花が咲いていて、とても綺麗なんですよ」
「いいな、すっごく楽しみです。そういえば、お屋敷から出るのは初めてかも」
「そうですね。エリィもすっかり体調が良くなったみたいですし、一緒に湖畔を散歩しましょう」
「はい!」
気がつけば、目が覚めてから数か月が経っていた。
体力もだいぶついてきたし、このお屋敷を出て、外の世界を見れるのは本当に楽しみだ。わくわくする。今日の染井さんとの話で、ここは魔法だって存在するような別世界なのだと改めて意識させられた。ファンタジーなお城や街並み、見たことない生き物や食べ物、もしかしてドラゴンとかいたりするのかな。そんな考えがつい態度に出てしまったようで、今からそわそわしている私を見て、ユリウス様はくすくすと笑った。
ふと、染井さんの言葉が蘇る。私の前ではいつも穏やかで優しそうなユリウス様が、彼にとっては危なっかしいのだという。染井さんの話すユリウス様と、私の知っているユリウス様は、どうにも一致しない。
そういえば、マリィベルも……
『旦那様は、お若い頃から…、いつも憂いを帯びておりましたわ。心配するわたくしたちを安心させるように笑ってくださっても、その笑顔も儚くて、消えてしまいそうで、触れれば壊れてしまいそうで、誰も…あの方を…』
どれもこれも、私の知らない誰かの話をしているようだ。それは私が記憶をなくしてしまったから?私がまだユリウス様という人をよく知らないだけ?
オスカーはこうも言っていた。
『これまで我が儘など何一つ仰ることのなかったあの方が、唯一願ったのが、エリィ様とのご結婚でございます。エリィとご結婚されてから、あの方はお変わりになりました。マリィベルの言葉を借りれば、この世の春と言わんばかりでございます』
ユリウス様をそんなにも変えてしまうほどの、何があって、私達は結婚したのだろう。どうして私は、それを全て忘れてしまったのだろう。
記憶喪失、というのは嫌なものだな。自分だけが世界から取り残されてしまったようで、焦りと、孤独と、罪悪感とが、降りしきる雪のようにしんしんと静かに、重く、積もっていく。不安がないといえば噓になる。だけど、そんな感情を露わにして、みんなを心配させたくない…とも思う。
どうやら私は、自分でも知らないうちに、この世界の人達が大好きになっているようだ。
ユリウス様と過ごす時間が長ければ、失った記憶も取り戻せるかな。心に滲みだした微かな不安は、旅行への楽しみとわくわく、明るい気持ちで塗り潰してしまおう。きっと、大丈夫。来週になれば、もう忘れてるだろうから。