03.執事オスカーの自慢話
「次のレッスンはテーブルマナーですわ。食堂においでくださいませ」
「はーい、今行くね」
「奥様、少しお疲れのようですわ。今日はお休みになってはいかがでしょう?」
「大丈夫。せっかくオスカーが用意してくれてるからね、断っちゃ悪いよ」
「ご無理はなさらないでくださいね」
「ありがとう、次は座学みたいなものだから大丈夫かな」
目が覚めたあの日から、早くも二ヵ月が過ぎていた。
療養が優先だとはいえ、屋敷の中に篭りきりの生活にも飽きがくる、そんな頃。執事であるオスカーからの提案で、私はこっちの世界の淑女教育として、マナーを含む一般教養についての勉強をすることになった。暇だからいいよと、軽い気持ちで受けてしまったことを、私は今猛烈に後悔している。
まさかこんなにも、淑女が筋肉で出来ているとは!
美しい姿勢、美しい仕草、美しい歩き方、ダンスという名のスポーツ。どれもこれもスマートに鍛え上げられた筋肉があって成せること。美しさを保つために毎日の運動は必須、座ることも歩くことも食事をすることも、全てが筋トレのごとき鍛錬だ。これまで二次元で見てきた貴婦人やご令嬢、その優雅さを現実で再現しようとすると、必要なのはとにかく筋肉。病み上がりの私の体は、毎日の筋肉痛に悲鳴を上げっぱなしだ。
「お疲れさまでした、奥様。お茶の準備ができておりますわ」
「ありがとう、マリィベル。はあ、これが一日で一番の癒しだよ」
こちらの世界の人達はお茶が好きだ。それはもう、毎日のスケジュールの中に、必ず午後のティータイムがあるくらい。マリィベルお手製のお菓子がついてくるティータイムとなれば、私にとっても一番好きな時間だけれど……
そう、お菓子。お菓子がとっても美味しいのだ。見た目もかわいいし、食べれば身も心も満たされる至福の存在。それがお菓子。それなのに栄養があるかといえばない。ただのカロリー。ただの嗜好品。だからこそ贅沢といえる。そんなお菓子が毎日、毎日、毎日、毎日、午後のティータイムに並ぶのだ。
これは太る。間違いなくデブまっしぐらだ。でも美味しい。食べちゃう。手が止まらない。お菓子を味わうのを我慢できないとなれば、やるべきことはただひとつ。その分のカロリーを消費する、運動だ!
「奥様、そのように頑張らずともよろしいかと」
「大丈夫よ、オスカー。こうやって頑張るのにはね、乙女の深い事情があるの」
「左様でございますか」
「単純に、もっと体力つけなきゃねってのもあるんだけど」
ティータイムの後、執事のオスカーに頼み込んで、ダンスのレッスンをつけてもらう。ここは公爵家。ジャージを着て近所を走るなんて日本のような方法はとれない。きっとそもそもジャージがない。お屋敷の中でできて、一番運動になりそうなものといえばこれだ。
「奥様、しっかり上達されていらっしゃいますよ」
「ありがとう。まだ体力がついていかない感じはするけど、ユリウス様とオスカーの教え方が上手なおかげだよ。すごく分かりやすいもの」
つい先日。一回くらいお願いしてみようかな、という軽い気持ちのお願いはあっさりと叶って、ユリウス様は私にダンスを教えてくれた。初めて踊ったダンスでも不思議なくらい足が動いたのは、相手が巧みにリードしてくれたからに違いない。それからはこうやって何度か、ダイエットとしてこっそりとダンスのレッスンをしてもらってる。
「左様なお言葉、光栄でございます。旦那様のレッスンについたのもわたくしでございますので、二重に嬉しいお言葉でございますね」
「え、そうなんだ!」
「旦那様は飲み込みが早いもので、すぐにわたくしめの指導など不要となってしまいましたが…」
「ふふ、そんな感じはするね。ユリウス様、何でもすぐにできちゃいそうだもの」
「ええ全く、その通りでございます。旦那様は幼少のみぎりがらダンスだけでなく、勉学、馬術、剣術と…どれもすぐに習得なさってしまって、アルノルト公爵家の次期当主は優秀だと、もっぱらの噂でございました」
「さすがユリウス様。ねぇ、オスカー、もっとユリウス様の話を聞かせてほしいな。色々聞いてみたら、私、何か思い出せるかも」
「かしこまりました。では明日のティータイムではいかがでしょうか」
「ありがとう!明日ね、ぜひお願い。もちろんユリウス様には内緒にしてね?なんだか恥ずかしいじゃない」
「わたくしは口の堅さには自信がございます。ご安心ください」
「約束ね!」
オスカーは長年アルノルト公爵家に仕える優秀な執事だ。落ち着いたロマンスグレーの英国紳士を思い浮かべれば、まさにその通り。ユリウス様が生まれる前からお屋敷にいるオスカーだったら、ユリウス様との思い出話をたくさん話してくれるだろう。
子どもの頃のユリウス様はきっと天使だったに違いない。子ども時代の微笑ましいエピソードから、初恋のような甘酸っぱいエピソードまで、何が聞けるのかと思うと楽しみでしょうがない。オタク的に言えば公式からの供給だ。スチルの一枚や二枚は欲しいところだが、残念ながらこの世界には写真すらなく、肖像画がいいとこ。自分の妄想力でカバーするしかない。
上機嫌だった私は、ついつい明日のティータイムのお楽しみをマリィベルに話してしまった。それが運の尽き。オスカーには口止めしていたというのに、夕食の席であっさりとマリィベルの口からユリウス様にばれてしまう。
「エリィ、僕のことなら、僕に聞いてくれたらいいのに……」
あなたのことをもっと知りたいだなんて恥ずかしくて言えるわけないでしょう!息継ぎもせずに叫びそうになった衝動は、口の中でモゴモゴと消えていく。
頬を染め、照れながらも嬉しそうに微笑むユリウス様が、その姿が、あまりにも乙女ゲームのワンシーンのように出来すぎていて、頭の中に保存した。私の推し、尊いが過ぎる。 記憶に刻み込むのは当然として、なぜスクショが取れない。録画できない。なんでこれが三次元なんだ。現実は理不尽ばかりだ。
「色んな話を聞いてみたら、何かのきっかけで記憶が戻らないかなって思ったんです……ユリウス様はお仕事が忙しそうだから悪いかなって」
記憶喪失の私が、そう考えるのは自然なことだろう。私が赤面しながらも苦し紛れの言い訳をすると、少し残念そうに、どこか悲しそうに、ユリウス様の微笑みが陰ったような……そんな気がした。
「まず奥様には、アルノルト公爵家がどういうものか、というところからお話いたしましょう」
翌日の午後のティータイム。マリィベルのお菓子が並ぶテーブルは相変わらず至福の光景だ。奥様と同席など畏れ多いと、着席を固辞しようとするオスカーに無理を言って座ってもらう。何度私が公爵夫人だと言われても、やっぱりピンとこない。誰かの目があるわけでもないのだから、こんな時ぐらい、普通にお茶をするように話をしようよ。
「アルノルト公爵は、王家に最も古くからお仕えする三大貴族のうちのひとつでございます。名門ゆえ、王家からアルノルト公爵家へ降嫁された方も多く、ユリウス様の母君も王家に連なる方でございました。母君はユリウス様が六つのときに亡くなられ、その時のユリウス様の悲しみはとても深く…それはもう、おいたわしいものでございました」
そういえば、ユリウス様のご両親に挨拶できてないなとは思っていたけど…お母様はもう亡くなられていたとは。
「小さな頃にお母様を亡くしてしまうなんて、寂しかったでしょうね……。ユリウス様のお父様は?」
「ユリウス様が二十歳になられた頃、ユリウス様の父君…先代のアルノルト公爵も急逝されてしまい……以後、アルノルト公爵家はユリウス様がお一人で支えていらっしゃいます」
「そう…、ユリウス様、きっとたくさん苦労されたでしょうね」
「先代様は、ユリウス様をとても可愛がっておられました。ユリウス様の優秀さはアルノルト公爵家を継ぐに相応しいと仰られていたほどです。公爵家としての責務を果たすことができるよう、先代様はしっかりとユリウス様を教育なさっておいででした。事実、ユリウス様は先代様亡き後も、アルノルト公爵として立派にお勤めになられています」
「きっと、オスカーのような人がそばにいてくれたから、ユリウス様も頑張れたんだね」
「わたくし、でございますか…」
「そうだよ。このお屋敷にいるとね、オスカーを始めとして、マリィベルも他の人達も、みんながユリウス様を大好きだって、よく分かるよ」
だからみんな、私に優しくしてくれてる。ユリウス様を慕っているから、その妻である私にも良くしてくれて、アルノルト公爵家の者として皆が誇りをもって仕事をしている。毎日このお屋敷で生活していると、肌で分かることだ。ここはとても居心地が良い。
オスカーやマリィベルのように長く勤めている人達にとって、ユリウス様への親愛は、主人と従者以上で、きっと家族そのもの。そんな、ぬくもりさえ感じるくらいだ。
「だってね、今のオスカー、まるで自分の孫を自慢するおじいちゃんみたいだったもの」
「!」
オスカーがあまりにも大事な我が子のように話をするものだから、私もついにっこりするくらい微笑ましくなっていた。私が思ったことをそのまま告げると、意外にもオスカーには自覚がなかったようだ。びっくりした顔で瞬きを繰り返したあと、どこか腑に落ちたように話し出す。
「いえ……きっとわたくしは…、そうなのでしょう。母君を亡くされた時も、父君を亡くされた時も、あの時も。塞ぎこまれてしまったあの方は…、数日が経つと、無理をして笑ってくださるのです。大丈夫、気を遣うな、そう言って日常を取り戻そうとする……、それがかえって痛ましいのです。だからわたくしは、わたくし達は、あの方をお支えしたいと、我が子のように守りたいと…思っていたのでしょう。その願いならなんだって叶えて差し上げたいと、思うくらいに。」
「…………」
「つらいと、悲しいと、寂しいと、そんなことを一言も仰らないあの方が望んだことは、ただ一つ」
「……ユリウス様は、何を望んだの?」
「お分かりになりませんか、エリィ様。貴女様とのご結婚ですよ」
「えっ?!」
「これまで我が儘など何一つ仰ることのなかったあの方が、唯一願ったのが、エリィ様とのご結婚でございます。エリィ様とご結婚されてから、あの方はお変わりになりました。マリィベルの言葉を借りれば、この世の春と言わんばかりでございます」
「それは、いい話…なんだろうけど、いまいち実感がわかないんだよね…」
困ったことに私は記憶喪失。当事者なのにおいてけぼりにされっぱなしである。こうして色んな話を聞いてみても、一向に記憶が戻ってくる気配はない。過去の私よ、一体どんな大恋愛を遂げたら、ユリウス様を攻略してハッピーエンドで結婚できたんだ!?気になってしょうがない。頼むから誰か、小説にしてくれませんか。
「さて、話は変わりますが、奥様。わたくしめから一つ申し上げたいことがございますが、よろしいでしょうか」
「えっ、はい、なんでしょう」
「アルノルト公爵家は、王の剣、王の盾。そう呼ばれることもございます。これから先、ユリウス様につらいお役目が命じられないとも限りません。わたくしは生涯をアルノルト公爵家に捧げると誓っておりますが、もう老体。老いさらばえるばかりでございます。いつかその時、ユリウス様をお支えできるのは、きっと奥様でございましょう」
「う、うん…そうかもだけど…」
「奥様には、立派な淑女、貴婦人、アルノルト公爵夫人になっていただかなければなりません」
「えっまさか…」
「奥様、明日からの淑女教育、わたくしの全身全霊をもってあたらせていただきます」
「いやいやいや、大丈夫!ほんと、そんなに意気込まなくても大丈夫だから!私、こつこつじっくりやるタイプだから!大器晩成型だからそんなスパルタは無理っていうか…!」
「ふむ、スパルタとは耳馴染みのない言葉でございますゆえ、ご容赦を」
「そんな斬り捨て御免みたいに言わないで! !」
この世界にスパルタが存在しないから伝わらないのはしょうがない。だとしても、やろうとしてることはまさにスパルタ!オスカー、彼は英国紳士の皮を被った鬼教官の予感がする。とてもじゃないが私の力ではオスカーを止められないだろう。そうなると頼る先は、ただ一人。
「淑女教育を、もう少しゆっくりやりたい、と」
「そうなんです、ユリウス様。必要だっていうのは分かるんですが、ちょっと疲れちゃうかなって…ほらダンスとか」
王城での仕事から帰ってきたユリウス様を早速捕まえて、オスカーのスパルタ教育を止めてもらうようにお願いをする。スパルタ教育といっても、脳内再生している映像はアメリカ海軍の猛特訓だが、きっとメンタル強度では大差がないはずだ。
「オスカー、淑女教育にダンスは入れていないはずだが」
「誠に申し訳ございません。何分奥様が“乙女の深い事情”と仰られ、ダンスのレッスンをご所望でございましたので……」
「エリィ、“乙女の深い事情”とはなんですか? 」
ちょっと待って、オスカーさん?ここで『お菓子を食べ過ぎたのでダイエットのためにやってました』とか言えないよね?口が裂けても言えないよね? 万が一お菓子禁止令でも出てしまったら、私の日々の癒しがなくなってしまう。 これは死活問題だ。一度贅沢を知ってしまうと、もう元には戻れないのが人間である。
「えっと、その、内緒で練習して、上手くなって、ユリウス様をびっくりさせたくて…? 」
よし、恋愛小説にありがちな理由をよくぞ絞り出した。私の脳みそ、偉い。褒めてつかわす。明日もお菓子という名の糖分をたっぷり与えてあげよう。
私が内心ガッツポーズを決めていると、ふわり、柔らかな衝撃があって、あたたかな体温に包まれる。ユリウス様に抱きしめられたと理解できたのは数瞬、遅れて。
「エリィ、僕以外と踊るなんて許しません。もうレッスンでもだめですよ」
こんなところで独占欲を出してくるユリウス様。ずるい。存在がイケメンだ。イケメンという概念だ。しかも、ユリウス様に抱きしめられるということは、私の耳元でユリウスが喋るということ。声までイケメンはずるい。こんなの乙女ゲーじゃん。ご褒美じゃん。おかしいな、私いつ課金したっけ?課金は家賃まで?このお屋敷の家賃ていくら??そもそも今の私って無職だったね???混乱状態が治らない。
突然の推しの供給は、いともたやすくオタクを殺す。
ユリウス様、私の心臓を止める気ですか?