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01.芳野永理の記憶喪失


全身が燃えるように熱い。

ひどい頭痛。身じろぎするだけで激痛が走る。

体は重く関節は軋み、腕を上げることすらできそうもない。

なんで、どうして、こんなに苦しいの。

息ができない。酸素が足りない。声も出ない。

死ぬ前の苦しみってこんな感じかな。

わたし、このまま死んじゃうのかな。

漠然とした不安と焦燥がぐるぐると頭の中で空回りする。

べったりと嫌な汗をかいて、額や首筋に張り付いた髪が気持ち悪い。

ひたり、前髪を払ってくれた誰かの指が冷たくて、それだけが唯一の救いのように、心地良かった。

瞼が重い。ようやく開いた視界も暗く霞む。

わからない。わからないの。あなたは誰?





目を覚ますと、私は公爵夫人になっていた。





原因不明の熱病で七日間も眠っていたらしい。声はすっかり嗄れてしまい、筋肉が落ちてしまったのか一人で立つのも難しい。ベッドの上で身体を起こす。たったそれだけで息切れはするし、体のだるさもまだ取れない。


「体調はどうですか、エリィ」


「……少し…良くなった、みたいです」


私の掠れた声を聞いて、彼は労わるように笑みをみせる。彼の名前はユリウス・アルノルト公爵。どうやら、私の夫らしい。


どうやらとか、らしいだとか、私がはっきりと断言できないのは、目を覚ました私には記憶がなかったからだ。高熱を出して長く寝込んでいたせいか、彼のことも、彼との結婚も……この世界のことは何一つとして思い出せない。最後に覚えているのは、そう、元いた世界のこと。


私は異世界に迷い込んだらしい。


東京ではOLもとい社畜をしていた。生きがいはスイーツとオタク活動。異世界ものの小説を読み漁り、毎クールアニメをチェックし、乙女ゲームを中心にあれもこれもとゲームに興じた。週末には友達とショッピング…と言うと聞こえはいいが、大体は推しと公式に貢ぐ出費だ。オタクってびっくりするくらい経済回してるよね。こう思い返してみると充実した生活だったな。


どうせ異世界を生きるなら、絶世の美女にでも生まれ変わりたかったものである。そうでないと、乙女ゲームよろしく、美青年としか言いようのないこの旦那様と、釣り合いが取れないだろう。


「喉は渇いていませんか?お茶を淹れさせましょう」


「あり、がとう、ございます」


まだ声を出すのはつらい。小さく咳き込むと、無理に喋らせてしまいましたね、と謝罪を受ける。


容姿端麗で社会的地位もあって、性格は穏やかで優しく、振る舞いは紳士そのもの。この世界が二次元なら、作者は完璧を創りすぎだろう。さして秀でたところのない平凡な私は、こんな“完璧”を前にすると気後れしてしまう。はてさて、何がどうなったら私とこの人が結婚することになるんだろう?それだけで小説一本のネタになってしまいそうだ。


「さあ、どうぞ。君は甘いものが好きでしたね、蜂蜜もいれましょう」


ガラス製のポットの中に、綺麗にカットされた果物とたっぷりの紅茶。味も見た目も楽しめるフルーツティーだ。彼は手ずから紅茶をカップに注ぐと、蜂蜜を溶いて、私の手元まで運んでくれる。旦那様だからなのか、私の味の好みはすっかり把握しているらしい。


「……ん、……おいしい、です」


「温度は大丈夫ですか?喉を刺激しないように、少し冷ましてもらったのですが」


「ちょうど、いい、です」


「ふふ、それはよかった」


今の状況を一言でいうと、眼福だ。


上品な椅子に腰かけ、華奢なティーカップで紅茶を楽しむ男性は、優雅そのもの。窓辺から射し込む光に輝くシルバーブロンド。同じ色の睫毛は長い。羨ましい。香りを楽しむように伏せられた瞼がそっと開けば、アメジストの瞳が私を見つめる。そして、いかにも幸福だと言うように微笑む。うん、眩しすぎてちょっと、直視できない。


この美しい生き物を前にして、第一印象が「推せる!」だった私は、とことんオタクだ。銀髪大好物。儚げなのに芯の強そうな美青年大好き。紳士だけど大事なところはちゃんと押しが強いキャラでしょうね!そしてこのタイプは秘密やトラウマや暗い過去の一つや二つ、絶対にあるはず。


もしも私がガチ恋勢だったなら、この状況に歓喜し、すべてを受け入れ、彼に尽くしたいと奮闘しただろう。しかし私は推しを陰から見守りたい派だ。壁になりたい。天井でもいい。正直この状況は戸惑いしかない。


「ごちそうさま、でした」


紅茶を飲む間、じっくりしっかり推しを…ではなく旦那様を観察した。にこにこ、幸せそうな様子の彼に、私は罪悪感がつのるばかり。なにしろ私は彼との出逢いを、思い出を、記憶を、きれいさっぱり忘れてしまったのだから。


「記憶のことは…驚きましたが、無理に思い出さなくて良いのですよ」


「わたし、何も、覚えてなくて……ごめんな、さい」


「謝らないで、エリィ。失ってしまった思い出なら、また二人で重ねていけばいいのです」


「ふたり、で…」


「ええ、君と僕の二人で。今の君にとって、僕は見ず知らずの男でしょう。無理に夫婦のように振舞わなくていい。君は君でいてくれたらいい。君がここにいる限り、君の身分も衣食住も、この僕が保証します。だから、エリィ、僕にチャンスをください」


「……?」



「君がもう一度、僕に恋をしてくれることを願って、共に過ごすことを許してほしい」



お願いです、エリィ、そう言って彼は、愛の告白をするように跪く。こんな風に美青年に懇願されて断れる女性が、この世にどれだけいるのだろう。もちろん断ることのできない私は、こくこくと、壊れたおもちゃのように頷くことしかできなかった。


この美青年、危険である。せっかく下がった熱が、また上がってきたんじゃないだろうか。




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