遺書を書きましょう
私 嬉しかったのよ
あんなふうに言ってもらえて
よく考えてみれば その場しのぎで話を合わせてるだけって 思わなくもなかったけど
でもこういうのって 直感が大事だとも言うでしょう?
それに貴方 よーく見たら 結構かっこよく見えなくもないし……なんてね
だから 貴方に決めたの
◇◇◇
「やぁやぁ、そこで何をしているのかな、お嬢さん?」
「遺書を書いてるのよ」
艶やかな長い黒髪に、白い半袖のブラウス、その袖から伸びる、ほっそりとした綺麗な二の腕。談話室のテーブルに向かい、カリカリと紙にペンを走らせる少女。
これは間違いなく美人だ。男は確信をもって声をかけた。理由は特にない、強いて言うなら、そこに美しい女の子がいる、それだけだった。
男は、見目麗しい女性(この時、女性の年齢については考慮しないものとする。美人、という言葉は、年齢一桁の童女だろうと、あるいは既に還暦を過ぎたご婦人であろうと、等しく使われて然るべきだ、というのが男のポリシーだった)に声をかけるという行為は、自身にとってある種の義務のようなものであると、勝手に自負していた。
「……なんだって?」
「だから、遺書を、書いてるのよ。……突然声をかけてきて、何度も言わせるなんて、少し不躾だと思うのだけれど」
振り返った少女は、やはりというか、整った目鼻立ちをしていた。透き通るような白い頬に、澄んだ黒の瞳は、まるで人形のようだ。
しかし、問題はその口から発せられた言葉である。聞き間違いであればそれでよかったのだが、残念ながら二度目も変わらずに、少女の口は同じ言葉を発したのだった。
「あー、オーケーわかった。色々と言いたいことはあるが、とりあえずひとつだけ。お嬢さん、早まっちゃあいけない」
勘弁してくれ。男は、心の内でぼやいた。自分はただ、このうだるような暑さの昼下がり、涼を求めて、町の図書館へと踏み入ったにすぎない。……実際のところ本などろくに読んだこともないが、それはこの際、置いておく。
そこで思いがけず見かけた美人の背中。声をかけない方が失礼というものである。
だのに、この仕打ち。そもそも遺書とは、こんな場所ではなく、自分の部屋にでも篭って鬱々と書くべきではないのだろうか。
だが、声をかけてしまったからには、ハイそうですか、とはいかない。仕方なく、ここは年長者として、悩める若者を導いてやることにした。そしてあわよくば、このモラトリアム少女ともお近づきである。なにせ美人なのだ。
「お嬢さんくらいの歳の子は、そりゃ多くの悩みを抱えているもんだろう。俺もそうだった。わかるよ。けどな、生きることを諦めちゃあいけない。人生ってのは長いんだ、良いことも悪いこともかわるがわる……ちょっと聞いてる?一度ペンを動かす手を止めようぜ?」
「聞いてないわ」
「聞いてくれよぉ……俺は真剣なんだぜ。傷心のお嬢さんを救いたい。なんてのは少しばかり自惚れすぎかもしれないがね。悩みを聞くことくらいならできるかもしれないだろう。ホラホラ、とりあえずその綺麗な手を休めてさぁ痛ったァ!!」
どさくさにまぎれて少女の滑らかな手に触れようとした男の指に、くるりとペンを持ち替えた少女のスナップを効かせた一撃が叩き込まれた。
「許可なく触れようとしないでもらえるかしら。あとお嬢さんはやめて頂戴。馴れ馴れしいわよ、おじさん」
「イタァ……いやいや酷くない?あとおじさんも酷くない?せめてお兄さんだろ俺は」
「どっちでもいいわよそんなの」
刺さなかっただけ優しいと思ってほしいわ。ため息混じりにそう呟きながら、少女はペンを動かす作業を再開した。その表情は、真剣そのものだった。
困ってしまったのは男の方だ。見事に説得は失敗だった。このままでは遺書は完成し、明日の朝刊にでも、
『女学生、学校でクラスメイトからの凄惨ないじめを苦に飛び降り自殺!』
の見出しが踊ること請け合いである。……そもそも少女が女学生であることも学校でいじめを受けていることも全て男の妄想であったが、ともかく男の脳裏には、明日の朝刊の見出しから、記者会見にて、脂汗を流しながら頭を下げる顔も知らぬ校長の禿頭に反射するカメラのフラッシュまで、ありありと脳裏に浮かんでいたのだ。まさに思い込みの恐怖。
しかし、諦めるわけにはいかなかった。もはや男にとってはプライドを賭けた戦いである。なんとしてもこの哀しき少女を説得してみせる。なにせ美人だし。
「聞いてくれお嬢ちゃん!!」
「きゃっ」
少女の華奢な両肩をむんずと掴み、正面から真っ直ぐに目を合わせる。自分には似合わないだろうが、こうなれば小難しい言葉より、熱いHeartだ。男は、覚悟を決めた。
「俺の目を見ろ!生きるんだ!諦めるな!!前を向こうぜ!!!どんなに苦しくても必ず日はまた昇る─────ゥァファッ!!??」
ブスリ、と男の眉間にペンの尖端が突き刺さった。男は顔を押さえながら大きく仰け反り、ひっくり返ってテーブルの角に頭をしたたかに打ちつけ、もんどりを打って倒れた。苦悶の声を漏らしながら図書館の床をゴロゴロと転がる男を、少女は冷淡な瞳で見下ろしていた。
「煩い!許可なく触らないでって言ったでしょう!あと顔が近いわよ!!……あぁもうなんなの貴方、不審者?不審者よね?私としたことが判断が遅れたわ。見てなさい今ここで貴方を社会的に終わらせて」「あの、すみません」
少女が振り向けば、そこには職員のお姉さん。にこにことした笑顔は、不思議と強烈な重圧を放っていた。
「他のお客様のご迷惑になりますので、お静かに、お願いできますか?」
◇◇◇
「貴方のせいで赤っ恥だわ」
ジリジリとした日差しに照らされたアスファルトの道を歩きながら、少女は吐き捨てるように言った。その耳がうっすらと朱に染まっているのは、暑さのせいだけではないだろう。
「強引だったのは謝るよ。けどさぁ、やっぱり、ひとり孤独に命を絶つような真似は良くないって」
眉間に空いた小さな穴を恐る恐る指で撫でながら、男は少女の後ろをついていく。嗚呼、どうすれば彼女を説得できるのか。天を仰ぎながら考えていた男は、立ち止まった少女に危うくぶつかりそうになった。
「は……?ひとり孤独に?なんで?」
「なんでってそりゃあ、さっきお嬢ちゃんが自分で言ってたんじゃあないか、遺書を書いてるって」
少女の目が、途端にまんまるになった。ああ、うん、なるほど、そうね、確かに言ったわ。立ち止まって額に手を当て、ぶつぶつと何やら呟き、考え込んでいる。
そんな姿も絵になるなぁ、そんなふうに男が思っていると、気まずそうな顔をした少女が目の前にやってきた。
「……あのね、とりあえず結論から先に言わせてもらうと、別に私は、今すぐ自殺とか、そんなことは、全く考えていないの」
「うん?いやいや、誤魔化そうったってそうはいかないぜ。キミは確かに遺書って」
「遺書を書いていたのは本当。でも、今は自殺なんてするつもりはないの。えっと……なんて言えばいいのかしら……」
少女は、少しだけ口ごもりながら、ちらりと男を見上げた。どう説明したものか、そんな表情である。
「大丈夫さ、お兄さんは絶対にキミを笑ったりしないし、責めたりもしない。正直に教えてくれよ。というか、初っ端から遺書を書いてるなんて、かましてくれたお嬢ちゃんが、一体何を躊躇うというんだい?」
そんな少女を安心させようと、男は持ちうる限りの爽やかな笑顔を浮かべる。どんなキミだって受け入れてみせるよ、とでも言わんばかりに。……傍から見ればかなり胡散臭い。
「あれは!……貴方が突然背後からいきなり、あまりにも馴れ馴れしく話しかけてくるから、つい答えてしまっただけ。……適当に誤魔化すべきだったって、今になって思うわ」
そもそもあんなふうに何をしているか聞かれたことなんて、今まで無かったし。唇を尖らせる少女の横顔は、第一印象より幾分か幼く見えた。
「……いいわ。これ以上付きまとわれても迷惑だし、教えてあげる。別に、たいした理由でもないわ。ただ、その……趣味なのよ」
「シュミ?」
「遺書を書くのが趣味なの」
悲壮な雰囲気も、ふざけている様子もない。ただ、あるがままの事実を並べるかのように、少女は言葉を紡いだ。
「遺書って言っても、遺産相続とか、そういうのじゃないわよ?」
「自分が、死んじゃった時のことをを考えて、言葉を残すの。生きている人へ向けての手紙っていうのかしらね」
「別に、そんなネガティブな内容じゃないのよ?ただ、もしも自分が、この世界からいなくなってしまうとしたら、どんな言葉を最期に残したいのか、そういうことを考えながら書くの」
「ただ内心を書き連ねるだけじゃなくて、読むべき相手のことを考えながら書くっていうのがポイントなの。自分を客観視することにも繋がるし、あとは、文章として書くことによる自身の感情の整理とかね。ちゃんと、読む人に伝わるようにしなくちゃいけないし」
「書いてるとね、すっごく楽しいの。これを読む人は、どんな気持ちになるんだろう。どんな顔をするんだろう。普段、面と向かっては言えないようなことも、手紙なら書けちゃう、なんて言うけれど、遺書ならもっとよ。私が綴った言葉で、誰かの中に、なんて言うのかな、こう、強いものを残せたら、それは私にとって確かな生きた証になって、それって、とっても、素敵な……こと……だって……」
次第に、勢いよく加速していく様相を見せていた少女の口が、ふと、鈍くなる。それに比例して、少女の表情は、どんよりとした後悔と少しばかりの羞恥の色に染まっていった。
「……ごめんなさい、喋りすぎたわ」
少女は、手の甲を口元に当て、それはもう気まずくて仕方がない、と言わんばかりの様子で、顔を背けた。
「いきなりこんなこと話されても、困るわよね。っていうか、何言ってるんだろ、私。急に語っちゃって、なんか、一人で盛り上がって……」
そこで、男はようやく、自分が面食らっている事に気がついた。そして、そんな自分の姿を見て、目の前の少女の高揚が、可哀想な程に萎んでしまったことも。
「ねぇ、理由は話したからもういいでしょう?私、帰るから────」
「いいじゃないか、それ」
「……はい?」
少女に話すように促したのは自分だ、それなのに彼女にこんな顔をさせてしまうというのは、男にとっては到底許せることではなかった。
「いいよ、すごくいい。一人で盛り上がってる?結構なことじゃないか。キミはそれだけの熱意をもってそれを書いてるって事だろう。それなら、誰に恥じることもないさ。まぁ、俺個人の好みを言わせてもらうなら、恥じらう女の子ってのは大変魅力的なんだが」
「……あっそ、どうもありがとう。でもね、別にいいのよ、そんな見え見えのご機嫌取りしなくても」
「そう思うかい?」
男は薄く笑った。
「俺はね、自慢じゃないが生まれてこの方ひとつのことに真剣に取り組んだことがとんと無いのさ。身も蓋もなく言えば、いい加減に生きてきたわけ。そんな俺の目に、まっすぐなキミの姿はとても眩しく映るのさ」
一呼吸置いて、少女の目をじっと見据えながら口を動かす。
「ご機嫌取りなんかじゃない、本心だよ」
そんな男の言葉に、少女の整った眉がぴくりと動く。素っ気ない表情を浮かべる彼女の内側で、その自尊心が微かに擽られる様を男は見逃さなかった。
「人生の最期に遺す言葉。それが趣味だなんて、ちょっと不思議ではあるけどさ。でも、なんで言えばいいのかな、こう、ロマンがあるじゃないか」
────ロマン。
少女は男の言葉を噛みしめるように小さくその言葉を繰り返す。瞳には、ほんのりと陶酔的な色が浮かんでいた。
あと一押しだな、そう男は思った。
「羨ましいよ、そういうの。キミの熱意に当てられて、俺もちょっとばかし興味が出ちゃったりなんか」
「キョウミ?」
「……しちゃったり」
ぐい、と覗き込むように顔を近づけてきた少女の表情は、恐ろしく真剣だった。
男は、失敗したか、と内心冷や汗を垂らした。勢いにまかせた軽々しい発言は、彼女のそれにかける想いなり、矜持なりを傷つけてしまったのかと、そう思ったのだ。
けれども、小さく息を吐き、吸って、ゆっくりと瞬きをしてみせた少女のその顔には、負の感情は伺えず、むしろ静かな興奮のようなものが見て取れたのだから、いよいよ男は困惑した。
「興味って言ったわよね?それはつまり、貴方も遺書を書いてみたいということ?私には、そう聞こえたのだけれど」
そう来たか。いや、わからないことではない。先ほど彼女は、『遺書を書くのが趣味』と言ったのだ。なる程、自分の趣味を他者にも理解ないし共有したいと思うことは誰にでもあるものだろう。ましてそれが他人の理解を得づらい趣味だとすれば、尚更である。そう思えば少女の発言も微笑ましいものかもしれないが、しかし……、
「あぁ、いや……まぁ、それもやぶさかではないけどさ?でもホラ、俺には遺書を書くにしても、宛てる先が無いんだよ、ははっ」
できるだけ軽い口調で、けれど、それとなくワケあり感を滲ませる。
男は嘘をついたつもりは無かった。男に兄弟はおらず、また、少年時代から放任主義であった両親とは家を出てからは一切連絡を取っておらず、親子の情などというものはどうにも色褪せて久しい。遺書を書く際に思い浮かべるほどの親しい友人も居なかった。そのような他者との繋がりの希薄さは成人した男からすれば、普通……とまでは行かずとも、そこまで珍しいことではないと思っているが、少女ぐらいの歳の子にとってはなかなかに特異なことに感じられるはずであり、何かしらの事情を想像して、引き下がってはくれないだろうかという希望を込めてのものだった。
……実際のところは、流石に自らが遺書を書くというのは抵抗がある、というのが本音である。
遺書製作が趣味のポエティックな少女を許容することと、自身がそれをするのとでは、また違うものなのだ。
「いいえ、別にね、誰か特定の個人への手紙という形式に拘る必要はないのよ。死すべき時に、世界に遺す言葉でいいの。内心の吐露でもいい。どうせ自分は死んでるんだもの。思いきり言いたいこと書いちゃえばいいのよ。この場合、宛先は世界の須く、或いは自分自身になるのかしら。……それでも、」
少女は引き下がらなかった。そこには、何としても男を同好の士に引き込まんとする、不思議な情熱が見て取れる。
「それでも、もしも貴方が、具体的な誰かを思い浮かべないと書くのが難しいって言うなら……その、わ、私に、宛ててでも、いいけど?」
自分でもおかしな発言をしている自覚はあるらしく、発した言葉のイントネーションは珍妙なことになっていた。
しかし、初見では人形のような印象だったその少女の、揺れる目線を逸らしながらの上目遣いという、器用な真似をしてみせる姿は、男の抵抗心を速やかに蹴り飛ばすだけの破壊力は、確かにあった。
「オーケー、書こう。キミに送るよ」
結局、男は呆気なく白旗を掲げた。仕方がない。こうなれば彼女の変わった趣味にとことんまで付き合ってみようと、そう決めた。ここまできて断るのはあまりにも少女が気の毒であったし、何と言っても彼女は、美人なのであるからして。
◆◆◆
少女は肩から下げていた鞄から、真っ白な紙を一枚取り出して、男に手渡した。
「本当に、嫌じゃないの?無理して付き合ってくれてるとか」
「別に、そんなことはないさ。キミみたいなステキな子にラブレターを送れるんだ。嬉しくない筈がないだろ?」
「遺書よ」
呆れたように溜息をつく少女を尻目に、男は気の抜けた笑みを浮かべた。
「わかってるわかってる。でもさ、天国からのラブレター、なんて言わない?ほら、テレビか何かで見たことあるよ、俺」
「……まぁ、確かにそういうのもあるけれど!」
何となく不服そうな少女は、けれど一度の瞬きの後で柔らかな笑みを浮かべる。夏風が、少女の長い黒髪を靡かせた。
「でも、それを受け入れるかどうかは私の自由よね」
少女は、自然な所作で男の手を引く。
その手はあまりにも冷たくて、今が真夏であることを一瞬忘れてしまうほどだった。
「ついてきて?相応しい場所があるの」
彼女の声は弾んでいるようだった。まるで、誕生日か、クリスマスのプレゼントの箱を目の前にした子供のような。
行き先は先ほどの図書館ではないらしい。
どこか別の、ちょうどいい施設でもあるのだろうか。けれど、思い当たる物は無かった。男が尋ねれば、少女は、悪戯っぽく唇に指を当てた。生温い風が、男の首筋を撫でる。
「きっと貴方も、気に入ると思うから」
そう言って微笑む少女は、まるで吸い込まれそうなほどに綺麗で、その瞳は、只ひたすらに、男の手に握られた白い紙だけを、────じいっと、見つめていた。
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