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№0007

 

 こうして、一時間目のつまらない授業が始まってしまったのである。


 あろう事か、それは道徳の授業だった。彼には先生の授業がまるで価値のない、まるで無意味な、ただの雑音に聞こえた。


 彼女の犯してしまった罪と、彼女が抱え込んでいる懺悔の気持ちを目の前にすれば、どのような綺麗事もすさんでしまう。心の底から呆れた笑い声が静かに発せられた。だから、もういいや、と思った。



「あ、あの」

 少年は声を発し、席を立ち上がった。

 先生の授業が止まる。


「トイレ、行ってもいいですか?」


 彼のマヌケな声に、辺りからクスクスと笑い声が聞こえた。

 少年はそれでも良かった。


 周りからどのように思われようが、いち早く少女に会い、虫を失った痛みを癒してあげたいと思っていた。


「急いで」


 先生のその言葉。それは彼にとって「早く少女に会いなさい」という意味に聞こえた。


「助かります」

 彼は立ち上がった。


 実をいうと彼はトイレになど行く予定はなかった。このまま学校を抜け出し、少女を追いかけるつもりだったのだ。


 追いかけて果たしてどんな言葉を掛けてやれるのか、少年は全く考えていなかった。


 しかしそれでも、抜け出さずにはいられなかったのだ。少年は速足で階段を飛び降り、廊下を駆け抜け、ロッカーにある自分のローファーを地面に叩きつけると踵を踏んで校舎を飛び出した。



 後先の事など頭にない。少女に追いつくかもわからない。でもこのまま黙って授業を受けるというのは彼自身にとって大きな重圧となる。だからこそ昨日の崩れた価値観のままでいたかった。常識から解放されたかったのである。



 少年は走った。少女の家に向かって走った。爽やかな春の日差しが、少年を暖めている。変わらない町並みが却って、彼が感じる日常の幸せという感覚をマヒさせた。



 もうすぐ少女の家に着く、そう思った時、少年は目の前に巨大な十字架が立ちふさがっている事に気が付いた。


「……教会だ」


 教会とか、十字架とかキリストとか贖罪なんかにだって、全然少年は興味がなかった。


 でもこの土壇場になって、彼は神の子にひれ伏し救いを求めた。


 既に犯してしまった少女の罪、生命を殺めるという仏教界における重罪である。その罪をあろうことか教会にて懺悔しようと試みたのだ。


 どこにでもある住宅街の、小さな教会。彼は思った。


 もしかすると彼女も、自分が殺めてしまった命への懺悔の為、ここにいるのかもしれないなと。


 罪悪感からの救いの為、この小さな教会でぽつりと寂しくパトスとロゴスを握っているのかもしれないなと感じた。


 直後、彼が鮮明に感じ取ったその予想は的中する事になる。少女はその巨大な十字架の物陰で、あの残酷な虫を大切に握りしめて一人寂しそうに座り込んでいたのだ。



 悲しみと落胆と罪悪の念に打ちひしがれて、気の毒に倒れていたのだ。


 彼女の姿を実際に目にしたとき、その痛々しい程華奢な体のどこに、巨大な十字架を背負わなくてはならないのだろうかと、怒りにも似た感覚が巻き起こった。


 それでも今、少女と会えた事に安心し息を整え、声を掛けた。

「奇遇だね。こんなところで会うなんて」


 彼女は少年の姿を見ると、途端に表情が緩んで、瞳からは涙が流れ落ちた。


「来てくれたんだね。ありがとう」


 震えるその声を聞いて、少年の心にジワリと熱いものが込み上げた。


 例えどのような外見の虫を育てようと、通常の神経ではできないような行動をしようと、彼女はクラスの片隅に咲く一人の少女であるのだ。例えるなら白色のカーネーション。


 その事実を少年は心の深いところで受け入れていた。だから彼女に対して今、言葉を濁した声で慎重に語るのだ。


「…………ロゴスは踏み潰されて死んだけど、それでも幸せだって、死体からの声が聞こえない?」


「聞こえるよ。それで良かったって」


 少女は、無残に潰された虫を握りしめて、少年の問いに答えた。


「パトスは、君の指先で死んだけど、それでも幸せだって、教えてくれたでしょ?」


「教えててくれたよ。そうなる宿命だったって」


 少女は、傷ひとつない虫をまた撫でながら悲しみにくれた。

「ねえ。私、昨日言ったでしょう? この虫を公にはしたくないって」


「言っていたね」


「私、この子たちと一つになろうと思うの。私の体の中でだけでもいいから、この子たちにはずっと生き続けてほしいの」


 その言葉を聞いて少年は直感的に、この子は虫を喰うつもりなんだなと思った。


「食べるの?」

「うん」

「大丈夫?」

「それが私の愛情なの」



 少年は、この少女の悲しそうな瞳を見つめて、ゲテ物を食べるという行為より、むしろ自分が愛していた動物を自身の手によって始末しなくてはならない悲しい宿命の方に精神的苦痛を感じているのだと理解できた。



 その苦痛は少年にも伝わった。痛い程よく分かった。だから彼女を慰めるべく勇気の声を振り絞った。


「僕もその愛情を、手伝ってもいいかな」

「愛情を手伝うって、そんな不思議な事言って……私は前からこの子たちにアナタの面影を重ねていたのよ」



「……じゃあ」

「……もちろんだよ」



 少年はこの瞬間が来てしまった事について、興奮も衝撃も感じなかった。


 ただ、極限の狂気にマヒした感情で得られる感覚は、自分たちの終極のみだった。


 二人はここで、生命の果てを経験するのである。

「わかった」


 彼は答えた。次の瞬間、少女は傷ひとつない虫パトスを口元に持っていって、目を瞑りながらそれを噛み切った。


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