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№0005

 今でも喉の奥に残っている繊細で艶美な破片が、彼の胸の血液を躍らせ続けている。苦しい程に気持ちよかった。


 その情景に、胸の快楽が悲鳴を上げたのだ。もうやめてくれ、と。


 少女の瞳を目の前で見ている訳ではないのに、実際、目の前には横断歩道と信号機があるだけなのに、なぜか彼女の清らかな指先と、拒絶感のあふれるあの虫が脳裏に張り付いて離れない。



 その気持ちよさに少年は疲労を感じていた。疲労と脱力感を感じたままの心で、彼は家の玄関を開けた。


「ただいま」


 彼は、すぐに家に帰ってしまった事を後悔していた。

「おかえり。なんか元気なさそうだね」


 少年の母親が迎えてくれた。


 しかし彼は今、母親の存在を良くは思っていなかった。母親は、彼の心の中を見抜くのだ。


 うっとうしい程よく見抜くのだ。彼の胸の中に、少女がいる事を、知っているのだ。それが少し悔しく、悩ましく、残念にも思えた。


「どうしたの。学校で嫌な事でもあったの? 悩みがあるなら聞くよ」


「いや、そんな事はないよ」


 少年はできるだけ、明るい声で答えた。確かに悩ましくはあったが、悩みがあった訳ではなかったからである。


「隠さないで」

 母親の一言で、彼は大きな溜息を洩らした。


「好きな子ができたんだ。それで……それだけだよ」

 嘘ではなかった。けれどもそれだけではなかった。


「あら、良かったじゃない」

 母親は必要以上に喜んでいるから、少年はさらに暗い気持ちになった。今はそういう気分ではないのだ。


 その後の夕飯の時間、食事が喉を通らなかった。


 ご飯とみそ汁と、野菜炒めと魚だったが、一口食べるたびに胸がバクバクと鳴り響いた。しかしそれは、まったく恋愛感情ではなかった。


 この、普通の恋愛感情ではない事実に少年は半ば失望していた。

 十四歳の春にしては刺激のつよい食事だった。


 少女の清らかな唾液がまだ、少年の舌の奥に引っ掛かっているからである。


 加えて、彼の喉の奥に残るバーミキュライトがご飯と混ざり合って、最高にミスマッチな食感を生み出しているからだ。


 白米を口にするたびに、喉の奥から土の匂いとざらざらが込み上げてきて、その中で微かに少女の唾液の味が絡まるさまは不自然極まりなかった。


 けれども彼はすべてを残さずに食べた。


 食べきったのだ。母親が作ってくれた料理を残すという行為は、意地でもしたくはなかったからである。


 それは少女に気を取られていないのだというアピールであり、精神力の強さを見せ、平常を装いたい心境だったからでもある。


 食事を終えると、少年の動悸は少し収まった。理由は分からなかった。しかし彼は今もの凄く疲れていて、眠かった。


 部屋に戻って、無造作に扉を閉める。

 すると彼の頭に、まさかこれで一生分の動悸とときめきを使い果たしてしまったのではないかという小さな不安が横切った。


 少年は、自分の胸がときめか無い事を感じると急に不安が増してきて、急いでベッドに入り込んで毛布を被った。


 まだ少女の頬笑みが、まぶたの奥の闇の中で煌めいていた。少女の虫を撫でる白い指先が、鮮明に動いている。


 それで、気が付いたら朝になっていた。

「しまった。寝落ちした」


 カーテン越しに差し込んでくる朝日が、部屋を舞う埃を映し出している。今日が学校だという事に彼は気が付いた。


 その事実と、自分の胸がどうしてか異常な高鳴りを感じている事にも気が付いた。


「……そうだ。昨日は……アレがあったんだ」

 彼は昨日の出来事を思い出すのに少し時間を有した。けどその事実は決して薄れる事はなく今尚、鮮明だった。


 脈拍が途端に上昇し今すぐに彼女に会いたい衝動に駆られた。


 母親は早朝から職場で働いていたので彼は朝ごはんも食べずに、学校に向かって駆け出した。


 あせって着替えたので、裾が乱れていたかもしれないし第一ボタンが取れていたかもしれない。でもそんな事はどうでも良かった。


 ただ少女に会いたかった。

 彼が感じている「会いたい」は恋愛感情でもあったが、早く少女の無垢な瞳を見て、自分自身を安心させたいという願望の方が強かった。少年は走った。


 誰よりも早く走って、信号機を無視して、校門に立つ先生を無視して、階段を転びそうになりながら駆け上がって、教室の扉を開け放った。


 何をそんなに急いでいるのだろうかという程、息を切らしながら鞄を机にドサリと置いた。


 居た。


 教室の片隅にぽつりと佇む、目立たない可憐な少女。


 さらにその背後には昨日見てしまった凄惨な虫のオーラが蠢いている事にも気が付いた。


 少年は急いで駆け寄った。

 特に話しかける用事がある訳ではなかったが、とりあえず一言とか二言くらい会話をして、安心したかった。



 昨日受けた胸のバクバクというダメージを、少女の清らかな瞳で回復しようとしていたのだ。そのくらい、少年のえげつない青春は致命傷を負っていたのだ。



「おはよう」

 彼は声を掛けた。すると、彼女は何だがとても悲しそうな表情を浮かべていた。



「あっ……おはよう」


 そう言って彼女は俯いた。

「どうしたの? 悲しそうだね」


「…………死んじゃったの」


「えっ?」


「あの子たち、二匹とも死んじゃったの……パトスも、ロゴスも」


 その言葉を聞いて、少年の背筋が凍った。


 なぜだろうか、もしかしたら自分のせいなのではないかなと危惧して彼は少女の耳元で、静かに囁く。


「もしかして、僕が見たから? 僕があそこに足を踏み入れたからストレスで死んじゃったの?」

「そうじゃない!」

 彼女はクラスに聞こえるような大きな声を出した。


 男子が数名こちらを振り返った。女子たちは二人を横目で見ながらヒソヒソと何か話している。

「だとしたら、どうして」

 少年は声を潜めた。



「あの後、私、アナタの事をずっと考えてた。アナタの事を考えながら……ずうっとあの子を撫でてたの。一晩中、休憩も挟まないで」


 少女は、昨日ずっと撫でていたと思われる虫を取り出した。ぐったりと倒れたその姿には以前のよう、活気にうねる動きは確認できなかったものの、彼は全身が縮み上がるような感覚をおぼえた。みるみる鳥肌が立っていく。



 この個体は死んでいるのだ。間違えなく死体であるのだ。

「ちょっと、学校に持ってきちゃまずいんじゃ」

 少年の声を耳に入れずに彼女は語る。


「パトスは……何度も反応したわ」

「反応? 反応って?」

「分かるでしょう?」


 彼女の頬は、真っ赤になっていて、女性らしく艶やかだった。


「反応。男の子なら……分かるでしょう?」

 そういう事か、と彼は思った。彼の脳裏には、二匹の虫が体を苦しそうにうねらせ、中腹の突起物から乳白色のアレを出すトラウマが思い起こされて、眉間にしわを寄せた。



「一晩中?」

「んっ。あの子が、とっても喜んでいたから。とっても気持ち良さそうに、ウネウネしてたから、つい反応があっても、撫でる手を止めなかったの」


 彼女は、自分の指先をさすっていた。


 つい数時間前まで、その細く白い指先は、あの虫の突起物を撫で回していたのである。少年は、声を失った。少女の言葉を理解すると、彼の脳内麻薬が一気に体中に駆け巡った。


「それで……」

「数えられないくらいの反応があった。気付いた時には、もう」


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