孤児院のシリス
早朝、日が昇る前に目を覚ました。
夢に見たのは、およそ一月前の光景だ。
傭兵団のみんなと戦場を駆けていた楽しい思い出であり、懐かしさからか溜息が零れてしまう。
「はぁ……団長たち、元気にしてるかな」
ついボヤいてしまったけど、朝からこんな調子ではいけないと気を取り直し、ゴロゴロと転がってベッドから抜け出した。
乱れた長い黒髪を簡単に整え、寝巻用の白いワンピースから黒い袖無しインナーと同色のショートパンツに着替えると、軽く体を動かしてほぐす。
筋肉が硬いと思い通りに動かせなくなるので朝の日課となっていた。
やがて日が昇り始めたら終わりにして、窓を開けて深呼吸する。肺に送り込まれる澄んだ空気は心地よく、もう夏季が近いと教えてくれる。
完全に覚醒した頭で今日の予定を確認しつつ空模様を眺めると、雲はまばらに、ゆっくりと流れていた。きっと一日晴れるだろう。
まだ朝晩は冷えることもあるので油断は禁物だけど、少なくとも今日のところは心配ないようだ。
「おはようシリス」
「うん、おはようメル」
部屋を出てすぐに髪も肌も白い少女と朝の挨拶を交わす。これも朝の恒例だ。
どうも彼女……メルフィナとは生活リズムが非常に似通っているらしく、隣室ということもあり、朝は同じタイミングで部屋を出て一番に顔を合わせるのだ。
まあ昔から同じ、この孤児院で過ごしているのだから、それも当然かなとあまり深くは考えずにメルの顔をよく観察する。
「今日は調子が良さそうだね」
「だいじょうぶ。最近はずっと健康だよ」
と、どこかぎこちない笑顔を見せるメルの肌は相変わらず病的なまでに白い。
少し前までは体調を崩しやすく、病弱を絵に描いたような状態だったのだから常に気を配っているけど、肉体的に成長したおかげか本当に良くなっているみたいで私も安心する。
「シリスが頑張ってるんだから、私だって甘えてばかりじゃいられないよ」
「そっか……うん、そうだね」
今生にて一番の親友であるメルの意気込みを前にして、私も気を引き締める。
「なんか元気になったよ。ありがとメル」
「よくわからないけど……どういたしまして?」
疑問を表情に浮かべるメルに、私は微笑みながら食堂へと向かった。
宿舎である棟から食堂へは一階部分の渡り廊下で繋がっている。メルと一緒に階段を下りて行くと、そこで眠そうな顔をした子供たちが加わった。
「……おあよぅ、ねーちゃんたち」
「おはよーシリスねえ、メルねえ」
「ねむぃ……」
「うん、おはよう」
ひとりずつ順番に頭を撫でてやりながら目覚めを促す。
みんな私やメルと同じく、孤児だ。
一番下が七歳くらいで、上は十四歳……というか私が最年長である。
以前は年上の先輩もいたけど、十六歳で成人となれば孤児院を出て行ってしまうので、残ったのが私というわけだ。
十三歳と最も年齢の近かったメルは体が弱かったので、必然と私が頼られることも多くなり、まとめ役を任されたりして当初は苦痛だったものだ。
しかし、こうも実の姉みたいに慕われては邪険にもできないだろう。
本当なら姉ではなく兄……いや、贅沢は言うまい。
とにかく今では慣れたもので、この弟と妹たちを健やかに成長させるのが私の密かな目標のひとつとなっている。
――以前なら、こんな考え方は絶対にしなかった。
私には古い記憶がある。
とても、とても古い……生まれる前の思い出だ。
前世と呼ばれる記憶の中での私は傭兵で、しかも男だった。
傭兵グレヴァフ。
戦場でその名を知らぬ者はいないほど、勇名を轟かせた男だと自負している。
凡百の兵などとは比べ物にならない巨躯から生み出される剛力は、背負う大剣を振るえば騎兵を一撃で両断してみせた。
矢が刺さろうと物ともしない鋼の肉体を誇り、戦場を蹂躙する私を味方となった者たちは喝采を浴びせ、敵対してしまった者たちは絶望から失禁したものだ。
だが、そんな伝説の男もしょせんは人間である。
強者を前にして戦場に散ったか、罠に嵌ってあっけなく果てたか、その具体的な理由までは思い出せないものの、どうやら死んでしまったらしい。
現に私はこうして新たな人生を歩んでいるのだから。
この記憶を思い出せたのは、私がシリスとして5歳になる頃か。
すでに孤児院での日常を過ごしていた当時の私は混乱した。
なにせ感覚としては傭兵グレヴァフとして生きていた男が、ある日いきなり孤児の少女シリスとなっているのだ。
なおかつ、それまでシリスとして過ごした記憶も覚えているとすれば、頭がおかしくなったと考えるのが普通だろう。
実際、本気で自分の正気を疑った。
周囲に俺はグレヴァフだ、などと吹聴して回ったのもいい思い出である。
今でも自分が男か女かが曖昧になるが、生きた年数で言えばグレヴァフが圧倒的に長いので、意識的にはそちらが強いようだ。
ただ、こんな生活をしていればグレヴァフの意識も徐々に薄れて、シリスとしての部分が強くなっているようにも感じて悩ましい。
せめて男に生まれていれば苦労はしなかっただろうにと、見たこともない神さまとやらを恨んだ時期もあったが、そもそも前世の記憶を取り戻している私が異常なので、ならばしょうがないとも納得していたり……。
とまあ色々あったけど、なんだかんだいって今では落ち着いている。
別に、この生活も悪くはないからね。
そんなことより今日の朝食はなんだろう。
孤児院での暮らしに慣れた私にとっては、そっちのほうが重要だった。
食堂に集まった子供たちは先ほどまでの眠気を吹き飛ばすと、今度は腹の底から湧き上がる空腹感を訴え、今か今かと行儀よく座って朝食を待ちわびていた。
朝から食欲旺盛なのは良いことだ。
食べれば食べるだけ、それが栄養となって成長するからね。
かくいう私も席に着くと、腹部から食物を求める叫びが響いていた。
そうして響きあう旋律は密かな孤児院名物のひとつ、空腹なる合唱団である。
「シリス、はしたないですよ」
アホなことを考えていたら、いつの間にか背後に立っていた人物に咎められて心臓が飛び出そうになった。
最近、シワが目立ち始めたと悩みを口にしながらも眼つきは鋭い彼女は、当孤児院の院長であるマーム・ジュリーク。通称マムだ。
衰えをまったく感じさせることのない気骨は女傑と呼ぶに相応しい。
そして私が唯一、頭が上がらない相手でもある。
「いえ、マム。これは自然と鳴ってしまう生物として仕方ないもので……」
「また淑女の教育が必要ですかね」
「いいえ、マム! 以後気をつけます!」
「よろしい……おはようございます、シリス」
「はい! おはようございます! マム!」
……危なかった。
もう少しで朝食を抜かれるところだ。この育ち盛りの体で、それは勘弁して貰いたい。それに私はもっと大きくならなければいけないんだ。
というか50歳も近いというのに、恐ろしい迫力である。
きっと若い頃はぶいぶい言わせていたに違いない。
やがて本日の配膳係が朝食である香ばしい匂いを漂わせるパンと、野菜たっぷりのスープをみんなに配り終えると、いよいよ待望の瞬間である。
孤児院の総勢13人は静かにその時を待つ。
最後にマムが食堂を見渡し、祈りの言葉を口にすると全員で復唱する。
「では、いただきましょう」
「いただきまーす!」
一斉にパンとスープを口に運ぶ私たち。
とある事情から食料だけは全員が満足できる分を調達できているため、パンとスープはお代わり自由である。それでも一度に用意できる量に限界があるので我先にお代わりしようと急いで咀嚼していた。
ただし、本当に満腹まで食べたいなら、がっついてはならない。
なぜならマムの躾は厳しく、最低限のマナーさえ守れないようなら即座に食堂から追い出されてしまうからだ。
パン屑を散らかす、スープをこぼすなどは以ての外で、口に含んだら30回はしっかり噛んで飲み込むといったところまでマムは目を光らせている。
子供たちは単に罰則を怖れて従っているけど、私はそれらが将来的にちゃんと役立つ、意味のあるものだと理解しているから文句を言わない。むしろ率先して模範となるように気を遣っていた。
……さっきみたいに、たまに失敗もするけどね。
おかげで孤児院の子供たちは健康そのものであり、食べ物を粗末にすることもなく、最低限の礼儀作法を身に付けているのだ。
「さて、まずは一回目のお代わりとしようかな」
などと言いつつ、私はおもむろに立ち上がると悔しそうにしている子供たちを横目にスープを注ぎに向かう。
普通の子供なら野菜を嫌うものだと思うけど、このマムお手製の野菜スープは苦味もなく美味しいと評判で、みんなの好物となっているのだ。
ついでにパンもひとつ入手して席へと帰還する。
「くっそ~、またねーちゃんに負けたかぁ……」
「シリスねえってば食べるの早いよ」
「でもマムがなにも言わないから、ちゃんと噛んでるんだよね?」
単純にまだ体が小さい子供たちに比べて私の一口が大きいのと、顎の力の関係で咀嚼が早いからなのだが、その辺りに気付けないようだ。
ふふふ……ちょっとだけ可哀相だけど、まだまだ一番乗りは譲れないね。
くだらなく思えるものでも、こういう小さな勝利の積み重ねが孤児院のボスとして言うことを素直に聞かせる秘訣なのだ。
それに、いずれは大きく成長した子供たちに勝てなくなる時が訪れる。こうして優越感に浸れるのも長くはないので許して欲しいね。
ふと隣を見れば、メルはようやく半分まで食べ進めていたところだった。
食の細い彼女は子供たちよりも遅いけど、しっかり食べられているので以前よりはずっと良くなっている。
そんな光景を眺めながら私もパンに齧りつく。
「なんだか嬉しそうだね、シリス」
「ん、そうかな?」
メルに指摘されて気付いたけど、自然と笑っていたようだ。
でも、特に不思議には思わなかった。
傍から見たらなんの変哲もない日常だけど、シリスとなった私は、これが黄金よりも貴重で尊く、価値あるものだと知っていたから。
食後は当番の子たちが食器をせっせと片付ける。
この孤児院では様々な仕事を当番制にしており、与えられた仕事はきちんとこなせるよう徹底的に教えられるのだ。
ただし朝食だけは子供たちが早起きできないからとマムが担当している。
普段は厳しいのに、そういうところは甘いのだ。
ちなみに私の料理番は、過去の数回を最後に任されなくなった。
別に料理するのは嫌いじゃないんだけど、やろうとすれば他の子たちによってなんだかんだと理由を付けて阻まれてしまうのである。なぜだろう?
その代わりと言ってはなんだけど、私は他の小さな子たちでは難しい仕事を一手に引き受けている。
例えば壊れた家具や雨漏りする屋根の修理といった、力仕事や危険な高所に登ったりがメインだね。
買い出しの荷物持ちに駆り出されることも多いけど、私がもっとも重要だと認識しているのは……やはり資金稼ぎである。
孤児院だって無料で運営できるわけではない。
普通なら国なり領主なりから補助金が出るものだけど、どういった経緯なのか現在ではマムの個人経営のような状態らしく、善意の寄付はあるものの孤児院を維持するのはなかなかに厳しいようだ。
なにせ私が小さかった頃など、朝食のスープは塩が入っているだけのお湯だったくらいだからね……。
――いや冗談ではなく、ホントに辛かった。
あんな思いを子供たちにさせたくないし、なにより栄養不足も心配される。
実際そのような食生活を送って育った私の体はどうも発育が悪く、背が伸び悩んでいるのだ。過去はどうしようもないけど、今後については改善すべきだろう。
そのためにもお金を稼ぐのは大事というわけだ。
方法は色々あるけど、人に言えないようなことは……と思ったけど、ひとつだけ孤児院のみんなにも言えない隠し事をしていた。
もし、これがマムにでも知られたら……。
「シリス、少しお話があります」
マムにそう呼び出しを受けた私は、とてつもなく嫌な予感がした。
補足:シリス本人は気付いていませんが精神年齢も若干、低下しています。