第四話 『追憶するG』
すいませんちょっと遅くなりました
――今から十五年前ほど前、一人の人間がこの世界に生を受けた。
病室で女性が生まれたばかりの赤子に乳を与えていた。
「ちょっと、あなた。この子生まれてからもう三十分くらいたつのに右手を握りしめたまま動かそうとしないの」
「確かに。まさか、右手が不自由だったりなどしませんよね、看護婦さん!」
まだ出産前の緊張が抜けきっていない様子の父親が慌てた様子で看護婦にそう訊ねる。
「え、ええ。事前の検査でも何も出ませんでしたし、生まれた直後も母子ともに健康そのものでしたよ。そんなに強く握りしめているようではないですから、ご心配なら開いてみては?」
看護婦の言葉に従って父親が恐る恐る赤子の右手に手を伸ばす。
震えるその手が赤子の小さな拳に触れたその時、赤子の握りしめられた右手が花が咲くように開いた。
「!」 「まあ」 「これは……」
そこから出たものを見た大人たちは一様に驚きの声を上げた。
赤子の手の中から出てきたのは一匹の美しい蝶だったからだ。
蝶は体をピクリと震わせると羽を広げ、開けられていた病室の窓から春の陽光めがけて飛んでいった。
「今のは一体……」
唖然としたまま蝶の飛び去った窓の外を眺めていた大人たちは、看護婦の漏らした声で我に返った。
「不思議なこともあるものだ」
「きっとこの子が生まれたことを神様が祝福してくれたのよ」
そしてまた、赤子の両親は春風の吹く窓の外を見つめるのだった。
それが少年が初めて自分の力を使った時であった。
少年は生まれつき不思議な力を持っていた。それは虫を無限に生み出し、操るという力。
そんな超常の力がどうして存在するのか、どうしてこの少年に宿ったのかは分からない。ただ、その力は少年に祝福とは程遠い人生をもたらした。
蝶だけなら奇跡のような話で済まされるのだが、当然、それだけで終わるはずがない。制御の効かない力は様々な事柄を引き起こした。
ひとたび両親が目を離すと、数匹のゴキブリと楽し気に遊んでいた。朝起きると、百羽以上の蛾が少年を包むように乗っていた。スズメバチの群れは少年が指を動かせばその方向へと動いた。
そんなことが続いて、僕の両親は少年を気味悪がり、次第に嫌悪の目さえ向けるようになった。
少年が物心ついた時にはすでに、怒鳴り散らされ、手をあげられるのは日常茶飯事だった。少年が虫と一緒にいると、それが少年の生み出した虫でなかったとしても、目の前でその虫を見せつけるように無残に殺し、甲高く笑った。少年の両親は、父は警察官で母は現役の弁護士。二人とも聡明な人物なのだが、それでも、度重なる異常に精神をすり減らして、やがて気が狂ってしまったらしい。少年は愛着のある虫たちを殺されたくない一心で、自分の力を制御するすべを必死になって身に着けた。そうして、時折親に隠れて虫を生み出し、一緒に遊んでいた。
少年にとって虫たちは、唯一の親友であり仲間だった。
特に少年はゴキブリを好んで生み出した。
ゴキブリは少年のようにみんなから嫌われ、虐げられているにもかかわらず、厳しい環境でも強く生き抜く。そんな生き方に少年は憧れた。しかも、ゴキブリは素早く賢いため、両親に見つかっても、上手く逃げおおせることができた。
少年がゴキブリしか使役しないのも、それが根幹にあるからだ。
そして小学校を卒業し、中学校に入学しても、周りの環境は何一つ変わることがなく、中学校の卒業式、義務教育が終わったその日のうちに、少年は家から追い出された。
しかし少年は、自分を不幸にしたその力を恨んだりはしない。否、少年は自分の境遇を不幸だとは思わなかった。少年には少年のことを気遣ってくれる優しい仲間たちがいるのだから。
その日から少年のゴキブリたちと共に帰る家のない生活が始まった。
それが僕だ。