8.緑林山 3
ゆらりゆらりと陽炎が立ち上る。
焔から燻る影がひとつに像を結んだ。
ひとの形をしていた。
空洞と凹凸が顔の輪郭を描き、深淵がぽっかりと口を開く。
くぐもった声が聞こえた。
『……お……王……』
『うよ……王よ……』
『王よ……今ひとたび……』
陽炎は言葉を紡いでいる。
独白ではなく、はっきりと会話を求めているのがわかった。
更田はルナを小脇に抱えたまま、炎から現れた影に話しかけた。
「初めまして、オートロードです」
そんな名前だったんだ、とルナが何故か可哀想な子を見るを目を向ける。自ら名付けた訳でなく本名なのに酷い扱いである。
尤も、そういうノリの方がこの世界の住人には受け入れ易いかもしれない。更田はわざと大仰に空の右腕を広げた。
「我が名は『魔王を継ぎし者』オートロード。この世の均衡を乱す前時代の遺物よ。王の証を以って成敗してくれよう!」
「制服姿で言われてもね……」
「いや、先輩だって」
ジャージの上から制服を着込んでるルナに言われたくないとばかりに更田は突っ込む。通気性は悪いが防護的には丁度いいのだとルナは開き直った。
「更田くんは折角だから王様っぽく派手に着こなせばいいのに」
「こっちの偉いひとたち御用達コスプレ服(?)なんて恥ずかしくて着れませんよ」
「男もスカート文化とかじゃないだけマシでは」
「まあそれは同意します。……っと」
しょうもない無駄話をする二人の前に、陽炎から伸びた腕が苛立ったように瘴気を撒き散らす。更田はルナを庇って後ずさった。
「ほら、ちゃんと相手してあげなさい」
「えー……」
横槍を入れたにも拘らず、ルナは他人事のように振って更田を呆れさせる。
「まあいですけど。……さて、触れることは許さない。退いてもらいましょうか、守護者クロイツ」
更田はあっさりと腕の形をした影を跳ねのけてから首を傾げた。
「……って、このひと(?)がクロイツでいいんですよね?」
「え、知らなかったんだ」
「え、だって会ったことないですし。だいたい、緑林山と同化して見る影もない訳でしょう?」
二人は気づいている。目の前に佇む靄は緑林山に張り巡らされた魔力の一部が顕現したものだ。
いつからかはわからないが、本来の守護者はとうに肉の躰を失い、この地に魂を移していた。正規軍にも御し得ないはずである。
『……王、よ』
『君……め……で、あれば……』
『千年の……認め……新……き王よ』
『千年の君が認めたのであれば、新しき王よ』
「認めるも何も、すでに『調整』の力は俺のもとに移ってるんですが」
こもって聞き取りにくい声に対して、更田は冷たく反論する。
『王よ、今ひとたび、王に拝謁を賜りし、幸甚』
王よ
王よ
王よ王よ、我が君、我が魔王よ
「……っ!」
無数の黒い手がルナと更田に次々と襲い掛かる。
相手はすでにまともな精神ではなかった。
更田は気色悪いと無下に振り払い、切り裂き、一蹴する。
「病んでるなー……さっさと殉じて逝けばよかったのに」
他の守護者は自ら求めて軍に蹂躙され、滅びた。運良く悪くか、緑林山と同化してまで永らえた守護者という名の万能神の人形は、とうの昔に狂い切っていた。
「たった15年ですよ」
「年数は関係ないんじゃ?」
「まあ単に、そういう風に創られた存在ってだけですけど」
『我が君……千年の…君』
いっそ哀れな程創造主を求め狂う叫びに、新しい王は慈悲を見せた。
「俺があなたを滅ぼすよ、可哀そうなクロイツ」
すでに山は大きく燃え上がっており、消失も時間の問題だ。
彼の魂ごと灰に帰す浄化の炎が揺れる。
端末である影も、追い縋る腕ごと徐々に淡くなっていった。
「ルナ先輩は、何か彼に言うことないんですか?」
「そうだね……まあ諦めて早く成仏してください」
「うーん、仏教じゃないと思いますけど、ニュアンス的に通じればいいのかな。しかし冷たいというか、あっさりしてますね」
「仕方ない。他に生きる目標でもあるなら兎も角、未練だけの妄執には何もできないよ」
ルナも魔力を乗せ、炎上を加速させる。
弔いの意図を汲み取ったのか、抵抗が失われる。楔が断ち切られ、山中に這う汚濁のような魔力の気配が段々と朽ち消えていく。
「彼のせいじゃ、ないでしょう?」
「だけどもう、彼の主はいないから」
――解放されるといい。
かつて千年を治めた魔王は、統治を容易にする道具として、守護者という存在を創った。
膨大な力を持て余すが故の気まぐれに近い。
彼らはひとに似せ創られたが、自我も意思も必要なく、ただ魔王に忠実な僕であれば足りた。
魔王は自分の死後の人形がどうなるかなど、考えたこともなかった。
「悪かったのかな?」
「けれど今更贖罪もないでしょう。後始末には充分では?」
「いやなものだね」
ルナは黙祷の代わりに瞳を逸らした。
「先輩」
「見るに耐えない」
「……ずっと、そう思ってたんですね」
更田は再び両手でルナを絡めとる。
華奢な肩を抱き、柔らかな指を握りしめながら、耳裏に唇を這わせた。
「すみません」
「うん……」
「そろそろ脱出します」
二人の身体が浮上する。
近距離の転移術が緩やかに発動した。
緑林山はその後もしばらくの間、震え慟哭を続けたという。
◆ ◆ ◆
ある平凡な日常の一幕で、少年は悩み相談のふりをして、少女に話しかけた。
ひとつ上の先輩である彼女は、卒業を間近に控えていたが、二人の通う学校はエスカレータ式私学なので、緊張感も解放感も皆無だ。
少年は無邪気を装い、幼気の仮面を被り、狙い澄まして少女の反応を探った。
『実は俺、日本の生まれではないんですよ』
『将来は……大人になったら故郷に帰る予定で』
『文化も言語も技術も全く異なるから、ここで身に着けるような知識や教養はまったく役に立たないと思う』
『学校の勉強やテストが虚しくて』
『どうしたらいいでしょう、先輩……』
少年の偽証した悩みはよくある「学術テストなんて将来には不要」論の亜流だ。
少女は静かに戯言を聞いていた。
図書室には窓の隙間から冬と春の境目の日差しが零れ落ちてくる。風に舞った黒髪が柔らかな頬を撫でる。
『君の価値観は違うよね』
少女は鬱陶しそうに髪を払い、シンプルに言い切った。
完全に見抜かれていた。
少女は少年を理解していた。
少年もまた、少女の内面を知り始めていた。
……寂しい。
虚無を負っているのは誰なのだろう。
少年ではない。
少女でもない。
あなたは。
だからあのとき、少年は予感していた。
運命かもしれない。
春が訪れ、少年が生まれた日の朝に、二人は再び邂逅する。
桜散る学び舎の端に少女の姿を捉えた少年は、密やかに微笑った。
もしかしら本当は少しだけ、泣きたかったのかもしれない。
『実は今日、俺の誕生日なんですよ』
『意外と近いね。私は先月の終わりだったよ』