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25.ある日のこと 2

 魔王は自分の胸にぽっかりと空いた穴を見て首を傾げた。

 心臓の位置を貫通しているが、魔力で止めているため血は吹き出していない。

 尤もこのまま放置すれば死に至るだろう。常人であれば致命傷だ。

 そこは万能の魔王、何事もなかったかのように体組織を再生し、失われた臓器を補い治癒するのもまったく不可能ではない。


「……さて」

「う……あ、あ、うぁ……」


 眼球を渡した途端その力を元の持ち主に放ったソルは、己の所業に恐怖し混乱し切っていた。

 どうしようかと魔王は珍しく悩む。

 元の通りに戻るのは労もない。

 傷を塞ぎ、ソルに抑え罰を下し、また平然と時を刻む。

 可哀想な子どもがひとり消えるだけで、世界は営みを変えない。

 先は、どこまで続くのだろう。

 未来は果てなく遠く、なだらかで平坦な道だ。



 ここで終わるのも悪くない。

 魔王はふと、別に死んでもいいかなと思った。



 死への欲求と等しく生への執着もない。

 脳裏を掠めた一瞬の展望が急速に現実感を支配し、行動に転化される。

 魔王は眼球を手にしたソルの右手と何も持たない左手の手首を掴んだ。

「あ……何、を……」

「もう片眼もある」


 ソルの左手を自身の右眼に引き寄せると、応えるように震える指が残った眼球を抉った。球体は無造作に床へと落ちる。


「右腕も」

 腕が捥がれる。

「左腕も」


 もはや魔王の言葉に操られた木偶のように、ソルは掌に握った魔眼の力を揮った。否、ただ引きずられている。


「右脚も左脚も」

 四肢を切り離され、魔王は背中から倒れる。

 空洞の瞳が部屋の天窓から外を遥かに仰いだ。

 魔力により出血は止めている。返り血を浴びれば誰かに見咎められた際ソルが困ると要らぬ世話を焼いたのだ。


「左眼を戻しなさい」

 魂が肉体を離れる直前、魔王は翻弄されて気の毒な子孫に親切心で忠告した。

「わかったはずだよ。お前には手に負えない」

「そ、んな……」

「左眼を戻せば、魂が抜けた後に損傷した部位が戻るよう術をかけたから」

 そうすれば不自然もなく、眠るように鼓動を止めた屍だけが残るだろう。

 ソルは自分の魔力を使っていないため、無事居室を抜け出ししらを切り通せば、魔王の死は単に命数が尽きただけと判断される。


 魔王殺しの科など負わなくていい。

 敢えて精神的外傷を植え付けたのは、それなりに可愛がっていた子どもに牙を向けられたほんの意趣返しだ。彼がいつか偏った価値観を是正し、己を克服する日が来ればいい。いずれ生まれる次代の魔王とも共存できるように。



 もうじき千年が終わる――。



 半生を共に生きた一番の側近であり友でもあるプロメテウスは、こんな投げ遣りな終焉を嘆くかもしれない。それでもきっと約束を違えず、自分のいない世界を守ってくれるだろう。

 女はきっと泣く。愛などなかったが、不幸に突き落とすもの気が咎めた。彼女に限らず、魔王に心を捧げる者に与えられるのは絶望だけだ。

 残酷に思う。気の毒に思う。哀れに思う。

 誰のせいでもない。

 誰も魔王の死など望んではいないのに、他ならぬ魔王自身が生を望んではいなかった。


 最期は自ら魂を切り離した。

 ゆるりと肉体が活動を停止する。

 魔力が薄れ、意識が剥離していく。

 遠い空へと向かう。

 世界の果てが見える。


 死んでもいいと思った。

 だから自ら終止符を打った。


 ああ、だけれども。

 もし叶うことならば、一度、



 魔王以外の自分を生きてみたかった。




 

 

 ◆ ◆ ◆


 

 桜が散る空の彼方を少女は時折見つめる。

 特に何かがわかるでもないが、望郷とも郷愁ともつかぬ想いで、古い記憶とは異なる遥かな空の色を眺める。


 少女はもう15歳になる。先日高校生にもなった。

 他人に話せば一笑に付されるだろうが、生まれる前を憶えている。

 この世界とは別の場所で、膨大な時間を魔王として生きていた。

 どうも死ぬ間際にうっかり希望を抱いたせいか、チート能力が叶えてしまい、魂は空に還ることなく消滅を免れ、異世界のただの少女として生まれ変わることができたらしい。自分でも信じ難い話だが、以前魔王だった頃は本当に万能だったので納得せざるを得ない。

 ただ、どうせなら真っ新で転生したかった。魔王としての千年など今の世界では完全に蛇足だ。


 想いとともにいつか薄れて消えていくだろうか。

 以前の世界も傍にいた者たちも捨てたに等しいのに、今もただあのときと変わらず寂寥と孤独が胸の内を占める。

 自分自身で大切なものを手放した。

 何故あのとき、死んでもいいと思ったのか。

 別の生を歩んでも答えは出ない。





 教室にいるのも所在がなく、早朝はふらふらと校舎や周辺を散策するのが少女の日課だった。

 高等部に入ってからは、校舎の片隅に気になる場所を見つけた。裏手の人気がない場所で、崩れた石碑が放置されている。気のせいかもしれないが、以前の世界で馴染んだ魔力の残滓のような気配が感じられたのだ。

「……まさかね」


 この世界に魔力など存在しない。

 行き来こそしていないが前世でこちらを覗き見ていたことはある。姿形が酷似していながらまったく魔力がなく、老化という現象があり、寿命が揃って百年にも満たない「人間」という生態は、当時から興味深かった。

 あちらから干渉するのは不可能ではなかろうが、異世界転移となると禁術の域だ。危険を冒してまで行使するメリットもない……はずだ。

 観察しても、ただの少女では何も発見できない。


 時間の無駄かと立ち去ろうとしたとき、見知った姿が近づいて来るのがわかった。中等部の制服を着た少年だった。

 後輩は少女を視界に認めると、唐突に脈絡もなく、今日が誕生日なのだと話しかけてきた。

 少女の誕生日とひと月も違わない。同年代なら不思議でもないが……。

 なぜ少年は中等部からわざわざこの場所を訪れたのか。なぜ少年は以前より少女に妙な関心を抱いているのか。


 15年前、少女の前世が死んだ直後に、生まれた存在があったはずだ。


 疑問が解けたときには、少女は懐かしい空の下にいた。

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