23.眼
ソルはやや離れた位置で立ち尽くす。
眼前の光景が受け入れ難く、だが否定もできず、甦った恐怖に目も心も一方的に奪われた。
いくつもの驚愕、或いは非難の視線に晒されても身動きは取れないまま、少女の姿が段々と近づいてくる。
「坊や」
「……っ!!」
体感的には瞬く間の出来事だった。
少女はいつの間にかソルの目の前に迫り、顔を寄せていた。
身長差があるため目線が合うよう地上より少しだけ浮いている。否、見下ろされているのだ。
「お前には合わなかったようだね」
金縛りにあったままのソルの左眼に、ルナの右手が伸びる。その指先から不可視の爪が無遠慮に突き刺された。
「がっ……!」
左眼の内側に激痛が走り、先祖とは異なる色彩の紅い瞳が、ルナの魔力の爪にきつく抉られる。摘ままれた眼球は意外にも生々しくなく、硬い殻に覆われた無機的な球体に見えた。
「ああ、義眼の中に封じたんだ」
ルナが呟くと、覆いは脆く劣化して崩れ落ちる。
その中から美しく輝く金の眼球が姿を現した。
「……か、えせ」
ソルは抵抗を試みるも、まったく魔力が発動しない。見えない鎖で縛られ、腕も上げられず、足も踏み込めない。少女には指一本触れられず、髪の一筋さえ傷つけることは叶わなかった。
「うわ、えげつな……大した力はないとか、どの口が言いますかね」
更田が苦笑する。
「それが行方不明の眼球ですか。証拠物件の。また微妙な隠し場所ですね」
失われて久しいと信じていた魔王の象徴が、実は常に近くにあったことを知り、プロメテウスとアルタイルが息を呑んだ。
「使いこなせもせず、抑えるのにも腐らせず維持するのにもかなりの力を消耗しただろうに。身体をボロボロにして、自分の眼を引き換えにしてまで」
「返せ……」
悔し気に顔を歪めるソルの耳元で、ルナはつまらなそうに囁く。
「こんなもの」
「……返せ!!」
明らかに頭に血を登らせ、ソルは魔力を爆発させ拘束を解いた。
眼球を奪い返さんと腕を伸ばすが、ルナは軽くいなして空中で避ける。ソルの手は虚しく宙を掴みさまよった。
「お前には手に負えないよ、坊や」
「化け物め!!」
バチバチと自分に向けられる敵意をルナは目配せ一つで払い除ける。力の余波を受けて、剝き出しの地面に亀裂が入り、王宮の建物が幾つか崩れた。
「危なっ……、ちょ、ルナちゃん」
「先輩、『調整』したばかりなので、もう少し穏便に。居室の封印まで壊してしまったら元も子もないですよ」
「そんな下手はしないよ」
正体を隠すという枷がなくなり、この肉体での魔力の行使にも慣れた今、誰も何もルナを阻害できない。対峙する側からすれば傲岸不遜にすら思える態度で相手を翻弄する。
ルナが空の左手を翳すと、巨大な重しを乗っけられたかのようにソルの身体は地に突っ伏した。
「少し頭を冷やすといい」
周囲が唖然とする。
ソルとて、王の代理として実質この世界の頂点にあり、衰えはあっても次代魔王である更田に次ぐほどの魔力を有していたはずだ。児戯にも等しく弄ばれるなど信じ難い、あり得ない光景だった。
圧倒的に過ぎる。
恐ろしいことに、少女になる以前の千年を治めた魔王は、更に無限と言える莫大な魔力量を誇った。ルナはまだ一度に使える魔力に制限があろうが、かつての魔王には抑えるべき箍がない。
「いったい……どうやったら殺せたっていうの、こんな……」
「実際は殺したともちょっと違うんじゃないかな」
シャランが慄き、更田が憶測を口にする。
「別に死んでも構わないと思ってた……そんなところでしょう、ルナ先輩」
「……さてね」
宙から降り立ったルナは、完全には首肯せず蓄積された記憶にある想いを辿る。
「自分でも答えは出てないんだ」
「何故あのとき死んでもいいと思ったか」
◆ ◆ ◆
ソル様は王にそっくりです。
殿下は王に瓜二つでいらっしゃいます。
ソル殿下は王に生き写しでございます。
黒髪も、端正なお顔立ちもよく似て。
そのうえ魔力も王に準じるほど。
流石は王の血を引く方。
強大な王の血と力をより濃く受け継いだ方。
言祝ぎましょう。
きっと跡継ぎでしょう。
次の魔王になられるでしょう。
ああ、でも残念ながら。
瞳の色だけは。
あの美しい金色は。
次代魔王は新たにこの世界に誕生する児の内から現れる。
千年王の死後、目下の後継問題で騒然とする王宮で、継承が如何なるものか公表したのは宰相プロメテウスだった。
魔王は世界が選ぶもの、「調整」の力を宿した赤児が生まれ出で、見つかり次第王宮に招くと触れを出す。
裏切られた気分だった。
ソルを担いでいた取り巻きも、同じ表情で落胆していた。
結局自分は届かないのだ。
魔王の眼を得ても。
魔王を死に至らしめても。
逃げても。
追いかけても。
手に入らぬ王位に憧れた。
与えない王に憎しみを覚えた。
資格持つ赤ん坊にさえ妬心を抱く。
欲深い配下の者を口先で騙し、次代がいなければソルが権力を得ると扇動し、可能性がある新生児を人知れず始末した。
中継ぎの名目で代理の地位に昇り、一時は巧くいっていた。
15年は長かったのか短かったのか。
滅びの予兆が少年の姿で顕現した日、ソルは安堵した。
重責からの解放や良心の呵責からといった真っ当な理由ではない。
少年の双眸は金色ではなかった。
それだけの事実で、ソルは千年を治めた魔王の呪縛から抜け出せたのだ。
覚悟はできた。
古き王の末裔は新たな時代と決別する。
自分に未来はなくともよい。
愚かな過去を共に葬り去ろう。
魔王の金色の瞳も、もはやこの世には必要ない。
これは自分のもの。
自分だけが持つものだ。




