いつかの再会を夢見て
「し、死ぬかと思いました……」
リリアーナはつい先ほど、少年の手を握り返したことをすでに後悔していた。
手を握った瞬間、『じゃあしっかり掴まってろよ』と一言だけ言われ、背中に担がれるような体制になると、何のためらいもなく少年は窓から飛び出した。
その後、窓枠や城壁の出っ張り部分をつかみながら、するりするりと城壁を上っていく。
突然のことにリリアーナは恐怖で震え、少年の小さな体を離すことがないよう、ギュッと抱き着くしかなかった。
その状態は、そこそこ広さのある屋根の上に登るまで続いた。
「リリー、お前すっげえビビりなんだな」
下を見ただけで気絶しかけた自分とは違い、怖がる素振りすら見せない少年。
「え、これ私がおかしいんですか?」
「あ、ほら見ろ。あれだ」
「やっぱり話を聞いてくれない……」
恨めしげになりながらも、少年の指さす方向を見る。
それは城の中でも一番高い塔、中は吹き抜けになっており、見張り台としても使われている塔だった。
「見たいものって……もしかしてあれですか?」
「違う違う。あそこから見れるもんだ」
「でもあそこは見張りの兵士以外、基本的に入れてもらえませんよ?」
「そうなんだよな~。俺もさっき行ったら追い返された。というかそんなのよく知ってるな」
「ええ、まあ」
リリアーナは少年の言葉に、ぎこちない笑みを浮かべて曖昧に返す。
彼女にとって城は自分の家、知っていて当然のことだった。
しかし今さら自分が王女であることを伝えて、かしこまった態度になられるのもなぁと考えた結果、そのような返事をすることになった。
「だからばれないよう行く」
「見つかったら怒られちゃいますよ?」
「いいんだよ。怒られてもいいやって思えるくらい見たいんだから」
「怒られても……いいくらい……」
少年の言葉が、妙にリリアーナの心に残る。
「それで、ばれないようにっていうのは一体――」
「中からダメなら外から行く」
「外?」
「外」
「もしかして、また城壁を……」
「……」
少年は何も言わない。
しかし、少年の顔は輝かしい笑顔。
それが答えだった。
「あ、あの、やっぱり私――」
ガシッと、回れ右をしようとしたリリアーナの腕が少年に掴まれる。
「行くぞ!」
「イヤアアアアアア!!」
少女の叫び声が、夜の王城に木霊した。
「うう、もう嫌です……」
半べそかきながらリリアーナは塔の屋根に座っていた。
その隣には、半べそをかかせた原因の少年が座る。
「泣くなよ」
「泣いてません!」
自分より年下の少年に泣かされた、そのことをリリアーナは悔しさから認めることができない。
「それよりほら、見てみろよ」
少年に言われ、目に溜まった涙を拭いて空を見上げる。
そこには美しい満月があった。
雲一つなく、模様までがくっきりと見える月。
いつもより高い場所で見る分、大きく雄大に見える。
しかしそれだけだ。
リリアーナは落胆する。
なんだ、こんなものだったのかと。
実のところ期待していた。
同じ特権階級か、それに近しい身分でありながら、自分とは全く違う考え方をする少年。
その少年が見たいもの、それは一体何なのか。
もしかしたら、自分を変えてくれるような何かに出会えるのではないだろうか?
そんな淡い期待が、心の中で崩れていくのをリリアーナは感じた。
「どこ見てるんだ?」
「え?」
落ち込んでいたリリアーナ顔を、覗き込むように少年が尋ねる。
「どこって……月じゃないんですか?」
「まあ確かに月もきれいだけど、俺が見たかったのはあっち」
そう言って少年が指さしたのは、上ではなく下。
それは小さな光。
月の光には到底かなわない、弱いオレンジ色の光。
だがどこか優しさを感じられるその光は、リリアーナの眼下で無数に広がっていた。
「……きれい」
リリアーナの口から無意識の言葉が漏れる。
彼女が見たのは、見慣れたはずである王都の街の景色。
満月の光が、人々によって灯された火が、夜の王都を輝かせていた。
その輝きは、彼女の視線の先をどこまでも続く。
「すげえだろ? 今日は王族の生誕祭だから街中で火を灯してるんだ。普段は真っ暗な場所でさえも、ああやって明かりで照らされてる」
「あれ全部……街の明かりなんですか?」
「そうだぞ。何日も前からこの日のために準備してさ。灯りだけじゃなくて、祭りのために大勢の人間がここ数日は忙しそうにしてた。かきいれどきだ~って」
「祭り……」
「いろんな種類の屋台がすっげえ並ぶんだ。屋台だけじゃなくて、プロの演奏や演劇も行われて――」
祭りのことを次々と楽しそうに話す少年。
時折、街を指さしながら思い出話を語る。
リリアーナもそれに耳を傾ける。
「あそこらへんで激辛まんじゅうっていうのが売ってあってさ」
「まんじゅうなのに辛いんですか?」
「見世物小屋の魔獣が逃げ出して」
「ええ!?」
「酔っぱらったそいつがゴミ箱に頭から突っ込んで」
「ぶっ!」
リリアーナにとって、少年の言葉一つ一つが街の景色同様に輝く。
自分の知らなかった王都、自分の知らなかった世界、自分の知らなかった楽しみ。
驚き、笑い、疑問、様々な思いに心が揺さぶられる。
話がひと段落着き、リリアーナはもう一度街を見渡す。
知らなかった、城でこんな景色が見れる場所があったなんて。
知らなかった、祭りがそんなにも楽しいものだったなんて。
知らなかった、パーティーの参加者にこんな少年がいたなんて。
それは後悔だった。
見逃していたのではないだろうか?
自分の人生は決められただけのものだと決めつけて、多くの楽しみを、多くの喜びを。
これまでの生活を思い返していたリリアーナ、そんなリリアーナの顔を先ほどのように少年が覗き込む。
「……どうしたんですか?」
「どうだ? いいもん見れただろ」
ニコリ、というよりニヤリと聞こえてきそうな笑顔を、少年はリリアーナに向ける。
その笑顔を見た瞬間、リリアーナは鼓動が速くなるのを感じる。
顔に熱が帯びていくのを自覚できた。
「は、はい……」
思わず顔を逸らしながら、少年の言葉を肯定する。
「どうした?」
「いえ! なんでもありません!!、、、なんでも、、、」
なぜか少年と顔を合わせることができず、鼓動が一向におさまらない。
制御できない自分の変化に戸惑うばかりだった。
「じゃあ俺は見たいもんも見れたし、そろそろ帰るけど。リリーはどうする?」
「私は……もう少しこの景色を見ていたいです」
「わかった。じゃあなリリー」
それだけ言うと、少年はすぐに塔から下りていこうとする。
「待ってください!」
リリアーナの呼び止めに反応し、少年は動きを止める。
「あ、えっと……」
聞きたいことはいくらでもあった。
そもそも、少年の名前すらまだ聞けていない。
しかし、少女の問いはたった一つ。
「あの!……いつか私がお祭りに行くとき、案内してくれませんか?」
「おう、いくらでも案内してやるよ。
――またな」
そう言って少年は笑顔で去っていく。
名前を聞くではなく、素性を聞くでもなく、ただ少女は次の約束を取り付けた。
『いい? リリア、人生の楽しむコツは――
恋をすることよ! 恋をすれば些細な悩みなんてどうでもよくなるわ!』
それはかつて、少女が母から伝えられた言葉。
少女は街を眺めながら、少年の言葉を思い出していく。
最初はただきれいだと感じただけの景色――今はその景色に意味が宿る。
灯りの一つ一つに、人々の営みが感じられる。
そうして最後に思い出すのは『またな』という再開の約束。
少女の顔には自然と笑顔がこぼれていた。
リリーの過去編はこれで終了です。




