理外の存在
戦闘行為において、精神状態は多少なりともパフォーマンスに影響を与える。
それはイースも当然例外ではない。
迷いが晴れ、覚悟を決めたイースの動きは、本人が自覚できるほどキレており、これ以上ないほど思考は冴え渡る。
魔法の精度、威力、発動速度。どれをとっても間違いなく過去最高のでき。
頭で思い浮かべた動きと、実際の動きに数ミリのズレも存在しないと思えるほどの万能感がイースを満たす。
それこそ、決着が着く前から勝利を確信できるほど――
しかしそれは、相手が理外の化け物でなければの話。
「くっ――!」
イースは体勢を崩しながらも、なんとか体を無理やりひねる。
すると先ほどまでイースの頭部が存在していた場所を、イマの足が通り過ぎた。
かかと落としの要領で繰り出された脚部の振り下ろし。
それは床に突き刺さることで、大きな音を立てて穴が空く。
あとほんの少し動きが遅れていれば、イースは自身の頭が破壊された床のようになっていたことを想像し、思わず恐怖を覚える。
実力以上のもの出せているイースだが、それをものともしない力を保持するイマ。
二人の戦いはイースがなんとか致命傷を避けるのに精一杯で、既にイースの体はボロボロ。
イースがメインである速度変化の魔法と身体強化の重ねがけを行い、制御可能なギリギリまで出力を高めているにもかかわらず、イマは当然のようにその動きに対応し、それどころか簡単に上回ってみせる。
「ほら、言ったでしょ? 劣化コピーが勝てるわけないって」
「っ……」
イマは床で転がるイースを見下すように笑い、その実力差を見せつける。
そんなイマが何度かイースに向けて口にしているセリフ――『劣化コピー』。
なぜかこの言葉が、イースの頭に妙に引っかかっていた。
しかしその理由をじっくり考える暇など、イマが与えるはずもない。
「自身を加速させるだけなんて、三流もいいところね」
そう言ってイマは、イースが目で追えないほどの速さでイースとの距離をつめる。
その速さはまるで、空間そのものが加速しているのではないかと感じるほど。
目で追えない以上、取れる手段はひとつ。
イースは己の直感に全てを委ね、本能のままに体を動かす。
この時のイースには、その直感が絶対に当たるという確信があった。
その確信通り、イマが突き出した手はイースの頬をかすめるだけにとどまる。
自身の命がほんの数センチの差で繋がったことに安堵を覚えるイースだったが、突如として腹部に強烈な痛みが走る。
当然それはイマの追撃であり、振り上げられた膝がイースの鳩尾にめり込んでいた。
「かはっ――!」
身体強化による硬化を簡単に突き破る膝蹴りを受け、呼吸困難におちいったイースは倒れ込む。
さらにその倒れ込んだイースを、イマはまるでボールを扱うかのように蹴り飛ばす。
「つぅ――」
それによりイースの体は部屋の壁に勢いよく衝突する。
蹴りを直接受けた右腕はあらぬ方向に曲がっていた。
「ゲホッ――」
胃の中のものが逆流しそうになるのを何とか耐え、悲鳴をあげる体を無理やり動かし、倒れたままの状態でイースはイマへと視線向ける。
そんな苦しみもがいているイースを見て、イマは満足そうに笑っていた。
その笑みは、憎い相手が苦しむ様を心の底から歓喜する類のもの。
「ようやく、虫らしくなったわね。やっぱりあなたたちは、そうやって地べたを這いずっているのがお似合いよ」
理解できない強さ、理解できない感情、理解できない言葉、理解できない正体。
自身の知識と常識が通用しないことで、イースは目の前の女が同じ人間とすら思えない。
せっかく自身の秘密に深く関わる人間が現れたというのに、何もできずここで死ぬのか――
後悔を抱えながらも半ば命を諦め、視線を落としたその時、ふと視界の端で床に転がる人体が映り込む。
それはイースたちが部屋に入った時からそこにある損傷の激しい死体だった。
二度とものを言わなくなったその人間が、一体どんな人物なのか、何を思いながら息を引き取ったのか、イースには知る由もない。
わかるのは、その死がイマによって引き起こされたものであろうことと、自分も数秒後には同じ姿になるということだけ。
死体となった自分の姿を想像してしまうイースだったが、なぜか頭の中に別の光景も浮かび上がる。
それは――
学園で短い間ながらも、共に過ごした友人たちの姿だった。
嫌だ。死にたくない。またみんなと会いたい―――
コクマによって、使い捨てのコマ同然に育てられたイース。
イース自身もかつては、コクマの力になって死ねるなら、いつ死んでも構わないとさえ考えていた。
そんなイースにこの時初めて、強く死を拒否する気持ちが生まれる。
任務のためでしかなかった学園生活は、少年の心に確かな変化を与えていた。
「まだだ、まだやれる……!」
「……嫌な眼ね」
諦めかけていた心が再び奮い立ち、生気を取り戻したイースの眼を見て、イマは憎々しげにつぶやく。
「二度とそんな眼ができないように、頭ごと潰してあげる」
その言葉と共に、イマの魔力と圧が高まっていく。
イースが感知魔法で感じるその魔力は、控えめに言って先程の倍以上。
今まで力の半分も出していなかったことに衝撃を受けるイースだが、もうその心は折れない。
必死にこの場を生き残る術を探す。
とはいえ既にイースは満身創痍であり、あらゆる面で自身を上回るうえ、奥の手すら通用しないイマを相手に有効な手など、そう簡単に思いつくものではない。
イマがその足を一歩前に動かしただけで、信じられないほどの焦りが生まれるイースだが、その助けは思わぬ方向から現れる。
「モールド街のはずれにある教会」
それは透き通るような優しい声だった。
その声にイースとイマの動きが止まる。
特にイマは声を聞いた瞬間、これ以上ないと言うほど、その表情を動揺で塗りつぶす。
イースが声の方へと視線を向けると、そこにいたのはやはり仮面を着けた少年――トーヤ・ヘルトだった。
やはりという言葉が付属するのは、イースはその姿を見るまで、声の主がトーヤであることに確信を持てなかったためである。
「酷く老朽化の進んだ建物で、中に入るとそこは文字通り血の海」
トーヤは言葉を続けながら、身につけている仮面に手をかける。
「その血の海の中心に、赤く染まった君がいたんだ」
いつの間にか、イマは視線をトーヤに向けていた。
そしてトーヤの視線も、仮面越しではあるがイマに向けられている。
「それが僕と君の出会い」
そう言ってトーヤは仮面を外す。
そうしてあらわになったその表情は、特別な相手にしか見せない熱のこもった笑み。
「久しぶりだね、イマ」
「オーヤ………………」
トーヤとイマ、二人の視線が重なった瞬間、まるでそこだけが世界から切り離されたような別空間が生まれる。
イマだけでなく、何も事情がわからないイースも、思わずトーヤの姿を凝視してしまう。
同じ顔、同じ声、同じ姿であるにもかかわらず、イースにはトーヤが全くの別人にしか見えなかった。
頼もしい味方が復活したことによって、イースに生まれたのは歓喜ではなく動揺。
しかしイマの動揺の仕方は、イースのそれを遥かに超える。
「どうして、あなたが――」
イマは戸惑いを一切隠すことなく、震える声で言葉を紡ぐ。
もはやイースのことなど完全に頭から消えていた。
その状況が千載一遇のチャンスであると、同じように動揺していたイースは気づく。
ほんの一瞬、トーヤの視線がイースに向けられたことによって。
『やれ――』
目が合ったのは、コンマ数秒にも満たないわずかな時間。
しかし確かに、イースにはそう聞こえた。
『身体強化×加速魔法 最大出力』
イースは自身の体に魔法の重ねがけを行う。
それこそ限界を超え、骨の軋む音を無視し、その一撃で腕が壊れる覚悟と共に。
「はあああああああ!!!」
勢いよく踏みつけた床が割れ、完全に無防備なイマの背中に拳を叩き込む。
ゴキッ、ガリッ―――そんな嫌な音が耳に届くが、それは殴りつける自身の腕から聞こえる音なのか、イマの体から鳴る音なのか、イースには判断がつかない。
それにそんなことはどうでもよかった。
痛みを無視して腕を振り抜いたことで、イマの体は数メートル先の部屋の壁に叩きつけられる。
手応えは十分。確かなダメージをイマに与えたイースだが、その代償は大きい。
殴りつけた左腕からは血が流れ、全く力も入らず、これでイースの両腕は使いものにならなくなる。
「よくやった、イース」
そんなイースに、讃える言葉をかけながらトーヤが近づく。
それは自分の知らない誰かではなく、イースがよく知るトーヤだった。
「あの、トーヤさん……」
「安心しろ。さっきのは記憶を頼りに演じただけだ」
トーヤはイースの不安を見透かしたように先んじて告げる。
記憶を頼りに――という言葉の意味は理解できなかったイースだが、先ほど頭を抱えて苦しんでいた影響はなさそうだと、ひとまず胸を撫で下ろす。
「気を抜くなよイース。まだなにも終わってないからな」
「……? 一体どういう――」
「っ! イース!!!」
突如として、イースはトーヤに突き飛ばされる。
すると次の瞬間、トーヤの腹部を細い光線状の魔力弾が貫通した。
「え―――?」
一瞬、イースの時が止まる。
突き飛ばされたことで崩れた態勢をなんとか整え、慌ててトーヤのもとへ近づく。
しかし遠目からでも分かるほど、トーヤの腹部は赤く染まり、その染みはどんどん広がっていた。
「ゲホッ」
トーヤは手で口と腹部を抑えるが、指の隙間からおびただしい量の血が流れていく。
イースは何が起きたのか理解できない。
理解できないまま、トーヤは間違いなく致死量を超える血を吐き出し、重力に従って床に倒れる。
開かれたままの瞳からは光が失われ、呼吸も止まっていた。
「トーヤ、さん……」
人の命が失われる瞬間を目にしながらも、イースの頭は現実を受け入れることを拒否する。
ありえない。この人が死ぬはずがない。
理性的な思考を放棄し、そんな考えで埋めつくされていく。
「あら、死んじゃったのね。そっちには色々と聞きたいことがあったのに」
絶望に染まるイースの心を、さらに上書きする声が部屋の中で響く。
イースが振り返ると、そこには無傷で立つイマの姿があった。
「そんな、どうして……」
命を奪う覚悟で、イマに拳を叩きつけたイース。
たとえ死まで至らなかったとしても、その手応えからノーダメージであるはずがなかった。
しかし現に、イマの体に傷はなく、トーヤとイースを見下しながら笑っている。
「ほんと、びっくりさせられたわ。顔も声も、その雰囲気ですらオーヤとまったく一緒なんだもの。でもありえないわよね。オーヤのことは、確かに私がこの手で始末したんだから」
幸せな過去を思い出すように、恍惚とし笑みをイマは浮かべる。
「信頼しきった相手に裏切られて、死の直前まで戸惑いと困惑の表情を浮かべるあの人を、つい思い出してしまったじゃない。ああ、さいっこぉ」
そんなイマの笑みを見て、改めてイースは目の前の女が、何か自分たちとは違う別の生き物に思えた。
決意を固め、死を拒否したイースの心が、『トーヤの死』という事実によって簡単に折れかける。
「良い眼よ。これなら私がわざわざ処分する必要もなさそうね」
手が汚れなくて良かったわ――文字通りの意味でそう告げると、イマはイースに背を向けて歩き出す。
しばらく歩いたイマが立ち止まったのは、床に描かれた魔法陣の上。
「さあ始めましょうか」
その言葉を合図に、イマの魔力が膨れ上がる。
それはイースと戦っていた時の魔力など比べ物にならない。
イースが学園で一度見せてもらった、カナン・ヘルトの魔力総量すらも凌ぐのではないかと感じるほど。
「第1段階――」
はち切れんばかりの魔力が、イマの体から足元の魔法陣へと流れ、魔法陣全体が光り出す。
「第2段階――」
それだけにとどまらず、さらに床全体が魔力を帯びて光り出す。
「最終段階――」
次々と流れだす魔力はついに部屋全体を覆うまで広がる。
天井が、壁が、床が、部屋を構成する全てが光り輝いていた。
その光景を、イースはただ見つめることしかできない。
同時刻 指令部地下 魔力供給室――
部屋に繋がれる10体の獣。
その獣を繋ぐ鎖が次々と外れていき、獣の体に流し込まれていた薬品の供給が止まる。
『グルゥ……』
地を這うような唸り声と共に、獣は目覚めを告げる。
世界を滅ぼす力を持った怪物が、檻から解き放たれようとしていた。