幼少期編 二話
「あれが…化け物?」
初めて見た化け物は、想像していた物の全てのどれにも当てはまらないものだった。
その顔は死にかけの老人のように老け上がり、何故立ち上がれるのか疑問に思う程に身体は朽ちている。
しかし、それでも尚、化け物の体表に浮き出る血管はドクドクと力強く波打っているのが見えた。
身体が熱い。自分の体の心拍数が上がっていくのが分かる。
「ケイコ!ランスを連れて逃げるんだ!」
親父はこちらに振り返ると怒鳴るようにして言い放った。
家族喧嘩でも始まるのかと一瞬思ったが、母さんは親父の言葉に黙って頷く。
母さんが1度部屋に戻ったかと思うと、ものの数秒で部屋を飛び出してくる。
飛び出してきた母さんの手には、親父の銃と非常用の際に持ち出すバッグが握られていた。
母さんは銃だけを親父に向かって投げるように渡し、バッグは自分で背負う。
「また後でな。」
「はい。貴方。」
「ランス。お前が母さんを守るんだぞ。」
母さんと親父がほんの短い会話を交わしたかと思うと、親父は体勢を低くして俺の頭を撫でる。
「うん。」
俺は髪をボサボサにされながら親父の言葉に返事した。
その言葉を聞き取ると、親父は満足した表情を顔に浮かべる。
その次の瞬間には親父は俺の頭から手を離し、不老者の方に向かって走って行った。
「ランス。行くわよ。」
母さんが俺の手を掴んだ。
掴んだその手を通じて、母さんが震えているのが分かった。
俺は母さんに引きずられるようにして親父が向かった方向とは逆の方向に向かって走る。
途中まで親父の背中を目で追いかけていたのだが、それもすぐに見えなくなり、親父がそこにいるという証拠は通路中に響き渡る発砲音だけになった。
俺と母さんは地下に住んでいる住民達と一緒に薄暗い通路を進んでいく。
息を切らしながらも母さんと走っている最中。俺の頭は先程親父に言われた言葉を鍵として、ある日の事を思い返していた。
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「ランス、俺がお前の母さんと初めて会った日は星が見えるくらい真っ暗な夜だった。」
親父はテーブルの椅子に座って母さんの料理を待っている間、俺に話をしてきた。
内容はいつもの惚気話だ。
「今じゃ想像も出来ないくらいに震えててな。まるで丸まったウサギみたいだった。」
「本当?」
「ああ、本当。」
ウサギってあの茶色の毛をした可愛い生き物の事か。
母さんの体のデカさからしてあの小ささにはなれないと思うんだけど…親父が言うなら本当の事なのだろう。
いつもと毛色が違う親父の話に、俺は耳を傾ける。
「足を怪我してたみたいだし、俺が身体を持ち上げようとしたら、お前の母さんなんて言ったと思う?」
「んー、わかんない。」
「『危ないから私を置いて逃げて下さい。』だぞ?危ないも何も、助ける為に危ないとこに来たって言うのにな。だが、俺を何度も拒んでる内に気付いた。この子は死にたがりな訳じゃなく、見ず知らずの俺の命を助けようと思って言ってるんだってな。その時だ。俺が可愛いこの子を守り抜いてやろう。って…アダッ!」
話し込む親父の頭に料理を作り終えた母さんの拳骨が振り下ろされた。
親父はテーブルに頭を擦り付け悶絶している。
顔を赤くした母さんが無情にも2撃目を入れようとした時、俺は親父に声をかけた。
「じゃあ父さんずっと母さんを守ってくれるの?」
母さんの拳が親父の頭の上で止まった。
親父はテーブルから頭を上げると、目に涙を浮かべながら話した。
「勿論。だけどな、ランス。」
「だけど?」
「父さんはケイコとランス。両方を守るぞ。」
親父は真剣な表情で俺を見る。
突然の真剣な表情に少し困惑してしまったが、親父の言葉に、俺は心ので熱くなるような感覚を感じた。
「…うん。」
「ハハ、そう重く考えなくていい。一家の大黒柱として当然の事だ。」
「…そういえば、なんでその時に母さんと結婚しようと思ったの?」
「可愛かったからだ。」
親父がそう話した瞬間には母さんが拳骨を振り下ろしていた。
殴った後、母さんは台所に急いで戻っていく。
いつもならあと1発は殴ってるのに。と不思議に思いながら、俺は耳まで赤くした母さんの後ろ姿を見ていた。
「…ランス。俺が万が一の時はお前が母さんを守るんだぞ。」
「?、分かった。」
テーブルに伏したままの状態で親父は俺に話した。
いきなり何を言い出すのかと疑問に思ったが、俺は親父の言葉に了承する。
この時の親父との会話が、俺の心の中に深く刻み込まれる事となった。
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「はぁっ、はぁっ。」
親父と別れた俺と母さんは長い地下通路を走り抜け、脱出口に辿り着いた。
すでに脱出口には大勢の人が押し掛けている。
地下から地上に上がる為のエレベーターだけがこのシェルターから抜け出せる唯一の方法である。
しかし、重量的に1度に乗れるのは10人が良い所だ。
俺と母さんは水道から近い場所に部屋を構えていたという事もあり、ほぼ最後尾に近い。
だいぶ時間がいる筈だ。
5分は経っただろうか。
最初は全員律儀に順番でエレベーターに乗り込んでいたが、銃声が近付いてくると共に空気が変わり始めた。
ほぼ最後尾の俺と母さんでは巻き込まれる心配はないが、どうやらどちらが先にエレベーターに乗るかで争っているらしい。
順番を抜かそうとした男を怒鳴りつける声も聞こえ始めた。
暴動が起きるにつれ、エレベーターの稼働速度も遅くなる。
銃声が段々と大きくなっていく恐怖に、暴動は勢いを増していく。
もうすでに足止めをしている親父達の姿が視認できる程に追い込まれていた。
「ランス。貴方は先に乗りなさい。子供1人だったら、みんなも文句は言わないと思うわ。」
母さんはそう言うと、手を離そうと力を緩める。
俺は離そうとした母さんの手をぎゅっと強く握り締めた。
「ランス!」
「僕も父さんを待つよ。」
母さんは俺の言葉に驚いた表情を浮かべた。
自分の意図を我が子に見透かされた事に驚いたのだろう。
母さんは少しの間身体を硬直させていたが、すぐ意識を取り戻した。
母さんは俺の手を無理矢理引き剝がし、俺の顔が見えるようにしゃがみ込む。
「危険なの。ランス。」
「父さんと約束したんだよ。母さんを守るって。」
自分がここに残る為の、なんの言い訳にもならない言葉を俺は母さんに向けて話した。
父さんとの約束というだけ。
しかし、それ以上に残る理由になる言葉は1つとして無かった。
「…言っても無駄よね。あの人の子だもの…。」
俺に聞こえるか聞こえないかくらいの声で母さんは呟いた。
母さんは俺をしゃがんだまま強く抱き締める。
突然の行動に、俺は悲しくないのに涙が堪え上がってくるのを感じた。
「あともう少しだけ待ってね。大丈夫だから。」
母さんは俺から身体を離し、立ち上がると、そう話した。
残っている人も俺と母さんを入れて20人程。
親父達は40mも無いところまで迫ってきている。
「マリベル!ドーズ!もう弾が無いんだろ!みんなの為に生き残れ!」
「…っ!!…分かりました!御武運を!」
「頑張ってくれよ!」
不老者と戦っていた女性と男性の2人が親父の声に反応してエレベーターに走る。
食い止めている人数も、もう8人程しかいない。
しかし、不老者達は無限に居るのかと錯覚する程に湧き続けている。
弾の数は無限ではない。
1人、また1人と武器を無くした彼等がエレベーターに向かっていく。
その彼等を先にエレベーターに乗せてでも、俺と母さんは残り続ける。
全ては親父を待つためだ。
「隊長…!すみません!」
その声と同時に、不老者を足止めする人間は親父だけになった。
何故、他のみんなとは違いまだ親父が戦えているのか。
その理由はすぐに分かった。
親父は大きい図体を活かし、身体のそこら中に弾薬を潜ませていて、身体の筋力をフルに使い、威力の高い大型銃で的確に不老者と戦っていたのだと。
しかし、長く戦えるように考えた親父は、皮肉にも1人取り残される形になってしまった。
「2人共!乗って!」
武装した男に手を引かれ、俺と母さんはエレベーターに乗り込んだ。
そして、親父以外の全員がエレベーターに乗り込むと、問題が発生した。
エレベーター内に居るのは9人。
先程まで10人乗せても上がっていたエレベーターが何故か重量オーバーで動かない。
「!!、早く!全員、装備をエレベーターから降ろせ!」
男の声がエレベーター内で響き渡り、武装した男達が言葉を理解して行動に移るまでの数秒。
その数秒が遅すぎた。
20m程まで後退していた親父に、不老者の仲間を縦にして弾幕を突破した。
そもそも、大人数でようやく引き止めていたものを親父1人で守る事など出来る訳が無かったのだ。
確かに、1人で数十秒の間粘った親父は驚異的とも言えるのだが、所詮そこまでの事。
弾幕を抜けた1体は、親父の肩に向かってかぶりつく。
親父は唸り声を上げた。
親父の肩にしっかりと歯を食い込ませていた不老者1体の身体が銃弾を受け、後方に吹っ飛んで親父から離れる。
しかし、その1発を終わりとして、親父は手から銃を落とした。
親父が唸り声を上げた直後だったか。
装備に意識を持っていかれている男達と、親父の今まで1度も聞いた事もない叫ぶ声に気圧され、少しの間意識を離したエレベーター内の全員からいとも容易く母さんが飛び出る事に成功する。
手の温もりが無くなり、意識を取り戻した直後には母さんはすでに数歩では埋められない程の差を俺達から広げていた。
「母さん!!」
俺の叫び声はエレベーターの動作音によってかき消された。
ボタンはすでに押しており、持ち運び可能な重量という事をエレベーターが自動で認知して動き出す。
「父さん!!母さんを…!」
俺の声はまるで電源を切られたかのように途切れる。
エレベーターが上昇を開始しようとした時、最後に見た光景は、親父と母さんがエレベーターから10m程離れた場所で抱き合っているところだった。
母さんも、親父も。どちらも互いを逃がさないといった風に、お互いの身体をと唇を合わせていた。
「……なんで?約束したじゃないか!!」
「おい!君まで行くんじゃない!」
「離して!」
「誰か!一緒にこの子を押さえてくれ!」
まだ上がり切らないエレベーターから外に飛び出そうとした俺を、男達が引き止める。
俺の声が聞こえたか聞こえなかったかは分からない。
親父と母さんは、迫りくる不老者に目を向ける事なく、ずっと一緒だった。
そして、エレベーターは完全に上へと進み、親父と母さんの姿は消える。
抜け出そうと必死にもがいていた俺の体は、両親の姿が見えなくなると共に静止した。
「……僕は守ってくれないの?」
そんな一言が俺の口から漏れ出た。
目からは意図せずに涙が流れる。
俺が言い表せない気持ちを声に上げようとした時。
エレベーターは上昇を止め、その扉を開けた。
今まで見た事のない程の強い光がエレベーター内に差し込んでくる。
その光を見た俺は、先程までの感情が吹っ飛んだ。
ああ、これが外なんだ。
親父と母さんが産まれ、知り合った場所。
ただ、それだけが頭に浮かんだ。
辺り一面、巨大な塔のような物がひしめき合い、空中には塵のような物が舞っていて遠くを見通す事が出来ない。
…空気を吸い込むと喉が乾く。
俺の体は吸い寄せられるようにしてエレベーター内から引きずり出される。
そして、俺は初めての地上の地面を踏み締めた。