プロローグ
――――悪女の条件。
「まあ、なんてこと…っ」
着飾った貴族が集う賑やかな夜会で、不意に悲壮な声が上がった。ホールは、一時静寂に包まれる。
その声の主が、国内随一の権力を誇るド・シルヴァ公爵家令嬢ディアナ・アルゼ・ド・シルヴァだったのだから、尚更だ。
眉根をきゅうっと寄せ、両手は胸の前で頼りなさげに握り込まれている。
けぶるような睫毛に縁取られた琥珀色の大きな双眸は、涙で潤み、華奢な身体を震わせる姿は、否応なしに見るものの庇護欲をかきたてた。
「……どうしましょう、」
漏れる声は、鈴の鳴るような音色だ。
細いながらに豊満な胸と、赤い唇は色気を醸し出し、それでいてまだ17である幼さを残す顔立ちは、少女と女性の間での独特の魅力を放っていた。
結われた蜂蜜色の髪の毛は、絶世の美人であった現王の妹である彼女の母を想起させ、また彼女自身も着飾った貴族の中でさえ群を抜いて美しかった。
誰もが見とれる美貌。
しかし。彼女には、人として大事なものがなかった。
「あなたのせいで、わたくし、お洋服を汚してしまいましたわ」
染みひとつない若緑色のドレスを着ていながら、彼女は言う。白魚のような手をひらめかせると、まるで羽根を払うような軽やかさで、机の上の誰のものとも知れないグラスを床へと落とした。
「私に恥をかかせて、貴女、責任とれますの?」
「え、……?」
ーーー責任を取れ。そう彼女に叩きつけられた言葉を、呆然と聞く少女がいた。
床に座り込む少女にとって、そのグラスは、とてもゆっくりと自分をめがけて落ちてくるように思えた。
刹那。
目の前でガラスが砕け散る音をきいても、少女には自分に何が起きているのか理解ができなかった。
少女の名は、メリー・スス・サミラ。
毛足の長い絨毯に座り込む彼女の桃色のドレスは、ブルーのワインで汚れて、紫色に変色してしまっている。
そう。ディアナは、言った。
「あなたのせいで、わたくし、(あなたの)お洋服を汚(すという、はしたないまねを)してしまいましたわ」
未だ呆然としていたメリーは、顔に滴るものが口元まで垂れてきたその時初めて、先程割れたワイングラスの中身が自分にかかっていたことを知った。
間違いなく、2度もディアナのせいでワインに濡れたメリーは、泣きそうになっている目の前の人物を見て、思った。
いや、このホールの、誰もが思っていた。
――― 流石、公爵家の悪女。
―――噂に聞く性格の悪さだと。
*
――私には、目的がある。
そして、それを達成するための目標もある。
そのためには、いくら陥れられようと、虐げられようと、裏で悪口言われようと、嫌われようと、私は耐えねばならないのだ。
いや、むしろ、私の目標はそうなることであって、嫌われれば嫌われるほど喜ばなくてはならない。
私の悪い噂が広まれば広まるほど、私の目的は両手を広げて近寄ってくるはずなのだ。
……けど、やっぱ、ちょっと…落ち込むよね。
「……ディアナ様。どうか、気を落とさずに」
侍女が、椅子に座って頭を抱える私の膝へ、優しく手を置いた。
机の上には、分厚いノートが開かれ、そこには昨日の日付と"サミラ子爵令嬢 メリー・スス・サミラ"と記されている。
いかにも。昨日の夜会で、悪女にワインをぶっかけられた可哀想なご令嬢だ。そのときの状況も事細かくノートには記述されていた。
「大丈夫です。ディアナ様は、こんなに罪の意識に苛まれ、後々謝罪をするため、このようにノートに記録までなさっているではありませんか」
「サラ…っ」
優しい言葉とその包容力に感極まって、私は彼女の名前を呼んだ。
「致し方ありませんわ。ディアナ様には、重大な使命がありますもの。けれど、私たちこの屋敷の使用人はディアナ様の本当のお姿を知っています。ですから、どうか」
3つ年上のサラは、慈愛に満ちた眼差しで私に語りかける。
おさげにした銀髪に、黒い瞳のサラ。侍女にしておくにはもったいないくらい、可愛らしい顔立ちをしている。。
小さい頃から変わっていないような愛らしい童顔の彼女を見て、いくらか心が穏やかになった。
「…そうよね、そうよね、私にはあなたたちがいるものね、分かってくれてるものね、」
半ば、自分に言い聞かせる。
サラは、満面の笑みで頷いた。
「ええ、もちろんでございます! いつもディアナ様が王子との会食のときは、体調が優れないふりをされることも、時々夜中にクッキーをくすねることも、」
「………え、」
いきなり何を。
「割った花瓶を父上である当主のせいにされたことも、同じ枕でないと不安で寝れないことも、全て存じ上げております」
「…………」
慰めてくれていたはずなのに、いつの間にか、私は更に心にダメージを受けていた。
なぜ、知られている。誰にもばれていないと思っていたのに! いや、会食の件は、ちょっと怪しまれてるかもとは思ってたけど、枕のことまで知られてるなんて!
「あら、ディアナ様? ますます陰鬱になられて!」
サラは、私と一緒に育ったようなもので、二人しかいない大事な幼なじみの一人である。故に、私に対する発言なども、全く遠慮がない。それに助けられるときもあるが、今は優しく励まして欲しかった。切実に。
10歳のときから着々と進めてきた計画のおかげで、7年経った今では、私に権力目当て以外で近づいてくる者は限られている。
社交界で友達?
そんなの1人しかいないわよ!!
「ディアナ様。目的のためです。強くなって下さい」
サラは、私を諭すように言う。
けど。
「でも! 私だって! 悪女やるの、つらいのよッ!!」
嘆いた。ら、思わず目から涙が零れた。
「まあまあ…、」
サラは困ったように笑って、私の目元をシルクのハンカチで優しく拭った。でも、次から次から零れる雫は止まることを知らなかった。
―――そう。私は、社交界で悪女と名高いディアナ・アルゼ・ド・シルヴァなのだ。
国内一と呼び声の高い美貌を笠に着て、公爵家の権力を振りかざし、我が儘でやりたい放題、他人を蹴落とし、男を弄び、女をいびって喜ぶ悪女。
…誰がだっっ!!
失礼すぎる。そんな人をまるで鬼か何かのように。けれど、そう勘違いさせるような発言をしたのは私だ。 いや、発言だけではない。確かに、女の子をわざと転かしたこともある。心の中で平謝りである。男の人をこっぴどくフったりもした。心の中では土下座である。し、知らないでしょうけど。知らないでしょうけど!
「……うう、もういやー! あれもこれも、バカ王子のせいなんだからぁぁあ!!」
「誰がバカ王子だって?」
「……!」
突然、叫ぶ私の耳に、とろけるような美声が舞い込んだ。
常人なら腰砕けになるそれも、私にとっては悪魔の囁きだ。
身体中の毛穴から、冷や汗が噴き出すのがわかる。
「エリオット、様」
ぴたりと止まった涙。
間違いなくこの声は、私の婚約者エリオットのものである。
わかる、見なくてもわかる。わかるけど、見ないともっと怖い目にあうのもわかる。
恐る恐る上を見あげれば、スカイブルーの瞳が冷え冷えとこちらを見下ろしていた。
怖ぇぇえぇえええ!!!
「ねえ、ディアナ? もう一度言ってごらんよ」
何故か、にこりと優しく問いかけてはいるけど、目が笑ってない。笑ってないよ。
「な、ななななんでもありませんわエリオット第一王子様。やだな、おほほ、おほほほほほ」
「バカ笑いはやめてよ」
「すみません」
即答した。すみません。
すると、エリオットは瞳を不機嫌そうに揺らめかせた。
…え、なんで。
私、今すごい素早く謝ったじゃん! なんかした!?
嫌な予感がして、慌てて周囲に視線を走らせるけど、広い部屋には誰もいなかった。
サラぁあぁあああ!! 私を売ったなぁぁあぁぁああ!
そもそもいつの間にこいつを部屋へいれたっ!
「きみ、またやってくれたんだってね」
「ひぃ…っ」
ぐい、と、エリオットはその端正な顔を寄せてきた。
美しく均衡のとれた顔立ちは、まさに城下で歌われるように、まるで神様が一つずつ完璧にパーツを作って、配置したかのようだ。
力強いイケメンというよりは、儚い美少年、という印象が強いが、私を囲うその腕には、一切無駄のない逞しい筋肉がついていることを、私は知っている。
「また、僕のところに苦情がきたよ。何故、きみと婚約などしているのか、と」
大きな瞳は澄んでいて、スカイブルーの色味が、相手に爽やかな印象を与える。
それが、至近距離で射抜くように私の目をのぞき込んでいた。
すべてを見透かそうとするその瞳に、私は無心を保とうとして、それでも、にやけそうになって、もう一度気を引き締めた。
ディアナ。そう、形のよい薄い唇が動く。
「……そんなに、僕と結婚するのがいやか」
「嫌ですっ!」
そう言えたら、どんなに楽か。
しかし、私は自分の立場をきちんと理解していた。そう、私は賢い女だった。つまり、自分の命が風前の灯火。
「……な、なんのことだか分かりかねます」
「……。」
「……お、おほほ、」
「……まあ、いいけど。言っておくけど、きみが何をしようと、婚約を解消することなんてできないから」
「そんな!」
「………。」
「(はっ!)…ごほごほ! なんでもありませんわ!」
「…っち、また来る。」
不機嫌さを隠そうともしない声音とオーラでエリオットは言うと、私を睨みながら部屋を去って行った。
てか、舌打ちしなかったか? あいつ。王族の高貴な血が流れているはずなのに、なんてヤツだろう。
そんなに私が嫌いで不機嫌になるくらいなら、わざわざ来なきゃいいのにと思う。怖いから言わないけど。
本当になんで部屋に来たんだ?
ヤツの行動は理解に苦しむ。
溜め息をついて、私は窓辺に近づいた。そこからは、颯爽と馬に跨るエリオットが見えた。
あれだけを言いに来たのだろうか。なんてヒマなヤツだ。
―――何故、あんな女と婚約などしているのか。
エリオットが口にした言葉を思い出す。思わず笑いがこみ上げた。
「もうちょっとだ」
あと少しで、私の目的は達成される。
ーーーだから、私は悪女なのだ。