1−1
「私と恋仲になって、そして心中して?」
ここなが微笑みながら告げると、
「はぁ?」
目の前の男は、心底不可解そうな顔をした。
ここなの通勤経路である地下道。そこにその男がいた。
あまり人が通らないその地下道では、近所の小学生が授業で描いたという絵が、不気味な笑顔を壁一面に浮かべている。薄気味悪いけれども、その趣味の悪さが心地よくて、ここなは気に入っていた。
そんな場所に突然現れた異物。その男は、ダンボールを地面に敷き、その上に面白くもなさそうに座っていた。荷物は小さな鞄が一つだけ。どう考えても、ただのホームレスのその人から、ここなは目が離せなくなった。
ホームレスという言葉からここなが連想するよりもこぎれいで、若くて、何よりも整った顔立ちの男。一言で言うと、割とタイプの。
立ち止まり、上から下まで眺める。
「おねーさん、こんな夜中に、こんな暗いところで、こんな怪しい人じっと見てるとか、危ないよ?」
その男性は、ここなに向かって呆れたように言った。
ひそめられた眉と、皮肉っぽく歪められた口元。
自分のことなのに。自分のことをぽーんと突き放した言い方。
その瞬間、この人以外、考えられなくなった。
その日はそのまま立ち去ったけれども、ここなの心はあの日以来、あの男の元に置きっぱなしだ。
「おねーさん、襲われるってば」
もう三日目になるやり取りに、男は呆れたように告げた。
三日間、男は変わらずそこに座っていた。何かを諦めたように、何もせず。
「あなたに?」
三日目、初めてその男に言葉を返す。
男は、声が返って来たことに少しだけ意外そうな顔をして、
「いや、俺は襲わないけど。一般論として」
もっと明るい道を通りなよ、なんて付け足した。
「あなたは、ここに住んでいるの?」
「住んでるっていうか、一時的な居住地?」
「これからも、ここにいるの?」
「ずっとかどうかは、わからないけど」
地下道の灯が、かちかちと点滅する。
「ねぇ、それなら」
ここなは微笑み、
「うちに住まない?」
「なんでそうなる」
即、つっこまれた。
「おねーさん、危ないよー。それ、本当に、襲われるよ」
男は怒ったような顔をする。
「父親みたいね」
微笑んだまま、首を傾げる。
「私、父親いないから想像だけど」
男は困ったような顔をした。
「なんでそういうことを今言う」
小さく呟かれた言葉に、ここなは笑う。良い人そうだ。
「今日のところは、大目に見てあげる。考えといてね」
それだけいうと、男の返事も待たず、家に向かって歩き出した。
「え、なんで俺が譲歩された形なの?」
背後で男が呟くのが聞こえた。
次の日は仕事が休みだったので、あの地下道は通らなかった。
その次の日には、男はそこにはいなかった。
逃げられた。
直感的に思った。
仕方ないか、と諦めて笑う。運命の人だと、思ったのだけれども。
かちかちかち、と灯が点滅する。
切れてしまう前にここを立ち去ろうと、足を速める。怖くはない。しかし、ちかちかと点滅する灯は生理的に気持ちがいいものではない。
点滅する灯に背を押されるようにして足早に階段に向かうと、しゃーっと背後から音がする。聞いたことはあるけれども、すぐになにかはわからない音。
なんだろう? なんだっけな、この音? 確かに聞いたことがあるのだけれども。確認するために振り返ろうとした瞬間、
「やぁっ」
突き飛ばされる。地面に体を打ち付ける。
「いった」
体を起こした時には、肩にかけたはずの鞄がない。
ここなの鞄をもった自転車が、地下道のスロープをダッシュで上っていく。
これは、つまり、
「ひったくりっ!」
思わず大きな声がでた。
地下道に、その声は響く。反響する。
叫んだところで自転車相手に今更追いつけるわけもなく、
「お財布! あ、ケータイも!」
てんぱりながら鞄の中身を次々に叫ぶ。
「っていうか家の鍵! 帰れないっ!」
「うひゃっ」
ここなの叫びをかき消すように、間抜けな声がした。
「え?」
派手な音を立てて自転車が地上から降ってくる。
慌ててここなは、階段から少し距離をとった。
遅れて、自転車に乗ったひったくり犯が落下。
「大丈夫ですかー?」
今ひとつ、緊張感のない声とともに誰かが降りてくる。
「私の鞄っ!」
ここなの鞄を片手に持って。
「ああ、はい、どうぞ」
あっけらかんと言いながら、その人がここなに向かって鞄を放る。慌ててそれをキャッチする。
降りて来た人物は、自転車と共に地面に伏しているひったくり犯の背中に、なんのためらいもなく片足をのせると、ぐりぐりと地面に押し付けだした。
「うげ」
潰れた蛙みたいな音がした。
「大丈夫でした?」
足はぐりぐりさせながらも、のんきなその声に、
「あ、はい、ありがとうございます」
鞄の中身を確認していたここなは慌てて、微笑むとお礼をいい、
「あ」
顔を見て、固まった。
「ああ、いつものおねーさん。だから、暗い道は危ないって言ったでしょ?」
件のホームレスの男性が、あきれたように笑いながら言った。
「ここから、立ち去ったんじゃ」
「電気切れそうだから違う場所探してたんだけど、見つからなかったから戻って来たとこ。このちかちか、日に日にうざくなってくんだよねー」
あっけらかんとその人はいう。
彼の足元で、ひったくり犯がうめく。
彼は、さもいま思いだしたかのようにひったくり犯に視線を落とし、
「あー、これ、どうします? 俺、個人的に警察に関わりたくないんで、警察に突き出すならおねーさん一人でやって欲しいんだけど」
ここなは顔を地面に押し付けられ、うめくひったくり犯をしばらく見つめ、
「別にいいです。鞄戻って来たなら、面倒だし」
あっさりと言葉を返した。
「他に被害者がでるとか、そういうの、私には関係ないし」
言いながら、鞄をあけ財布を取り出す。
「はい」
三枚の諭吉をひったくり犯の顔の前に差し出す。
「はあ? バカにしぐえふ」
怒ったようにひったくり犯が何か言いかけたが、背中にさらに重さが加わって言いきれなかった。
「ううん。これあげるから、ここじゃないところでひったくりしてね、ってこと。私、この道が近道だから変えたくないの」
小首を傾げてここなは言う。
「……変なやつ」
ひったくり犯が小さく呟いた。
それを承諾と受け取り、ここなはひったくり犯の尻ポケットにお札を突っ込む。
「離してあげてください」
言うと、男は素直に足をあげた。
ひったくり犯が、
「もうこねぇよ、こんな変なとこ!」
捨て台詞のようなものを残し、フレームのひしゃげた自転車とともによろよろとさっていった。
「いいの?」
その間抜けな後ろ姿を見ながら、男が尋ねてくる。
「ええ」
ここなは頷き、
「ところで!」
ひらりと身を翻し、男の両手を掴むと、上目遣いで微笑む。
「お礼がしたいのでうちにいらっしゃいませんか?」
少し首を傾げて、瞳を潤ませて、自分が一番可愛い角度に瞬時に持っていく。
「いやいやいや」
男は早口で言うと、首を光速で横に振る。
「なんでそうなるの?」
「だってせっかく助けて頂いたのですし」
「いや、お礼とかいいから」
「恩人ですから! きちんとお礼をしないと」
「いや本当いいから」
「すぐそこですから」
「そうじゃなくて」
「うちに来ないと大声だしますよ? 変態がいるきゃぁ! って」
「ええっ、恩人脅すのー?」
男が困ったように言う。
「ええ、私、目的のためなら手段は選ばないんです」
言って地上の方を見上げ、
「あ、おまわりさーん、このひとぉ」
見えないおまわりさんに向かって声を上げる。
「行きます! 行かせて頂きます!」
男がそれを遮るぐらいの大声で言った。
「そう、じゃあ、行きましょう」
あっさりとここなは微笑むと、男の腕に両手を絡め、軽い足取りで家に向かった。