第二章 ・・・ 2
―――心労の原因とか心配事とかって、なんでこんなに立て続けに起こるんだろう。
今日は一日中激しい雨が降っていて、グラウンドが使えない。体育館を予約していたところだけの練習だ。バレーはもともと無かったし、俺は久しぶりに暇を持て余していた。
暇だと困る。いろんな想いがよぎって困る。
だけど、体を休めることができるから、それはそれで良い。好都合だ。正直今日もテニスをすると、完全に肩がやられる不安があった。
(やっぱりフォームが悪いんだろうなー)
そんなことも考えながら、相変わらず教室で時間を潰していた。iPodで音楽を聴く。
吹き飛ばせ!闘え!
立ち止まるな!叫べ!
パンク系でそんなシャウトがバックに聴こえる。主旋律では“辛くなったら逃げちまえ”とか歌っていた。
どっちだよ、と突っ込みたい。昨日興味本位で入れた曲だった。はやまったな。
そんなことを考えていると、ガラッと教室の扉が開かれた。玲華か?と思ったけど違った。世羅だった。
「神崎、ちょっといいか?」
意外な人物に少しだけ身構える。世羅とはあまり会話らしい会話をしていない。玲華とよく話しているのは聞いているが、俺と玲華が話しているときは、きまって黙っていたから。
初めて部室に行った日以来かもしれない。俺は嫌われているんだろうな。
「珍しいな、世羅一人か?」
「おまえの無礼には慣れたと思ったがな…」
ため息と同時に世羅は声を吐き出した。俺はわずかに眉をしかめる。
(ああ…)
そしてワンテンポ遅れて世羅の言いたいことがわかった。
「呼び捨てムカつく?」
「玲華は気にしてないようだから、それに私がとやかく言うつもりはないが……私には馴れ馴れしく接せられる理由がない」
「っていうか…玲華の場合は名字が呼びにくいから。世羅……あんたは名前の方がインパクトが強くて、つい」
「あんたと呼ぶ方が礼儀だと思っているのも、激しく勘違いだな」
世羅とは相性が合わない。口を開くと結局こんな言い合いだ。玲華とも喧嘩っぽくなってしまうけど、はっきり言ってくれるだけいい。分かりやすいのだ。
だが世羅は真意が読めなくて先に進まない。
「おまえ、って言うのはどうなんだよ?………つーか、じゃなくて、何の用?」
イヤホンを外しながら訊くと、睨むように見据えてきた。
「事件のことだ。なにか思い出したか?」
そのことか、と俺はため息をつきそうになったけど呑み込んだ。
玲華が先に哀しみの表情をみせたけど、世羅はいつも淡々としていて、だから気にしてないと思っていた。そんなこと1ミリも思うべきではなかったのだ、と気づく。いつだって俺は気づくのが遅い。
この話は変わらず目の前が暗くなる。当たり前だった。人がひとり死んでいるのだから。
「いや、まえ玲華に言った情報ぐらいで…思い出したことはなにも…」
「玲華に言った情報?」
聞いてないのか?と俺は愕然とした。真っ先に報告しているものだと思っていた。言わなかった理由でもあるのだろうか。……言えなかった?
「なんのことだ?」
「………玲華に聞けよ」
「言え。あの人は浅霧家の人だ」
「最初に見切りをつけたのはおまえだろ?俺は玲華に頼まれたんだよ!」
みっともなく俺はうろたえながら立ち上がった。ガタッと木の椅子が鳴った。
玲華の狙いがわからない内は言わない方がいいのだろう。
(違う。ただ俺が二度も言いたくなかっただけだ)
「わかった、玲華に聞こう。しかし大きな口を叩いても結局なんの役にもたってないな。あれから何日が過ぎたと思う?球技大会が終われば1ヶ月だ」
「仕方ないだろっ!実際見たことが少ないんだから!」
「それだけとは思えないな。おまえにとっては暗い記憶だ。すべて忘れて日常に戻りたくなる気持ちもわからんでもない。だが私にとっては…」
一旦世羅は言葉を切った。目に深い怒りがよぎっている。
「………私にとっては唯一無二の存在だったんだ」
憎悪と悲哀。それは時間が経っても薄れることはなく、それよりさらに深く刻まれているようだった。
あまりに深い負の感情に触れて俺は息を呑んだ。
「どうせ玲華に認められて、女にちやほやされて、さぞや愉しい毎日だったんだろうな」
「てめえ!」
俺はカッとなった。我を忘れて世羅の腕を掴み、力ずくで窓際に押しつける。
いくら許せないことがあったって、悲しかったとしても…そこまで言われるいわれはないはずだ。心外だ。なにも知らないくせに!
「人の気も知らねえで、勝手なことばっか言ってんなよ!全部一気にできねえってんのはわかってんだよ、だからひとつずつやってんだろ!」
怒りにまかせて叫んだけど、だから待ってくれとだけは言えなかった。警告が鳴ったから、そんなことは言うべきでないと。
待てるはずないよな。一日だって一秒だって早く、犯人を取っ捕まえてやりたいんだろう。それはわかるから。
「は、離せ…」
俺のわずかに下の方から弱い声が聴こえた。世羅が震えていた。先ほどまでの強気な彼女はそこにはいなかった。
(トラウマあるって…)
こんなときになってやっと俺は玲華の言葉を思い出した。はっとなって腕を離す。
「あ…悪い…」
綾小路がしたこととはまったく意味は違う。だけど男が力任せに女の動きを封じるということでは同じだった。
最低だ。勝ち気でも女だ。長身と言われていても俺より低い。
「悪い、俺……」
言葉を封じるように俺の頬をばしっと平手で殴った。睨む目に涙が滲む。
それを見るとなにも言えなくなった。どうせ謝罪の次に出てくる言葉は、言い訳とか戯れ言とかなんだ。言えなくていい。苦しい。息苦しさを感じる。
「やはり……おまえはキライだ」
ぼそりと言い残して世羅は教室から出ていった。しばらく頬の痛みは消えなかった。
忘れていたわけじゃない。事件のこと。今でもあの場所には行けない。
(もう、どうして良いかわからないんだ)
苦しい想いをしてあの場所に行って、本当に思い出せるのかわからない。思い出せたとして、犯人検挙に繋がる事実があるかも不明だ。
(俺が狙われたら早いのに)
おとり、という言葉が浮かんだ。でも犯人は俺の存在に気づいてないと思う。そもそも探偵に護衛してもらう必要なんてないのだ。
(探偵、か…)
久保田と話がしたいな。
そう思って俺は教室を出た。
いまもどこかから見ているはずだ。気づいたらいつの間にか、感じていた視線が慣れたせいか感じなくなっている、けど…たぶん。
スコール並みに振る大雨で、今日も気配がかき消されていて自信がないけど、きっといる。
俺から連絡するすべがないことに、今更気づくのもどうかと思うけど。
俺は学校の外に出ると、人気のない場所を選んで声を張り上げた。
「いるんだろ?出てこいよ!」
しばらく辺りを見回したがなんの変化もない。聴こえるのは雨の音のみ。いなかったらどうしよう。恥ずかしい。
「話があるんだけど!」
焦りながら雨に負けないように再び叫ぶ。しーん…。
どうしよう、もう一度叫ぶ勇気がない。心が折れる。
もしかしたら、あまりに何にもないから……もうやめてたりして。
(事件解決までって言ってたよな…確か)
期限のことを思い出す。無視されてるのか、本当にいないのか、確かめるにはどうしたらいいんだろう。
(俺の命が危なくなれば?)
どうしようもなくアホな考えをしてる、ってことはわかってる。だけど俺の頭には、もうそれしか残されていなかった。一度思いついた思考はなかなか離れてはくれない。
そのまま、ふらふらと大通りに出る。歩道側は赤信号。通行を許された車が横をなんの躊躇もなく走りすぎる。
やってはいけないことをする気持ちになる。すごくどきどきしている。鼓動がうるさい。
いない可能性もあるのになにをしてるんだ俺は。 そう思いながらも足が動いていた。
「なにやってんだ!」
すごい焦ったような長いクラクションと、激しい怒声が耳に届いた。
それから支えていた足が宙に浮いて、後ろに体重が傾いた。次に右肩に感じた衝撃と冷たい雨のシャワー。
なんだいるじゃん。
後ろで俺の体を支えながら、一緒に倒れ込んだ男の顔も見ずに俺はそう思った。
やっぱりいるんじゃん。
「おまえアホか!なにを考えてんだ!」
体勢を整えながら後ろを見ると、つかの間雨に触れただけなのに、すでにびしょ濡れの久保田がいた。あ、眼鏡も飛んでる。
「なに笑ってんだよ」
呆れた口調で久保田がそう言って、初めて自分の顔が緩んでいることに気づいた。先に横に落ちた傘を掴んで、眼鏡と傘を拾っている久保田の上に掲げた。
周囲がざわついてこちらを見ていたが、信号が青に変わると、もう意識はこちらを離れていて、散り散りに去っていった。
それでいい。それぞれ前を行けば良い。
「呼び掛けても来ねえんだもん」
すっくと立ち上がる久保田を待って、俺は言った。
「だからといってこんなことするなよ」
「仕方ねえだろ?なんの連絡先も教えないから……なんで一回目で出てこないんだよ」
「教えようとしたけど逃げただろうが!最初に!」
あ、そうだった。今更思い出した。
久保田は、呼ばれてホイホイ出てきたら護衛にならねえんだよ、と言って眼鏡をかけずにジーンズのポケットに押し込んだ。
「悪い、壊れた?」
「いや、いい。ただの変装用だから」
なんのための変装なのかわからない。だけど確かに眼鏡を外した久保田は印象が違っていた。五歳くらい若返った。俺がまじまじと久保田を見ていると、やつは苦笑しながら言った。
「来いよ。話あんだろ?」
なんか印象とか喋り方とか一致しない男だけど、今が本当のこいつなんじゃないかと漠然と思った。
* * *
近くに車を停めてるっていうことで、俺をコンパクトカーに載せて久保田は移動した。
濡れた服で乗るのは一瞬ためらわれたけど、そんな俺を見て気にするな、と久保田は言った。確かに車内はお世辞にも綺麗とは言えなかったから、気にせず乗り込んだ。
それからどこに行くのか聞いたら、事務所だ、と答えた。
「濡れたまま帰せないだろ」
「女にもそう言って口説くの?」
俺がそんなことを返したら、久保田はすごく嫌な顔をした。
「生意気なこと言ってんじゃない」
「照れてんの?」
「うるさい。少しモテてそっち方面が開花したのか?」
「なんで知ってんだよ」
不機嫌丸出しで答えてから、ふと新しい可能性に気づいた。
「まさか発信器だけじゃなく、盗聴器までつけてんのか?」
「どこにそんなん仕掛ける余裕があったんだよ」
俺の突飛な考えがよほど可笑しかったのか、久保田は肩を揺らすほど笑いやがった。運転に集中しろよ。おい。
「で?初めて告白された感想は?」
「別に初めてじゃねえし」
「やっぱ生意気ー」
「……って、こんなくだらない話をしたかったんじゃなくて」
まずい、久保田のペースに巻き込まれてる。そう気づいて話を戻そうとすると、久保田はまっすぐ前を見たまま言った。
「それは事務所についてからな」
仕事バージョンに戻ったみたいに、真剣な眼だった。
* * *
事務所は特に特徴もない小さなビルにあった。
テレビや漫画みたいに、なんとか探偵事務所って窓に書いてあるのかと思ってた俺は、肩透かしをくらった気分だった。
でもエレベーターで3階に上がると、扉には久保田探偵事務所と書いてあった。楷書字体で堅苦しいイメージだ。知らないで来たら気後れしそう。
中に入ると応接間と事務机が2つ同じ空間にあった。
「お帰りなさい先生。あら、大変!濡れネズミ」
事務机のひとつから女性が立ち上がり俺たちを見ると驚いていた。スーツを着こなし髪を後ろにまとめた二十五歳くらいの女性だった。美人というより可愛い系に分類されると思う。
「祥子君。オレはいいから、こいつにタオル出してやって」
そう言うと久保田は奥の扉に消えて行った。置いてきぼりかよ?
「大丈夫ですよ。先生も着替えたらすぐ戻ると思いますから」
よほど俺が情けない顔をしていたのか、祥子と呼ばれた女性は一言フォローを入れると、反対側の扉に入ってタオルを持ってすぐ出てきた。
どーも、と言ってそれを受けとる。
「あ、ソファに座っててください」
そう言って彼女は、今度は温かいお茶を持ってきてくれた。濡れたままで座って良いのかな、とまた少し躊躇う。
「温まりますよ」
しかし彼女はなんの気にもしてなさそうにそう言って微笑んだ。ぎこちなく座りながら俺は訊いた。
「えーと…ここの人?」
「あ、申し遅れました。わたし先生……久保田修次の助手で坂上祥子と言います」
名乗りながら自分も座り、彼女は名刺を差し出した。シンプルな活字で確かに助手と書いてある。具体的に助手ってなにをするんだろう?
「あなたが今回、護衛の対象の神崎悠汰くんですね」
「ああ、そう…」
そういえば俺も名乗ってなかった。っていうか、久保田が紹介し合うものじゃないのか?こういうとき。
「久保田…さんって何者?」
「先生ですか?探偵ですよ」
「それは知ってる。じゃなくて…えーと…」
なんと聞いていいか漠然としすぎて自分でもわからない。頭がまとまらないまま口が勝手に動いた。
「あの人何歳?」
「二十八歳にこの間なられました」
「いつから探偵やってんの?」
「さあ…わたしが入ったときは三年前ですけど、それまではわかりません」
坂上祥子は人差し指を口元に当てて、斜め上の方を見ながら答えた。
違う。本当に聞きたいこととは違う気がする。
「じゃなくてさー、なんか秘密とかありそうじゃん?そういうの知らない?」
やっぱり俺の質問は漠然としている。祥子さんも困ったように笑っていた。
「コラ、なんの陰謀を画策してやがる?」
気づくと後ろに久保田が腕を組んで睨みながら立っていた。スーツに着替えていて、髪もいつもみたいにボサボサじゃなくて、きちんと束ねられていた。眼鏡も続けてしない方針らしい。
普段のだらしなさがない。それどころか綺麗な造形で美形だ。違いすぎる。どこからどう見ても好青年だった。喋らなければ。
「詐欺すぎる…」
ついそう呟いたけど、詐欺だとふつー逆になるな、とちょっとどうでも良いことを考えた。
「うるせえな。なんとでも言え、着替えがこれしかなかったんだ」
すっと俺の前に移動すると、当たり前のように祥子さんが立ち上がり、変わりに久保田が一人掛けのそのソファに座った。
態度悪く脚を組んで、腕を背もたれの後ろにやっている。態度悪いのは俺も同じだから言わなかったけど。
「で?あんな無茶苦茶なことをしてまでしたい話ってなんだ?」
ああ、そうだった。
俺は教室での出来事を思い出した。やりきれない想いが蘇生する。
「その……捜査とかしないんだよな、今回の事件」
「ああ。前に言った通りだ」
前回…それどころじゃないと言ってた。それどころじゃないって何が?俺の護衛があるから?
「でもさ、事件解決しないといつまでも俺から離れられないんだろ?いいのかよ?それで」
久保田はなんかため息を吐いていた。呆れられたような態度だった。
「なにが言いたい?」
「だから普段捜査とかもするんだろ?だったら早く解決してさー」
「ったく、わかってねえな」
言葉の裏にだからおまえはガキなんだ、という意味が含まれてる気がした。
今日のこいつはムカつく。
「時間給だからボディーガードしてる時間が長ければ長いほど、こっちにとっては良いんだ」
「カネの話かよ!」
うげって顔をしたら久保田は憮然とした。
「あたりまえだ。仕事だからな。ついでに捜査ってのは警察がやることで、オレがするとしたら調査だ」
「じゃあ調査したいとか、疼いたりするもんじゃねえの?」
「いいか、いくらおまえが金の話に嫌悪感を抱いても、オレは稼がなきゃならんし祥子君に給料も渡さないといけない。勝手なことをして、オレが例えば死んだとしたら、祥子君は路頭に迷うことになる」
すごく現実的な話をされた。そんなことわかってる、って返したかったけどなぜか言えなかった。
ビビってたんだと思う。 死ぬとか簡単に言うし、大人の責任とかそんな話も俺には重い。だけど諦めるわけにはいかなかった。 藁をもつかむ想いってこういうことなんだ。
「だったら、俺が依頼したら調査してくれんだ?」
「おまえ…あの家の娘になにか言われたのか?」
見透かすように久保田が切り返してきた。 図星だった。
「やっぱり盗聴器か?」
「バカだな。調べた資料とおまえの行動みたらイヤでも分かるんだよ」
車の中みたいにもう笑ったりしなかったけど、変わりに馬鹿にしたような表情をされた。
ムカつく気持ちを抑えて、どういうことだよ、と訊いた。調べてることもあるのか?
「護るための最低限の情報はつかんでんだよ。それと前回のおまえの行動な。十日以上もたってわざわざ現場に行っただろう?あんな想いをしてまで。浅霧世羅、それからその切っても切れない関係の西龍院玲華と接触してたからな、なんかハッパかけられたと読んだんだ」
まったくもってその通り!と示したいくらいの内容だった。
なんか悔しかった。推理力は確からしい………悔しいけど。発破をかけられたかどうかはまた別だけど。
「今回はなにを言われたんだ?」
「別に…唯一無二の存在だったとは言われたけど、それで動いたわけじゃない。俺だってすっきりしたいんだ」
「それでオレを利用して情報を聞き出そうとしたわけか」
勘も鋭い。
「浅墓だな。オレが喋るとでも思ったか?」
「思ったよ!まえのあんたは優しかったのに、なんで今日はムカつくことしか言わねえんだよ!」
相変わらず馬鹿にされてとうとう俺はぶちギレた。
たまらず立ち上がってタオルを久保田に投げつける。でも柔らかいタオルはたいした衝撃を与えてくれず、パラリと落ちた。
「ちくしょう!俺だって、期待されれば応えたいって…人並みには思うんだ!悪いかよ……人並みには…」
離れていく。周りは幻滅して離れていくんだ。俺から。
「落ち着け。過呼吸になるぞ」
静かな声で久保田は言った。静かで穏やかだったけど、その顔は眉が寄せられて険しかった。
そんなこともう遅いんだよ。胸が鷲掴みにされたように苦しい。息苦しい。
でももう遅い。
呼吸を意識するより感情をぶつけることを優先してしまう。
「余裕、かましやがって!いいよな……大人は、余裕があって。どうせ、俺はガキだよっ。なんとかしたいって、思っても、結局っ他人を頼って……っ。自分を、おとりにしようと、思っても……やり方が分からなくてっ、情報足りないし」
「おい、もうしゃべんな!」
久保田も立ち上がって俺の両腕を掴んだ。だけど止まらない。いまさら止められるかよ。
「母親なんかに、頼まれたおまえに、頼りたくないのに……でも、結局おまえがっ最後の望みで……そんなんも、俺はすげえイヤなのにっ……なんでもする、から……頼む…よ」
ギリギリまで、叫べなくても声を出して、そして最後には懇願していた。
(けっきょく、こういうオチかよ)
みっともねえ。自分の身体も制御出来ないで、なにをやってるんだ俺は?
気づいたら、ソファに横になっていた。
そのまま倒れ込んだみたいだった。それを久保田が支えた感触があった。衝撃がなかったからたぶんそうだ。
息が吸えない。
「先生これを…」
「でもこれは……」
「これで治まるならいいと思います」
朦朧とする意識の中で、2人の会話が聞こえた。内容まで考える余裕はなかった。気づいたら目の前に茶色い紙袋があった。
「大丈夫だから、ゆっくり呼吸しろ」
久保田が背中をさすったり胸の辺りを圧迫していた。
そして声に出して呼吸を誘導する。その通りに出来てるのか出来てないのかさえ分からない。なかなか息が続かなかった。
さっさと気を失えれば楽なのに。さっさとくたばっちまえれば………。
なんとか治まっても動けないでいた俺の背中を、久保田はしばらくさすり続けた。そしてポツリと言葉を落とした。
「馬鹿になんてしてないよ、おまえのことは。ちゃんと護衛しながら見てたから。頑張ってんの見てたから、そんなやつを馬鹿にはしない。……だから、おとりになるとか言うなよ。オレが護ってる意味がないだろ?」
それを聞きながら、背中に伝わる温かさを感じながら、ひとつだけわかったことがあった。
久保田は俺が過呼吸になったときは優しくなるんだ。
ちくしょう。足下見やがって。惨めな気分になる。
やっぱり俺は素直になれないガキなんだ。
* * *
俺が落ち着くのを待って久保田は車で送った。まるで当たり前みたいに。
車内では無言だった。久保田がなにを考えているかはわからなかったけど、俺は喋る気力がなかった。
行きのときの、バカみたいななんでもない会話も、前回の優しかった久保田に感謝した俺も、いまでは遠い昔のようだった。
「彼女が」
そのなかで一度だけ久保田が口を開いた。
「祥子が過呼吸になったんだ。オレの事務所には新卒で彼女は入ってきたんだけど、そのころオレは厳しくて他人を顧みないやり方をしていた」
少し意外な気がしたけど、黙って俺は聞くだけだった。なんのつもりで話しているのかわからない。
「初めて目の前で過呼吸になった人を見たから、かなり驚いた。驚いてみっともなく慌てた。……それからいろいろ症状のことを調べて、精神的なものと知ったときは愕然としたよ。オレのせいだったんだ。彼女に対して優しくしなかったことを後悔した」
聞いているうちに、俺に言ってるんじゃなくて、懺悔をしたかったんじゃないか、と思うようになっていった。
「それ以来、一度きりで祥子はなってないけど、今でも怖い。オレのせいでまた苦しませるようなことになったらどうしようって、そればかりだ。だから……」
赤信号につかまって、久保田がギアを引いて車が止まった。久保田と目が合う。
「余裕なんてないよ、オレも」
あ、ちゃんと俺に言ってたんだって目を見て気づいた。懺悔じゃなかった。
こんなにあっさり怖いって年上の男に言われることは、全然許容範囲になくて、やっぱり俺は何も言えなかった。