第一章 ・・・ 6
「なあ…おいって……無視すんなよ」
長々ある廊下。俺は玲華の後を追いながらなんとか朝の疑問をぶつけていた。
「う、る、さ、い、ですわ」
「………」
ものすごい迫力で睨み付けられた。
一応まだ誰が現れるかわからない廊下、しかしいまは俺たちしかいない、ということで、猫かぶった状態と地との境目にいるようだった。それゆえにアンバランスで怖い。
一緒にここまで来ていた世羅は、一人スタスタ歩いて部室の鍵を開けていた。鍵にまで龍があしらわれていて豪華だった。
「だってさーあんとき以外iPodさわるチャンスなかったじゃんかよー」
ぼやきまくる俺をさっさと無視して玲華は部室に入った。続いて俺も入る。
「まだ言う?やだもーあんたしつこいー」
すでに口調が変わっていた。地になっても言う気はないようだ。ちっ。
それを確認したら俺も諦めた。
「じゃあもういい」
ため息を吐きながらソファに寝そべると、やっぱりこいつは心地いい肌触りだった。部屋に欲しいかも。無理だけど。
俺はそのまま直帰しようと、教室から持ってきていた学生鞄からiPodを取り出して、仰向けになりながらいじった。最近確認せず再生しかしなかったが、確かにスタンダードプレイリストが二十曲くらい設定されている。
一番上にあるタイトルは『comewith tomorrow』。ふーん。
そんなに売れてはいないが、何かのCMのタイアップだった曲だ。
「気をつけなさいよ。先生に見つかったら没収だから」
パソコンの電源を入れながら玲華が言う。それには生返事で返して、くつろいでいると扉が開かれた。
綾小路か、と思い顔を向けたら秀和だった。 秀和は高い声で元気そうに言った。
「お休み頂きましてご迷惑かけました!」
「2日ぶりねー」
玲華がヒラヒラと手だけ振って返していた。世羅はうむ、と頷くだけだった。なんの迷惑なんだいったい、と思いながら見ている俺を見つけて、秀和こちらに掛けてきた。
「うわあ、神崎さまがいるぅ」
はっはっと舌をだして喜んでいる犬が想像できる。
「風邪だって?大丈夫かよ」
「はい!もうすっかり!嬉しいなあ、神崎さまに心配してもらって」
「してない。いま思い出した」
「そ、そんなあっさりきっぱり即答しなくても…」
クゥーンと鳴くように秀和は落胆した。本当に表情がころころとよく変わる。確かに肌が艶々しているし、健康そうだった。
「あ、早速ぼくお茶いれますね。皆様なにを飲みたいですか?」
かいがいしい秀和は、ダメージなど初めからなかったように奥の方に向かった。その背中に向かって玲華と世羅はそれぞれパソコンから目を離さず頼む。
「あーありがと!あたしレモンティね」
「抹茶を頼む」
「はい!神崎さまは?」
聞かれて俺は少し考えてから、立ち上がって秀和の方へ行く。なにがあるんだろう、と興味を惹かれたのだ。
秀和の机がある左側にその一角はあった。ソファのある位置からは見えなかったが、カップなど置いてある棚と、キッチンまではいかないがちゃんと水道がひいてあった。そして小さなテーブルに電気ポットがおいてある。最近有名なすぐに沸くというやつだ。
「いろいろあるんだな」
棚には紅茶や抹茶、ほうじ茶、ジャスミンティーや煎茶に玄米茶などあらゆる種類のお茶があった。
「ええ!ぼくの仕事です」
「ふーん。あ、コーヒーもある。じゃコーヒーで」
「かしこまりました!」
嬉しそうに秀和はカップを並べたり、お湯が沸くのを待っていた。慣れている、というか秀和にむいているみたいだ。それで次は冷蔵庫ね…、と俺は妙に納得してしまった。
「確かに…ここまであると、次は冷蔵庫が欲しいって気持ちもわかるかも」
「知ってたんですね、神崎さま。そうです、この部屋に冷蔵庫は合わないって最初お許しにならなかったんですよ、理事長が」
俺たちの会話に玲華が反応してこちらを見ていた。俺はすぐに後悔の念に襲われる。
「そう思うでしょー?ひどいでしょー?いたたまれないでしょー?だからさ、お願いね、球技大会。悠汰のも置いてあげるから」
しまった。やっぱり話がそこに戻ったか…。
正直、不安な要素はまだある。最近かたちになったものだ。俺は玲華が言うほど運動神経に秀でているわけではない。だからきっと当日はがっかりされるだろう。
―――幻滅、される。
それに過呼吸だ。もう大丈夫だと思っていた。だが昨日再発したことで、またいつなるかと心配になる。
俺は話を逸らそうと、手前にいた世羅に歩み寄った。世羅もパソコンになにやら打ち込んでいる。
「おまえはなにやってんだ?」
「あ、コラ!無視してんじゃないわよ」
世羅は迷惑そうにこちらを見たが、俺が覗き込むのを拒みはしなかった。変わりに…。
「スケジュール調整だ」
と、冷たい声で言われた。
確かになにかの表がずらずらと画面に写っている。日付とクラスと時間と場所とスポーツ……。これは!と俺は気づいてしまった。気づいたら玲華が世羅を挟んで、腰に手をあて悠然と立っていた。
「球技大会の練習よ。お昼休みと放課後に少しずつそれぞれのクラスが予約を入れてるの」
「練習っ?」
そんなものまであるのか、と俺は愕然とした。
「だからさ、昨日ギリギリまで待つって言ったけど、よく考えたらそんな余裕ないのよ!これっぽっちも!」
「そりゃあ…タイトだね」
「だね、じゃないわよ、タイトなのよ実際。一応予約はしといたけどさーまだ他のメンバーも発表してないし…やばいのよ」
玲華の顔色が青ざめたようにみえる。俺はため息だけ残して定位置に戻った。そうソファだ。
「それで結局、希望はどれよ?まだ決まってないの?」
だけど玲華はついて来た。仕方ない。本当のことを話そうか。一瞬そんなことがちらついたが、やっぱり駄目だと思い直す。言いにくい。
俺は重く口を開いた。
「卓球は……ダメなんだっけ?」
「だめっていうか。………本当にないの?得意なやつ」
「そうなんだ…しかも………」
言葉を切ると、玲華も向かいのソファに座って覗き込む。
「しかも?」
「怒らないで聞いて欲しいんだけど………」
「なによ、怒らないわよ」
「なんの競技があるか、全部知らないんだ」
「………っ!」
ちょっと殊勝に話を続けていたら、最初は神妙な面持ちだった玲華がいまは怒りに震えていた。
オコラナイって言ったのに。
「いまさらなに言ってんのよ。あたしが何のためにあの日、黒板に、わざわざ全部書いてあげたと思うの?いやー信じらんなーいー!」
絶叫したかと思うと、パソコンまで戻り二枚の紙を持って勢いよくソファに座り直した。ばんとその紙が置かれる。
「聞いてなさいよ!男子はサッカー、バスケ、テニス、クリケット、ゴルフ、バレー、バドミントン、卓球………」
「ちょっ!なんだよその量は!」
ずらずらと読み上げる玲華に俺は血の気がひいた。冷ややかな目で玲華が見据えてきた。
「うちの学校、スポーツに力いれてんのよ。だから競技大会は3日に渡って行われるのよ、知らなかったの?」
「しら、知らない…」
なんとか答えるも俺の声は弱々しいものだった。ちょうどそこで秀和がそれぞれの飲み物を持ってきた。俺たちを見てクスクス笑っている。
「おまえなにすんの?」
俺の前にコーヒーを置いた秀和に訊いた。少しだけ悔しげに響いてしまった。
「ぼくはバスケです。もし当たったらよろしくお願いしますね」
余裕たっぷりの笑顔で秀和は答えた。
「ヒデのくせに生意気」
「ええっ!どうしてですか?」
秀和は目を丸くしていた。自覚なしか。
ふうとため息をついて競技大会の用紙を見る。二枚のうちのもう一枚は前に配られた希望を書く用紙だった。ここで書けということか。
「ちょっと考える」
初めて前向きな発言をすると満足そうに玲華は机に帰った。自分も戻ろうと移動しかけた秀和を呼び止め、低い声で囁く。
「そういえばなんでおまえは入部したんだ?つーかホントに部活か、ここは」
まだ部活動として納得できなくて俺は聞いた。玲華に聞いてもはぐらかされるか、無視されるかだけだから。それに、ここにきてもやることがないし、玲華なんて学級委員の仕事をしていた。ただの憩いというのも納得できる話ではある。
しかしそれならば玲華の人気度からいって、他の生徒がいないことと、逆に秀和がいることが不思議だった。
「ぼくは西龍院家の使用人の息子なんですよ。玲華さまのご厚意で置いてもらってるんです」
僅かに驚いてへえぇと呟いた。また使用人か。
「ここは正式には同好会ですね、部費おりてないんで」
「あー、まあ必要なさそうだしな」
「でも理事長がなにかと気になさってて、直々にこの空間をお造りになったんです」
「…………」
なんということだ。かなりのベタ甘らしい。
「いい親子愛ですよね」
両手を胸の辺りで組んで秀和は言った。
「感動してくれてもいいわよ」
聞いていたらしい玲華が割って入った。
「するか!」
呆れはするが感動する余地がどこにある?つい玲華を見て突っ込んだ。
やーねーカルシウム足りないのかしら、と玲華はパソコンに向かって呟いている。本当になんであんなに皆が陶酔しているのか疑問だ。
それを無視することに決めた俺は、体重を戻すと秀和に向き直って内緒話をするように囁いた。
「他の連中、入りたがるんじゃねえの?」
「そうなんです。玲華さまが立ち上げた同好会ってことは、生徒会長に内緒してもらってたんですけど、どこかから漏れちゃって最初は希望者が殺到したんですよ」
それはまた光景が容易く想像できる内容だ。
「だから玲華さまがあらゆる策略……じゃなくて、入部テストをお考えになさったんです。掛け持ちしてる人は駄目っていうところで、すでにどこかに入部していたかなりの人が落選しました。残りは…」
「ヒデ!あんたなにベラベラ余計なことチクってんのよ!」
せっかく声を潜めて訊いたのに、秀和が高い声で普通に答えるから当の本人に聞こえていた。
「す、すみません!」
さらに高く上ずった声で謝る。多少責任を感じた。
「ヒデ、小声で話せよ。……使用人の息子ってことは昔から玲華のこと知ってんの」
「はい、そりゃあもう」
「昔からあんな性格?」
「ああ。そうですよ。身内以外には完璧な振る舞いをなさっています。でもご家族やぼくたちにもとてもお優しいんですけど、ときに欲に目が眩むと、目的のためには手段を選ばない感じになっちゃうんです。この間も…」
「秀和!男のおしゃべりは嫌われるわよ!」
「も、申し訳ございませんっ!」
きっちり名前を呼ばれて鋭い制止をかけられると、謝りながら秀和はあわてふためいて俺から離れていった。話し出しは完璧だったのに、秀和の声はだんだん高くなっていったのだ。だから俺のせいじゃない。睨むな、ヒデよ。
幼少期から猫かぶるのは身についてるわけか、と俺は納得した。多少のことでは崩れない完璧さがあるのは、ここ数年でつくものではないだろう。いろいろ苦労したのかもしれない。
しかし…と俺は手元の紙を見直した。どれもハードなスポーツだな。面倒くさい。
ひじ掛けに全体重をかけて迷っていると、とうとう綾小路が入ってきた。
「やあ、玲華!1日ぶりだね」
めげる、もしくは諦めるという言葉を、知らないらしい綾小路は今日もウザかった。やっぱり毎日一回は来てんだろうな…こいつは。
「ごきげんよう綾小路さま」
慣れたもので玲華は何事もなかったように、優雅にお辞儀していた。これが上流階級のたしなみというやつだろうか。
「デートの日は決めたかい?次の週末はどうだい?」
「部活の練習があるのではありませんか?わたくしも同様ですの」
「僕はきみのためならいくらでも時間を作るよ。それに玲華、いいかげんここで何をしているのか教えてくれてもいいんじゃないか?」
「あら、いけませんわ。サボりなど綾小路さまに似合いません」
いけしゃあしゃあと見事に応じているが、俺には玲華の青筋が見えた、気がした。しっかり活動内容を無視してるあたりがすごい。
しかし、綾小路は何を勘違いしたのか頬を赤らめて、そうかい?などと答えている。
これはこれで成立してるのかもしれない、と思えてきた。
「今度試合があるんだ。応援にきてくれるかい?」
「ええ、もちろんですわ、時間が合えばいいんですけれども」
「ああ、もう!なんて愛らしいんだい玲華!いつなんどきだって離したくないよ!」
綾小路はくねくねと体をくねらせたと思ったら、ガバッと両手を広げて玲華に近づいた。おい、ヤバいんじゃないか? そう思い立ち上がろうとしたとき、それより一瞬速く世羅が口を開いた。
「綾小路様、部員の方々があなたのことを探しておいでのようだ。もう行かれた方がよろしいのでは?」
いつの間にか世羅は窓際にいて、下を見ていた。あたかもその下に部員がいるように。助け船をだしたんだ、と俺は気づいた。綾小路に恥をかかせないように配慮して。それも玲華のためになることなんだろう。
不思議な感じがした。ただ仲が良いだけではない、なにかを感じる。これが幼なじみというやつなのだろうか。俺には持ってない感じだ。
「残念だなあ。また会いにくるよマイハニー」
お花が背後に飛んでるようなイメージで綾小路は玲華から離れた。振り返り扉から出ようとした瞬間、ふいに綾小路がこちらを見た。
目が合った。つかの間のフリーズ。そして。
「ああ!おまえは!またしてもこんなところにっ!」
いままで気づかなかったのか!驚愕の声をあげる当人よりも俺はそのことに驚いた。背後ではなく脳に花が刺さってんじゃないのか?
「どーも」
関わりたくなかったが世羅を見習って挨拶してみた。驚きが去ったら綾小路は座ったままの俺を見下すような目で見てきた。
「貴様が神崎悠汰だな。調べたぞ貴様のことは。玲華にちょっかいかけるのはやめたまえ」
(うわー敵視されだした。マジ勘弁)
調べたって何をだよ、と思う。しかし、ここでキレるような真似はしない方が利口だってことを今ならわかった。だから短く一言で答える。
「だだの部員デス」
「そんな虚言を吐いたって無駄だ!調べたと言ったのが聞こえなかったのかい?貴様はここの部に登録されていない!生徒会長に確認済だ」
うわーあっさりバレてる。生徒会長にまで手を回すなんて意外と暇人じゃん。
「これから登録なのですわ」
「昨日のことといい、なぜきみはこんな男を庇う!?騙されているんだね?そうだろ?」
間に入った玲華に綾小路は慌てていた。ちなみに最後の一言は俺に向けられたものだ。どうやったら騙せるんだよ、と聞きたい。
「おっ!それは球技大会の案内!なにをやるんだ?貴様は」
あーもう、面倒くさい。綾小路は俺の手元の紙を見て詰め寄ってきた。嫌なものが見つかって俺は顔をしかめた。
「まだ決まってマセン」
「だったらテニスにするんだ!僕のまえにひれ伏すがいい」
綾小路はテニスをするようだ。またテニスかよ、と俺はため息をついた。
「いやデス」
「なんだと?貴様逃げるのか?」
「逃げマス」
「ふっざけるなあああ!」
なげやりに答えていると綾小路が胸ぐらを掴んで俺を立たせた。しまった、適当に答えすぎたか。
「だったらクリケットにしろ!」
「なんでですか?」
ふと怪訝に思う。
「僕はクリケットにも出るからだよ!」
「なんで二つもでるんですか?」
「知らないのか?貴様。一人ひとつは出るのが決まりだが、それでも空きがでる。そこに僕のような優秀な人材がかり出されるのさ」
綾小路は前髪を掻きあげながら得意気に笑った。玲華を見ると、ヤバいという顔をしている。俺にも二つの競技をやらせようとしていたようだ。
冗談じゃない。ひとつでもこんなに不安なのに。
「だったらそれ以外を選びマス」
「はっ、とんだ腰抜けだな。僕にやられるのがそんなに怖いとは」
掴んでいた俺をようやく放すと、馬鹿にした笑いをした。
「こんな男に玲華がどうかなるとか、なんて僕はバカなことを考えてしまったんだろう」
らしくなかったねと自己完結している。
「きみは優しいからこんな情けない男に同情したんだね?でも僕は心が広いから許すよ」
一人で大騒ぎをして、一人で納得して綾小路は出ていった。なんというか幸せなやつだ。
「ちょっと、なんでなにも言い返さないのよ」
だけど玲華は怒っていた。我慢できないと顔に書いてある。心外だ。相手にしないように必死だったのに。
「言い返したほうが良かった?」
「当たり前でしょう。もしあたしに遠慮してとか、そんなんだったらぶっ飛ばすから!」
なるほど、どうやら玲華の方が心外だったらしい。
ああそうと返しながら、俺は腰を降ろすと鞄の中からペンをとった。
「昨日のこととはなんだ?」
おもむろに世羅が切り出した。一瞬だけ玲華がフリーズする。
「昨日も勝手に勘違いして勝手に俺を目の敵にしてたんだ」
つまらなそうに俺は言い、球技大会の希望を書いた。第一希望、ゴルフ。第二希望、バドミントン。第三希望、バレーボールと記入する。サッカーやテニスはほぼ走らないといけないから、これで完璧だと自己満足して玲華に渡した。
「これでよろしく。じゃあまたアシタ」
逃げるように出ようとする俺に玲華は呆気にとられたようだった。
「なによこれ、本当にあいつの挑戦受けないつもり?」
不満そうな声を聞きながら俺は部屋を後にした。
* * *
その夜部屋のパソコンを開くと、純平からメールがきていた。
俺は携帯がないからパソコンのメールだ。携帯は許さないのに、パソコンとかiPodとかをあっさりと買い与えた両親はどこかおかしいと思う。というか、基準がわからない。
メールには、あの日交わした他愛ない話の続きと、最後にまた遊びにこいよと締めくくっていた。 俺の家の事情やら、中学時代の愚痴や憤り、すべてを知っている数少ない友人。だけどあえて触れてこない。
不意に、意味もなく、泣きそうになった。
……胸に足りない部分がある。泣けば少しは満たせるかもしれない、と思う。
この部屋が感傷的にさせてるのだ、とも思う。
だけど…。
もう少し頑張りたい。それは決して簡単じゃないけど、少しずつしか進めないけど、前に行く。
だからそれまで純平には会わない。会えない。醜くすがるまでにはまだ至ってない。
足掻きたいんだ。
俺は他愛のない部分だけの返事を打ち込み送信した。