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第一章 ・・・ 5

 止めどなく押し寄せる恐怖。暗雲が垂れ込める天みたいに徐々に、たが確実に濃く蝕んでいく。どこまでも覆う黒雲。

 足掻くように手を伸ばしても、ずっと拡散するだけだった。払っても払っても意味がなく、やがてまた形成される。

 でも俺は掴んだ。掴むことができたんだ。雲の中にある、恐怖の正体を。

 そこにあったのは期待。

 そして…勝手に期待をされて、幻滅されることに怯えている自分がいた。

 どちらも物心ついたときから始まっていた。両親の手によって―――。

 トラウマ? ……そんな大袈裟なものじゃない。 ただ俺は逃げ出しただけだから。トラウマに至るまえに。一度逃げると癖がつくとわかっていながら…それはもう、どうしようもなかった。

 もう逃げない、と玲華に答えた。親にも刑事にも、そして玲華からも逃げていた。まずはそれを認める。自分の弱さを見ることも、別の恐怖があるけれど、まずはそこからだ。

(悪いな、玲華。ひとつずつじゃないとムリみたいだ)

 そしてこの日の夜、もう一度俺は事件現場に行くことにした。

 夜にしたのは人の目に触れたくなくて…あと、思い立ったのがその時間帯だったから、というのもある。腕時計は二十一時三十分を指していた。

 いつものようにiPodを耳にぶっこみ、俺は家を出た。

 咲田さんは住み込みじゃないから帰っていないし、兄貴は多分勉強だ。邪魔するものは誰もいない。

 雨は降ってなかったが星が見えるほど晴れてもいなかった。いまの俺の気分にぴったりだ。

 ―――梶さんの無念を晴らせ。

 刑事の池田に言われた。正直なところ、申し訳ないがそこまで想う気持ちにはまだなれない。俺はいつだって自分のことばっかりだ。嫌になる。

(だけどまだガキだから)

 ガキ扱いされてムカつくのは、子供の証拠だってこともわかっている。

(でもちゃんと思い出すから)

 見たことは全部。目を逸らさずに。いまはそれで許してほしい…。

 そう思いながら、まず歩道橋から下を眺めた。いまは車の往来も多いし、ポツポツ帰宅に急ぐ人がいた。そのなかであの日の記憶を刷り込ませる。

 まず梶剛志を見だしたのはあの辺りだったな、と確認する。そして次に見つけたのが後ろにいた犯人の影。

 ………やっぱり、ここからでは顔まで見えない。でも着ていた服くらいは判然できたはずだ。

(犯人はなにを着ていた?……黒い服?………いや、スーツかも知れない)

 ではレインコートを着ていた?…………ダメだ、そんなイメージはない。

 そこまで考えて、はたと我に返る。

(イメージってなんだよ)

 俺は真実を見に来たはずだ。固定概念は消さなければならない。

 しばらく考え込んでから、俺は歩を進めた。歩道橋を降り、現場に近づく。

 気を紛らわすために聴いていたBGMは、ドラムの刻むビートが俺の鼓動に重なり合うかのように鳴っていた。速いテンポに押されるように足が動く。

 iPodを持ってきて良かった。些細な助力だったけれど、前に進むことの難易度が確実に低くなっていたから。それでもあの場所に近づくにつれて、俺の鼓動は速くなる。狂ったメトロノームみたいに規則性もなくリズムの先をいく。

(ここだ…)

 あのときと同じ位置に俺は立ち止まった。その瞬間、感じた衝撃が蘇る。

(そうだ。それでいい…………それから、俺はどう想った?……なにを見た?)

 今にも逃げそうになる脚を意識的に踏ん張り、隅々まで視線をやった。

 左側には猫が入り込めるほどの溝。グレーチングがあり底は見えにくい。ボタンが落ちていた位置はおそらくここだ。

 視線を中央に戻して、倒れていた姿を思い浮かべる。そして記憶を辿っていった。

 恐怖と血の臭いがした。そしてあの見開かれた眼が現れた。

 わかっている、すべて幻だ。

 周りの気配が消え、iPodの音楽も、他の余計な音もいまは何も聴こえなくなっていた。ただ感覚を目の前に集中させていたから。

 そして、まるでかつて父親と対峙したときのような感覚になっていった。

 逃げたいのに逃げられなかったあの時期。

 すり変わっていた。

 返ってきたテスト用紙をテーブルに置き、それを挟んで向かい側に父親が座り、荒げた声で責め続けられた。毎晩毎晩繰り返し行われた叱責。手も、出ていた。俺は見えないロープで縛られたように動けなかった。

 ―――何でこんな点数しか取れないんだ?本当に俺の子か?部活がやりたいだと?そんな暇があったら勉強しろ!こんな成績でどうやって生きてくんだ。次に満点が取れなかったらこの家から追い出してやる!

 そしてだんだん俺は呼吸が乱れ出したんだ。息苦しくて死ぬんじゃないかと思った。

 だけど父親は医者だったから冷静に対処した。情けのひとつもかけられないままで。

 それからも、叱られるたびに息ができなくなっていた。いつもそれで逃げられると思うな!って、終いには放っとかれるようになった。

(ヤバっ……)

 昔のことに意識がリンクし過ぎて、気づいたときには遅かった。

 俺はまた、息苦しくなっていた。意識して空気を全身で吸う。しかし吸ってるのに酸素が入ってこない。苦しみから襟元を無意識に握り締める。

「…はあっ、はぁっ、あっ………」

 じきにそれもままならなくなり、俺は立っていられなくなった。

 左手で胸元を押さえ、いつの間にか目の前に迫ってきていた地面に右手をつく。そしてその手と唇が痺れだす。気づいたときには、右側から道に倒れ込んでいた。

「過呼吸か?」

 ふいに耳に声が届く。

 それと同時に音楽も流れ出した。本当は途切れてはなかったはずなのに、そう思った。このとき流れていたのはハスキーな女性ボーカルの曲。


  苦しくても明日はくるから

  大丈夫だから 悲しまないで

  顔をあげて 一緒にいこう


 そんな歌詞が流れてた。笑われるかもしれないけど、俺に言われている気分がしたんだ。

 その通りに顔を上げて声の主を見たかったけど、出来なかった。激しい耳鳴りと悪寒までしてきて、うずくまることしか出来なかったんだ。


   * * *


 呼吸が整い、落ち着いたときには俺は車に乗っていた。まだぐったりとダルさが抜けなかったから、後部座席に寝転がったまま運転席を見ずに言った。

「やっぱり…あんただったんだ」

「まあな」

 声の主は久保田だった。久保田はすぐに俺を担ぎ上げると、乗ってきた車の後部座席に移動させた。青いコンパクトカー。

 狭いけどあの場所にいるよりは良いと判断した、と後から言っていた。

 刑事と来たとき、やはり遠くから見ていたらしいことも。

 久保田はずっと背中をさすったり、胸の辺りを押したりして、大丈夫だゆっくり息をしろと繰り返してくれた。

「ペーパーバック法はあまり良くないと最近聞いてな。とりあえず場所を移動して様子を見ようと思った。ごめんな、すぐに楽にさせられなくて」

 落ち着くのを待ってそう言うと、運転席に戻った。そのまま今に至る。どこに向かって走っているか聞けていない。

 気分も気持ち的にも最悪だった。乗り越えようと思った壁は乗り越えられず、それどころか昔の症状まで再発してしまった。しかもまた他人に迷惑かけて…。

「過換気症候群か、女性に多いと思っていた」

「…んな大袈裟なもんじゃねえよ、つーか偏見やめろ」

 でも一番最悪なのは自分だ。感謝したいのに、素直に言えない。特に大人相手だと。

「あ、そうか。ごめん」

 嫌味のひと欠片も感じない言い方で、さらりと久保田は謝った。 調子が狂う。前はあんなにムカついたのに。

(雰囲気変わった…?)

 どこがどう変わったかと聞かれれば解らないが、そう思った。だからそのまま伝えた。

「ああ、探偵だからな。いろんな人格持ってるんだ」

 なにが()()()()()なのかまったく分からない。しかし人格変わるやつ多すぎる。しかも俺の周りだけ集まってないか?

「なあ……本当に護衛してたんだな」

「嘘だと思った?」

 後部座席からは久保田の表情が見えなかったけど、柔らかい口調で訊いてきた。

 なんかつられる。つられて、口調が静かになる。

「いや…でも家に帰るまでしか、ついてきてないと思ってた」

「そうだな。今日は油断したよ」

「………もしかして発信器とかつけてる?」

 ふとひとつの可能性に気づいて俺は上半身を起こした。もう体は辛くなかった。

「言えないな」

「否定しないってことはそれが答えだろ」

「もしそうなら、怒る?」

 バックミラー越しに目が合った。声の通りで穏やかな目だった。それを見ると怒る気も失せる。

「怒ったってやめないだろ?」

「確かに」

 ふっと笑ったその顔を見て、今なら言えると思った。でも気恥ずかしくて俯く。

「………今日は…その、ありがと」

「なにもしてないよ。襲われてたわけじゃないし」

「………でも安心した」

 襲われてたよ、過去に。そう言いそうになったけど、あまりに自虐的すぎてやめておいた。

 それからしばらくして車は俺の自宅の前に止まった。

 ああ、俺が落ち着くまで適当に走っていてくれていたんだ、ってようやくそこで気づいたんだ。 大人のやることの深さに脱帽する。 敵わねえな…やっぱりまだ俺はガキだ。

「なあ今回の事件、捜査してないのか?」

 車から降りる直前、ずっと気になっていたことを聞いた。

「刑事になにか聞いた?」

「まえに捜査現場に現れたことあるって」

「そう……、でも今回はそれどころじゃないかな」

 答えるとき少し目線を逸らされた。なにかあるのか?とちょっと気になったけど、もう一度お礼を簡単にいってドアを閉めた。


   * * *


 ―――明日はくるから大丈夫。

 登校するのにiPodを聴いていたら、またあの曲が流れていた。

(よくかかるな…)

 適当に入れすぎてタイトルも忘れてしまったような曲なのに、最近決まって一回はかかる。

 どんなに苦しくても、明日がくるから大丈夫なんておかしい。

(明日がくるからイヤなのに…)

 ふとそこまで考えて少々後悔した。またネガティブ側に思考がいっているようだ。ちょっと悔しくなって次の曲にしようと本体を手にとったが、それも負けたみたいで悔しい。

「おはよう。どうしたの?神崎くん」

 どうしようか迷いながらiPodを見つめていると、後ろから肩を叩かれた。

「あーハギかー」

 そこには以前の俺のぼやいた言葉を聞いて、律儀に挨拶を変えてきた萩原がいた。なんだかんだよく話しかけられるな、こいつには。

「その呼び方固定するつもり?」

 不満そうに頬を膨らませながらも、萩原は俺の隣で立ち止まった。先に行くつもりはまたしてもないようだ。そういえば萩原には()と呼ぶのを変えてもらっていたな、と気づく。

「えーと……拓真だっけ?」

「当たりっ」

 爽やかに、嬉しそうな笑顔を見せると、拓真はiPodを覗き込んできた。

「それで何を見てるの?iPod?」

 ホントにこいつは好青年だ。アイツとかソイツとか見習わせてやりたい。そう思ってまず思い浮かんだのが、綾小路の顔だったりした。

「そう、この曲ばっかりかかるから悔しくて。かと言って飛ばすのも悔しいだろ?」

「その理屈よくわからないよ」

 拓真はううんと唸っていた。

「そうかあ?悔しいだろ?普通」

「普通、飛ばすんじゃないかなあ?だってボクなら、そういう曲は耳に残ってリフレインされるともっと嫌だから」

 目からウロコだった。すげーと俺は目を輝かせた。

「そういう考えもあるんだな。すげー頭いいな拓真」

 頭をぐしゃぐしゃにしてやったら、やめてよと怒られた。なんかどっかでこの逆の光景を見たな。

 そう思いながら何気なくiPodを操作してると、あれ?と俺はあることに気づいた。そしたら横から見た拓真が先に口を開いた。

「これプレイリスト設定してるよ………ええっ?いまの会話なにっ?わざと?」

 信じられないという眼差しで拓真に見つめられる。ええっ?

「そんなはずねえよ、だって俺はずっと全部の曲をランダムで……」

 あ、と俺にひとつのビジョンが浮かぶ。

「玲華だ…あーいーつー……」

 何日か前にジッとこのiPodを持って見ていたのを思い出す。あのときしか考えられない。そんな設定をする時間はなかったはずだが、あのヘキサゴンを見せられたあとではそれも可能かもしれないと思える。

「玲華さまっ!?」

 なぜかぎょっと拓真が目を剥いていた。


   * * *


「玲華!どういうことだ、てめえ…」

 なんとか抑えて拓真と登校したが、教室で玲華の姿を見つけると、我慢できなくて俺は詰め寄った。

「やめなよ神崎くん」

 後ろから拓真が押さえにかかってきたが、そんなのは無視だ。ここまで歩きながら設定したのは玲華だと、いくら説明しても信じなかった。まったくなんなんだ?この信頼度の違いは。

「ごきげんよう神崎さま、萩原さま。どうなさいましたの?」

 しまった、猫かぶり中だった、と今さらながら気づく。優雅に微笑む玲華に拓真はぽうっとなっていた。

「これ設定したのおまえだろ?」

 力が抜けそうだったが、引っ込みがつかなくて、やや声を抑えながらもiPodをグイッと玲華につきだした。

「お気づきになりまして?あまりに楽しそうに鑑賞なさっていたものだから、つい」

 悪びれもせず口元に手を当てて、おほほと笑っている。

 ほらみろ、と拓真を見たがまた心酔中だった。おいおい。そのうち鼻血でも出すんじゃないか、と本気で心配してしまった。

「ですがなかなか気づいてくださらないんですもの、つい先日確認してしまいましたわ」

「は?いつ?」

「球技大会のお話をした前の日でしたでしょうか」

「あの日に設定したんじゃないのか?」

「いいえ。あのときはそんな時間ございませんでした。それより前…かれこれ二十日は経ってますでしょうか………本当に()()お気づきに?」

 呆然としている俺だけに見えるように、玲華の瞳がキラリと光った。ように見えた。

 今日とか強調してんじゃねえよ!ちくしょう。

 反論しようとしたとき、はたと気づいてしまった。そこにいた全員が俺たちを見ていたのだ。ひそひそと話す小声のなかに、なんであの二人が……?と聞こえる。そう言えば皆の前でこれほど会話するのは初めてだったか。本性まで知っているのに変な話だ。

 世羅もすでに来ていたが、無関係を決め込んでいる。

「ああ、そう」

 それだけでまとめて席の方へ振り向いた。これは部屋で話をつけてやる。意図を問いたださないと気持ち悪い、と思いながら。

「いかがでした?わたくしの選曲は?」

 だけど玲華は気にしてないとでも言うように、話を続けた。

 俺はしばし目をパチクリさせて止まる。そうか、こんなことを気にするようなタマではなかったか。

 彼女が猫を被っていたのは、最初から喋り方だけだった。向けられる態度…はちょっと悪くなったかもしれないけど……表情や眼差しに変化はない。常に芯は貫いている。

 きっと彼女は俺のことを考えて、一人の時を狙って話しかけてきたんじゃないか、とさえ思えてきた。

「バッカ、最悪だよ。趣味悪い」

「もともとご自分でダウンロードなさってるのに…」

 つい笑いながら非難したら、これ見よがしに玲華はため息をついた。あー悪かったな。

「そうなんですよ、玲華さま。しかも神崎くんときたら聞き飽きた曲なのに、飛ばすのが悔しいとか言うんですよ」

 陶酔から溶けた拓真が、裏切って先ほどの出来事を語っていた。 おい!

「あら、悔しいという定義がおかしいですわ。きっとランダムだとお思いになって、これは選ばれた曲だから試練だ!とでもお考えになったのかしら」

「さすが玲華さま。そおですよ。だから一ヶ月近くも気づかなかったんでしょうね」

「おい!2人とも、悪口は本人のいないとこでやれよ!」

 あーなんか頭痛くなってきた。丁寧語でバカにされると、余計にムカつくことを俺は体感した。

「「それでは陰口になってしまいますわ」しまうよ」

 二人の反論がユニゾンした。 ちくしょう!

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