第五章 ・・・ 5
それから。
すごくバタバタしたようだ。
あんな凄惨な状況だったのに、場所が病院だったことが幸いしたようでとりあえず死人は出なかった。すぐ治療を受けられたから。
俺が次に目覚めたときには、父親の処置は終わっていた。普通に歩けるようになるにはリハビリが必要だが、命に別状はないと玲華が教えてくれた。
兄貴はナイフを抜かなかったのが良かったみたいだ。出血が抑えられたから助かったんだって聞いたときは。
ゾッとした。抜かなくて、本当に良かった。
母親は……。一番危険な状態だったらしい。手術は成功したけど、今もまだ眠ったままだ。
複雑な感情でそれを聞いた。
ざまあみろ、と思うにはあまりにも…やりきれない部分が残存する。一番うるさい人が一番眠ってるなんて変だと思う。
そして警察はすぐに来ていたが、池田さんは兄貴が助かったと一報が入ったころにようやく現れた。
池田さんにはすごく叱られた。
こっちでごちゃごちゃしている間に、浅霧家に行っていたそうだ。功男さんからの通報で柳田たちは逮捕されたらしい。
それは久保田さんから聞いた。
事態が取り敢えず落ち着いて、家に帰りたくなくて、久保田探偵事務所に行ったときだ。
もう帰れとは言わなくて、すんなり居させてくれた。
「功男さんとオレは情報交換をしたわけなんだが、浅霧家の誰が犯人かまではわからなかったんだ。だからそれで泳がせてみた。こんなに早く惣一が動くと思わなかったから、焦っちゃって」
「焦っちゃってじゃねえよ!」
まったくこいつだけは何も変わらないな。いい加減なとこが。
「そうこうしてる内にお前も向かうしさあ。だから功男さんがここはもういいから行けってさ。あの人は自分の持てる権力全部使ってあいつらを逮捕させたんだ。証拠なんか後から出るって」
息子たち……世羅の叔父たちもその時一緒に連れていかれたと、久保田さんは言った。
「で?あんたは結局どこまで知ってたわけ?」
「梶氏と惣一が交換殺人を企てていたってことだけだ」
ホントかよ、って疑う。
散々嘘をつかれたから、なかなか信じられない。本当はどこまで知ってたんだろう。そう思ってたら重々しく久保田さんが口を開いた。
「おまえがこのことを知ったら耐えられないと思っていた。他人の死にでも敏感に反応してしまうおまえには、どうしても隠しておきたかったんだ。だから目指す方向を、梶氏の手帳から浅霧家に向けるように言った」
今さらそんなことを言われても、返せなくなるだけだから卑怯だと思う。殴りにくくなるじゃないか。
「惣一を見張ることはついでだったんだ。依頼人はあいた時間に惣一を見てくれれば良いと…。だが陰謀を知って事情が変わった。梶氏が亡くなるまではほとんど惣一を追っていたんだ。そのことは報告出来なかった。しておけば良かったと今なら思うよ」
(………変わった、かな)
両親が知っていたら、この事は起きなかったのだろうか。兄貴の殺意は止められていたんだろうか。
もし、の話しはいくら考えてもキリがない。
「じゃあ、姿を隠したのは?」
「功男さんだよ。あの人、オレの話を全部聞いたあと説教してきた」
こいつが説教されてるところ見たかったな。一生からかってやれたのに。
「オレがいるとおまえの為にならんっ!だってさ」
「はあ?」
ウケケとやつは笑う。そんなことで雲隠れしたのか。
「そのあと功男さんから裏帳簿を盗んだのは世羅嬢だと聞いたんだ。それから功男さんの名推理もね。犯人が柳田だろうって分かっていたのは結局功男さんだけだったんだなー」
暢気な口調がなんか腹立たしい。
「わからないから泳がせたっていま言わなかったか?」
「まあ単なる推理だからな。証拠がなにもない。権力を振りかざしてまで逮捕してもらうには、もうひとつ功男さんにとっての決め手が欲しかったんだと。……そしたら二人揃っていないだろ?それで決心したみたいだな」
ホント、久保田を上回るタヌキっぷりだな功男さん。
(大人って………)
うんざりしてると、久保田さんがニヤニヤ笑いながら寄ってきた。
「なあ、おまえ、オレがいなくて寂しかったか?」
「ぜんっぜんっ!」
「うそつけ。ほんとは頼りたかったんだろ」
「言っとくけどな、おまえがいてもいなくても俺には屁でもねえんだよ」
嘘ついた。
ごめん。強がり。
玲華には正直でいたいとか言いながら、俺は素直になれない。変わりたいって決意したってそんなにうまくいかないんだ。
いくわけないだろ。人間そんなに簡単には変わらない。
こんなやり取りをしていると、ずっと控えて聞いていた祥子さんがクスクス笑いった。そしてやはりお二人似てますねと言った。
前にも聞いたなそれ。
「………祥子君……。それはオレにくたばれと言っているのか?」
久保田さんが心外そうに呟いた。また何を言ってるんだこの人は。
「ふふふ。先にそう仰ったのは玲華さんですよ。以前そういう話をしてたんです」
以前というのは恐らく泊まりに行ったときだろう。それしかない。女同士でなに話してんだ、まったく。
「先生は依頼人やターゲットに舐められないように、わざと上に見られるような振る舞いや出で立ちをしてる、と。だけど実際のところすごく精神年齢低くて、真っ直ぐで頭脳より感情で動くタイプですって。玲華さん見抜いてますねー。そういうところとか考え方も似てるって。私もそれを聞いてからそういうふうにしか見えなくって」
舐められないように、わざとこんなだらしない格好してんのか。呆れながら久保田さんの下から上までを見てみた。
いつかと立場が逆だなとか思っていると、上に目線がいったとき、スゴい怒りのこもった顔をしていてビビった。
「あのアマー…余計なことをー」
拳が震えてる。てか、ちょっと待て。
「おい、玲華に八つ当たりすんなよ」
「おまえはこんなこと言われて平気なのかっ?」
「俺べつに、自分の部分は普通だもん」
「はっ!尻に敷かれるタイプだな、おまえ」
「俺にも八つ当たりすんなよ!」
先に先制しておく。
(どっちが尻に敷かれてるんだか)
祥子さんは、“私もそう思う”的なことを言ってるのに、怒りの矛先を祥子さんに向けようとしない。
まったく。どこが似てんだか。不本意なことに変わりはない。
でも似てんなら、コイツの尊敬できる部分もいつか習得できるだろうか。
そんなことを考えていたら、久保田さんは怒りを吐き出すようにため息をついていた。
それから思い出したように話を続ける。
「まあ、オレはもうお払い箱みたいだしな」
お払い箱?
「おまえの親父さんが、もう見張らなくて良いってさ」
それはまた勝手な話だ、と思った。
* * *
すべてやるべきことが終わったと思ったら、学校では期末試験が待ち受けていた。
というか、他の生徒は球技大会が終わってすぐそういうモードになっていたらしい。
なんとか全てやり終えた。結果は…………このさいどうでもいい…ということにした。意外と学生って忙しい。
玲華や世羅はきっと大丈夫だろう。普段から違うから。
そう思って聞いたら、玲華に失笑された。
「一応毎日予習復習してるからね。テスト前にだけ勉強するなんて一番無意味なことだと思うわよ」
「………悪かったな」
どうせ無意味タイプだよ。普段のいつそんなことをやればいいのだ?
いや、暇な時間は多少は…わりとたくさんあるが…。
試験が終わったら、夏休みがきた。
これまではその時間を潰すことで必死だった時期。去年は純平が相手にしてくれたんだっけ。
懐かしい。たった一年なのに、遥か昔に感じる。
(内容が濃かったから)
高校生活が。いろんな人と出会っていろんな事があった。これからもいろんな事があるんだろうな、って漠然と思う。
夏休みが入ってからは玲華がよく訪ねてくるようになった。いくら止めてもいつもの強引な押しで、なし崩しに気づいたら毎日のように一緒にいる。
そこから眞鍋さんの運転で、久保田さんの事務所に行ったり、玲華の家に遊びに行ったり、たまに秀和の家に訪問したりして過ごすのが日課になってしまった。
(気を遣っているのかもしれない)
母親も兄貴も入院中で誰もいない家。
玲華にとっては放っておけないだけかもしれない。なんだかんだ言って、学級委員なみの責任感で一緒にいるだけかもしれない。
父親が咲田さんにまで“見張らなくていい”と言ったと知ったときには驚いた。
咲田さんはもう来ない。
いきなり自分のことは全て自分でしないといけなくなった。
相変わらず父親は帰ってこないから真意がわからない。
(とうとう見放されたのかもしれない)
俺が兄貴も母親にもお見舞いに行くことを、父親は拒んだからそう思わずにはいられない。
考えると相変わらず胸が苦しくなる。
「きっとお父様もお辛いのよ」
夏休みが三分の一ぐらい過ぎた午前。
いつの間にかうちに居る時間が増えてきて、慣れ出した玲華がリビングの絨毯に寝転びながら言った。
というか俺がソファに飽きて地べたに寝ていたら、それにならって近くに座った。そこからやがて上半身も倒してきたのだ。
なんというか…居心地が悪いというか……。
(無防備すぎ)
パンツスタイルではあるけど、夏だから薄着だし目のやり場に困ってしまう。俺は主に天井を見上げていた。
なぜリビングかっていうと、家政婦が来なくなって部屋が汚くなったんだ。
久保田さんのことをだらしがないと言っていたけど、やっぱり俺もそっち側の人間だった。つまりキレイ好きではないという………。この歳になってそういうのがわかるのも、どうかと思うが。
「きっと、今さらどう悠汰と接していいのかわからなくて、悩んでいると思うわ」
そうだろうか。それならば兄貴とぐらい会わせてくれてもいいんじゃないか。まだ俺が元凶だと、疎ましく思ってるからこそ病院に近づけたくないんだろう。
(なにも変わってない)
兄貴に会えない分、もっと状況が悪くなってる気がする。
「でも良かったことだってあるじゃない?」
「良かったこと…」
「お兄様の気持ちを知れたじゃない。一人では難題でも子ども二人でタッグを組んで変えて行けばいいわ」
またあっさりと、いとも簡単なことのように言うんだから。
「未成年のうちはいくらでも親に迷惑かけていいのよ。まー、あたしみたいに聞き分けの良いところも大事だけどね」
「泣くぞ。理事長が。いろんな意味で」
「なんでよ」
ムスッと玲華がふくれる。どこが聞き分けいいんだよ。
何回か玲華の家に行かせてもらってるけど、あんまり理事長には会ってない。学生と違って大人には夏休みはないようだ。
(会ったところで叱られそうだけど)
理由はどうあれ、ウチのことで結婚式を欠席してしまったからな。
玲華も小百合さんも「大丈夫よ」って言っていたけど、そのときの様子があんまりすっきりとするものじゃなかったから、とてもじゃないが信じきれない。
「んでー今日はなにする?」
今日も遊ぶのが当たり前みたいに、すでに最近では間違いなくキーワードランキングの一位に輝いてる言葉を玲華が言う。
それから俺は、まるで合言葉のように「なんでもいい」と答えるのだ。
実際こんなことしていて良いのかなって思う。一人だけ暢気に。
玲華について行けば、それはそれなりに楽しいのだけれど、心のどこかに罪悪感が消えない。
「ねえねえ、悠汰ー」
ゴロンと玲華に背中を向けるように寝返りを打っていたら、後ろからその背中をつつかれた。
「じゃれんなよ」
「暇だよーどっか行こうよー」
「あのな、ガキが親にねだってんじゃねえんだから…」
「なにその喩え。そだ、もうすぐお昼御飯だよ。なんか食べよーよ」
「さっき食ったんだよ、俺は」
「もう………」
玲華の声が途切れた。
冷たくしすぎたかな、ってちょっと当惑する。つい反応して顔を向けたら、プニッと頬を人差し指で差された。
「やめろよな、そういうことすんの!」
はた迷惑なやつだ。
玲華の手を封じながら怒ったのに、当の彼女は楽しそうにひっかかったね、と子どもみたいに笑った。
(いや、怒ってない)
本気で怒れるはずがない。玲華には。
迷惑なんて思わない。それなりに…じゃない。本当はすごく嬉しいんだ。こうやって気にかけてくれることが。
気づいたら玲華の反応に一喜一憂してる俺がいる。気づいたときは、今より少し前で…。
玲華から目が離せないでいると、ふっと玲華から笑みが消えた。
目が合ったまま。
メイクをしなくても睫毛が長い。吸い込まれそうなくらい大きな瞳。
見つめたまま、それに俺は近づいていく。
玲華はそれでも逃げなかった。
それどころか、瞼がゆっくりと閉じられていく。
このところ様々な場面で動悸が速くなったけど、それらとは明らかに違う種類の高ぶり。高揚していく。
(あ…)
サッと心が引いた。
ダメだと気づいた。
(こんなんじゃダメだ)
あと数センチというところで俺は勢いよく体を起こした。
「ちょっとなんなのよソレは」
玲華が怪訝そうな声で責める。そうされても仕方ないことを、俺はした。
わかってる。だけどいけなかった。
(それが答えだろ)
最近とくに頭にめぐること。それが押し止めたのだ。
膝を曲げてそこに肘をのせ、全体重を傾けるように長いため息を吐き出す。憂いを含んだ面持ちで玲華も起き上がったのが視界に入る。
そんな心配そうな顔をすんな。俺が悪いんだ。玲華はなにも悪くない。
「まだ言ってなかったよな、俺の気持ち…」
「それはっ」
「聞いて!」
口を挟ませないように俺は遮る。
「悪い…けど、聞いてくれ……」
不服そうな顔をしてたけど玲華は黙った。ごめん。いつもこんなんで。
だけど最後にするから。
ふう、ともう一度長い息を吐き出してから俺は口を開いた。
「高校行っていろんなことがあったけど、気づいたら玲華がいつも隣にいて。最初はなんだこいつって…正直鬱陶しかったんだけど………」
「なーんですって?」
「いいから聞けよ、最初はっつったろ!」
まったく…。言葉はちゃんと選ばないといけないみたいだ。
「でもだんだん知っていくうちに、強さとか優しさとか目の当たりにして…、そういうところスゴく尊敬できるって思ってたし…俺は優しくないから」
優しくできない。余裕がなくて…。
「すぐ暗くなってネガティブになるけど、玲華が隣にいると、変わっていくんだ。変われたんだ。…玲華がいなかったら今の神崎家はないよ。俺はいまだに両親が脅威な存在で、兄貴は目的を達成していたと思う」
真剣に玲華は聞いてくれていた。何も口を挟まないで、ただそこにいる。
「俺が動けたのは、毎回、何度も諦めないで背中を押してくれた玲華のおかげだ。感謝してもしたりない」
落ちる度に隣にいてくれたから。学校でもここでも、数えたらキリがないくらいだ。
「だから玲華が殺されるかと思ったとき本当に怖かった。怖いんだ、お前といると。いろんなところで」
俺は両の手のひらを見つめた。
「玲華が母親と口論になったときもそうだ。おまえが強く立ち向かっていってんのに、俺は何もできなかった。玲華が俺んちのことで傷つくのは見たくない。嫌な思いをこれ以上させたくない」
玲華が身を乗り出してきた。そして遠慮がちに口を開く。
「あれは反省したの。あたし余計なことしたかなって…」
そんなこと思う必要ない。俺は頭を振った。
「違う。あのときも救われた気持ちになった。俺は嬉しかったんだ。玲華が言ってくれた言葉は全部、俺が言いたいことだったから」
でも代弁者になってもらうなんて、そんな甘えた考えは通用しない。本当は自分で言わなきゃいけないことだったんだ。
「だけどあの母親はそのまま俺なんだ。玲華との距離がこれ以上近くになると、ああなるんだってわかった」
意味がわからないというふうに、玲華が首を横に振る。俺はその目を直視した。
「血が、繋がってるんだよ。両親の血が。特に母親の攻撃性なところを俺は受け継いだみたいなんだ」
手のひらが震えだした。あのときと同じ。あの、兄貴に気づかされたときと…。
「いきなりキレることが、よくあるんだ。それが酷くなると物にも当たる。そういうのって人を不快にさせるってのはわかるんだ。でも冷静に抑えられる自信がない」
世羅が俺を怖がる理由。邦春と同じ人種。
「兄貴が自分にもその一面があったって言ってたけど、普段は冷静でいるんだ。兄貴はいれるんだ。でも俺はあんなふうにはできない。秀和みたいに気遣いができない。拓真みたいに穏やかではいられない」
言ってるうちに涙が溢れてきた。何回玲華のまえでこんなに情けない姿を見せれば良いんだろう。
でも最後だから。最後にするから、これで。
せめて、きちんと正しく言いたいことが伝わるように、俺は喋るだけだ。
「距離を保って、節度ある間柄ならそんな一面も出ないと思うんだ。でもこのままいくと、俺はいつか玲華を傷つけてしまう。あのときの母親みたいに手をあげてしまう」
俺は深呼吸を一度した。腹式呼吸で息を整える。
「もういいんだ。おまえみたいな存在がいたって知れただけで。幸せだから。救われたから」
だから…。
グッと気合いを入れる。最後の一言を言うために。
「だから玲華。おまえもうここには来るな。俺ももう、おまえの家とかあの部室とかには行かない」
玲華の眼が見開かれた。すごく驚いていた。それはそうだろう。
(ごめん…)
だけどこれでもう傷つけたりしないから。
つかの間…沈黙が流れた。すごく気まずい空気のなかで、それは永遠に続くんじゃないかと思った。実際には数秒だったと思うけど、俺にはそれくらい長く感じたのだ。
俺の責任だから必死に耐える。それから玲華がポツリと呟いた。
「冗談じゃ、ないわよ」
「玲華?」
窺うように玲華を覗き込むと、鋭い眼光を向けられた。本気で怒ってる。
「冗談じゃないわ!なんなのよそれ!バッカじゃないの!」
「なっ!ずっと真剣に考えて出した決断をバカだとっ!」
「馬鹿よ!人が黙って聞いてりゃー調子に乗りやがって!あげく最後がそれっ?信じらんない!!」
怒るだろうという予想はしていた。だけどそれは今まで見たなかで、一番激しい怒りだった。予想を遥かに超えてる。
「それだったら、おまえなんか嫌いだからっ!迷惑だからっ!顔も見たくないから二度と来んなって!そう言われた方がよっぽど清々するわよっ!」
ぼろぼろと、玲華の瞳から涙が溢れてきた。それを見て心が痛くなる。そんなこと言えるはずがないじゃないか。
「玲華………」
「何よ!あんたの気持ちを教えてくれるんじゃなかったの?」
「だから言っただろう。いま言ったのが、俺の……」
「違うわよ!」
なんとか説明しようとしたが、ピシャっと遮られた。
「尊敬とか感謝とかこの際どうでもいいわ!あんたはあたしのことどう思ってるか答えなさいよ!…って、好きか嫌いかってことよ!」
「そんなの好きにきまってんだろっ!」
勢いに押され俺も怒鳴る。抑えられない。
「なんでわかんねえんだよ!今の流れでわかんだろ!」
「わかるかーー!あたしはっ!あたしはずっとそこが知りたかったのよ!ずっとっ………ずっと不安で……」
テーブルに置いてあったティッシュボックスに手を伸ばし数枚引き抜くと、チーンと玲華は鼻をかんだ。少し呆気にとられる。
(不安って言った)
玲華がずっと不安だったって…。
気づかなかったわけじゃない。ただ見ないようにしていただけだ。
心のどこかで、玲華なら鋭いから、言わなくてもすでにわかっているとも思っていた。俺が不安にさせていたんだ。
「好きならいいじゃない。あたしがさ、そんなことでヤられるタマに見える?」
すんって鼻を吸うと、玲華が押さえた声で訊く。やはり簡単には納得しそうにない。でも俺は説得しなければならないんだ。
「玲華は強いと思う。俺なんかより何倍も。だけど力は俺の方があるんだ。何をしでかすかわからない」
俺でもわからないんだ。ちゃんと人と関わってきてないから。感情の行き先が見えない。
「あたしは悠汰の助けになりたいの。迷惑じゃないなら、嫌いじゃないなら傍にいさせてよ…」
なんでわかんないんだよ。だから駄目だって言ってるだろう。辛いんだ、一緒にいると。いろんな想いが湧き起こって押し潰されそうになるんだ。
覚悟を決めて俺は言う。最大の禁句を口にするような気分だった。
「本当はお前が嫌いなんだ!迷惑だから離れよう!」
「なによそれ!馬鹿にしてんの!」
だけど玲華はすぐに見抜いた。
この方法だって納得しないんじゃないか。さらに状況は悪化しただけだ。
彼女は両手を上げて俺の胸元を叩いてくる。何度も何度も繰り返し………。だけど全然痛くない。
(…っ!)
俺は阻止しようとその両手首を掴んだ。
(ほら、だから言っただろう)
少し意識を持っていくだけで、やってみると簡単だった。
(軽々と封じ込められる)
それから、そのまま玲華を押し倒した。手の動きを押さえ込んだままで上から睨み付ける。
「こういうことされたらどうする!」
玲華は驚いていた。そして悲しそうに顔が歪む。だけどそれでいい。
本意とは外れた行為。
これで嫌われても仕方がない。それで解ってくれるのなら安い対価だろう?
「どうやったって力では女は男に勝てないんだよ!こんなふうに自分の意思を無視されて!こんなことになってからじゃもう遅いだろ!」
泣いて帰ればいい。そしたら二度と来れなくなるから。悔しいけど、申し訳ないけれどこんなやり方しか見つからないんだ。
「あたしは……いいよ」
「!」
だけど玲華は澄んだ瞳でそんなことを言う。俺の方が意表をつかれた。もう歪んだ顔じゃなかった。
「あたしは悠汰のこと好きだもの」
なんでそんなこと言えるんだ。
強がりじゃない本気の言葉。それが突き刺さり、雷に打たれたように震撼する。
でも、と玲華は続けた。
「こんなことして、後から絶対悠汰は悔やむ。責任を感じて苦しむ」
「……………」
「だったらあたしは、あらゆる手を使って抵抗するわ」
全然怯えてない。だからといって怒ってもいなくて、力んでもない。真っ直ぐで曇りない目。
(バカ!)
だから無理なんだよ。その抵抗が出来ないんだ。
玲華は侮ってる。ただの脅しだと思ってるからこんなに余裕があるんだ。
(本気でやってやろうか)
これ以上修復できないくらいに、ぐちゃぐちゃに傷つけてやろうか。
どす黒い感情が渦巻く。
「ねえ。悠汰の方がつらそうだよ。………いま、悠汰の方が辛そうな顔してる」
「っ!」
思わず、手が離れた。
心が折れて玲華の腕を自由にする。俺は、負けたんだ。
確かに辛かった。玲華の目を見てられない。
それでも玲華を受け入れられなくて、背中を向けた。あのときの兄貴もこんな気持ちだったのかもしれないと、ふと思った。
「おまえ………。兄貴が俺にしたこと覚えてるか?ああいうことまで、俺はおまえにするかもしれないんだ」
卑怯な言い方をしてる自覚はあった。だけどもう、どうすれば玲華に伝わるのかがわからないんだ。
真っ直ぐ伝えても跳ね返される。どうしても負けてしまう。
「ねえ悠汰。あたしは本当に悠汰があたしを迷惑に思ってんなら諦めるわ…。悲しいけれど、辛いけど頑張って諦める」
後ろから聞こえる声は静かで穏やかだった。すごく時間の流れが遅くなる。そんな感覚に陥るくらい静かな間が空く。
「だけど……。今の話聞いてたら、悠汰はこれからもそうやって他人と距離を置いて接するって、ことよね。遠慮してっ!引け目を感じながらっ!そんな生き方するんだったらあたし、許さないわっ」
(また泣いてる)
声だけで判然した。
さっきはあんなに堂々としてたのに…。
なんでここなんだ。人のことだろう。関係ないだろう。
(玲華はいつも他人の為に泣いてる)
すべて忘れて放っておいてくれたらいいのに。いつもそうだ。
(だから優しい)
だから優しくない俺には相応しくない。
「いくら、なにを悠汰が言ったって、もう駄目なんだから。止まらないのよあたしだって」
もう一度玲華はティッシュを取ったみたいだった。気配でわかる。
「兄貴が言ったよな」
口を開いたら思ったより落ち着いている声が出た。一度落ち着いたら、もう先ほどのようなテンションには持っていけなかった。
「幸せな家庭に育った玲華にはわからないって…。あれ、すごく失礼な言い方だと思うけど、一理はあると思うんだ。暴力や虐待は連鎖を生む。それしか感情の表し方を知らないから」
そういうことなんだ。
両親から受け継いだものが真実としてここにある。善だろうと悪だろうと関係なく。連鎖は止めなければならない。俺は兄貴を止められなかったけど、これだけは絶対に譲れないんだ。
ドンって言葉を切った一拍くらい後に、いきなり軽い衝撃がきた。
(え…)
玲華が後ろから抱きついてきたって少し経ってから分かった。
「バカねえ。だったら、なおさらあたしといた方がいいわよ」
いつもの自信たっぷりな台詞を優しい口調で言う。
「あたしが教えてあげる。あたしが幸せな家庭に育ったってんなら、そんなあたしにしか出来ないことじゃない?それって」
心が僅かに動いた。暖かい心が接触している背中から伝わってくるようだった。
体温は熱く感じる。
(知ってる)
記憶にはないけれど、おそらく俺は知っていた。その暖かさ。母親に抱かれたことを体が覚醒する。
玲華の言葉をもっとちゃんと聞きたくなった。だから彼女の方へ体を横に向かせた。
そしたら。
射るような視線でガンを飛ばしてきた。
今までとは違うところでたじろぐ。
「だいたいあんた深く考えすぎなのよ、しかも暗く!」
「玲華?」
「自分を大事にしない奴ってほんっとムカつくのよねー!しかも自分を知らなすぎるわ」
ずっと俺に抱きついたままなのに、その言葉はキツい。先ほどまでの柔和さが皆無だ。
(なに……?)
頼むから誰かこの状況を説明してくれ。彼女はどうなったんだ?
「あんた今、自分は優しくないって言ったわよね。あたしからすれば優しいと思うわ。あやなちゃんだってそう言ってたじゃない」
「勘違いしてんだよ、櫻井は……」
「失礼なこと言うんじゃないの!あんたが言う優しさってなに?ヒデみたいによく気がつく感じ?萩原くんみたいに柔らかな空気を相手にも与えてくれること?」
「関係ないだろ、いまは」
「大有りよ!いままでの悠汰は暴力だけじゃなかったって言ってんの!」
(あ…)
繋がってたんだ、ちゃんと。
「でも俺は…」
「悠汰、あたしがさ綾小路に押し倒れそうになったとき助けてくれたじゃん」
玲華の勢いが弱まった。少し気恥ずかしそうに、下を向いている。
「あんなの、誰だって通りかかったら…」
「助けない人だっているわ。もっと最低な男なら参戦してきたり、それをネタに脅すかもしれない」
「それは………」
「それにあたしが気づかないとでも思った?悠汰、あの日をきっかけに、しょっちゅう部室に来てくれるようになったじゃない?心配してくれてたんでしょ」
「あっ!」
つい大声が飛び出し慌てて片手で口を覆う。だけど玲華はしたり顔で微笑んできた。
バレてた。恥ずかしい。
確かに…、気になっていた。
いくら本人があっけらかんとしていたって、本音では怖かったかもしれない。そう思ったから。
「なんで……」
「なんでわかったかって?バレバレよ。だってあんた毎日じゃなかったけど、基本的に綾小路が帰ったらすぐに自分も出て行くんだもの」
完全な敗北感。俺はがっくりと項垂れた。
(敵わないなーもう…)
ほんとに。敵わない。玲華には。
もう、言うべき言葉が見つからない。何を言っても無駄だった。
俯いていると玲華の手が動いた。後ろから、もう痕も残ってない首元にいく。
「ねえ。come with tomorrowの歌詞覚えてる?」
囁くように言ってきた内容は、また話が飛んでいた。きっと玲華のことだから何かに繋がるんだと思って、俺は頷いた。
あれだけ聴かされたんだ。嫌でも覚えていた。勝手に聴き続けたのは俺だけど。
「ああ」
「あれね、あたしの気持ちにピッタリだったから好きになったの。あたしが感じる悠汰への気持ちに」
「俺は……あまり好きになれなかった」
素直に俺は言う。
「どうして?」
「明日がくることの何が大丈夫か、どうしてもわからなくて。今日も明日もずっと同じような日々が続くと思っていたから……」
「これからは変わるわ。この歌詞はね、一緒に明日を迎える人がいるってことが幸せに繋がるって、そう唄っているの。だから一緒に歩んで行こうって誘ってるのよ」
ああ、そうかもしれない。
玲華がいるから変わる、のか。
これは認めざるをえない。
だってこんなに胸がスッキリとしていて軽い。
だからね、と言って玲華は俺の頬に触れて、顔を少し持ち上げられた。目線が合う。
そして彼女から近づいてくる。先ほどと同じところまで。
彼女の紅潮した顔をすごく近くで見た。
「いい?」
短く訊いてくる。吸い込まれそうで、即座に頷きそうになる。
だけどふと心が変動した。
泣きそうになるのを必死で堪える。
「ダメ」
そう呟いてから。俺は。
力なく降ろしていた手を玲華の耳の下辺りに触れて、自分からキスをした。