第五章 ・・・ 4
そこはそんなに広くない会議室だった。十五人くらいで定員いっぱいになる。
長机を四つ真ん中に置いて向かい合わせになるようになってるみたいだ。普段は。
今は散在していた。机のひとつが横になり、その周辺の椅子や机は端の方に無造作に押しやられている。
その奥で、壁にもたれながらうずくまる男性。白衣の裾あたりから血に染まっている。
いやよく見ると脚が…右の太ももあたりが一番酷い。
父親だ。
脚を抱えて痛みをこらえてる。
入った瞬間には机が邪魔して見えなかったが、その隣、少し離れたところに母親が血だらけで倒れていた。こちらは父親よりたくさん血を流しピクリとも動かない。遅かった?
「死んで、るのか?」
ねとりと絡みつく恐怖で喉が渇く。無理やり口を開いたら掠れた声が出た。
「まだだよ。邪魔するから動けないようにしただけ。だって先に親父を殺りたいからね」
兄貴は俺とは相対的に落ち着いていた。玲華と世羅を入れてから、また鍵をかけたみたいだったけど、俺は両親から目が離せなかった。
父親が……いる。ずっと脅威な存在だった父親が、今は苦しそうな顔でうつむいている。
本当ならば駆けよって、無事か確かめたり人を呼ぶなりするべきだと思う。
だけど動けなかった。
血の臭いが充満していて、あの日事件を目撃したときより、何倍も怖い。知ってる人だからだろうか。
玲華と世羅がどんな顔でこの場にいるのか、窺う余裕さえなかった。だけど二人とも黙ってる。俺も、すぐには何も言えなかった。
その中で兄貴が一人悠然と構えていた。
わからない。こんな大変なことを仕出かしている張本人なのに、なぜ堂々とできるのか、わからなかった。
「悠汰。思ったより速かったね」
ずっと笑みが消えない。嘲笑でも冷笑でもなく、本物の笑顔。
(なまえ…)
悠汰って…。名前で呼ばれたのは子どものとき以来だ。
この笑顔も世羅に向けていたのと少し違う。解放された、なにも隠すことがなくなったゆとりある笑顔。余裕の破顔。
子どもの頃に戻ってるんだろうか。精神が?
名前で呼ばれたのに、嬉しいはずなのに…いまはただ哀しいだけだった。
「あ、兄貴…」
兄貴が思いとどまるようなことを、言わないといけない。ちゃんと抑止力にならないと。
なのになにも言えないでいると父親がこちらを見据えてきた。
目が合った。深い憎悪がそこに含まれている。俺に向けて。
あ…。
一瞬でわかった。
父親のなかで俺のせいになってる。理解するのと同時に、父親が荒い息を隠さず怒鳴りちらした。
「どこまでもおまえはお荷物だな!惣一になにを吹き込んだ!」
「俺は…なにも………」
「嘘をつくな!足手まといなヤツめ。デキが悪いなら悪いなりに邪魔だけはするなと前から言ってるだろ!」
「あ……」
父親の罵声は、俺に耳を塞ぎたくなる衝動にからせた。
聞きたくない。みたくない現実。
「まだそういう…」
兄貴からの発せられた本気の声で、何かの前触れを感じた。
背筋が冷えた。動く。
兄貴の足下が動くのと同時に、俺は全部の力を込めて兄貴の体を押さえた。
「もうやめろよ!もういいだろ!」
兄貴の動く意志が止まって俺を見る。一瞬消えた笑みが戻っていた。
変わらないそれを浮かべながら、つとナイフを持つ手を上げた。
「悠汰もやる?」
誘ってきた。殺すかと聞いているんだ。
見たくなくて、顔を伏せながらも頭を振った。
「俺はしない!」
そんなことしたって報われるわけじゃない。本当の望みは叶わない。
(望み…)
ずっと認めたくなかった。俺が両親の愛情を渇望しているなんて……。
(そうだ。俺は期待していたんだ)
いつか両親が理解ってくれることを。
考えないようにしてたけど、いつも家族の後を追いながらいたあの日………背中しか見れなかったあの頃からずっと、振り向いて欲しかったんだ。
最初は両親にだけだったけど、それは大きくなるにつれて兄貴も含まれるようになった。
(俺も期待していたんじゃないか)
結局、みんながみんな、自分勝手に自分の欲望ばかり押し付けていたってことか。
「世羅に聞いたよ。なあ、俺のためってんならやめてよ。俺は嫌だよ、こんなやり方。全然嬉しくない!」
世羅の名前を出したせいかもしれない。兄貴が少しよろめいた。それからナイフを持ってない方の手で自分の顔を覆う。
「世羅、か………。世羅ね」
僅かに肩を揺らして息だけで笑う。
そして次に見せた顔には残虐な相貌になっていた。どのタイミングで切り替わったのかはわからない。
ゾクリとした。
柳田に感じたものと似ている。だけどあちらは不釣り合いな、読めない笑顔。兄貴のはすごい重たいものを、かなりの量抱えたようなそんな辛さが兼ね備えられていた。
「まったく…失敗だったよ。梶剛志とは事務的なやり取りで済んだものを…」
「惣一さん」
世羅が慈しむように呼ぶ。
だけど兄貴は俺の方を見たままだった。
「違う。彼女の前では格好つけていただけだ。本当は俺が我慢できなくなったんだ」
「なんで?」
知りたい。兄貴のことをもっと。なにがそうさせたのか、ちゃんと聞きたい。
「あと二年我慢したら成人だろ。そしたら自由になる。兄貴ならあいつら説得することだって出来るだろう。出来なくたって、カオ広いみたいだし自立ぐらい…」
「それで?おまえはどうする?」
え……。俺?
不意討ちなことを切り返されて、頭が真っ白になる。
兄貴は俺から離れた。力が入らなくてすんなり離してしまう。だけどすぐには父親のところに行ったりはしなかった。
「俺だって完璧じゃないんだ。ミスだってする。覚えてないか?俺が今までで一番最低点をとったときだ。親父もお袋もおまえを責めた」
「え?」
あまりまわらない頭で、それでも探したけどそんな記憶はない。
「すべておまえに暴力という形で鬱憤が吐き出されたんだよ。見ているだけで俺まで痛かった」
「あ………」
思い出した。
小学生のときはいつもビクビクしながら家に帰っていた。
その中で一度だけ帰ってすぐ、理由もわからずに折檻を受けたことがあった。たぶんそれだ。
前に夢で見た。過呼吸のときの会話。最後の声は兄貴の声だった?
(やっぱり…)
重荷。
(俺のせいなんじゃないか)
俺がいるから、兄貴は家から離れられなかったんだ。また同じようなことが起きないように、言いなりになってた?
考えたこともなかった、そんなこと。お荷物。否定できない。
「そうだ。俺は大事に育てたんだぞ、惣一。そのお返しがこれか?」
父親がまた声を挟んできた。
なんにもわかってない!浅はかな内容。
俺は苛立ちを覚えて叫んだ。
「うるさい黙れ!」
これまでなら言えなかったことだ。
(だってあいつは俺には言ってない)
いつもそう。俺は無視だ。だけどいまは黙らせなければならなかった。
これ以上兄貴の殺意を刺激してはいけない。それだけだった。
俺も父親は無視してた。兄貴のことだけ。
「だったらなおさらっ!こんなことすんなよ!今ならまだ間に合うよ。なあ、出ようぜ、こんなところ」
「わかってないな、もう遅いんだと前に言っただろう?ここまできてやめるわけにはいかないんだよ」
兄貴がまた笑った。壊れた笑顔。
「俺はおまえを殺してでも実行する」
兄貴の標的が俺に向いてきた。母親と同じだ。
邪魔するやつから黙らせる。
ああなるのか俺も。
「すべてが壊れることは覚悟の上だ。俺はこれで解放されるんだ」
兄貴の腕が上がり、ナイフが俺に向かってくる。
(馬鹿野郎!)
もう何も兄貴の耳には聞こえない。届かない。抑止できない。
俺が後ずさろうとしたとき、ドンって右腕に当たるものがあった。
ずっと後ろで黙っていた玲華の頭が、気づいたら前にあった。
「させないわ!」
「玲華…」
「冗談じゃない!悠汰は立ち向かおうとしてんのに、あんたはなに?解放されたいですって?」
「やめろ!玲華!」
兄貴は本気だ。本気で邪魔者を消そうとしている。
そんなときに出てくるな。
だけど玲華は止まらなかった。
「そんなことしても解放なんてされるわけないじゃない!余計に重いもの背負い込むだけよ!なんでそれがわからないの」
ばか!有無を言わさず玲華の腕を引く。
こんな庇われ方は嬉しくない!辛いだけだ。
「君みたいな幸せな家庭の子にはわからないだろうな。いつも親の機嫌ばかりを窺いながら生活する子供の気持ちは」
俺と同じ。同じことを兄貴も思っていたんだ。もうずっと長い間。
もっと早く知っていれば良かった。
「悠汰。おまえ昨日死にかけたとき、どんな顔をしたかわかってるか?」
ふと思い出したように兄貴は言う。
「安らかな顔で笑ったんだ。これから死ぬってときに……。おまえは死にたかったんだって気づいたよ」
あのとき…自分がどんな顔をしたかなんてわかる余裕も手段もない。
だけど確かに諦めた。生きることを。俺も解放されるって思った。
「だから最後まで止めをさせなかった。あのときは辛かった。こんなに追いつめられてるとは思わなかったんだ。いや、考えないようにしていただけだな…。自分の自由のために」
兄貴の後悔が伝わってくる。
(それは違うよ…)
俺はまだ追いつめられてない。何もしていない。できてない。
「惣一さん」
世羅が兄貴に近寄った。
そうだ、彼女になら止められる。俺の言葉が届かなくても、同じところを目指し過ちに気づいた彼女なら、俺より近い。
どこか悔しいけれど仕方がないんだ。
それに俺の勘が正しければ、兄貴は世羅が好きだ。梶さんみたいに事務的に計画が遂行できなくなるくらいには………。
(俺だったら玲華の言葉で止まる)
「そんなつくろうようなものではなかったでしょう?本心から神崎のことを想っていた。私にはそう見えました。だからもうやめにしましょう」
「君は、理解してくれてると思っていたよ」
「いいえ。私は貴方と会う度に感情移入をしていました。貴方となら行くところまで行ってもいいと…。だけど私は間違っていた」
きっぱりと世羅は断言する。
「もっと早くこう言うべきだった。私は貴方を兄のように慕うようになっていたから。……でも、言えなかった。心のどこかで警告がなったのに」
「警告?」
「玲華の言う通りだよ。こんなことしても余計に辛くなるだけだ。貴方が辛くなる」
「俺が?」
兄貴の顔に迷いが見えてきた。
あと一歩!
あと一言足せば止まるんじゃないのか。
そう思った矢先だった。俺たちは皆油断していた。兄貴も動揺していたんだと思う。
俺たちの左側。窓の下から動く者がいた。
父親が……最後の力を振り絞り移動したんだ、と俺の目がとらえたときには、遅かった。父親はすでに兄貴に突進していた。
そして兄貴からいとも容易くナイフを奪い取ると、そのまま俺にそのナイフを………。
(え…?)
思考が止まった。あまりに思いがけない行動で、対応が出遅れた。兄貴の方が接触した分反応が速い。
俺は激しく引き寄せられ、何かが衝突した。兄貴越しに。
音はなかった。無音。
「あっ……あ…………」
あまりの驚愕に言葉にならない。
息をしているかどうかわからない。苦しいかどうかもわからない。
やがて、兄貴は俺の足下にずり落ちた。背中が見えるようになると、そこにナイフの柄から先だけが見えた。そこから中心に液体が広がっていく。
その場所は知っていた。梶剛志が刺された部位と同じだ。
「ははっ…は…………」
父親が力なく息だけで笑って座り込んだみたいだった。
瞬間的に感情が爆発する。怒りなのか憤りなのか哀しみなのか、わからない感情。
あまりに複雑でまず何から行動に移すべきか揺れる。
父親を殴りたい。兄貴の血を止めたい。誰かに泣きつきたい。
よくわからないなかで衝動だけが突き上げる。
「なにをしている!」
鍵がかかっているはずの会議室が開かれた。同時に聞こえる久保田の声。
それから何人もの大人が続いて入ってきたのが足音でわかった。
それが合図になった。
「うああああああああああああああ!!」
濁った雄叫びを吐き出す。
そうしないと胸が押し潰されそうだった。少しでも感情が弱まればいい。目の前の映像が消え去ればいい。そう思って声を張り上げた。
なのに、いくら叫んでも目の前の状況は変わらなかった。
「悠汰!」
久保田の声がもっと近くから聞こえる。
―――押さえつけられる。
そう直感したら弾かれたように素早く俺の体が動いた。どこにそんな力があったのかは知らない。俺は兄貴の体を抱き上げていた。
そしてすべての人間から遠ざかるように、一番ドアから離れた奥の壁にぶつかるように背もたれた。
「誰も来んな!寄るな!近づくな!」
制限が外れて本能のまま叫ぶ。制御の仕方なんてしらない。
ただ兄貴を渡したくなかった。
もううんざりだ。上っ面しかみない大人には渡さない。どうせまた子供のせいにされるんだ。
孤島のなかで兄弟ふたりだけ。そんな感覚に陥った。
俺が護るんだ。
護ろうとしたんだ。
護りたかったんだ。俺が。
「誰も近づくな!渡さない!渡さない!」
信じない。兄貴がいなくなるなんて。許さない。
兄貴を大人に渡したら離される。そんなことになったら二度と会えない。あの親ならきっとそうする。
ひどい。こんなのってない。
やっと兄貴の本音が聞けたのに。もっとちゃんと話したかった。
「俺がっ馬鹿だったからっ」
声がうまく出ない。苦しい。
目の前が霞んできた。いくら焦点を合わそうとしても、よく見えない。
「悠汰!落ち着け!」
久保田がなにかを言ってる。だけど見えない。それでいい。もう何も見たくない。
「俺だけ…置いていくなよ、兄貴……」
当の本人は辛そうに顔を歪めたまま何も言ってくれない。
兄貴の体を支える腕にナイフが僅かに触れた。ふと気づく。そうか俺も同じになればいいんだ。同じことをすれば兄貴に置いていかれることはない。
「やめろ!抜くな悠汰!」
俺の意識はナイフにしかなかった。 同じところを刺せば、息苦しさも消えるし兄貴と同じ……一石二鳥じゃないか。
俺はナイフに手をかけた。
「やめて!悠汰!」
別の声。久保田じゃない。
もっと高い女性の悲鳴のような制止。
(れい……か…)
玲華…。
ああ、そうだ。玲華がいたんだ。ここには。
他にも護らないといけないひとがいた。護ると約束したひとが。
「っ…!」
俺はナイフから手を離し、変わりにもっと兄貴を抱き締めた。
喉が焼けるように熱い。上手く声帯を扱えずに息だけが漏れる。
兄貴の肩あたりに額を押し付けて、ただ耐えるしかなかった。
水分が染みていく感触が伝わる。そこで、俺は泣いているんだと気づいた。泣いていたからよく周りが見えなかったんだ。
気づいたところで、堪えられなかった。皆が見てるのに止められない。
「ゆ……た…………」
耳元に微かに兄貴の声が届いた。
生きてる。
兄貴の顔を覗くとうっすら目を開けていた。
(生きてる!)
「あ、あに………」
まだ声がうまく出ないで、唇だけがむなしく動く。
「悠汰…」
変わりに兄貴は弱々しくもしっかり俺を呼んだ。両の双眸に俺が写る。
「なにを泣いてる?」
言いながら兄貴は右手をゆっくり上げた。
血に染まった手で俺の頬に触る。だけどまったく不快じゃない。
むしろ嬉しかった。兄貴が生きてる。俺の涙を拭ってくれた。まるで子供のときに戻ったみたいだった。
そうじゃない。もともと優しかったんだ、兄貴は。変わらないで。俺が気づかなかっただけだ。
兄貴の手のひらがそのまま俺の首元に移動した。昨日と同じ。
でもまったく違う、優しく触れる感覚。
「もう、怖くないか?」
ちゃんと気づいてた。地下室で反応した俺の恐怖に。それで気遣ってくれている。
怖くないよ。
即答したかったけど、やっぱり声が出なくて、ただ首を縦に振る。
あのとき玲華が癒してくれたんだ。
「良かった。トラウマをもうひとつ増やすところだった」
「あ………うっ…ううっ……」
やっと出た声は泣き声だった。ちゃんと話さないといけないのに、嗚咽しか出ない。
(違うよ…違うんだ…)
「トラウマなんっ、てない………。そうなるまえに、逃げたから………」
何とか息を繰り返し、唾を飲み込み喉を整える。
「俺だって同罪だよ、兄貴。逃げることだけ一生懸命で……俺も、兄貴のこと拒絶してたからっ。見ないように…避けてっ………」
ダメだ。最後まで言えない。
ちゃんと兄貴は話してくれたのに。俺も伝えないと…。言葉にしないと伝わらない。
「ごめん、兄貴。……ごめん」
ガキで、苦労かけて、不甲斐ない弟でごめん。強くなるから。一人立ちできるくらいしっかりするから。
そのとき兄貴が笑った。痛みを堪えるようにしてたから、いびつだったけど一番清廉な笑顔だった。
それを見て安心したんだと思う。
俺もそこから意識がなくなった。
悔しいけど、気づかなかったけれど、興奮状態が続いてあまり呼吸が出来てなかったんだって、後から知った。