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第五章 ・・・ 2

 二人が落ち着くまで、俺も兄貴もなにも言わなかった。

 兄貴はもう抑制したのか、いつもの冷静さを取り戻していた。

「で…、君はどうやってここが?受信機とは何のことだ」

 玲華に向けて、兄貴から話が戻された。まだ世羅にべったり抱きついたまま、玲華はちらりと俺に一瞥をくれる。言ってもいいかを決めかねているんだ。

 俺はそれに頷いてから、自分から話した。

「オヤがさ…発信器つけてたんだ。俺はこの腕時計らしい。で、探偵がそれを利用してたんだと。父親がくれたもんだから、兄貴のも多分そのうちのどれかじゃない?」

 自分でも意外なほど投げやりに聞こえた。兄貴は面食らったような、怒りたいような複雑な顔をしていた。

「知っててよくつけていられるな、おまえ」

「いや、今日はなんかの役に立つかと思ってだけど…」

 これが終われば腕時計はどうなるんだろう。どうするだろうか、俺は。

 知ったときはすぐにでも捨ててしまいたかったけれど、時計の存在に慣れてしまってるいま、外すのは心なしか寂しくもある。

 新しいのが欲しいなー、……カネないけど。

「ならば俺のも腕時計だろう。だが俺は我慢ならない」

 兄貴は思い切り嫌悪感を表情に出しながら、ポケットからナイフを取り出した。

 バタフライナイフ。

 兄貴の殺意を思い出した。間違いなく柳田を殺すつもりで来ていたんだ。嘘や冗談だとは昨日の態度では思えなかったけど、実際に凶器が目の前にあると、背筋が凍る。

 それをどうするつもりだろう。

 刹那、バカな考えがよぎった。不意に自分の首元に手がいく。

 ―――次に邪魔したら殺す。

 いまがその次になるんだ。

 固唾を呑んで見守っていると、兄貴は右手のナイフをすっと上げて、自分の左手首についてる時計の文字盤部分に振りおろした。

 ガキッといって突き刺さる。そのままナイフごと腕時計を引きちぎって、床に投げ捨てた。

 壮絶なものを見せられた感じがした。力加減を誤ると、自分の身まで傷つくだろうに。

 兄貴は躊躇いなく、そんな壊し方を選んだ。

(それだけ許せないんだ)

 兄貴は仕上げというように、腕時計を踏みにじる。

(もしかしたら兄貴も…)

 俺と同じように。

(嫌気がさしていたんだ)

 家族のこと、憤りを感じていたんだ。

 兄貴はなんでも出来て、自分の意思で勉強を頑張っていて。満足しているんだと思っていたんだ。

 だから池田は兄貴と話し合えと言ったのか。確かに、兄貴の存在を遠ざけていたときからは考えられなかった一面を、ここ数日でいくつも見ている。

 知らなかったんじゃなくて、見ようとしてなかったんだ、俺が。

 まだ知らない部分がありそうだ。

「兄貴はなんでこの事件に関わってんだ?もう教えてくれてもいいだろ!」

 きっとそれがそこに含まれてる。

 一度知ってしまえば知らなかった頃には戻せない。だけど、知らなくちゃいけない気がした。無ではないから。事実としてそこに、すでに有るから。

「昨日言ったこと忘れたのか」

 兄貴はその一言のみで拒否した。

「イヤだ。教えてくれないと、イヤだ」

子供(ガキ)か」

「ガキだから…、どうせ上手い交渉術とかわかんねえけど。兄貴がそんな、殺意とか持ってんのはイヤなんだ!」

 兄貴がジリジリと俺に寄ってきた。手にはまだナイフを持ってる。

「知ったところでおまえに俺は止められない」

「わかんねえだろ、やってみないと」

 口からは立派なものが出たが、気圧されてしまって、俺は兄貴が寄る分だけ後退した。狭い地下室ではすぐに壁に阻まれる。

「ちょっと何してんのよ!」

「動くな!」

 玲華が立ち上がって止めようとするのを兄貴が制した。

「ねえ…、ずっと気になってたんだけど、悠汰の首…」

 だけど玲華は黙ってない。兄貴は俺から目を離さず不敵な笑みを見せる。

「うるさいから俺が絞めた」

「なっ……」

「息の根を止めた方が良かったか?」

 最後のは俺に聞かれた。

 ―――死にたかったか?

 なぜかそう訊かれた気になった。

 おかしい。変だ。確かに恐いけど昨夜ほどじゃない。

(殺気がない?)

 これは威嚇だ。

 ―――殺したいのは俺じゃない。きっとそれは真実。

 なのに、息苦しさを、殺されかけた恐怖を、()()()覚えてるみたいに震える。

「絞められるのと刺されるの、どちらが良い?」

(っ―――!)

 兄貴はナイフを持ってない方の腕を持ち上げ、再度俺の首に手をかけようとした。反射的に首をすくめる。

「惣一さん」

 女性にしては低い声が届く。落ち着いたものだった。兄貴がピタリと手を止める。

「もう、やめよう。私はもういいです。柳田を殺さなくてもいい。すみません、半端なことを言って。迷惑かけて」

 数秒なにかを考え込んでから、兄貴は俺から離れた。

 それからやっと俺は呼吸をした。気づかぬうちに、息をすることを忘れていた。手を胸元にやる。心臓がバクバクと激しく脈打っていた。

「先ほども言ったが、証拠がまだ弱い。それでも?」

「ああ。復讐に人殺しなんてやっちゃいけない。それがわかったんです。だから惣一さん…」

「わかった。謝ることはない。なんとなくそう言うと思っていたよ」

 兄貴は世羅と玲華の横を通りすぎ、一番大きい家具の梱包を、ナイフでザックリと切り裂いた。

 何を始めたのかと俺たちが見守っていると、一番大きい家具の全体が現れた。

 縦二メートル横四メートルあるかと思う、黄褐色の棚だ。四つの細長い棚がくっついてる。まん中はガラス制の扉で中が見えるようになっていた。高級そうだ。

 その棚の一番下の引き出しを、兄貴は引き抜いた。一番下から二つ分は、二列連なってるからかなりの幅がある。

 それをまだ窓ガラスが散乱したままの場所に、裏返しにして置いた。窓から伸びているロープより少し手前。

(あ……)

 意図がわかった。

 その上に、次に大きい引き出しを乗せていき階段に見立てていく。それでも最初のひとつ以外は、すべて同じ大きさだったから、ロープまではまだ届かない。

 兄貴は階段として使えるように合計五段分を置くと、世羅の方を向いた。

「契約は破棄だ。いずれにせよ、もうこんな状態だから最初の計画も使えなくなってしまったしな。君は自由だ。だが俺は本来の目的を果たすよ」

 そう言うと兄貴は世羅に微笑んでから、ロープを見あげた。それから、ふと思い出したように俺の方を一度見る。

 それから兄貴は助走をつけて階段に飛び乗り、ロープに向かって跳んだ。

「足りない!」

 焦りの声が出る。

 でも兄貴は慌てず、勢いを足したすべての力で、バタフライナイフを壁に突き刺した。それを支えに左手を伸ばし、ロープにたどり着く。

 すごい。こんな手があるんだ。思い付かなかった。

 あとは腕力だけでロープを登っていき、窓から外に出る。壁にはナイフが取り残され、やがて落ちた。

「邪魔されたくないからロープは預かっておく。心配しなくても助けは呼んでおくよ」

 兄貴はロープを回収すると、本当に消えていった。

 置いていかれた。本来の目的をやり遂げるために、行ってしまう。

 本来の目的って?

 回転が遅くなってる頭でなんとか考えられることは、(ただ)一つだった。

(誰かを殺しに?)

 誰かって?

 柳田じゃない。柳田はもう殺さなくても良いと世羅が言った。

 じゃあ誰だ。振り出しに戻った気分に陥った。

「神崎!惣一さんを止めろ!」

 俺の思考を打ち破って世羅が言う。彼女はまた泣きそうな顔になっていた。

「え?」

「あんな優しい人に人殺しなんてさせたらいけない!きっと一生後悔する!良心の呵責(かしゃく)にさいなまれる」

「え?」

 もう一度俺は聞き返した。こんなことを世羅が言うとは思わなかった。驚いたというのもあるが、やっぱりまだ頭がちゃんと働いてない。

  変わりに玲華が訊く。

「どういうことなの?世羅、ちゃんと最初から説明してくれる?」

「ああ。すべて説明しよう。私が聞いたことも含めて……私が知ってることは全部話す」

 世羅は少し目を伏せて語り出した。

「もともとの始まりは、私があの男に再び目をつけられそうになったことだった」

「なんですって?」

 玲華が眉をひそめて不快感をあらわにする。

「私の部屋にあいつが夜中に押し掛けてきたんだ。高校入学して一ヶ月くらい経ったときだ。成長したな、とかなんとか言って、おぞましい笑い方をしてたよ」

 世羅が思い出したように青くなって震えた。本当にあの浅霧邦春はろくな男じゃない。

「それをたまたま梶さんが通りかかって、助けてくれたんだ。梶さんは本当に優しくて、いつもこんな私の味方をしてくれていた。……そのとき、梶さんは言ったんだ」

 一旦、世羅は言葉をきって空を見つめた。まるでそのときのことを思い出しているようだった。

「私はいつでも護れるわけじゃない。すべての原因を排除しなければ駄目だと…。そう、今から思えばそのときから梶さんは計画していたんだ。あの男の殺害計画を」

「ええっ?」

 狙われていたのは柳田ではなく邦春?

「梶さんは返り討ちにあったんだ」

「でも実際に殺したのは柳田だろ?」

「そうだったの?」

 混乱して口を挟む俺の言葉に玲華が驚いた。そう言えば玲華には、ここに閉じ込まれている経緯をまだ話してない。それどころではなかったから。

「私も今日知ったよ。あの男を揺さぶるつもりが柳田が現れたんだ。最も呼び出して揺さぶる役は惣一さんで、私は大人しくしていなければならなかったんだが…。じっとしていられなくて来てしまったところを、あの男に見つかった。それで、もうひとつ所有してるこの倉庫に連れ込まれたんだ」

 そうだったんだ。すぐに兄貴を連れて来ることが可能だったのは、この倉庫街のひとつで対面してたからなんだ。

「それで兄貴はどこから関わりを?」

「ああ、そうだったな。飛ばしてしまった。梶さんの話しに戻そう」

 世羅は長い長いため息を吐き出した。疲労の色が見える。

「殺意を覚えた梶さんは、インターネットでいろいろな殺し方を検索していたようだ。完璧な殺し方を…。無論足がつかないようにネットカフェに行ったんだろう。そこである殺人サイトにたどり着いた。……そこで知り合ったのが惣一さんだ」

「えっ…」

 俺は言葉を失った。思いもよらなかったところで兄貴の名が出た。

「梶さんと惣一さんは、時々会って殺人方法を相談するようになったらしい。そこでお互いの情報を交換した。そのとき、神崎のことも聞いたんだろうな。…そんなとき起こっていたのが通り魔事件だ。背後からタガーナイフで一突きで殺す方法。それなら出来ると惣一さんは梶さんに教えた。そう、二人が計画していたのは、交換殺人だったんだよ。この騒ぎに紛れてお互いの殺したい相手を殺そうと…。そうすればアリバイは完璧だし怪しまれることもない」

 混乱する。

 一気に入ってくる、卒倒しそうな情報が多すぎて、くらくらする。立っていられなくなって、壁に沿ってずり落ちた。

 だけどまだ終わりじゃない。ちゃんと聞かないと。誰を殺したいのか聞かないと、いけない。

「その話を、梶さんは私にだけは話してくれた。だからもう心配いらないと。惣一さんから聞いた殺害するのに必要な知識も私に教えてくれたよ。恐らくだが、そのとき柳田は聞いていたんだな。その帰り、梶さんは殺された。通り魔の犯人と同じやり方で!」

「どうして柳田さんは梶さんを?」

 玲華がそっと世羅を気遣うように訊いた。

「そこは私も最近知ったが、お母様や叔父様たちは脱税をしていたんだ。柳田はそれを傍にいて知った。そのなかであの男に目をつけ、脅迫して金を受け取っていたらしい。あの男が死ぬとせっかくの金づるがいなくなってしまう。それでだろう」

「それがあの裏帳簿ってわけね」

「知っていたのか…。あれは私が嗅ぎ付けて盗んだ」

「あら?そうなの?」

 じゃあ久保田さんは何してたのかしら、と玲華はひとりごちた。

「あの男が犯人だと思ったんだ。だけどヤツにはアリバイがある。他の人を使ったんだと考えた。でもどうしても梶さんを殺した証拠が掴めなかったから、脅しをかけようと」

「それっていつ?」

「あのパーティの二日前だ。柳田含めた使用人たちが、いきなり決まったこともあって準備に忙しそうにしていたからな。その隙に」

「あたしたちも同じことを考えたわ。ちょっと遅すぎたみたいね」

「パーティに兄貴が来たのは?」

 久し振り声を出したら、ちょっとかすれた。世羅のトーンが少し落ちる。

「梶さんが亡くなってから、私はずっと空虚だった。何かをしないといけない気はあったんだが、なにをすれば良いのかわからない。それで思い出した。惣一さんの存在を」

 そんな素振りは感じなかった。俺は気づくことが少なすぎる。

「梶さんに学校を聞いていたから、会いに行くのは容易かったよ」

「高校まで行ったの?」

 玲華が目を丸くした。

 ああ、そうか。兄貴の高校は男子校だ。世羅はふっと笑って俺を見た。

「ああ。行ったさ。私も必死だったんだろうな。顔を見てすぐにわかった。似てるな、神崎」

 似てるなんて、考えてもみなかった。母親似だとか父親似だとかいう会話が、中学のころあったような気もするが、あまり覚えてないということは、適当に受け流していたんだろう。

「それで惣一さんに会った。惣一さんもニュースで見ていて、梶さんのことは気にしていたと言ってきた。そこで私は言った。梶さんの変わりに私と交換殺人をしようと」

「世羅…」

「惣一さんは最初は反対していたけど、私のことも聞いていたんだろうね。私はあの男ではなくて、梶さんを殺した犯人を殺したいと言ったら…頷いてくれたよ」

 悲しそうな、切なそうな顔で玲華は世羅の手を握ってる。俺は遠目でぼんやりそれを見ていた。

「ならばまずその犯人を見つけないといけない。それで惣一さんはパーティについて行きたいと言ったんだ。まさか神崎も来てるとは本当に思わなくて焦った。しかもおまえ、あんな大声で呼ぶし」

 しょうがないな、というように息だけで世羅は笑った。

 驚いたのはこっちだって同じだ。

 でもそうなるとひとつ解らないことがでてくる。

「梶さんは…俺に、兄貴に気をつけろって言って亡くなった…」

「なに?」

 世羅と玲華が聞き捨てならないというような顔をした。そういえば、玲華にもまだ言ってなかった。なんとなく言うタイミングを逃していたんだ。

「最近、思い出した。梶さんは即死じゃなかったんだ。俺の目をしっかり見てそう言った。………なんだったんだろうな」

 わざわざ最後に言った言葉だ。意味がないとは思えない。

「それは恐らく。惣一さんに伝えて欲しかったんじゃないか」

 世羅が告げる。優しい口調だった。

「惣一さんに聞いておまえを知っていたから、伝えてほしかったんだ…。交換殺人の計画が漏れていることを。だから…」

 だから気をつけろと?

 ―――あ…兄に、惣一に……気をつけろ………“と伝えてくれ”

 すべて言いきる前に息絶えたということか?

「私が裏切ったことで、先ほど交換殺人の件は完全に破棄された。確かにこんなに一緒にいるところを目撃されたんじゃ、もう交換殺人の意味はないな」

 世羅も警察にマークされているの、そのときは知らなかったんだろうな、と思う。

 だから神崎、と世羅が続けた。

「惣一さんは自分の手で殺しに行ったんだ。彼は本当に優しい。この私が気を許したんだ。だから頼む!止めてくれ!」

 そんなこと、なんで俺に言うんだ。今さら。

「世羅には優しいやつだったかもしれないけど、俺には一度も…」

 一度もってのは言いすぎかもしれない、と思って途中で言葉をとぎれらせた。子どもの頃はそう言えば…。

「なにを言ってる!これがおまえのための殺人でもか?」

「なに?」

 聞き捨てならない話だった。人のための殺人なんてあるはずがない。

 玲華が神妙な面持ちになった。

「それってどういう意味?」

「惣一さんは言っていた。俺も弟も両親に縛られている。俺は気の抜き方を知っているが、弟は真っ直ぐでばか正直だからいつも上手く逃げられないのだと」

 そんな…。

 だってそんなこと、思ってる素振りなんて、まったく見せなかったじゃないか。

「常に気遣っていたよ、彼はおまえのことを。一緒にいるとき、彼は(ほとん)どおまえの話をしてる。昨日だって………」

 昨日は俺が見たあのときか。

 あの柔和な笑顔を見せているときに俺の話を? 信じられない。

「まさか…お兄さまが狙ってる相手って…」

 きくな!

 頼むから聞かないで、玲華。

 俺は聞きたくないんだ。

「彼らのご両親だ」

(ああ!)

 やっぱり、って想いが俺にはすでにあった。世羅の話を聞いているうちに気づいてしまった。梶さんと知り合うずっと前から、兄貴にはそういう想いがあったんだ。

 いつから殺意になったのかはわからない。だけど一時の激情じゃない。だからきっと根深い。

 だったらなおさらだ。

「いまの見ただろ。俺には止められないんだ。止めたいなら世羅が止めろよ」

 そうだ。兄貴はおそらく世羅のことを……。 一緒に協定を結んで、密接に関わってる間に好意を持ったんだ。だったら俺より世羅の方が適任だと思った。

「あれは威しだ!おまえにもわかっただろう。………昨日だって、弟は楽しむ食事すら知らなかったことが初めてわかって、哀しかったって。俺がひとり逃げ道を作ってる間にも弟は苦しんでたから…」

 世羅の眼がまた潤み出した。何のための、誰に向けた涙だろうって、ぼんやり思った。

 どこか他人事に聞こえてしまう。

「弟が犬を飼いたいと言っていたが、でもうちでは飼ってやれない。両親ともそういう者を汚いと言って嫌がってるからって…。だから余計に決心したと…排除しなければ弟の望みはひとつも叶わないからって言ったんだ」

 ちゃんと、聞いてたんだ。あんなに無視してたのに、本当は俺の話を聞いてくれていたんだ。

「それでもおまえ止めない気か?それとも、好都合だ。では兄に殺してもらおうとでも思っているのかっ!」

「んなことっ……!」

 思うはずがない。両親に縛られる感覚は絶えずあった。

 いなくなれと念じたことさえある。だからと言って、死んでしまえばいいとまでは思わなかった。たとえ考えないようにしていただけだとしても。

 止めたい気持ちはまだあるんだ。だけど(りつ)(ぜん)とする記憶が、身体への記録が、あと一歩を欲しがっている。起動をさせるためのワンクリックが、足りない。

「ねえねえ。悠汰、悠汰」

 低い姿勢のまま玲華が近づいてくる。俺の前でしゃがみこんで目線を同じにした。ちょっとその顔が微笑んでいる。

 そしてたどたどしく俺の方へ手を伸ばした。

 両手で頬に触れて、それから首元にゆっくり下がる。そのまま見えなかったけど痣の痕をなぞる感触を感じた。

「ほら、怖くない」

 嬉しそうに玲華が言う。

「だから大丈夫よ」

 ああ、もう…。どうして玲華はそういうところ見逃さないんだろう。

 こんな好感を持ってくれてる表情で言われても、説得力がない。

(見当違いなんだよ)

 実際問題、胸が高鳴ってしまって、怖いとか苦しいとか、それどころじゃなかった。でもいまは、その言葉に頼りたい気もしていた。玲華が言うから。

(玲華だから)

(ああ…そうか)

 そうなんだ。

 ああ、もう…しょうがねえな。自然に頬が緩む。

 俺は玲華の手をとって離した。これ以上近づいたら耐えきれない。

 理性が、抑えられない。こんなときなのに。

「こういうのってさ、状況によるんじゃねえの?だいたい玲華じゃ無理だ」

「もっと絞めれば良かったかしら…」

「そういうことじゃねえ」

 俺はがっくりと肩を落とした。

「玲華には敵意がないだろ」

「ああ、じゃあ世羅に絞めてもらう?」

「嫌だ。触りたくない」

 物騒なことを淡白に玲華が言うと、断固として世羅は首を横に振った。ちょっと傷つく言われ方だ。

「ちょっと世羅、あんなことしてまでよく言うわね」

「れ、玲華」

「あれは玲華が何を言っても大人しくしてないから……一時的にでも意気消沈して止まっててもらおうかと…」

 本気か冗談かわからないふうに世羅がぼそぼそ答えた。いや、たぶん本気だ。目が座ってる。

「あっそう。あれで悠汰がやる気になって今があるのに、皮肉な話ね」

「なにっ、それは本当かっ」

 すごく失態って顔で世羅が睨んでくる。いや、俺に睨まれても困るんだけど。

「でも結果良かったのよ。世羅も悠汰もお兄様を止めたいんでしょう?まだ間に合うわ」

 玲華が持ち前のポジティブを発揮した。元の、いやそれ以上の耀きに満ちていく。

「そうだな」

 玲華が勝手に設定したプレイリストのことを、趣味悪いと笑ったときと同じように俺は笑った。

 笑ってみると、そのレベルのことだったんだって思う。深刻に考えすぎなのかもしれない、俺が感じる両親のことなんて。それよりも兄貴の陰謀の方がはるかに非常事態だった。明らかに死活問題だ。

(止めるよ、兄貴を)

 最初からやることは決まってるんだ。でもそれにはここを出なきゃなんない。

「おまえら携帯持ってるか?」

 と、俺。

「私はあの男に最初に奪われた。玲華、眞鍋さんと来たんじゃないのか?」

 と、世羅が言う。

 俺たち二人に見つめられた玲華は、反射的にてへっと笑った。

「いやあ、フロントにバッグ預けたあとに久保田さんに会ったの。慌てたあたしは大騒ぎで飛び出そうとしたんだけど、眞鍋さんはお父様に言われて反対勢力に加わったもんだから、しょうがなく…ってゆーのも失礼か…。とにかくヒデのパパにお願いしてぶっ飛ばしてきてもらったわけよ」

 ひと呼吸玲華がおいて。

「でぇー、ヒデのパパだって他に仕事あるし、他にもアシがあるだろうと思ってー、ロープだけ借りて帰ってもらっちゃった」

 てへっと締めにもう一度玲華は笑った。

 ええっと、それってつまり…。

「誰もこの状況を解ってるヤツがいないってことか?」

「てへっ」

「てへじゃねえよ!」

「あ、でも久保田さん解ってるから来てくれるんじゃない?…きっと……たぶん」

「あー…もう…じゃ、久保田か兄貴が助けを呼んでくれんの待つだけか」

「その久保田ってやつはよく知らないが、惣一さんの助けはあてにしないほうがいいと思うが」

「なんで?」

 ぼそぼそ言う世羅に憮然として俺は訊く。

「助けが来る頃にはすべてが終わった後だと思うが」

「………………」

 一瞬、この空間に静寂が包まれた。

 だけどそのおかげで気づいた。俺の耳に飛び込んできたエンジン音。もしかしなくても、これって…。

(近づいてきてる)

 そしておそらくこの倉庫付近で、停まった。俺たちは顔を見合わせる。

「柳田がもう帰ってきたのか」

「ヤバいじゃない、それ」

「実際ヤバいんだよ。久保田さんってなんで一緒に来なかったんだ?」

「知らないわよ!でも自分は動けないって…。あの人ずっと浅霧家にいたらしいのよ」

「はあ?何してんだよ。世羅知ってたのか?」

「知らん。本宅には最近まったく行ってないからな」

 面白くもなさそうに世羅が答える。行ってないって自分の家なのに。確かに邦春とかいるし、行けないんだろう。

 でも。

(だったらあの人)

 功男氏が気遣っていたこと、世羅は知っているんだろうか。後悔してると、教えた方がいいんだろうか…。

「勝手に悲壮感漂わせるな。なにを勘違いしてるかしらないが、離れに住むことを決めたのは私だ。本宅に寄らないのも私の意志だ」

 ぴしゃりと戒められた。別に悲壮感なんて持ってはなかったが、誤解されたようだ。

 世羅から離れたのか。

 強いな、って思う。俺は出ていくことを考えず、不満だけ一人前でいたんだ。

 こんなやり取りをしている間に、カツーンという足音が遠くで止まった。気配を消して近づいてきてるんだろう。

「悠汰」

「しっ」

 玲華の喋りを止めると俺は兄貴が残していったナイフを拾った。

 殺すために買われたナイフだけど、いまは護るために使われる。

(そうだ。俺は誰も殺さない)

(護るんだ)

 まるで呪文を念じるように自分の中で繰り返しながら、扉の端に寄る。

 相手が入ってきたときに、死角になるように。

 ナイフを握る手が汗ばむ。

 迷うな。チャンスは一度きりだ。

 壁越しに相手の気配をうかがいながら位置を計る。でもそのまえにレバーが動いた。

(しまっ…)

 人影が入ってきたより一拍遅れてナイフを突きだす。と。

「あっぶねっ!」

 人影がさっと横によけた。ナイフの先は目標位置より低い部位にあった。俺より背が高い。

「あれ?」

「あれ?じゃねえよ、殺す気か」

 あっさりかわしたクセに、飄々(ひょうひょう)と責めてきたのは。

「久保田!」

 勝手に出て行って、みんなに心配をかけた久保田修次が、開襟シャツに膝丈までのベージュの半ズボン姿でそこにいた。ラフなバージョンだけど眼鏡はかけていないくて、でも髪の毛は適当な感じだ。

「なんだなんだ?呼び捨てするほど寂しかったか?」

 意味がわからない。

「おっまえー!気配を消すな!紛らわしい!なにやってたんだよ!つーかなんで来て…」

「待った。おまえも後ろのご令嬢たちも何か言いたそうだが、せっかくだから車で話そう。時間がもったいない」

 勢いが奪われた気がする。だけど…仕方なく俺はとりあえずは合わせることにした。

(久保田を殴るんなら世羅がいないところじゃないとな)

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