第五章 ・・・ 1
地下室は石膏ボードの壁で吹き抜けになっていた。
一階にあった高い家具よりも高い何かがある。それも梱包されているが家具のひとつだろう。こんな大きいものを置ける家ってどんなんだよ。
他にはナイロンで包まれたソファーベッドや、箱に入っているがおりたためられているテーブルがある。
浅霧邦春が蹴っ飛ばしてた木箱は、ひとつだけ中身が飛び出していた。それは収納ラックで、ガラス部分が割れ悲惨なことになっている。売り物だろうに。あまり物を大事にしないタイプみたいだ。
そして。
世羅は俺が現れても顔を上げない。それが一番気になる。
――兄貴だと思っていた相手が世羅だった。それはかなりの衝撃と混乱を俺に招いた。
(なんで世羅がここにいる?)
(じゃあ、兄貴はどこに行ったんだ?)
兄貴を追ってるはずだった。ここにはいない。
でもそうわかっても、こんな状態を見せられて、じゃあサヨナラってわけにはいかなかった。
「おまえはあいつの弟か!あのときいたな!」
やつの怒りがそのままこちらにスライドされた。こいつは最悪な男っていう先入観が、疑問もなくストンと胸におりる。
「なにやってんだよ!こんなところで!」
「それはこちらの台詞だ。誰の所有地だと思ってる!」
「殴る音が聞こえたんだよ!あんたまさか世羅を殴ったのか!」
答えを聞かなくても明白だった。倒れている世羅の近くには赤い飛沫。七分丈の袖の部分からちらりと見える痣。殴られたのは一発じゃない。
激しい憤りが俺を襲った。
べつに良い格好をしたいわけじゃないし、紳士になるつもりもない。
(だけど、ダメだろ)
こんなん許されないだろ。女を、義理とはいえ子どもをこんな扱い…。
自分と世羅が重複する。
ムカつくっていう言葉だけでは収まりがつかない。何を当てはめても充分ではなく、感情がその上をいくんだ。
悔しい。こんなことがまかり通ってることが悔しいし許せない。
だけどヤツはなんでもないことのように鼻で笑った。
「こいつはおれの所有物だ。関係ないやつは出ていけ」
「なんだと!てめえ、どのツラさげてっ」
「いやまてよ。そうか、おまえは餌になるな」
俺の激高を無視して浅霧邦春はひとりごちた。
餌ってなんの?って考えた一瞬の隙をついて、邦春が出ていく。追うように振り向くとすでにやつは外にいて、ニタリと不気味な笑みをみせる。
それからガチャンと扉を閉めた。
(あっ!)
瞬時にドアレバーに飛びついたけど遅かった。開かない。
「てめえ!出せよ」
「しばらくおとなしくしているんだな。仲間を連れてきてやる」
くぐもった笑い声を最後に、邦春が去っていく足音が聞こえた。仲間を連れてくるって…だれのことだ?
(やっぱり兄貴か?)
どういうことだろう。これから会う約束でもしているのだろうか。
(んなことより)
いまは。世羅だ。
まったく起き上がろうとする気配がない。まさか。
「世羅!大丈夫か?」
世羅のもとへ駆けつけようとする。
「寄るな」
世羅から弱い声で、でもはっきりとしたはねつける言葉が出てきた。拒絶の意思が伝わってくる。
戸惑いながらも目が離せないでいると、少しずつ起き上がり、手だけで壁をつたいながら俺から離れていった。震えながら。やがて一番大きい家具に行く手を阻まれて、それにもたれかかった。
顔が見えると、かなり怯えた表情でいるのがわかる。目の下に殴られたあとがあって、痛々しい。
「寄るな。おまえ何しにきた」
「なんか…あまり大丈夫そうじゃないな……なんとかここから出ないと」
病院つれて行かないと。あいつ捕まえないと。兄貴に知らせないと。
なんかやるべきことが多すぎて慌てる。
それなのに何回がちゃがちゃとレバーを引いても、抵抗されているように下がりきらない。
他には出口はないようだ。唯一、一階部分の位置に窓がある。俺が開かないことを確かめた窓のうちのひとつだ。ここにある家具を使っても届くはずがなかった。
「やばいな…マジで出れそうにない」
ということはこの空間に世羅と二人きり…。かなり気まずい。彼女には嫌われてるし。
「おまえ…私のこと嫌いだろう」
逆なことを、ある意味すごいタイミングで世羅がそんなことを呟いた。
「は?逆だろ」
「いろいろと反抗されて……あんなことをされて、嫌いにならない筈がない」
世羅はこちらも見ずに、斜め下の方を焦点の定まらない虚ろな目で見つめていた。声に力がない。
そして恐がっている。最初からずっと。
あんなこと……。そういえばあの教室での出来事からは初めて会うんだ。気づいたら益々気まずい。
「あのさ、わざと嫌われるように仕向けてなかったか?」
訊きながら俺も壁を背に腰をおろした。ちゃんと世羅と距離を保っていたのに、彼女はビクリと身震いした。俺が動いたことに怯えたんだ。
(俺が恐いんだ)
少なくともいまは。俺と密室の中にいるのが、不安がらせてる。
やっぱり教室では強がりを見せていたんだ。
いまはあのときの気迫も強気も剥がれ落ちていて、弱いままの世羅だった。そういう虚勢すら張れないほど、余裕がなくなってるんだ。
原因がわかったところで、どうすれば安心してもらえるのか、信頼を得られるのかがわからない。
でもいまの世羅の方がいい。あんな見え見えなやり方されても、切なくなるだけだから。
「私はおまえが嫌いだ」
「うん」
わかってる。
「でも俺はなにもしない」
「嘘だ」
「ウソじゃない。なるべくなら傷つけたくないって思ってる」
「嘘だ!おまえはすぐ怒鳴る!暴力だって奮う。あいつと同種だ!」
ああ…そうか。 世羅の中では、浅霧邦春も俺も同じなんだ。最低な野蛮人なんだ。粗暴で好戦的な…。
心外だと言うには、あまりにも心当たりがありすぎる。
きっと世羅は、自分自身に対しての態度だけを見ているんじゃないんだ。校内で喧嘩するところとか、他のクラスメートに対する態度も視野に入ってしまってる。
知らなかった。いつも俺は発言するときもその行動も、目の前にいる相手のことしか考えてなかった。知らず知らずのうちに、第三者まで傷つけることがあるんだ。
(すごくキツい)
きつくて厳しい。人間関係の奥深さを知った。
常に万人に好かれようと意識するのは不可能だ。好かれようと思って好意を持たれるかどうかさえ保証はない。
(だけど嫌われて嬉しいやつはいない)
俺は嬉しくない。怯えられて平気でもいられない。
「悪い。……ごめん。もうしない…ように、気をつけるから」
「守れない約束などするな」
「………そうだな」
そうだよな。いくら言葉で言っても、行動が伴わなかったら意味がない。
「優しくするな」
「おまえね…どうしろと言うんだ」
憮然とする世羅に、膝を曲げてそのうえに肘を置き考えながら受け答える。相変わらず世羅の気持ちが遠くてわからない。恐がっていること以外はなにも…。
彼女は縮こまりながら両腕で顔を覆っている。
「私を、見るな」
「…………………」
「私に女を感じるな」
「女、イヤか?」
「嫌だ。………嫌だ!自分が男だったらと、どれだけ考えたかわからない!」
いきなりガバッと顔をあげると、世羅はいまにも泣いてしまうんじゃないかっていう表情をしていた。ぐちゃぐちゃに歪んでて、あの教室で玲華がみせた顔とダブる。
なにか言わないと…。気の利いたことを言わないと。だけど言うべき言葉がなにも出てこない。
こういうときなんて言えばいいかわからない。慣れてなかった。慰めることとかが下手くそで、できない。かえってヘタなことを言いそうで。
やっと出たのが。
「うん」
(うんじゃねえだろ、バカ)
自分の不甲斐なさに呆れる。
「おまえはいいよな、男で」
また世羅は顔を隠して、自分自身を守るようにうずくまる。その姿はまるで、自分じゃないと自分を守れないと思ってるかのようだ。今日の世羅は饒舌だ。喋ってないと不安が増すのかもしれない。
「男で、力があって。殴られれば、殴り返せて」
そんなことねえよ、俺にだって殴り返せない人がいるんだよ。
そう思ったけど黙っていた。いまは俺の話なんか関係なかった。事件の話しも兄貴のことも、いまは聞ける雰囲気じゃない。
「それから、私の大事なものまで奪っていくんだ」
「え?それって…」
「私が男なら、手放さなかった」
すごく重大な話しに向かった気がした。どういうことか聞きたかったけど、阻まれた。
足音が耳に届いたからだ。
近づいてくる。
世羅がさらにきつく自分自身を抱き締めるのと、俺が立ち上がって扉を見るのとが同時になった。
(足音がひとつじゃない!)
二人…いや三人?
数を確かめる間もなく扉が開いた。先頭に浅霧邦春がいて、満足そうに俺たちを見た。
「ほら、お仲間だ」
脂ぎった顔に薄く笑い顔を作り、そう言うと太った体を移動させて後ろに回る。
邦春の体ですっぽり隠れていたけど、頭ひとつ飛び出していたから、そのお仲間の正体はすぐにわかっていた。
ああ…。やっぱり。
「兄貴」
兄貴は後ろで手を縛られているみたいだった。満面に苦渋を滲ませて、よろめきながら入ってくる。
押されたんだ、って気づいたとき、その押した人物が三人目として顔を覗かせた。
その人物はまったく俺が想像してない人だった。
(なんで…)
ナイフをちらつかせながら、そいつは最初に見たときと変わらない、控え目な笑顔で佇んでいる。世羅が憎悪を含んだ罵声を浴びせた。
「柳田!貴様お祖父様を裏切る気か!」
(え?)
浅霧家の執事、柳田は余裕綽々にさらりと言う。
「お嬢様。もうすぐでお別れです。大人しくなさっておいででしたら長生きできたものを。非常に残念なことです」
「三人揃って死ねるんだ。寂しくはあるまい。一人で死んだ梶とは違ってな」
「あっ……」
このやりとりは………。
そうだ。つまり梶さんを殺したのは。
「てめえらが殺したのか?…いや」
俺が見たのは一人だけだ。
あの日の場面が浮かぶ。もう何十回も何百回もよぎった場面。犯人の体格からいって。
「おまえが、あの日、雨の中…梶さんを」
俺は柳田を見て言った。柳田の表情はピクリとも変化がない。
「まさかあの時間に人に見られているとは思いませんでしたよ。しかもこの男の弟とは……。世間は狭いですな。ですが何の弊害もありませんでしたが」
最後の方の笑い方が、不気味だった。眼光が鋭くなったのに対し、口角はさらに上がりニカッと歯をみせた。
これが人殺しの顔。
人の最大の禁忌を犯した人間の顔か。
ゾクリと背筋が冷える。
「わざわざ明かしてやることはない。柳田すぐ始末をするんだ」
「時間が押してますので今では駄目です。一度浅霧家に戻らないと、功男様に不信感を持たれます」
「ちっ。使えねえな」
「完全犯罪ではないと…。捕まっては意味がないですので」
「それはそうだな。おまえら、少し生かしておいてやる。その間にたっぷりお別れをしておくんだな」
ふざけた会話を続けて、二人揃ってこの部屋を出た。
再び鍵を掛けられる。ナイフの存在が、大人しくそれを見守ることしかさせてくれなかった。
(くそっ!やっと犯人がわかったのに!)
「惣一さん」
ゆっくりと世羅が立ち上がる。
そこで俺もようやく兄貴に駆け寄って縄をほどきにかかった。
昨日の続きみたいな辛そうな顔をして、兄貴は大人しくほどかれている。かなりキツく縛られていた。その手首にはアトが残ってしまった。
「すまない。失敗した」
縄がほどけるとまず世羅にそう言う。
失敗したのか。こんな状況なのに俺はほっとしていた。恐らく兄貴の狙いは柳田だったのだ。
「いや、私が勝手な行動をとったから……。来るなと言われていたのに」
「来ずにはいられないだろうってことはわかっていた。完全に俺が油断しただけだ」
「あの帳簿は?」
「奪われた。邦春が来ているとは思わなくて、後ろをとられたんだ」
「もういいです。柳田は認めたのでしょう?だったら、あとはどうにでも出来る」
しおらしい世羅にも、温和な兄貴にも俺はすごくびっくりした。
どちらも俺には初めて見る一面だ。そういえば、二人の会話って初めて聞くんだ。
「証拠がまだ弱い。警察相手なら言い逃れができてしまう。やはり俺が直接制裁を加える」
「惣一さん」
「辛いなら君はやめてもいいんだよ」
「俺だけ話が見えないんだけど…」
頼むから説明してほしい。
なんとなくの話しは見えるけど、そもそもの根本的なことがわからない。なんでこんな状態に陥っているのかが。
兄貴はようやく俺を見たけど、世羅に向けた表情から一変して険しくなった。まったくコイツらは。 俺と相性が合わないんだろうか。
「おまえ、またつけてきたのか?寝ているうちに出てきたのに……どうやった?」
「質問に質問を被せないでくれる?」
池田に昨日言われた通りに言ってみる。俺にはちょっとグサリときた言葉だったのに、兄貴は簡単に受け流した。
「見張られるのに慣れすぎて、自分も見張るのが上手くなったのか?」
「なんだよ、それ。んなもん慣れるかっ」
そう吐き出したものの。 久保田のは慣れたのかもしれない、って思った。いつからか、いても気にならなくなっていた。それが親に情報がいくってところは、まだ納得がいかないけど。
「それより、帳簿って裏帳簿のこと?」
久保田と玲華が目をつけた脅しの材料。確か邦春とか、他の浅霧の兄弟たちを相手にするものだったはず。
「それでなんで柳田がノコノコ出てくるんだ?」
「なぜ神埼が知ってる?」
「なんか妙なこと知ってるんだ、こいつ。俺たちがRiverで会ってたことも、刑事が俺たちをターゲットにしてることも」
「こそこそ嗅ぎまわっていたのか。あんなに消極的だったのに」
「それだけじゃない。昨日、功男さんとも話したそうだ」
「お祖父様と?貴様いつのまに…」
「ちょっと待て。ダブルで責めんな。マジきつい」
俺は片手を胸にあてて、もう一方で手のひらを二人に向けた。降参したい気分だ。一人でも厄介なのに。
玲華と拓真がタッグを組むのとは明らかに意味が違う。嫌悪感カケル2だからな。
「まずおまえから話せ。信用できない」
「話せって…、俺はおまえらの秘密を知りたかっただけで…」
「刑事と探偵が裏にいるんだ」
世羅の疑問に兄貴が答えた。俺だけじゃここまでつかめなかったのは事実だ。刑事の方は別に直接教えてはくれなかったけど。
「探偵?なんだそのいかがわしい奴は」
世羅が訝しがった。
(まー、確かに胡散臭いけど)
それより世羅がもういつも通りに戻ってる。もう怖がってない。兄貴がいるからだろう。
そのとき、疎外感を感じて上の方を見た。
やるせない想いを誤魔化すためだけの、何気ない動作だったのだが。
(ええっ!)
それを目視した瞬間、度肝を抜かれた。
(なんでー…)
上の窓から、石を持って窓ガラスを叩き割ろうとする人影が見えたのだ。
「玲華!」
真っ先にその名を叫ぶ。えって感じで、世羅が反応して上を見たのが目の端に映った。
玲華がゴツゴツって何度も石を振りおろしてる。なんでここがわかったんだろう。いや、それよりなにする気だ。
いろいろなことが驚きの要因となったけど、なにより一番気になったのは。
「あいつ…めちゃくちゃ怒ってねえ?」
気のせいだろうか。頑張って力を込めているだけだと思いたい。だけどなんか、放つオーラがかなり怒気に満ちてるような……。
やがて玲華は、やってられるか!っとでも言うように、両手で石を振りかぶって―――投げた。
ガラスは耐えきれなくなり、ガチャンと派手な音がして石とともに落下した。
「うわっ危ない!」
咄嗟に窓の下から俺は避ける。反対側に兄貴が世羅を庇いながら逃げたのが見えた。
先程まで俺が立ってた位置に、ちょうど石がある。そのまわりにガラスの破片が飛び散っていた。
(狙われた?………わけじゃねえよな)
嫌な予感はなんとか打ち消したい。こめかみ辺りから流れたこの汗も、ただ蒸し暑いからだと誰か言ってくれ。
三人が茫然と見守るなか――俺だけ呆然だったかも…――玲華は下の桟部分だけ丁寧にガラスを取り、一旦隠れた。
次に現れたのは一本のロープだった。なにがしたいのか徐々にわかってくる。だけどロープは途中で止まった。短すぎて届かないのだ。
「おい!危ないぞ!」
顔を再び覗かせた玲華に、俺は声を張り上げた。
だけど玲華は無視して何かを落とす。カツンカツンって音がして、見るとサンダルだった。ふたつで一足分。それからニョキっと窓から脚が出た。
(っておい、なんつーカッコしてんだよ)
玲華はドレスアップしていた。水色で膝丈のドレス。
「見んじゃないわよ!」
一言、玲華が注意を促す。って…、やっぱり怒ってるな、あの声は。
スルスルとロープを伝って降りてくるものの、危なっかしくて見てられない。だけどもうすぐロープが終わる。
玲華は一瞬わずかに顔を引き締めた、と思ったらひらりと飛び降りた。ちょっと予測していたけど、まさか本当に飛ぶとは思わなくて焦って走り寄り玲華の体を受け止める。
「ありがとう」
にっこり微笑む顔を間近で見て、確信した。玲華は俺に怒ってる。
地に立つと先に降りていたパンプスを履いてから、玲華が強い眼差しを向けてきた。
「それで?あたしをのけ者にしてなにを遊んでいるの?」
やはり………。言わないで来たことにご立腹のようだ。
「遊んでいるように見えるのかよ、これで?」
「なんでなにも言わないで一人で行っちゃったのか聞いてんのよ!鍵かかって入れないし!この部屋!」
「つか、どうしたんだよこのカッコ。どうやってここが?」
「訊いてんのはあたしよ?まあいいわ。あとで答えてもらうとして。一回に訊く質問はひとつにしてね。でも素晴らしいまとめ方で答えてあげる」
横目で睨みながら玲華が早口でまくしたてる。
「今日は親戚の結婚式だったの。式場についたところで久保田さんが現れてね、携帯用受信機を貸してもらって、飛び出してきちゃったわ」
飛び出していいのか?じゃなくて。
「久保田さん?あいつ無事だったのか」
「もーピンピンしてた」
「あ…、祥子さんに…」
「そこで会ったからもう教えたわ。居場所教えたらそれこそぶっ飛ばして行ったから、今ごろは叱り飛ばされてるんじゃない。久保田さん」
どうでも良いというように玲華は言い放つ。
うーん…叱り飛ばしてる祥子さんのイメージはないけど…。っていうか、いまの今まで祥子さんを待たせていることを忘れていた。
(やば…)
「んなことより…世羅!」
突然、玲華は俺から離れて、世羅に飛びかかる勢いで抱きついた。
唖然としていた世羅はよろめく。そのまま受け止め切れなかったようで、二人は倒れるように座り込んだ。
「バカ世羅!心配したんだからね!」
「玲華…。私より、神崎に会いに来たんだろう。もっと話さなくていいのか?」
世羅が戸惑った声を出して、玲華の身をどうするか迷うみたいに、手の所在が揺れていた。
「いまは世羅が優先なの!あの辺はついでよ、ついで!」
玲華は世羅の左側に顔をうずくませたままで、どこか投げやりに、人差し指で俺と兄貴を交互に振ってる。なんか酷くないか?
「私のこと、怒ってるんじゃないのか」
「怒ってるわよ!気づかなかった自分に腹が立つのよ!」
「なにを、言ってる…」
「だからっ!世羅がっ!」
玲華が声を詰まらせた。
(泣いてるのか…)
そう思わせる後ろ姿だった。
俺が見ても解るくらい、じわじわと世羅の顔から血の気が引く。それから彼女はしばらく思慮しているような顔をして、やがて目を細めた。
「玲華………、私は玲華の重荷になりたくなかった」
「ならないわよ。なに言ってんのよ、いまさらっ。何年一緒にいたと思ってんの」
ふっと世羅が笑う。
「十年以上だな」
「十三年よ」
「そうだな。……もう充分だと、前に言ったな」
「本心じゃないんでしょう」
「なぜそう思う?」
玲華が少しだけ顔をあげる。
俺も兄貴も二人の間に入り込めなかった。邪魔できない、そんな空気があった。
「ごめんなさい。全然気づかなくて。世羅があたしを…」
「そうだ。好きだった…もうずっと」
世羅の目から一筋の涙がこぼれた。
俺は息を呑む。
涙にまず驚いたけど、それよりもその言葉の内容が、すぐには理解できないでいた。
「一生…言うつもりなかった。それこそ墓場まで持っていくものだと…」
「世羅」
「だけど神崎悠汰が現れて、君が惹かれていってるのに気づいたとき、私は自我をコントロールできなくなっていったんだ」
世羅が玲華をきつく抱き締めた。どちらからかの嗚咽が漏れている。
―――私の大事なものを奪っていく。先ほどの彼女の言葉が蘇った。
(そういう、ことか…)
やっと理解した。最初から世羅にとって俺は邪魔な存在だったんだ。突然現れた部外者に、長年続いてた関係を壊された。壊した無礼者が俺。
「神崎がどうしても許せなくて…。どうしようもない嫉妬と、先の見えない不安とか、ドロドロした感情ばかりが増えてきて、怖かった」
世羅が両の手のひらで自分の顔を覆う。
「こんな私では玲華にいずれ嫌われる。いや、たとえこの気持ちを隠し通せても、玲華は離れていく。……気づいたんだ。いつまでも子供の頃のままではいられない。どうせ、いつか離れなくてはならない日がくるのなら………知られるっ…まえに、ばれる前に私から…離れようって」
世羅が泣きじゃくっている。きっとずっと抑えていた想いだったんだ。
耐えて耐えて耐えて……、そしてとうとう爆発したみたいな、そんな泣き方だった。
玲華は世羅の手に触れながら、なんとか押し出したような声を出す。
「そんなこと言わないで。あたしだって離れたくない。世羅が傍にいるのがあたりまえだったんだから」
「それは知らなかったからだろう!こんな穢い私を。幼馴染みとしてじゃない!君が神崎を好きなように私は玲華が好きだと言ってるんだ!女なのに…」
白くなるほど拳を握りしめて床に打ち付けた。
「女なんかに、産まれなければっ……。男ならばどんなに良かったか。間違って産まれたんだ私は」
世羅の想いは深い。
女は嫌だと、先ほども言っていた。あの中には様々に絡み合った、複雑な想いがあったんだ。
両手で世羅の両頬を押さえると、玲華は自分の方に向けさせた。まだ怒ってる、玲華は。
(そうじゃない。いまが迷った果ての答えなんだ)
きっと、自分が気づいたことを世羅に言うか否かで迷ってたんだ。言うとしたら、どのように言うか。どう言ったら正確に気持ちが届くのか。
それには腹を据えて、気合いを入れて話さなければならない。適当に話したら適当にしか伝わらない。状況によっては最悪、もう二度と取り返しのつかない、修復不可能な関係になりかねない。
そんなことになったら……世羅が今以上に離れていったら玲華にもまた辛く耐え難いことなんだろう。
「人を好きになるのが、なんで穢いのよ!男でも女でも世羅は世羅だから良いのよ!」
「玲華」
「あたしがなに言ったって、世羅には酷いものに聞こえると思うわ。応えられないもの。でもどんな理由でもいい。なんでも良いから一緒にいたいの!」
「一緒にいていいのか?」
「だからそう言ってるじゃない」
「………気持ち悪くないのか?」
「ないわ!」
何度も言わせないでって、玲華が言った。
世羅は一度目を見開き、それからまた泣いた。心なしか少しだけ違う涙に見える。安心したような、開放されたような。
ありがとう、って言って世羅はまた玲華をきつく抱き締めていた。
それから俺は見てしまった。
何気なく、横を向いてしまった。
ずっと黙って見守っていると思っていた兄貴が、なにかに耐えるように唇を噛みしめているのを。それは先ほどまでの世羅のものと酷似していた。
そうか、と俺は気づいてしまった。
(兄貴は世羅を…)
この世の中、なかなか上手くいかない。感情は理屈じゃないのに、届かない想いがいくつもある。
(理屈じゃないから)
だから。
人は泣くんだ。