第二章 ・・・ 5
気づくとそこは保健室だった。
目の前に玲華と拓真と秀和がいた。そしてなぜか櫻井も離れたところに立っている。保健委員だったな、とぼんやり思い出していると玲華に怒鳴られた。少し涙声で。
「バカ!あんたなんで言わなかったのよ!」
なにを?と一瞬思った俺は、まだ頭がちゃんとまわってなかった。
過呼吸のことだ。そんなこと言えるか。こんな空気になるのがイヤだったんだよ。
気を失うくらい酷いのは二度目だった。一回目は小学生の初期の頃。まだ父親に責められていたときだ。
だから少しショックだった。ショックといえば、あんな大勢のまえでこんな失態をおかしたのもショックだけど。
「玲華さま。まだ怒鳴ったら駄目ですよ」
秀和が玲華を制していた。そういえば玲華も本性さらしていたな、と思い出す。拓真や櫻井は初めて拝む姿のはずだ。
「大丈夫?神崎くん。痛むとこない?」
とりあえず拓真はいつも通りだった。もう衝撃も超えたのかもしれない。
なにか言わないと、と思って口を開く。
なにか応えないと…。
だけど、まだ少しだけ胸が締め付けられるように苦しかった。
なにも言えない。なにか喋ったら泣きそうだった。
(胸が痛えよ)
「ボクたち、出てようか?」
なにも答えない俺に、拓真が気を利かせたようなことを言った。
「いい…。居て、いい」
なんとかそれだけ呟くと左腕で目を覆った。左肩もやられたようで、少し疼いた。
独りにされても泣きそうだ。
胸に渦巻いてるのは自己嫌悪。
でもそれがなんに対してなのか分からなかった。あいつらに痛めつけられて、結果勝てなかったことなのか、また久保田に迷惑かけたことなのか、いま目の前にいるこいつらに心配をかけたことなのか、大勢の前でこんな失態をやらかしたことなのか……。やっぱり全部なのだろう。
「あんた、また余計な気をまわしてない?」
ポツリと玲華が言う。もういつもの声だった。
「玲華さまっ」
「ヒデはちょっと黙ってて。そりゃーさーあたしも正直責任感じたわよ。悠汰の苦しむ姿見てさ。なんか気、張ってるのは気づいてたけど、その気のなかにあたしが入ってるってのもわかってたけど」
俺は腕を下ろして玲華を見た。なにを言ってる?
「それでも前向きになろうとしててすごいって思ったし…あーもう、だからそうじゃなくてアレよ!お互いさまなのよ、こういうことは。生きてりゃ誰だって人に迷惑かけるし恥ずかしい目にも遇うわけなんだからさ…」
珍しい…。珍しく玲華がどもりながら語ってる。でも迷っているというより、なにを言いたいのか自分でも探しながら語っているみたいだった。
「だから、あたしももう責任は感じないから、あんたもいつまでもメソメソ泣くなっつってんの!」
「泣いてねえ!」
せっかく不器用ながらも元気つけようとしてくれていたのに、まず俺がしたことといえば訂正だった。口の端が切れてて喋ると痛かった。
そしたら拓真がため息をついた。
「素直じゃないなあ…」
「悪かったな!」
「もー信じらんない。あたしの話聞いてたー?」
「まあまあ、いつもの神崎さまが戻られたということで」
秀和がほんわかした笑顔でそう言う。
「いつもの俺ってどんなんだよ?」
「そりゃあ、意地っ張りで乱暴だけど優し……いててっ」
最後まで言わさないよう、俺は上半身を起こしその首を締めた。秀和がぐるじい~とバタつかせていると、クスクス笑う声が聞こえた。
櫻井だった。関わらないように、でもこちらを伺うような心配してるような、距離感を保とうとしているのがわかった。そのなかで思わず出た笑い。
俺だけじゃなく、皆の視線が一斉に櫻井に向いて、彼女は赤面して俯いていた。
そのとき保健室の扉が開いて、保健医である高科と杉村が一緒に入ってきた。
「気づいたか?動けるようなら校長室に来なさい」
杉村は険しい顔をしている。もしかしなくても、お説教をされるんだろう。
仕方ない、と思って俺はベッドから降りた。体の節々が痛かったけど、歩けないほどではなかった。皆の心配そうな顔を後にして、杉村について廊下に出る。
「あまり…心証悪くないようにな」
杉村は一言だけそう言った。なんの話だ。あいつらが元々悪いのに…と内心思う。
でも杉村に八つ当たりしてもなにも始まらないから黙っていた。
* * *
校長室に行くと先に四人とその担任が中にいた。それとなぜか久保田も生徒みたいに、校長の前で並んで立たされていた。
そういえば、久保田がいたのだ。この学校はセキュリティもちゃんとしているから、どこから入ってきたのかとか聞かれたのかもしれない。俺も知りたい。
「失礼します。神崎悠汰を連れてきました」
杉村が俺を促して校長の前に立たせる。変わりに他の者は一歩下がった。久保田以外、誰とも目を合わせなかった。久保田は俺の様子を窺うように見ていた。
「今回の事の顛末を話しなさい」
どっしりとした恰幅のいい校長は威厳たっぷりに命じた。髭がもっそり鼻の下に蓄えられている。
俺は玲華の名前を出さないようにし、あとはすべてを話した。ジリジリと焼き付くような視線を後ろから感じたけど、一切無視した。俺は被害者だ。結果自分も手を出したけど、きっかけはそうだ。臆する必要がどこにある?
「ふむ。では殴ったのは認めるんだね?」
なんでそこを強調して聞くんだよ、とイヤな感じを覚えたが、正直にハイと答える。
しばらく沈黙が続いて、校長は重々しく口を開いた。
「よろしい。美山君、東君、白木君には三日、神崎君には一週間の謹慎を命じます。今後このようなことのないように。以上!」
なんだと?
俺は目を瞠った。納得いかないなんてものじゃない。すべてが逆だろう。何よりなんで綾小路になにも無いんだ?
「校長先生っ!それは……」
さすがに杉村もおかしいと思ったのか、声を張り上げた。しかしすぐに校長が制す。
「以上!と言ったのが聞こえなかったのかね?暴力を奮った回数を考慮してある。さあ分かったら退出したまえ」
「なにが回数だ!結局家柄を見ているだけじゃないか!」
躊躇わず俺は怒鳴った。そういうことだろう?詳しくはないが、綾小路の家は西龍院家と取引するようなところだ。あとの三人は知らないが、明らかに綾小路に罰がないのはおかしい。
だいたい回数で言ったら俺の方がヤられてるじゃないか。認めたくないけど。
心証なんて関係ない。
初めから俺がどう話そうと、処分は決まっていたんだ。
「キミねえ。そういう態度だから目をつけられたのではないかね?キミは自分が被害者だと思っているようだが、キミにも責任の一端は有るということだよ」
俺の主張にも動じず校長は言う。
アホらしい。心底そう思った。校長はイジメられる側にも非があるというタイプの人のようだった。
「神崎」
杉村は抑えるように俺の腕を掴んで、外に出そうとする。他の四人はすでにドアを開けて退出しているところだった。美山だけが俺を見て薄く笑った。嘲笑、していた。
(くそっ…!)
俺にできるのは、出る前に校長をもう一度睨むことだけだった。
「神崎。そういうことだから明日から一週間は…」
「わかってるよ」
杉村が俺の肩に手を置いて言うのを、振り払って遮る。なぜか杉村が申し訳なさそうな顔をしていた。
そんなふうに見られても困る。別に杉村が悪いんじゃないから。
俺はそのまま鞄を取りに教室に向かった。そうだ、あと制服もあるから、更衣室にも寄らないといけない。面倒くさい。なんなら退学にしてくれればもう戻らなくて良いのに。
やや自暴自棄に陥っていると、少し先で久保田が待っていた。
「帰り送るから。校門のところで待ってる」
それだけ言って立ち去ると、入れ替わるように玲華を先頭に秀和と拓真が来るのが見えた。
なぜか後ろで二人がびくびくしている。秀和なんかは顔が真っ青だ。玲華はいつも通りで、姿勢正しく颯爽と歩いてる。
「どうかした?」
「なにが?」
玲華は俺の質問にも無関心で聞き返してきたけど、秀和が青ざめた顔で詰め寄ってきた。
「いまそこで綾小路さまたちとすれ違ったんです。綾小路さまは立ち止まられて、じっと玲華さまを見つめられて…でもなにもおっしゃられないんですぅ。あの綾小路さまがですよ!」
「そうそう。玲華さまはまるっきり無視でさっさと行っちゃうし」
「なんか気まずかったですぅ。ぼくたちもその流れで見つめられちゃって」
「すれ違った後もずっと見てたよ。ボク視線が痛くて」
なるほど。要はその雰囲気に呑まれたらしい。
玲華は髪をかき上げながらつまらなそうに言った。
「大袈裟なのよ。もう本性出したし、近寄って来ないでしょ」
「悪い。俺のせいで…」
責任の一端を感じて、声を絞りだすように謝った。家との繋がりなんて、俺には分からない。でもこの玲華が、対面上だけでも繕わないといけないと判断した男だ。やっぱりマズかったんじゃないかと思う。
「ちょっとナニよソレ、誰があんたのせいっつったのよ。もとから、あのままエスカレートしてきたら出すつもりでいたのよ」
玲華はきっぱり言い放つ。あまりにもあっさり言われて俺の方が戸惑った。
「責任ならあたしだって感じてるって言ったでしょう?」
ふと玲華の顔が気まずそうなものに変わる。
「あいつがここまでやるとは思わなかったけど、敵意むき出しだったのは、完璧あたしのせいじゃない」
「でもそれは…」
「だからぁ、こういうふうに責任の擦り合いの逆になるのがイヤで、前もって保健室で言ったのにー…」
玲華は一度ため息をつくと、照れたような苦笑いをした。そして真っ直ぐ俺の目を見た。
「だから、あたしもごめんなさい」
「…………」
俺はなんと返して良いか分からなくて黙る。玲華が謝る必要なんてないと思っていたのに。謝らせたのは俺だ、と気づいた。
「ほら、これで一回ずつ謝ったんだから、もうこの話はナシよ」
やっぱり玲華はさっぱりしている。まだごちゃごちゃ続けたら、終いには怒られるんだろう。だから俺はその通りにすることにした。それに、なぜか玲華が言うと納得できた。
それから自分でもわからないうちに、口元に笑みがこぼれていた。
「そうだ、ボクたち神崎くんの荷物持ってきたんだ」
話が途切れるのを待って、拓真が鞄と体操服の入っていた鞄を渡してくれた。体操鞄には制服が入っている。
「悪い」
「ふふ。こういうときはありがとうって言った方が良いよ」
悪戯っぽく笑って拓真が言う。この流れがなんか気まずくて、気恥ずかしくて俺はつい話を逸らすように拓真に訊いた。
「おまえ、玲華の本性知ってどう思った?」
「そりゃ驚いたけど、口が悪いのは神崎くんで慣れてたから、大丈夫。怖くないよ」
「ちょっとどういう意味よ!怖いって」
俺たちの会話を耳にして玲華が乗り込んでくる。
「違いますっ!怖くないって言ったんです」
「前提として、怖い、怖くないっていうハナシが出るのがムカつくわ」
「大丈夫です。玲華さまはお優しいですよ」
「いまそんなワザとらしいフォロー入れないで、ヒデ」
「そんなあ…」
思ったより俺の質問がその場を騒然とさせてしまって、ヤバいと先に昇降口に向かった。
一人で逃げてんじゃないわよ、とまた玲華に言われた。
それでふと、言わなければいけないことを思い出して俺は振り向く。
「これは謝らないとな……悪い玲華。俺、球技大会出れねえ」
「え?」
唐突すぎたのか玲華の動きが一瞬止まる。俺は歩きながら、校長が下した処分とその内容について話した。ついてくる三人の表情に驚きの色が滲む。
「そんな!なんで神崎さまが一番重いんですか?明らかにおかしいですよ」
「ヒドイ。神崎くんは確かに口は悪いけど、校長先生にそんなこと言っちゃうとか、ボクには信じられないけど…でも目をつけられなきゃいけないほど迷惑なことなんてしてないのに」
「おい、それは庇ってんのか?ケナしてんのか?どっちだ拓真」
凄味をつけて睨むと、拓真は力なくハハハ…と笑った。
横から玲華が口を挟む。
「家柄かあ。確かにねー、あのコーチョー、例えばあたしが素っ裸で逆立ちして校内まわっても、あたしにはなにも罰を与えないんじゃない?」
「おい、それはヤメロよ。見たくねえ」
「例えばっつったでしょ!やるわけないじゃない、バカ!」
「そんなっ玲華さまっ!」
「うろたえてんじゃないわよ!ヒデ!…きゃー!あんたはなに鼻血なんて出してんの?ヘンな想像すんな!」
よく見ると、拓真がひとり茹でタコのように赤面して、鼻血を片方からタラリと流していた。これは玲華が悪い。喩えが悪すぎる。
「えーと…。つまりそういうことだから、俺は帰る」
下駄箱に着いて、靴を履き替えながら俺はぼそりと呟いた。こいつらといるとすぐに騒がしくなる。
「あ、ねえ、あたしお父様に言ってみようか?相手が家柄気にするなら、こっちだってそれを利用してもイイじゃない?」
なんてことない、ただひとつの提案として出されたそれに、俺は激しい嫌悪感を覚えた。
「やめろよ!これ以上惨めにさせんな!」
ばんっと勢いよく下駄箱のフタを閉ざす。
わかってる。八つ当たりだ、こんなもん。玲華はなにも悪くない。でもそんなやり方は嫌なんだ。
俺は逃げるようにその場を離れようとしたとき、背中から玲華の声が届いた。
「わかった。ああ、球技大会なんてどうでも良いから、ゆっくり休養するといいわ」
いま思いついたかのように、なにかのついでのように、玲華がさらりと言う。
どうでも良い、なんて思ってないくせに……きっと俺に負担をかけさせないように言ったのだろう。俺は振り返られなくて、そのままバイバイ、と手だけ振って帰った。
* * *
校門を出ると、久保田のコンパクトカーが停まっていた。慣れたように俺は助手席に乗り込む。
「ひっどい顔してんなー」
俺を見るなり久保田は悪態をついてきた。確かに殴られた痕とか酷かったけど、たぶん久保田はそこではなく表情のことを言ってんだ、と気づく。
「うるせえよ」
「……遅れて悪かったな。なかなか入れなくて、手こずった」
「やっぱり盗聴器つけてんだ?」
入ろうと試みた時点でそういうことだろう?ただ、いつ着けたのか、どこに着いてるのかが気になる。
「つけてねえよ。つーか企業秘密だ」
言いにくそうに顔が歪む。
なにが企業秘密だ。カッコつけやがって。
「じゃあ……なんで俺のピンチがわかったんだ?」
「それも企業秘密」
「便利な言葉だな、それ」
「良いだろ?使ってもいいぜ」
「どこで使うんだよ!」
まったく適当すぎるやつだ。
「最初に言っただろ?オレは優秀な探偵なんだよ」
不満そうな顔でいたせいか、久保田はそう言ってつけ足した。やっぱり納得いかない。
「いいから休んでろよ。今日は疲れただろう?」
まだ聞き足りない俺に久保田はそう締めくくった。確かに身体中が悲鳴を上げていたけど、それよりも疲労感が半端ない。
俺は窓側に寄りかかって、ぼんやり外の景色を眺めた。
なにも考えたくない、いまは。
それから数十分経ってから家につくと、俺は全身の血の気が引くのを感じた。
(!)
いつもは空いてる車庫に、見慣れた真っ赤な車が停まっていたのだ。母親の車だ。
油断していたところに、ガツンと殴られたような衝撃だった。
よりによってなんで今日なんだ? いつもいないくせに。わざわざ今日みたいな最悪な日を選んで帰ってこなくてもいいじゃないか、と思う。
「なあ…今日は、あんたの事務所に泊めてくんない?」
気づいたときには口がそう動いていた。みっともなく、声が震えた。
「駄目だ。今日は帰るんだ」
まるですべて解っているかのように、久保田は力強い目で諭すように言う。俺の顔が強ばるのが自分でもわかった。
「なんでだよ?いいだろ、わがままとか言わねえから!」
「オレがおまえの母親に連絡したんだ」
非道い。
なんだそれ、って思った。
だけど同時に、そうだった、こいつは母親に依頼されていま俺といるんだ、と気づく。
馬鹿だ。ちょっと考えれば予想できることだ。初めはそれにムカついて避けたはずだったのに。結局こいつも他の大人たちと同じなんだ。
「わかった。もういい」
吐き捨てるように言って車から降りると、俺は玄関ではなく左側に向かって歩きだした。
見せれない、こんな顔。なにを言われるかわかったもんじゃない。いや、違う。分かりすぎるくらい分かる。分かっていて解りたくない。
後ろから、ばんっと車のドアが閉まる音がしたかと思ったら、久保田が走って近づいてきて俺の腕を掴んだ。
「帰るんだ」
「離せよ!関係ねえだろ、あんたに!」
「逃げるのか?」
逃げる―――。
俺の原動力にもなり、縛るものでもある言葉。逃げたいわけじゃない。でも、いまの俺には高すぎる壁をまえにしたみたいに感じる。
「なんだよおまえ!どうしたいんだよ俺を!」
過呼吸になったら優しくなるくせに、過呼吸の原因を作った親に荷担する。俺にはワケがわからない。
「一番おまえが解決しないといけない問題はなんだ?」
掴んだままの腕をさらに力強く引いて、俺を正面に向かせた。
「他のことで頑張んのも悪くない。大事なことだと思う。でも根本的なところを解決しないと、なんにもならないだろ?それから逃げるな!」
久保田の言うことは正論だ。
だけど、ひとつずつ解決したかったんだ俺は。一度すべて乗り越えるのは無理だから。そんなに器用じゃないから。
「ほっとけよ!てめえ母親になに言われたか知らねえけど、俺に構うな!護衛だけしてろよ!」
久保田がなにか口を開こうとしたとき、別の声が耳に飛び込んできた。
「なにも言ってないわよ、私は」
外の様子を察したのか、母親が玄関から出ていた。黒いミニスカートに胸元の開いたブラウスで、相変わらず露出の多い服装だった。化粧も濃くて女を前面に出してるのがわかって嫌悪感を覚える。
「久保田さんご苦労様。今日は連絡有り難う。もういいわ」
「はい。神崎さん、また後程ご報告の連絡をいれます」
久保田は俺の腕を離して、大人な対応をしていた。久保田がやはり母親側の人間だったと、まざまざと見せつけられた気分だ。嫌気がさす。
「来なさい悠汰」
母親に命じられた。俺はなにも考えられなくなって、声に反応する操り人形みたいに足を動かした。
どのタイミングで久保田が帰ったのか、俺にはわからなかった。
視界が暗い。閉塞される世界。
玄関のドアが閉められて、周りに他人がいない空間になると、いきなり母親は俺の頬を平手で殴った。今日殴られたなかで、一番痛かった。
「わざわざあんな名門な学校行って、どうして喧嘩なんてするのよ。あんたには自制心がないの?」
リビングに行きながらそう言う。俺の話しは元から聞くつもりもない。いつもそうだ。昔からそうだった。
先入観で物事を捉えて、自分の言いたいことだけ言うんだ。
「売られたケンカを買っただけだ。俺のせいじゃない」
だけど俺だって言われっぱなしで終わる子供じゃないだろう?もう違うだろう?
「喧嘩自体が野蛮だってわからないの!?一週間の謹慎なんて恥ずかしい!それにその顔!ご近所の人になんて言い訳するのよ。顔が元に戻るまで外出禁止よ!」
一言返しただけで、母親は怒涛のごとく怒鳴った。ヒステリックな金切り声。
こんなときまで世間体かよ。だったらおまえはなんなんだ。今のは暴力ではないのか。一体どれくらいぶりに帰ってきたんだ。
言い返したい言葉はたくさんあったけど、俺はなにも言えなかった。胸がつかえて苦しい。無理に叫んだら、また過呼吸に陥りそうだったんだ。
やっぱり言われっぱなしかよ、ちくしょう。
それから散々、母親の愚痴のような責める言葉が続いた。俺は立ち尽くして聞いているしかできなかった。言い返せばまた倍に返ってくるから。
どれくらい続いたのか、計ってなかったから解らない。永遠に続くんじゃないかと思われたその時間が終わり、解放されて部屋に戻るとそこに兄貴が立っていた。
ドアノブに手がかけられてる。トイレの帰りか、なにかはわからない。家でしかかけない眼鏡の奥底に、これでもかというほどの侮蔑の色が見えた。
「なにしてんだ?おまえは」
一言だけ言い残して、兄貴は部屋に入った。
たまらなくなって、逃げるように俺は自分の部屋に入ると、早々とベッドに潜り込んだ。