第二章 ・・・ 4
単純な思考回路だって、玲華のことを思ったけど、俺も充分それだった。
球技大会の話がでれば、そのことが8割くらいを占める。そして今は事件のことでいっぱいだった。
そして気づくと1日中世羅を目で追ってしまっていた。上の空だと玲華は言っていたが、やはりわからない。教師に当てられてもすんなり答えてるから、授業中もぼんやりしてるわけではないんだろう。
(俺はなにもなくても、当てられたら慌てるけどな!)
そんなわけでじっくり観察していたら、休み時間に世羅が教室から離れたのを見計らって、玲華が俺の席まで近寄ってきた。
「あんたなにしてんのよ」
周りに気取られないよう、囁きに近い小声で言ってるものの、その顔には迫力があった。なぜか俺の方が焦った。
「おい…コトバコトバ…」
「誰も聞いてないわよ。てゆーか、マズイと思ってくれてるんなら、そのあからさまな視線なんとかして」
確かに周りを見渡すと次の授業のため移動しだしている。次は音楽だ。
「そんなにアカラサマだった?」
「まるで恋してるみたいにね」
「こ………」
傲然と口の端を上げて言う玲華に、俺は一瞬言葉に詰まった。すぐに取り繕って頬杖をつく。
「女ってすぐそういうこと言うよなあ…」
「遠い目で見ない!とにかくやめてよ、世羅スルドイんだから」
仕返しとばかりに俺も笑いながら言ってやった。
「嫉妬してんの?」
すると、すっと玲華の目が細められ、これ以上ないほどの低い声が発せられた。
「心配しているのですわ。神崎さまの失敗で、世羅がくだらなくも無意味な、あらぬ誤解をしてしまわないかと…」
「は?」
なんでいきなり言葉が変わる…、と疑問に思っていると第三者の声がした。
「神崎くんなにか失敗したの?」
拓真が玲華の後ろから覗き込んでいた。まだ移動してなかったようだ。しかも妙なところだけ切り取って聞こえたらしい。
(こいつ背中に眼ぇあんのか?)
俺の背中に僅かに冷や汗が流れた。
「ええ。わたくし心配ですわ。あまりに人のココロ……特にオンナゴコロがわかってなくて…」
「神崎くんは、言わなくてもわかるだろ!タイプなんですよ、玲華さま」
「人のことを断言して語るな!」
「そうですわね。萩原さま。家庭を顧みないで仕事ばかりして、でもそれで甲斐性があると思い込むような旦那タイプになってしまわれるんですわ」
「おまえも勝手に俺の将来決めんな!」
最近この二人は俺を貶すことに一体感を覚えてやがる。俺もつい相手にして突っ込んでしまうから、調子に乗ってるんだと思う。
どっと疲れていると、いつの間にか二人は音楽の準備をし。
「「置いていくよ」いきますわよ」
とまたタイミングを合わせて言ってきた。気づくと教室には俺らだけしか残ってなかったのだ。
ちょっと待て、ユニゾンにはまだ早えぞ、とまた俺は返していた。
玲華の言いたいことも、全然わからない訳ではない。俺が世羅をつい見てしまうことで、俺と玲華が結託…まではいかなくても、少なくとも玲華が、自分の話を俺にバラしたということを察するだろう……ということだ。
(どっちが大ゲサに考えてるんだか…)
女心なんて一生解るかっ、というのが男側の正論だろう。
* * *
(ウゼーなー……フケるか)
と、毎回思っているのに、結局体操服に着替えてグラウンドに向かっている。
これから久々のテニス練習があるのだ。これが最後の練習。そのあとは本番しか残ってない。それでもダラダラと着替えたから、すでに始まっていて、今頃廊下を歩いているのは俺ぐらいだった。
(あ、違った……)
階段のところで生徒が立っていた。珍しいな、と思いよく見ると、四人いてその内のひとりは見知った顔だった。
そいつは手すりに背中を預けこちらを見ている。そしてそれを取り囲むように、初めて見る顔の生徒が三人、ニヤニヤ笑いながらやはり俺を見ていた。
(うわー、あきらかヤな感じ)
無視するにも階段を下りないとグラウンドには行けない。それに、反対側に行くには意地が邪魔をして引き返せなかった。
「顔貸してもらおうか」
そいつ、綾小路は俺を待ち伏せしていたのだ、とこの言葉で確信した。
玲華がいる前では決して見せない冷たい表情だった。といっても、いつもは鼻の下を伸ばした間抜けな顔だから、まともな顔もするんだ、とそっちに驚いた。
「練習あるんで」
さらりとかわして、階段を下りる。はずだったが一人に左肩を掴まれた。
「亨ちゃんが用事あるっていってんだろ」
三人の内の一人だった。綾小路しか目に入ってなかった俺は、その他三人を改めてこのとき見た。
三人ともネクタイの色で二年生だとわかる。綾小路と同じ青だ。しかしそのネクタイは緩められシャツのボタンも上三つ四つ開いていて、きっちりしている綾小路とはどこか一線を画していた。
つまり、この学院にもいたんだ、と思わせるようなガラの悪い生徒だった。しかし時計とかゴツい指輪とか、そういった装飾品が高価なもので、余計に嫌味ったらしさが引き立つ。
「その呼び方はやめたまえ」
綾小路の不快そうな顔で、とくに仲は良くないんだと気づいた。今だけの仲間か。
(必死だな…こいつも)
俺を脅すためにわざわざこんなの引き連れて。どこから連れてきたんだ?と俺は思う。
「とにかくさぁ顔貸せや」
俺の肩を掴んだままの金に近い茶色い髪と、顎からチョロっと生やした髭が特徴のやつが、更に強引に押してきた。ガタイが大きく、ガッチリしているそいつは、力も強くて危うく階段から落ちそうになった。思わず手すりを掴む。
下に行けと促す気なら最初から引き留めんなよ、と激しく思った。
「がはは、コイツみっともねー」
落ちそうになった姿を見て、隣にいたやつが、何がそんなに可笑しいのか、体をくねらせて嘲笑っていた。青い髪に鼻ピアスをしており、ガリガリに痩せ細った体格だ。ロレックスの時計が光って見える。時計はともかく鼻ピアスは校則違反だから、普段は外しているのだろう。なんというか、実はタカられていそうなタイプだ。明らかにボスじゃない。
もうひとりは少し後ろにいて、明るくない茶色い髪に中肉中背でこの中では一番普通だった。一見控えめに思える態度だったが、目を見てわかった。
(コイツがボスだ)
綾小路なんかよりも冷淡で、一番蔑んでいる眼だった。
「練習なんて必要ないさ。どうせ貴様は負けるんだからな」
綾小路が言う。昨日と同じことを言われているのに、まったく意味合いが異なって聞こえた。
「先輩たちが俺の選手生命を断つから、ですか?」
嫌なほど相手のしようとしていることが分かって、ヤケ気味に笑みを作る。
奥にいたボスが俺の言葉に薄く笑ったのが見えた。
「亨、噂通りの奴だな」
「生意気だろう?」
面白くもなさそうに綾小路が相槌を打つ。 ああ、そうか、とここで気づいた。
この二人が仲間なのか。悪友ってやつだ。それも質の悪い。
「こんな人数にものを言わせたやり方して恥ずかしくないわけ?テニスで人生のどん底、味あわせるんじゃなかったのかよ?」
こんな挑発めいた真似しても得なことはない。そう分かっているのに、あまりにムカついて、言わずにはおれなかった。
「その前に、目上に対する口の聞き方を教えてやらねばならないな」
綾小路が眉に皺をつくったまま顎をしゃくった。
「とにかく下りろ!」
それを合図に、声を張り上げてガッチリしたやつがまた押した。手すりに支えていた手が強引に離される。ここで抵抗しても危ないと思い、しっかり自分の足で進んだ。
ぞろぞろと後ろから他の連中もついてくる。その間、誰もなにも言わなかった。今の時間、生徒だけでなく教師もグラウンドや体育館にいる。
騒いでも無駄だと悟った俺は覚悟を決めた。本当は逃げ出したいほど恐ろしかった。一対一ならば、気力ぐらいは負けないでいられるかもしれないが、四対一なら分が悪い。悪すぎだ。
だからといってここで逃げても解決しない。それに、傍迷惑な綾小路に俺も言ってやりたいことがある。なんとか闘争心を燃やして恐怖を鎮めた。
どうやったら多数を相手に出来るか、アレコレと対策を練っていたら、連れてこられたのは東側の裏庭だった。こちら側は玲華の部屋含め、文化部の部室が多い。現在コソコソするのには、絶好の場所というわけだ。
たどり着いた途端、ガッチリしたやつが突き飛ばすように俺の肩を離した。すぐさま振り向き、なるべく背中を見せないようにする。
そしてまず綾小路が口を開いた。
「貴様には二度と玲華に近づけないようにしてやる」
「無茶言うなよ。同じクラスだし……。だいたいてめえ、近づく男全員にこんなことしてんのかよ、暇人だな」
綾小路が俺の挑発にのせられて、勢いよく飛び出してきた。
「なんだとっ?貴様……」
「まてっ!」
ボスらしき男がそれを制する。
「まずは白木と東にやらせよう」
その台詞にガリガリとガッチリが前に出てきた。相変わらずニヤニヤ笑ってる。
二人ずつ来てくれるなら、俺にとっては有難い。注意すべきはガッチリしたやつ、東と呼ばれた方だ、と見た目で判断してみる。
「ワリイな、恨みとかはとくにないんだけど美山サンの頼みだからな」
東が一言断ってから、右腕を振りかざし地を蹴った。
そんな言い訳に納得するバカはいない。
正面からくる東に目を逸らせずにいると、左側からすでにアッパーをくらわせる体勢で、ニヤけた顔の白木が近くまできていた。
速い。
ガリガリな体重が活かされているのか、白木はとても素早かった。といっても東が遅いわけではない。
俺は咄嗟に右側に避けた。すぐさま東が左腕を伸ばし俺を捕らえようとする。
捕まるわけにはいかない。動きを封じられたらアウトだ。
そう思った瞬く間に、白木がアッパーの体勢のまま懐に入り込んでいた。素早くてもパワーは弱いだろうと判断した瞬間、俺の目に飛び込んできたものがあった。
(メリケンサック!)
いつの間にか、白木の指には指輪からメリケンサックに変わっていたのだ。
最悪。武器持ちかよ。
ヤバい、と思ったときには俺の拳が先に白木を殴っていた。避け方がわからず、それしか考えつかなかったのだ。というか、体が勝手に動いたというのが正しい。
ぐえぇっと唸って白木はよろけた。でもそんな様子を見ている余裕もなく、まわし蹴りで東を牽制する。東はそれを簡単に避けて、なおも俺に突っ込んできた。
(ヤベえ!)
避けきれない、と悟ったとき、脚の力が抜けて膝がガクンと折れた。連日の運動疲れが足にきていたようだ。こうなって初めて気づく。
しかしそれが功を奏し、東の拳は標的を失って空を切っていた。
だが、そこで安心している場合ではなかった。格好など気にせず、がむしゃらに東から離れる。
「んのっ!ちょこまかと!」
(あああ…キレてるよ…)
立って後退りながら冷や汗をかいてると、どんと背中が校舎の壁に当たった。逃げ道を阻まれた。
じりじりと唇を舐めまわしながら東が近寄ってくる。肩で息をしながら白木を見ると、やつは寝たままだった。防御力は弱いらしい。
(あとはこいつをなんとかすれば…)
ゴクリと生唾を呑み、グッと拳を握りしめる。白木を殴ったとき、頬の骨に当たり手がじんじんと痺れていた。
「うらあぁぁぁ!」
すごい迫力のある雄叫びと共に、東は拳を振り上げ、一気に間合いを詰めてきた。
俺は背中に預けた壁に力を借り、腹部目掛けて右足を力一杯突き出す。俺の足は、東のちょうど真ん中、鳩尾に綺麗に食い込んだ。
「な……拳…つくっ…て…卑…怯……」
確かに一瞬まえまで俺も殴るつもりで、そういう体勢でいた。
「しょうがねえだろ、腹がガラ空きだったんだから」
腹を押さえて、苦しみながら東は膝から落ちた。
ほっと一息ついたが、これで終わりではない。まだあと二人いる。
「なんて弱い奴等なんだ、美山」
「確かに。たった数分、それも一発でヤられるとは…修行が足らんな」
まったく情の欠片もない感じで、ボス美山は言った。この二人に勝てる自信は全然ない。明らかに最初の二人とはレベルも迫力も違う。
その二人はゆっくりと俺に近づいてきた。美山がうずくまっている東のところまで来たとき、重そうな体格を、いとも簡単に持ち上げひょいと捨てた。うう…と東が呻く。 あまりの情けの無さに、つい俺は訊いた。
「仲間じゃねえのかよ?」
「別に。近寄ってくるからそのままにしてただけだ」
なんか哀れだな。俺は少し呆れた。自分もそんなに情に熱いタイプでもないし、美山の言いたいことも分からんでもない。
(でもなんかムカつくんだ)
使い捨てみたいな、あんなこと俺ならやらない。自然と怒りが生まれた。
「亨、こいつなんか睨んじゃってるけど?」
「まったく…少し痛めつけて脅しになれば、と思ったが……もういい、徹底的にやってくれ、美山」
ため息をつきながらも冷酷なことを言う綾小路に、ついに俺はキレた。
「ちょっと待てよ!だいたいこんなことして本当に玲華が手に入ると思ってんのかよ!普通に考えろよ!てめえ、自分がどんな汚えマネしてんのか分かってんのか!?」
綾小路はピクリと眉をあげ、手をポキポキ鳴らしながら、更に俺に近づいてくる。美山はうるさそうに顔をしかめただけで、動かなかった。
「分かってないのはどっちだ。玲華はすでに僕の婚約者なんだよ。それより…」
俺のまえで止まると、一旦口をつぐんだ。あ…。ヤバい。ざわっと足元から冷えてくる感じがして、身体に力を込める。
「玲華と呼ぶな!馴れ馴れしい!!」
バキッと鋭い音がして、おもいっきり左頬を殴られた。来る、っていう予感はあったのに、逃げられなかった。
遅れて痛みがくる。頭までガンガン響いてるみたいだった。
綾小路も、それから櫻井もなんでそんなに幻想を追えるんだ?本質も見ないで、好きとか婚約者とか…。馬鹿みたいだ。
感情に任せて俺は叫ぶ。
「それが勘違いだって、さっさと気づけよ!本人に避けられてんじゃねえか!あと、俺を怨むのはスジ違いっ……」
遮るように再び綾小路は殴ってきた。今度はこめかみに近くて、頭がくらりとした。すぐに立っていられなくなった。
「口の聞き方がなっていないと言っただろう?馬鹿は一度で学習しないから嫌いなんだ」
「……ひとりで遊ぶなよ、亨」
「ああ、すまない。あとは好きにしてくれ」
「まったく、顔は外すんじゃなかったのか?」
二人の会話が頭上で聞こえる。
(逃げないと…)
逃げないといけない、と思う頭の隅から、別の声がした。
―――じゃあ、もう逃げない?
まえに玲華に言われた言葉だ。なぜ今頃思い出すんだろう。
逃げんじゃないわよ、とも言われた。
……逃げてもいいだろ?こんなときは。頑張った方だろ?
―――もう逃げない。
俺が答えた台詞。本心であの時はそう決意した。
まだだ、と俺は思い直す。まだ闘える。こんなとこで座り込んでる場合じゃない。
(こんなやつに…こんなアホにヤられっぱなしでたまるか)
美山の手が俺の胸元に伸びてきた。胸ぐらを掴んでこようとしたのだ。それを右手で振り払う。自分で立つんだ。震える脚に力を込めて立ち上がり、美山と対峙する。
俺の目を見て美山は笑っていた。なかなかやるじゃないか、とその目が言っていた。でもすぐに真顔になり右手が俺の腹を殴る。
「ぐっ…」
無様な声が出た。それが悔しくて、俺は間髪入れずにタックルを食らわせた。美山の鳩尾を狙って頭突きをする。一瞬だけ美山の動きが止まった。
その隙をついて左側に移動する。背中に逃げ場がないのは不利だ。
「てめっ」
美山はあまりダメージが効いてないようだった。確かに頭突きした頭の方が痛い。
素早い動きで近づき、また腹を殴られた。勢い余って後ろに倒る。
「かっ…はっ……」
胃液が喉まで上がる。たまらず俺は吐き出した。息をするたびに腹部が軋む。
なかなか立ち上がれないでいると、美山が足で俺の頭を踏んできた。ぐりぐりと地面に右頬が擦れて痛かった。
「ここまでかあ?勢いだけは良かったんだけどなあ」
「美山もういいんじゃないか。そろそろ写真を撮ろう」
写真?
俺は耳を疑った。そしてすぐに気づいた。無様な写真で言うことを聞かせようっていう魂胆らしい。
(はじめから、そのつもりで……?)
馬鹿にして。
ソツがないというか、用意周到というか。本当に呆れる。
美山が綾小路の方を振り向くために、僅かに足の力が抜けた。それを感じると、脚を持ち上げ両腕でしっかり抱える。バランスを失い美山が尻餅をつくように倒れた。
「どいつもこいつも!馬鹿にしやがって!」
俺は力任せに美山に全体重かけて、エルボーを味あわせてやった。
さすがに美山は呻き声を出した。それを聴く間を惜しんで綾小路に飛びかかる。
一番許せねえのはこいつだ。
もともとの元凶はこいつなんだ。
綾小路は、携帯を取り出そうとポケットを探っていた。それで一瞬反応が遅れた。捕らえた。俺はニヤリと笑う。
「てめえええ!」
「!!」
だけど俺の拳は綾小路に届かなかった。変わりに、怒声と俺の脛に痛みが走る。
いつの間にか東が復活していて、スライディングを仕掛けていたのだ。
(脚……)
体が傾き倒れていくなかで、脚にケガをしたら球技大会に出れない…なんてことが頭をよぎった。
こんなときに球技大会かよ、と少し笑えた。あんなに出たくなかったのに。
俺は左肩から落ちた。右肩じゃなくて良かった、とまた思ってしまう。
(これはホントに…)
いつの間にか玲華に飼い慣らされ、感化されていたのだろう。
「うわーコイツ、ナニ笑ってんだ?キモー」
白木の声だった。あいつも復活したのか。自分だって、笑っているくせに。憮然とした。
起きないと。
また起き上がらないといけない。すごく体中が痛くて、ダルいけど起き上がろうと思った。
(あっ…)
だけどそれは断念された。いきなりきた。
先ほど殴られたときとは違う種類の息苦しさが襲ってきたのだ。
(こんなときに!)
同時に襲ってくる絶望感。目眩がした。手足と唇の痺れがやってくる。
俺の意識はすでに呼吸に向けられていた。それしか、出来なかった。
「オラオラ、どうしたんだよ!さっきの勢いは!」
東の声とともに、無数の足が俺に降りかかった。もうどいつがどこを蹴っているのかもわからない。
(守らないと…)
漠然と思う。喉とか肺とか、呼吸に関する器官を守らないと、と思った。
自然と丸まって体で内側を囲った。
「はっ…っ…はぁっ…」
丸くなると余計に酸素が足りない気がする。背中とか脚にくる衝撃もあって、ゆっくり呼吸するための集中ができない。
痛みより息苦しさの方が辛かった。
(死ぬ…)
今度こそ死ぬかもしれない。
誰か…。助けて。誰でもいい。この悪夢から身体から解き放ってくれるなら…なんでもいい。
苦しくないところにいきたい。
イキタイ。
逝きたい。
「悠汰ぁ!おまえら離れろっ!!」
そのとき、ものすごく切羽詰まった声が聞こえた。ああ、そうか。こいつがいた。
そう思うのと同時に遅えよ、と思った。
俺は顔を上げられなかったけど、体中に降る衝撃は消えた。変わりに俺の背中をさする手と、呼吸を誘導する久保田の声。
「もう大丈夫だ。安心しろ」
合間にそう言って落ち着かせる。
少しだけ楽になって薄く目を開けると、茫然と立ち尽くす四人が見えた。
同情するなよ。
こんなときなのに、真っ先にそう思った。懇願に近かった。
そして徐々に周りに意識を向かわせることができて、気づいた。いつの間にか、何十人かの生徒が少し離れてこちらを見ていたのだ。どこからか騒ぎが伝わったらしい。
そして…。
その人たちをかき分けるように玲華が現れたのが瞳に映った。
最強に最悪だ。
一番見せたくない人に、一番見られたくないような場面を見られた。
早く治まらないと。
いつものように、しないと。
しかし、その想いに反して、俺の呼吸がさらに荒くなる。
「余計なことは考えんな」
久保田がそれに気づいて叱る。すごく静かな声だったけど、叱責が混じっていた。
(でも……)
「綾小路ー!!あんたなにやってんのよ!」
突然、それはきた。
玲華の罵声だった。
一瞬マジで息をすることを忘れる。
(ヤバいって…。こんなみんなのまえで…)
思わず目を見開くと、玲華は髪を逆立てるように怒っていた。綾小路もきょとんとした顔をしている。他の三人は度肝を抜かれたような顔をしていたから、綾小路はまだそこまで至ってない感じだった。現実逃避にでも脳が働いてるのかもしれない。
その場の空気が凍ってるのも気にせず、玲華はズカズカと歩いてくる。綾小路の前まで行くとその顔を一発平手打ちした。
「バカだバカだと思ってたけど、あんたがここまでバカだとは思わなかったわっ!ちくしょう!」
変わらず綾小路はポカーンとしていた。
「いい?二度と悠汰にこんなことしないで!ついでに言うけど、あたしあんたのこと好きじゃないから!」
ついでの話が一番衝撃だったようで、みるみる内に綾小路の顔が真っ青になった。
あー、俺があの顔をさせてやりたかったのに。
途切れる意識のなかでそう思った。